源頼朝像

「なぜいま、「幕府」を問うのか?」 〔後編〕 東島 誠

前回に引き続いて歴史書ブームを分析しながら、過去に3度、20年ごとに中世史がブームになってきたことの意味を考えます。
※本記事は、NHK出版より刊行予定のNHKブックス、東島誠『「幕府」とは何か』から、「はじめに」と序章「いま、なぜ中世史ブームなのか、そして、なぜあえて幕府論なのか?」を先出しでお届けするものです。

室町幕府ブーム?

 大政奉還百五十周年、明治維新百五十周年の記念行事の一方で、いまふたたび中世史ブームだという。それも、よりによって室町幕府が熱い。呉座勇一『応仁の乱』を機として、いわゆる室町本が飛ぶように売れているとのことだが、ただ、なぜこれだけのブームを呼んでいるのかについて、説得力のある説明を目にすることは、いまだない。呉座自ら譬えるように、応仁の乱と第一次世界大戦に類似点がもし本当にあるのだとしても、大戦の引き金となるサラエヴォ事件から百年に一つ余る年に安保関連法を通過させてしまったこの国の〈空気感〉と、その翌年刊行された同書の売れ行きの間に、因果関係があるとは思えない。
 もちろん、アカデミズムの内部事情から、いくつかの伏線を語ることは比較的容易である。一つには、この十数年の間に、大学や文書館等の所蔵史料データベースの公開が進み、史料へのアクセスが容易になったことで、それまで手薄であった室町時代の研究が一気に進んだこと。いま一つには、戦後の民主化をテーマとした「戦後歴史学」の流れが完全に終焉し、歴史学、とりわけ前近代史の若手研究者が、無思想のまま緩やかに右傾化(ネトウヨ化)していること、等々。とはいえ、こうした伏線の上に新時代の寵児たる呉座が登場したのか、と言えば、これもどこか物足りない説明だ。
 しかも、こうした説明の仕方には、奇妙なねじれがあることを見逃すべきでない。旧来の思想的色分けからすれば右寄りのこれら新しい論客たちが、こともあろうに、戦前には「逆賊」と呼ばれた足利将軍家の時代を、嬉々として論じているのだから。もはや右か左か、というような単純な時代ではない。
 ともあれ現時点で確実に言えることは、『応仁の乱』は、かつてブームを起こした網野善彦の「無縁の原理」や與那覇潤の「中国化」とは根本的に違う、ということだ。どこが違うのか。それは、他分野に応用の利くような〈ものの見方〉を一切提示していない、という一点だ。そこが、世上「なぜ売れているのか分からない」などと言われる所以でもあるのだが、いや、だからこそ売れているのだろう。ただ、もはや歴史学には〈ものの見方〉など求められていない、のだとすれば、これはこの業界にとってかなりヤバい、危機的状況なのではあるまいか。

歴史の転換点としての二〇一六―一七年

 二〇一七年に「大政奉還百五十周年記念プロジェクト」が掲げられる一方、同年暮に、同じ京都の地で地球未来シンポジウム二〇一七「希望の探求」が開催され(於・国立京都国際会館)、私もセッション1「文明が転換する大きな音が聞こえるか?」で登壇した。論題は「日本史における文明の転換と循環」であり、そこで論じたのは、だいたい次のようなことである。

① 現代社会は、中世へと向かいつつある。
② ポストモダン思想が批判したように、たしかに近代は悪も生んだ。しかし、近代の最良の部分は、擁護すべきである。
③ その近代とは、西欧のそれとは限らない。東アジアの思想に根差す「東アジア的近代」もまた、有望なリソースである。
④ たとえば中世の禅の世界にはすでに「公論」や「公選」の語があり、それを支える思想が「江湖(ごうこ)」の精神、すなわちムラ社会に抗する自由、価値観を異にする他者にも開かれた思想であった。この思潮は、日本では十四世紀(南北朝)、十六世紀(戦国)、十九世紀(幕末明治)の三度、歴史に浮上した。
⑤ 「東アジア的近代」の波は、冷めやすく、長続きしないという欠点を持つ。ただし、何度でも起こすことが可能であり、現代において必要である。

