答えは誰かがくれるものじゃない。自分で見つけるものなんだ――若松英輔『14歳の教室 どう読みどう生きるか』より〔後編〕
気鋭の批評家であり随筆家の若松英輔さんが、中学生たちに7回にわたって行った講義を基に編み上げた『14歳の教室 どう読みどう生きるか』が7月27日に発売されます。本書では、「おもう」「考える」「読む」「対話する」など、素朴な動詞の意味を問いながら大切な言葉との出会いへと導いていきます。2020年で生誕60周年を迎える哲学者・池田晶子さんの傑作『14歳の君へ どう考えどう生きるか』へのオマージュを込めた、新しい「人生の教科書」。
当記事では、本書より第1講「おもう」を前編・後編の2回わたってご紹介します。
※前編から読む方はこちらです。
言葉は、それ自体が、価値なんだ。
次に皆さんと考えてみたいのは「言葉」とは何かという問題です。私たちは言葉を用いない日はありません。人と話さなくても、心のなかで言葉は活発に動いています。こうして日々、言葉を用いながら、言葉とは何かをあまり考えることがないのは不思議なことです。もう分かったつもりになっているのかもしれません。
言葉をめぐって池田さんは、こう述べています。
古典だ。古典という書物だ。いにしえの人々が書き記した言葉の中だ。何千年移り変わってきた時代を通して、まったく変わることなく残ってきたその言葉は、そのことだけで、人生にとって最も大事なことは決して変わるものではないということを告げている。それらの言葉は宝石のように輝く。言葉は、それ自体が、価値なんだ。だから、言葉を大事に生きることが、人生を大事に生きるということに他ならないんだ。
言葉を大事にするということは、自分の人生そのものを愛しむことにほかならない、というのです。
仮にここで私が、君たちに乱暴な言葉を吐くとします。一度でなく、何度も。最初、君たちは傷つくかもしれませんが、だんだん君たちは私を軽蔑するようになるでしょう。この人は、言葉を丁寧に手渡すことを知らず、投げつける人だと思うでしょう。君たちはそれに抗うような叡知の盾のようなものを作り出すに違いありません。
そのいっぽうで、乱暴なことをいった私は、どんどん強く乱暴な言葉を口にする。君たちはもう、私の話など真剣には聞いていません。しかし、私は、私の声を常に聞いているのです。その刃物のような言葉は、自分を傷つけるのです。
ですから、言葉を用いるときは、いい方に気を付けるだけでなく、言葉そのものを大事にしなくてはなりません。それはときに人を救うことすらあるからです。
「言葉は宝石のように輝く」と池田さんはいっています。言葉には輝きがあるというのです。しかし、言葉の輝きは目には見えません。
先ほど、「心眼」という言葉を紹介しましたが、言葉の輝きもまた、私たちの心で感じるものです。 凡庸だ、と思っていた言葉が、ある日、宝石のように輝き始める、それが、私たちと言葉との関係だというのです。
「時間」の世界と「時」の世界
「宝石のような言葉」に出会うために大切なのは「時」の感覚を確かにすることです。このことについて、池田さんは次のようにいっています。
この真実に気がつけば、多くの人たちがそれを時間だと思っている「時間」というもののあり方が、まったく違ったものになることもわかるはずだ。死はないのだから、生の時間は、終点としての死へ向かって前方へ直線的に流れるものではなくなるんだ。でも、世の人は、時間は前へ流れるものだという間違った思い込みで生きている。それで、いろいろ予定したり計画したりして、忙しいとか時間がないとか文句言ってるわけだけど、それはすべて自分でそう思っている思い込みにすぎない。時間というものは、本来、流れるものではないんだ。過去から未来へ流れるものではなくて、ただ「今」があるだけなんだ。だって、過去を嘆いたり未来を憂えたりしているのは、今の自分以外の何ものでもないじゃないか。
ここで池田さんは、「時間」は流れるもの、過ぎ去ってしまうものではないといっています。これはどういうことでしょう。もうすぐ今日の授業は終わりますね。それは時間が経ったからです。私たちはこの授業が始まる前に戻ることはできません。
そのいっぽうで、皆さんにはきっと、忘れがたい人生の出来事があると思うのです。十年前の出来事なのに、昨日のように思い出せる、人生の「事件」と呼ぶべき何かとの出会いです。
