「なぜいま、「幕府」を問うのか?」 〔前編〕 東島 誠
近年、一般向けの歴史書が何度目かのブームを迎えています。その中で問われないままに終わっている最大の存在「幕府」について、根本から問い直してみましょう。 ※本記事は、NHK出版より刊行予定のNHKブックス、東島誠『「幕府」とは何か』から、「はじめに」と序章「いま、なぜ中世史ブームなのか、そして、なぜあえて幕府論なのか?」を先出しでお届けするものです。
歴史学に何が可能か
「歴史学に何が可能か」。これは、二〇一二年、つまり東日本大震災の翌年に與那覇潤と語り合った、雑誌対談のタイトルである。震災後、與那覇が『中国化する日本』(文藝春秋)を出し、私が『〈つながり〉の精神史』(講談社)を出したところで、この対談が実現した。内容的には、第二次大戦後、歴史学の最良の部分が、その時代時代のどのような知の営みとタイアップして展開されたかを中心に、縦横に語り明かしたもので、翌二〇一三年刊行の『日本の起源』(太田出版)には収録されていない、まったく別ヴァージョンの対談原稿だ。本書との関連で言えば、二十世紀後半の中世史研究をリードした佐藤進一の「幕府」研究が、戦後民主主義といかに深く結びついていたかについても、そこで論じている。本書に先行して亜紀書房より刊行される、與那覇潤『歴史がおわるまえに』に再収録されているので、併読いただければ幸いだ。
ちなみに私は、同対談中で、網野善彦や村井章介を例に、学問がまだ可塑的でありうる二十代に何を経験したか、が歴史家のその後の学問スタイルを決定づける、と論じた。そして私の場合について言えば、一九八九年の東欧革命が決定的であった、とも付け加えた。当時大学四年生であった私にとってそれは、歴史が終わり、歴史が始まる、ということを、身震いするほどの身体感覚で経験した出来事であった。本書『「幕府」とは何か』が刊行される二〇一九年は、その東欧革命から数えて三十年の年に当たる。
前著『〈つながり〉の精神史』は、與那覇の『中国化する日本』のようなベストセラーとはいささか違った売れ方をした本で、刊行以来、二〇一七年まで、連年で全国の大学入試(小論文・国語)の問題文として採用いただいた。大学入試といっても、日本史でないところがミソで、これから大学で学ぼうとする受験生たちの頭脳を、しばし悩ませることに、ささやかな貢献をすることができた、とは言えるだろう。入試問題に採用されるには、まず何よりも、論理の透明度が高く文章のコントロールが精確であること、加えて小論文の場合には、若い世代の人たちに深く考えてほしいようなテーマ性を持つことが求められるから、歴史学という、いささか後ろ向きの学問でさえも、現代社会において、なおいくらかの有用性はある、という言い方も許されようか。
ところが、その同じ著者が、今度は「幕府」とは何か、について論じようというのだから、いかにも珍事であり、訝しく思われる向きもあるかもしれない。いったい、いまなぜ「幕府」論なのか、と。そもそも鎌倉幕府や室町幕府の歴史が、小論文の課題になろうはずもない。だったら、他の書き手に任せておけばよいのではないか。そんな声も聞こえてきそうである。
だが、待ってほしい。私にとっては、「幕府」もまた、若い世代の人たちに深く考えてほしいテーマなのだ。『〈つながり〉の精神史』が本店だとすれば、本書は夜店のようなものだが、夜店は夜店として、著者も読者も大いに楽しむことをモットーとしつつ、本店の志は堅持する、というあたりで、まずは読者のご寛恕をいただきたいと願う。
幕府=悪なのか?