 つまり、「広く会議を興し万機公論に決すべし」の第一条で知られる五箇条誓文の「公論」とは、幕末維新期に登場した新しい思想などではまったくなく、中世の「公論」のリヴァイヴァルに過ぎない、ということだ。ただし中世の「公論」「江湖」世界は、社会全体を覆いつくすことのない、周囲から隔絶した異空間、言うなれば「中世のなかの近代」
であった。中巖円月(ちゅうがんえんげつ)のような中世禅僧は、あたかも近代日本の知識人が西欧を理想として日本の現実を批判したように、中国を理想として、それが当時の日本社会にないことを絶望視したのである。
 そして、さきにも指摘したように、こうした近代(的契機)は歴史上、三たび浮上した。その、一度目の近代(的契機)と三度目の近代を重ね合わせたのが図1である。

図1_序章-東アジア的近代としての「江湖」

図1 東アジア的近代としての「江湖」

 これは、中世の禅画「瓢鮎図」の構図が、ナマズは「江湖の楽」=自由な世界へと泳ぎだすことができる、であったことと、坂本龍馬土佐脱藩の港が通称「江湖」(愛媛県大洲市)と呼ばれていること、この二つを重ね合わせたコラ(ージュ)であり、シンポジウムで実際に投影した画像を再現したものである。拙著『〈つながり〉の精神史』の「江湖と理想」の章でその学問的根拠を確認いただければ、この夢のコラボ(レーション)に対し、「〇〇」などとお叱りを受けることは、よもやなかろう、と踏んでいる。
 では、改めて問おう。なぜいま「中世のなかの近代」なのか、と。それはシンポジウムの冒頭述べたように、いま、時代が確実に中世に向かいつつあるからである。つまり、「中世に向かう現代」だからこそ、「中世のなかの近代」に着目しよう、という話だ。
 「中世に向かう現代」。じつはこの感覚は、きわめて敏感な人であれば一九七七年に、相当敏感な人ならそれから二十年後の一九九六年には、持ち得たものだ。そして、今次の新・中世史ブームは、それからさらに二十年経った二〇一六―一七年あたりを画期とする。「中世に向かう現代」という感覚の裾野が、いままさに大きく拡がりつつある、そういう時期に来ているのだ、というのが私の見立てである。そう、歴史は、短期的には二十年サイクルで動く。これは、前著『日本の起源』の読者にはおなじみの話であろう。
 この〈中世史ブーム〉の三つの小波について、さきのシンポジウムを聴いておられない大多数の読者のために、もう少し補足しておこう。

近代への〈退場宣告〉が行われた一九九六年

 一九九六年という年は、西欧近代の価値観を最上位に置いてきた、いわゆる近代主義者にとっては、受難の年である。今でもわれわれは、つい「近現代」などという、一緒くたな言い方をしてしまうが、じつは近代と現代ほど異なった時代はない。近代こそ暗黒の時代であった、というような、一種の〈親殺し〉、近代への憎悪を語る言説が大流行したのが、まさに二十世紀末、一九九〇年代の中葉であった。とりわけ一九九六年は、戦後民主主義の旗手というべき政治学者丸山眞男が没し、これを槍玉に上げることで、近代をばら色に描く物語は、ここにようやく終わりを告げた。
 かくして、近代への退場宣告がなされるなか、近代国家に替わる世界システムを論じる書として、田中明彦の『新しい「中世」』が出たのが、丸山の死と同じ一九九六年。そこでは、世界システム全体が「新しい中世」へ移行できるか、移行できたとして、より望ましいものになるかどうか、なおかつそれは、今後二、三十年間の東アジアの動向にかかっている、ということが論じられていた。あれから二十年経った今、確かに世界の中世化は進んでいるものの、どんなにグローバリゼーションが進行しても、何人もの論者が予測したような、近代の主権国家の枠組みが衰退して、中心を持たない「地域」連携に取って代わられる、なんて事態にはならなかった。その一方で、中世化の負の側面ばかりが目立つようになり、ネオ・リベラルが行き着いたところの弱肉強食の時代、格差社会どころか、カーストの顕在化による身分制社会への再突入が現実問題となってきている。田中の『新しい「中世」』は二〇一七年になって文庫で復刊されたが、この問題がいまなお現在進行形だからなのか、もはや古典となり現役の議論でなくなってしまったからなのか、は微妙なところだ。