起こったのはたしかに過去だ、でも、昨日のように思い出せる。もっといえば、今日の昼食に何を食べたかよりも、その十年前の出来事のほうが自分にとっては新鮮だということがあります。そういう出来事は、時計で測れる「時間」の世界ではなくて、もう一つの「時」の世界で起こっているというのです。
日本語には「時間」と「時」という言葉があります。「時間」が来るまで待つ、というとき、それは時計の上のある時刻を指します。しかし「時」を待つ、というとき、それはある「流れ」あるいは潮目を指します。
冒頭に『方丈記』の一節を紹介しました。そこでは「河」がとても印象的なイメージを私たちに喚起させていました。この作品は「時間」の世界と「時」の世界という二つの世界が織りなす光景を描き出そうとした試みにほかなりません。
皆さんのなかにはギリシア神話を読んだことがある人がいるかもしれません。この神話には「カイロス」と「クロノス」という二つの時間の神がいます。「カイロス」は神々の時間、「クロノス」はこの世の時間といえるかもしれません。
神話とは、人間と神々とが分かちがたい関係にあることを示す「物語」です。ギリシア神話は、私たちに、人間もまた「時間」だけでなく「時」を生きる者であることを教えてくれています。
先の一節で、池田さんは、「時」という言葉を書いてはいません。彼女は「時間」という言葉のなかに意味の重層性をこめて用いています。『方丈記』が「時」という言葉で「時間」と「時」を語ろうとしていたのと同じです。
私たちは、「時間」と「時」を言葉として使い分けるだけでなく、それを感じ分けて、経験し、自分のなかに蓄えていくことができる。そうすることで、「時」の出来事を、常に「今」によみがえらせることができるのです。
記憶のはたらき
そう考えてみると「記憶」とは、過去を思い出すだけでなく、今の出来事としての経験も含んでいることが分かります。記憶の「憶」、これも「おもう(憶う)」と読みました。「記憶」は、過去をそのまま憶い出すものではないのです。ある断片を今、憶っているのが記憶なのです。
童話作家で詩人でもあった宮沢賢治 (一八九六~一九三三)は「憶う」という営みの世界を、じつに鮮やかに描き出しています。
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
(「序」『心象スケッチ 春と修羅』)
「憶う」という営みは過去を「おもう」ことにほかなりません。しかし、それはすでに無くなったものをぼんやり「おもう」のではない、と賢治はいうのです。
ここで注目したいのは、「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から」という一節です。過去は「方角」だ、と賢治はいう。
「方角」は見えなくなることはありますが、けっして消滅しません。あるとき、人は過去を見失うことがある。しかし、それはけっして消えない、というのです。
時は過ぎ去らない。離れると少ししか見えない。でも、けっして消えない。それは「東」という方角が無くならないように消えることがない。それが賢治の「時」の世界観です。
「答え」と「応え」の違い
宮沢賢治はこの詩で、「過去」がどこにあるのかという問いの「解答」を与えてはくれません。しかし、彼の「手応え」を読み手である私たちと共有しようとしています。
同質のことをめぐって池田さんも次のような言葉を残しています。
科学は、目に見える物によって目に見えない心を説明しているにすぎないということを、常に忘れないようにしよう。説明は決して解答じゃないんだ。科学は物質を指して、それが心だと言っているわけじゃないんだ。残念なことに、現代の科学者たちのほとんどが、物質がそのまま心だと間違えて思っているけれど、君はこれからの人なんだから、この点を決して間違えないように考えていって下さい。他でもない君自身の人生にとって、とても大事なところです。遺伝子で決まってるんだから仕方ないって一生をあきらめるなんて、もったいないじゃないか。
ここで、もっとも重要なのは、「説明は決して解答じゃないんだ」という言葉です。たしかに説明は解答ではありません。自分ではどうしようもないことを説明されても私たちが納得することはありません。
たとえば、皆さんが大切な人を病で喪うとします。皆さんは、どうして私の大切なあの人が、こんなに早く逝かねばならなかったのかと問わずにいられないと思うのです。そこで私が、病名とその症状を説明したところで、皆さんの心はけっして鎮まることはないと思います。そんなときは「答え」とはまったく異なる「応え」が必要なのです。