では早速、開店の準備に取りかかろう。まず注目したいのは「幕府的存在」なる言葉である。
政治学者三谷太一郎は、十九世紀末に誕生した明治憲法体制を、「幕府的存在」の徹底的排除を標榜しつつも、「幕府的存在」の役割を果しうる非制度的な主体を前提とせざるを得ない構造、として描いた。この場合の「幕府的存在」とは、藩閥、元老であったり、太平洋戦争期であれば大政翼賛会であったりと、要するに、天皇を頂点とする明治憲法体制にとって本来邪魔な、モンスターのような存在であり、伊藤博文はこれを、明確に「覇府(はふ)」と呼んだ。「覇府」とは、儒家思想にあっては「王道」に対する「覇道」「覇権」の府の意であり、後期水戸学の尊王思想が罵倒したのも、この「覇府」、すなわち江戸幕府であった。
しかしこの比喩は、いかにも倒幕こそが至上課題であった時代の名残で、どう見ても幕府を過大視しすぎであり、幕府イコール悪というイメージに、全面的に乗っかったものだ。江戸幕府だけではない。京都三大祭のひとつである時代祭では、なんと、ついこの間の二〇〇七年にいたるまで、「逆賊」足利尊氏を祖とする時代という理由から、室町時代の行列は出されず、つまり室町幕府の歴史は「なかった」ことにされてきたのだ。
室町幕府を倒す戦争(戦国時代)、江戸幕府を倒す戦争(幕末維新期)は常に歴史愛好家の人気を集め、近年では鎌倉幕府を倒す戦争(南北朝動乱)にも関心が高まってきている。腐敗した旧システムは倒されて当然、と言うかのごとくに、である。
しかし、視点を倒幕期から幕府草創期へと転じると、そもそも幕府はなぜ誕生しえたのか。それは単純に、武力において他に勝っていたからではないし、ましてや清和源氏の血を引いていたからでも、征夷大将軍に任命されたからでもない、ということに気づくことになる。言い換えれば、幕府誕生にはどのような正当性があったのか、ということだ。しかもその正当性は、時局の変化とともに次世代の正当性へと更新していかなければ、とうてい保ちえぬものだった。幕府政治には、真摯に時代の要請にこたえるため、時には、近代の産物と思われがちな民主政治や、鋭敏な人権意識さえも必要とされていたのである。幕府=悪という先入観をきれいに洗い流したうえで、歴史を描きなおしてみたい。
また近年、学界では、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の三つ以外にも、六波羅幕府、福原幕府、奥州幕府構想、それに安土幕府というように、さまざまな「幕府」呼称が提唱され、一般にも認知されるようになってきている。それらの学説は果たして妥当なのか、どう捉えるべきなのか、についても、「正当性」を軸に捉えれば、すっきり整理できる。さらに、幕府という語が武家政権の意味で使われるようになるのは後期水戸学以降であり、それ以前にはそうした用例はなかった、とするのが今日の通説だが、じつはこれは完全に間違った説明である。そうした基礎知識も含め、そもそも幕府とは何か、という原点にまで立ち返って説明してみよう。何しろ幕府は、大宝令で「日本」という国号が定まって以降、日本の歴史千三百年の半分以上を占めて存在してきたのである。伝統的な時代区分も、鎌倉時代、室町時代、江戸時代というように、幕府の所在地の変化にしたがって名づけられてきた。幕府の最新事情を知ることは、日本の歴史を新しく書き換えることである、と断言して過言ではないだろう。
歴史学を〈生きた言説〉にするには?
夜店の開店までに、まだ少し時間があるようだ。そこで、本書をどのようなスタンスで書くつもりなのかについても、意思表明しておこう。私は、勤務大学の公式HPに掲載している「大学院志望者へ一言」の欄で、次のように述べている。
専門分野の研究技法を身につけることはもちろん必要です。それだけでも相当大変です。しかし一方、専門分野に閉じていては決して開けてこない問題意識、着想力というものがあります。これは、しばしば誤解されているように、ただ隣接諸学を応用するだとか、そういうことを意味するのではありません。一つの史料を読むにしても、どこまで想像力を拡げて考えることができるか、そういう経験を皆さんと共有していくことができれば幸いです。