中世史ブームの起点としての一九七七年

 じつは、近代の主権国家システムの終焉が予感され、ポスト近代の選択肢の一つとして、新しい中世が論じられた契機は、田中明彦の『新しい「中世」』よりさらに遡ること二十年、一九七七年のことであった。ヘドリー・ブルの『アナーキカル・ソサイエティ』(邦題は『国際社会論』)である。つまり、ブルの議論を「新しい中世」1.0とするならば、田中の「新しい中世」とは、ヴァージョン2.0なのだ。そして、何を隠そう、日本の論壇で、時代の転換期として中世が脚光を浴びたのも、ちょうど「新しい中世」1.0の時期なのである。たとえば、村上泰亮・公文俊平ら東大駒場の相関社会科学三人組が、『文明としてのイエ社会』で十一世紀、東国武士団の「イエ社会」の誕生こそが近代文明の出発点だ、と論じて、十一―十六世紀を転換期と見たのが一九七九年だった。
 これに対し、宮崎駿監督作品に多大な影響を及ぼした歴史家網野善彦が、『無縁・公界・楽』その他の著作で、十四世紀、南北朝時代こそが転換期だ、そこが原始以来の自由が衰退していく曲がり角だった、としたのが一九七八年以降。そして、歴史家勝俣鎮夫が、『戦国法成立史論』で、十五世紀、応仁の乱から戦国時代にかけてが、近代の始まり、アーリー・モダンへの突入だ、と論じたのが、村上・公文らと同じ一九七九年だった。ちなみに、この勝俣説の存在を知らずに、それから三十年近くも経った二〇〇八年になって、応仁の乱以後=近代を「私なりの新味」ある説と主張したのが、井上章一『日本に古代はあったのか』である。

図2_序章-「新しい中世」1.0期の議論に見る_改訂

図2 「新しい中世」1.0期の議論に見る〈近代〉の起点

 図2にまとめたように、中世の前に転換点を置き、中世こそ近代の起点と見る村上・公文ら、中世の後に転換点を置き、いや中世こそ非近代だ、とする勝俣、後者に限りなく近い立ち位置ながら、時期的にはその中間を重視する網野、と論者によってターニングポイントこそ異なるが、いずれにせよ中世こそが長い衣替えの時期(図のグレー部分)で、歴史はかく二つに切れる、と主張する点では三者共通しており、これが一九七〇年代末の日本の論壇のトレンドだった。ただし、この歴史の二分法の背後にあるのは、網野・勝俣の議論に顕著なように、東洋史学者内藤湖南の言う、応仁の乱以前は「外国の歴史」、つまりは“エキゾチック中世”ということであって、その初発の時点では、必ずしも「新しい中世」という文脈、つまりは「近代の終わり」の感覚からではなかったことには注意すべきだ。