「答え」と「応え」は違います。これは英語にするとよく分かります。解答は、英語でanswer(アンサー:答え)ですね。でも、ある人に一生懸命話しても「手応えがない」というときもあります。こちらは、answer ではなくresponse(レスポンス:応え)です。
「答え」をもたらそうとする「説明」はしばしば一面的で表層的なものです。そうしたときの説明の多くは、出来事を言葉で語れることに集約してしまうからです。言葉にならないものを見過ごしていることがあるかもしれない。それだけでなく、聞いている人の「手応え」を無視するような「説明」も世の中には多くあります。
ですから、皆さんは、あまりに鮮やかに説明されたとき、少し疑ってみることが必要なのかもしれないのです。
説明は、皆さんが探している応えではないんです。もし、人が真の応えに近づいていく何かを得られるとき、その語り手は、たどたどしく話すことがあるかもしれません。いっぽうで、明快な説明が与えられて、それを解答として受け取るとき、私たちは大変大きな迷路に入ってしまうことさえあるのです。世の中では時折、偽りを語る人の口調は明瞭で、真実を語る口は重い。こうしたことも忘れずにいてください。
本当に大事なもの
さて、最後に私たち人間は、どのように存在しているのかを池田さんの言葉をめぐって考え、一回目の授業を終えたいと思います。
池田さんは、人間のなかに「心」があるのではなく、人の本質は「心」なのではないかというのです。
心とは、君がもっているものなんだろうか、それとも、君が心なんだろうか。
池田さんが「時間」というときそこに「時間」と「時」が折り重なっていたように、「心」と池田さんが書くとき、そこには身体、意識、そして私たちの「いのち」が含まれています。
「いのち」とは、私たちの存在の根底をなすはたらきのことです。それは身体的生命と同じではありません。むしろ、それを包み込むものです。そして、あとの授業でも詳しくお話ししますが、個々の人間に尊厳があることを約束するものです。人間は、存在しているだけで尊いことを私たちに告げ知らせるものです。
もしかしたら私たちは、生きている間に、身体の一部を傷つけられることがあるかもしれません。池田晶子という人は、とても激しい喩えをする人でもあって、たとえば私たちが手を失わなければならなくなったとき、そのせいで、その人の何かが失われたんだろうか、ということも書いています。
人が身体の一部を失ったとき、その人の本質、すなわち「いのち」が失われたんだろうかというのです。もちろん、そんなことはありません。身体はとても大切です。でも、私たちの目に見えない心や「いのち」は、それに勝るとも劣らず大事なものです。
大きな試練を背負った人が発する言葉や体現することが強く私たちを動かすことがあるのは、そのためです。身体的に何かが「できない」ということが窓になって、その人のうちにあって輝き続けている「いのち」の光があふれ出てくるのです。
* * *
本書の構成
『14歳の教室 どう読みどう生きるか』は、今回公開した「第1講 おもう」をはじめ、以下の内容で構成しています。
はじめに
第1講 おもう
第2講 考える
第3講 分かる
第4講 読むと書く
第5講 読むと書く
第6講 対話する
第7講 対話する
おわりに
了
プロフィール
若松英輔(わかまつ・えいすけ)
1968年新潟県生まれ。批評家、随筆家。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選、2016年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞、2018年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33回詩歌文学館賞詩部門、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16回角川財団学芸賞、2019年に第16回蓮如賞を受賞。著書に『イエス伝』(中央公論新社)、『生きる哲学』(文春新書)、『悲しみの秘義』(ナナロク社、文春文庫)、『種まく人』『詩集 愛について』(以上、亜紀書房)、『詩と出会う 詩と生きる』『NHK出版 学びのきほん 考える教室 大人のための哲学入門』(以上、NHK出版)など多数。
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