つまり、究極はテキストを読む力なのだ。私が常々学生に言っているのは、「隣接諸学を応用する」などと考えるな、「隣接諸学によって応用される」学問を目指しなさい、ということである。その研究が〈生きた言説〉たりうるか、がすべてであって、ただ隣接諸学を付け焼刃で援用してみても、それは〈死んだ言説〉でしかない。たとえば、日本史上のある反乱について論じていて、そこにハナ・アーレントの『革命について』を註記するような態度こそが、まさにここで言う〈死んだ言説〉の最たるものだ。そこでアーレントを引いたところで、何も生まれえない。だったら、引くべきではないのである。これに対して、冒頭に挙げた対談記録「歴史学に何が可能か」の場合は、まさにアーレントを〈生きた言説〉として論じたものだ。この懸隔は、いったいどこから来るのだろうか。言い換えれば、歴史学を〈生きた言説〉にするには、具体的にどうすればよいのか。
まず手始めに、理論 VS 実証の対立構図で思考することをやめる、という一事を実践するだけでも、かなりの程度、目的を達成できるものと思う。なぜなら、真実はただ一つ。本当に史料の読める人は、理論書だって苦も無く読みこなせるし、大学入試問題程度の現代文が理解できない歴史家の史料読解力など、タカが知れているからである。何なら、実証主義者とは史料の読めない人のことを指し、理論家とは理論の不得手な人を指す。そう言い切ってもよいだろう。理論だから、実証だから、他方が読めない、というのは、ゴマカシだ。重要なのは理論か実証かではない。「読める」か「読めない」かなのだ。しなやかな思考のできる多くの人にとって、理論と実証の垣根などない。
が、にもかかわらず、理論 VS 実証の構図は、この業界にあまりに深く根を張ってしまっているように思われる。「あの人は理論家だから……」などと言う人は、その理論家がまさか自分よりもはるかに史料が読める実証家であっては困る、という心理を告白したも同然である。自らのプライドを傷つけかねないその存在は邪魔であり、見なかったことにしておいた方が、精神衛生上好ましい。だから、自分の居場所を確保するためにも、理論と実証の世界は截然と分けておきたい、となるのだろう。あれは、あっちの側の人の言っていること、というように。
このように言うと、理論と実証のどちらも必要、そのバランスこそが重要だ、などと、もっともらしく言いだす人も出てきそうである。だが、私の言いたいことはそういうことではない。理論 VS 実証の構図で説明すること、それ自体を否定しているのであって、バランスなどはどうでもよい。
そして、何より重要な点は、以上の主張が、そもそも私の独創でも独善でもない、ということだ。そろそろ理論 VS 実証の構図で考えることをやめませんか、そう明言したのが、二十世紀を代表する歴史家、『中世的世界の形成』の著者として知られる石母田正である。石母田は、「あれは、あっちの側の人の言っていること」というような態度を、明確に「歴史家たちのすむせまい世界の特殊性」と呼んで批判した。石母田は、実証史家に向かって理論が必要だ、と主張したのではない。理論に拠らずとも分析概念は必要だ、と主張したのである。この分析概念、分析のためのモノサシを、社会科学の巨人マックス・ヴェーバーは「理念型」と呼んだ。
佐藤進一の死
二〇一七年十一月、戦後歴史学に多大な影響力を及ぼし、疑いもなく〈生きた言説〉を紡ぎ出しえた歴史家、佐藤進一が他界した。享年百歳。私の、先生の先生の先生に当たる人、というほどの世代差なので、私は佐藤進一その人のお目 にかかったことはない。ただ、万年筆で書かれた先生の長文のお手紙や毎年の年賀状を励みとしてきた、おそらくは最後の世代であろう。
私は二〇一九年はじめに、その佐藤への追悼の意を表すべく、「「幕府」論のための基礎概念序説」という論文を、学術雑誌『立命館文学』第六百六十号に公表した。世上、「佐藤説は破綻している」などという、的外れな批判が垂れ流されていることに対し、誰も火中の栗を拾おうとしないので、あえて私が拾ってみることにしたのである。ツイッター上で同論文は、一瞬興奮の声をもって迎えられ、案の定と言うか、直ちに手筋の悪いコメントがこれをかき消していった。たとえば私がある学術書の主張を批判したら、ネット上ではその学説を全面肯定したことになっている、なんていうのは、まだほんの序の口だ。何より驚くべきことに、大学入試水準の現代文さえ満足に読みこなせない人々が、専門家を名乗る人のなかにも少なからずいることが露呈してしまったのである。同論文は、幸い立命館大学人文学会のサイトから無料でダウンロードできるので、本書を手に取られた読者は、本書読了後にでも、ぜひチャレンジいただきたい。特にこれから研究を目指そうとする若い人たちにとっては、各自のリテラシーのレヴェルが十分であるかどうかを確認する機会ともなるだろうし、そうでない人の場合にも、本書を読んだ後であれば、実にすっきりと物が見えてくること、請け合いである。