もはや近代人でないわれわれ

 そもそも「新しい中世」1.0という現象自体、一九六〇年代のポストモダンの前衛から見るといささか周回遅れの産物だったのだが、奇妙なことに一九八〇年代に、これまた二十年周期でポストモダンが再燃すると、周回遅れだったはずの中世史が、あたかもトップ・ランナーの好位置に立った。それが、網野善彦の牽引する中世史ブーム、社会史ブームだったのである。時代の歯車の微妙なズレ具合、音楽に譬えれば、ジュピター交響曲の最後のフガートのごとき壮大な模倣と反復のうちに、網野善彦は堂々たるジュピター音型でもって先頭へと押し上げられ、たちまち時代の寵児となったのである。
 そして、そうした幾重にも時間の折り畳まれた事情ゆえに、中世史ブームには、いくつかの段階が存在する。すなわち、初めは単純に、エキゾチック(非近代的)だからこそ中世は魅力的だった。ところが途中からどうも様子が一変する。気づいてみれば、周りの世界もまた、どんどん中世に近づきつつある、というわけだ。そうか!じつはこれこそが魅力の理由だったのだ。だが、そのことに人々が気づいた頃には、歴史は二つではなく三つに切れる、ということは、すでに隠しえぬ事実であった。すなわち、「もはやわれわれは近代人ではない」、中世と近世・近代の間で切れるのみならず、近代と現代の間で、もう一度歴史は切れているのだ、と(図3)。そのことが広い裾野にまで浸透するには、しかるべき時間が必要だったのである。

図3_序章-もはや近代人ではないわれわれ

図3 もはや近代人ではないわれわれ

 何となく楽し気な一九八〇年代のポストモダンが消費されつくし、陰惨な〈親殺し〉としての近代批判、その大合唱にまで行きつくのにも、同じく十余年を要した。そうして出てきたのが一九九六年の「新しい中世」2.0現象だったのである。だからこそ網野善彦は、その晩年、厳密には一九九七年から二〇〇〇年にかけて、かつての歴史の二分法とは似ても似つかぬ時代区分を打ち出し、歴史をライフサイクルに喩え、「人類は間違いなく青年時代をこえ、壮年時代に入ったといわざるをえない」という、あの、どこか仄明るい終末論へとシフトしていったのである。

歴史学の瀬戸際としての「新しい中世」3.0

 ともあれ、二〇一七年の田中著書の復刊とは裏腹に、世界は、決して望ましくない形で中世へと向かいつつある。一九七七年の「新しい中世」1.0が一九六〇年代ポストモダンの周回遅れとして生まれ、一九九六年の「新しい中世」2.0が一九八〇年代ポストモダンの周回遅れとして生れ出でたように、それまでの「新しい中世」は、曲がりなりにも現状に対する批判精神に立脚していた。しかし、今次の「新しい中世」3.0は、それまでとは全く違う。そこには、かつてあった批判精神が、決定的に欠如しているのである。
 「新しい中世」3.0は、業界人として喜ぶべきどころか、むしろ警戒すべき現象なのだ。その危険性に気づいている人も少数はいて、二〇一八年に論壇に復帰した與那覇潤も、二〇一九年五月、綿野恵太との対談(『週刊読書人』三二八九号、ウェブ版)で、いわゆる中世史本ブームが、これまで中世を扱い切れなかった「日本スゴイ」系本の空白地帯を補完している構造を、じつに鮮やかに指摘している。
 その上で、「『実証史学がアマチュアの史論を駆逐しだした!』などと勝ち誇るのは、いかがなものでしょうか」。そう、與那覇は指摘するのである。また、統計的な裏付けを挙げつつ、「『歴史修正主義者にも買ってもらえる』から売れているのに、データも見ず『ついに実証的な歴史観の時代が!』と言っている人は、いちばん実証性がない(苦笑)」。そうも指摘している。
 この與那覇の指摘で注意しなければならない点は、批判の眼差しが、ブームの牽引者である呉座勇一その人ではなく、追随者のほうに向けられている点だ。追随者たちとは違って、少なくとも呉座のその後の著作からは、中世史ブームの危険性に気づいているらしいことも、じゅうぶん垣間見える。ただ、何も考えずに追随してきた人々をいまさら裏切れない、という状況のなか、大きく舵を切れずにいるだけではないか。そう考えるのは、呉座の評価として、あまりに好意的過ぎようか。少なくとも、小説家井沢元彦との不毛な論争は、本来向けられるべき矛先が別の方向へ向かってしまった感が強い。ただ、いったん歴史学の外部との紛争に関わってしまった以上、歴史学を自己崩壊に向かわせかねない、内在的な批判へ向けて、呉座自身が舵を取る目はほぼなくなった、とは言えるだろう。
 本書『「幕府」とは何か』はつまるところ、こうした歴史学を取り巻く危機的状況に対し、一石を投じるべく書かれたものである。
 歴史学が、今後も悪しき意味での人文科学の〈島宇宙〉に留まるか、それとも憲法学者樋口陽一が『憲法という作為―「人」と「市民」の連関と緊張』で、高橋幸八郎、石母田正、東島誠を例示しつつ強調するように、歴史学もまた社会科学の一員として、「規範的立場」を回避せず、つまりはこれをもう一つの強みとして獲得し、人文科学にして社会科学という、両輪を持つ学問へと移行できるかどうか。
 いま歴史学は、瀬戸際にあると言って過言ではない。