さて、その佐藤が、半世紀以上も前の一九六〇年に建てた理念型(分析のためのモノサシ)が、「主従制的支配」と「統治権的支配」である。詳しくは第三章に譲るが、この二つの理念型を建てることによって、権力分析が格段に深められることとなった。佐藤の学説が〈生きた言説〉たりうるのは、室町幕府開創期に、足利尊氏が「主従制的支配」を掌握し、足利直義が「統治権的支配」を掌握したことを解明したからではない。もしも佐藤学説をそのようなものと理解するなら、それは〈死んだ言説〉でしかない。むしろ、「統治権的支配」に見えるものが決して「主従制的支配」から自由でないこと、つまり属人的でない、法に基づく支配がこの日本社会にあっていかに困難か、という同時代的な問いをそこに読み取って、はじめて佐藤学説は、〈生きた言説〉として、われわれの心を揺さぶるのである。
本書も、そのような書を目指したいと思う。
明治国家と幕府、幕府的存在
ついさきごろまで、幕末維新期の研究者は多忙だった。二〇一七年が大政奉還百五十周年、つづく二〇一八年が明治維新百五十周年だとか何とかで、各地で記念行事が開催され、講演や原稿書きの依頼が絶えないとの話だった。が、その喧噪もどこへやら。ようやく周りが冷静になったところで、それらの行事のひとつ、京都市の「大政奉還百五十周年記念プロジェクト」の説明文を読み直してみると、なかなかに興味深い。
平成二十九年(二〇一七年)は、武家政権が終わりを告げ、新しい国づくりへの転換期となった慶応三年(一八六七年)の「大政奉還」から百五十年の節目にあたります。
京都市では、この機を捉え、「大政奉還百五十周年記念プロジェクト」を実施することとし、幕末維新に京都で活躍した先人たちとゆかりを持つ都市に参画を呼びかけ、相互に交流・連携を図る事業に取り組みます。
武家政権という旧体制を終わらせることが「新しい」とは、何とも古色蒼然たる歴史観だが、かの坂本龍馬が、一八六七年に暗殺される直前、「新国家」について書いた書状が二〇一七年初めに公開されたことも、この「新しい国づくり」なるムードを後押ししているのであろう。
実際、武家政権、幕府こそ悪であり、旧弊だ、とするレッテル貼りは、当の武家政権が終わりを告げても、明治国家、否、戦前期を通じて、対抗勢力を押さえ込もうとする際には、非常に便利なものだった。だからこそ、天皇以外のところに実質的な権力を持たせようとする動きが出ると、これを「覇権」「覇府」と見なし、すなわち幕府的存在を作るものだ、という物言いが飛び出すことになる。
いや、それだけではない。そもそも「幕府」という呼称自体、後期水戸学の尊王思想、すなわち王道を「覇権」より上に位置付ける思想のもとで語られた、事実上の〈造語〉に等しい、と指摘する向きさえある。政治思想史家渡辺浩の主張によれば、「幕府」とは後期水戸学に起源する戦前の皇国史観の象徴のような語なのだから、学術用語として用いるべきでない、ということになる。
だが、果たしてそうだろうか? そう疑問を投げかけたのが、「はじめに」で紹介した私の論文「『幕府』論のための基礎概念序説」である。のちに詳しく述べるように、鎌倉幕府に限っては鎌倉幕府と呼んで何ら問題はない。
歴史用語というのは、たしかに難しい問題を内包している。われわれはつい、鎌倉幕府、室町幕府などといったコトバを何の疑いを持つこともなく用いて歴史を語ってしまうのだが、そのような四字熟語が同時代に用いられていたかどうかは、少しも自明ではない。さきの「大政奉還百五十周年」にしても事情は同じで、「大政奉還」ではなく、じつは「大政返上」こそが、当時の史料上の表現であったことが知られている。つまり、教科書に載っている歴史用語というのは、往々、明治以降の国家を正当視する歴史観のもとで創り出されたものなのである。
とまあ、大概の本であれば、ここらあたりを落としどころにするのだが、本書はもう一ひねりしてある。「鎌倉幕府」なる用語を疑いもなく使う大多数の人に向かって、にやりと笑い、「そんなものは近代に創られたんだよ」と言いたげな訳知りの人に対しても、「いや、当時の言い方からしても、鎌倉幕府と言って問題ないんだよ」という、もう一段上の正答を用意してある。それが本書の立ち位置であり、本書を手に取られた方にのみ約束された特典だ。
(つづく)
プロフィール
東島 誠(ひがしじま・まこと)
1967年、大阪府生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、博士(文学)。現在、立命館大学教授。専攻は歴史学。著書に『公共圏の歴史的創造――江湖の思想へ』(東京大学出版会)、『自由にしてケシカラン人々の世紀』(講談社選書メチエ)、『〈つながり〉の精神史』(講談社現代新書)、『日本の起源』(與那覇潤と共著、太田出版)など。