武家政権の正当性はどうアップデートされてきたか

 いま、なぜ中世史ブームなのか、については、以上でおおむね語りえたものと思う。そして、歴史学研究が目下、瀬戸際にあることについても。そうした状況に一石を投じる本書の立ち位置については、ご理解いただけたものと思う。
 では、なぜあえて幕府論なのか? 言い換えれば、幕府論をどのような観点、「規範的立場」のもとに展開しようというのか。序章の最後に、この点を明確にしておこう。
 論点はズバリ、武家政権の正当性である。武家政権のような後出の権力には、そもそも、血統や由緒という意味での〈正統性〉はない。したがって政権の黎明期には、既存の権力(朝廷)とは別なる権力を打ち立てる上で、それがいかに〈正当〉であるかを、社会に向かって積極的に打ち出す必要がある。つまり、武家政権はいかに暴力を独占しようと、対社会的な意味での〈正当性〉なしには存立し得なかったし、実際問題としてそうした〈正当性〉を絶えず再生産し続ける必要があった。その〈正当性〉根拠の歴史を追うのが本書である。
 ちなみに本書では、いわゆる支配の「せいとうせい」という意味でのLegitimität(レギティミテート、英語ではレジティマシー legitimacy)には「正当性」という訳語を宛て、「正統性」とは訳さないこととする。
 このことをわざわざ断らなければならないのは、たとえば法学の世界では、悪法には「正当性 rightness」はないが、法である限り「正統性 legitimacy」はある、といったような訳語の使い分けが定着しているからだ。たしかに法の世界に限っては、こうした訳語の使い方が有効であることは、そのとおりであろう。しかしながら、法学におけるlegitimacyとは、社会科学者マックス・ヴェーバーの言うLegitimität(legitimacy)の三類型(合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配)のうちの一つ、合法的支配をカヴァーしているにすぎない。その一方で訳語として選ばれた「正統」はと言えば、歴史的概念としては「しょうとう」と読み、ヴェーバーの三類型のうち、もっぱら伝統的支配としての血統や由緒に特化して用いられる語である。よって法学におけるlegitimacyに対し、「正統性」の訳語を宛てることは、私ならば到底取りえない選択である。ちなみに「しょうとう」と言って多くの人が思い浮かべるであろう、北畠親房の著『神皇正統記』にかんしては、じつは合法的支配の観点から見ても興味深い点があるのだが、詳細は後ほど本論で述べることとしよう。
 ともあれ以上の理由から、本書で「正統性」と書く場合は、「しょうとうせい」(血統や由緒の正しさ)を指し、三つの「せいとうせい」の内のたかだか一つに過ぎない、ということを、特に意図して用いることとする。
 用語を如上に整理したうえで、あらためて二十世紀歴史学の金字塔と言うべき石母田正『日本の古代国家』の冒頭を確認しよう。そこには、ルソーの『社会契約論』第一編第三章を引いて、以下のように記される。

最も強いものでも自分の強力を権利に、服従を義務にかえないかぎり、いつまでも主人であり得るほどに強いものでは決してない。

 石母田が古代における「国家の成立」という問題に向き合ったとき、まさに問題の中心に据えられたのが、この問題、すなわち支配の〈正当性〉であり、だからこそヴェーバーの言う伝統的支配の要素と合法的支配の要素の相克として、歴史をダイナミックに描き出すことに成功したのだ。幕府とは何か、を問う本書は、古代国家を論じた石母田と同じ関心を持ちつつ、鎌倉幕府から江戸幕府の初頭、十七世紀まで、それぞれの時期にそれぞれの態様でアップデートされていった〈正当性〉の再編過程を、一気呵成に論じようとする試みである。
 そこで改めて問おう。なぜいま、幕府を、そして〈支配の正当性〉という問題を論じるのか、と。それは〈正当性〉の感覚を研ぎ澄まし、絶えずこの問題を問い続ける、ということなしに生きることが、大変危うい時代にさしかかっているから、にほかならない。

佐藤進一を継ぐ、ということ

 では、これまでの中世史研究で、幕府権力の〈正当性〉根拠という問題が正面切って論じられたことはあるのだろうか。じつは、その先駆者こそ、二〇一七年十一月九日、百一歳の誕生日を目前に永眠された、中世史研究の泰斗、佐藤進一である。もしも石母田をマルクス主義者、佐藤を実証主義者と短絡する者がいるとすれば、それは、一九六〇年という時代の状況が、同時代の学問知をどのように規定していたかについて、そもそもよくわかっていないからであろう。両者は、この年十一月、『中世の法と国家』を共編で出すほどの盟友であって、著名な佐藤学説はまさに、同書中に収められた論文「室町幕府草創期の官制体系」で提起されたものなのである。そして、この両者が共有したものこそ、六〇年安保闘争当時のもっともホットな学問的話題と言うべき、ヴェーバーの〈支配の正当性〉という問題であった(たとえば、世良晃志郎訳の『支配の社会学Ⅰ』の刊行は、一九六〇年七月である)。ちなみに、佐藤自身はヴェーバーの名を明示的には挙げていないが、それ自体はさほど重要ではない。現に、佐藤の高弟石井進は、マルクスやヴェーバーを読んでいるのはむしろ当然と考え、「君は読んでいるの?」などと語ったが、石井もまたそのようなことは文字には残していない。「事実をして語らしめる」手法、ヴェーバーの言う価値自由でない手法が、実証主義歴史学の美風(=言うまでもなく悪風である)とされてきたからである。石井以後の世代でも、たとえば山室恭子の『中世のなかに生まれた近世』にだって、「異国の学者」は出てくるが、ヴェーバーの名など、どこにもない。だがその「異国の学者」がヴェーバーであることを見抜けないとすれば、相当間抜けな話であるし、同じことは、佐藤についてもあてはまる。
 戦後歴史学を牽引した佐藤は、日本史上、法や合議で物事を決すること、合法的支配の可能性とその挫折、すなわちその不可能性という問題を、終始問い続けた。可能性よりも不可能性を問うことが、学問の根柢にあるのであって、合法的支配が実現していたことを問う議論、などでは決してない。(したがって合法的支配に伝統的支配が入り込むことは、論理矛盾でも何でもないし、むしろそれこそが佐藤の追究したかった根本問題である。)にもかかわらず、じつに愚かしいことに、そのような基本姿勢すら読み取れない者たちが、やれ矛盾だ、破綻だ、などと騒ぎ立て、佐藤批判をしたつもりになっているのが、歴史学界の現状なのである。石母田正の言う「水準の低い歴史学界」「歴史家たちのすむせまい世界の特殊性」は、かくしていまも増殖中なのだ。
 『ことばの文化史[中世1]』に「時宜㈠」と題してその導入部分が書かれ、ついに未完に終わった「時宜」「時議」に関する研究もまた、佐藤の学問がいかなる規範性のもとに展開されたかを遺憾なく示すものである。「時の宜しき」、「時の議論」とされるものが、じつは為政者の意思にほかならない、という欺瞞を暴き出そうというのであるから。ちなみにその佐藤から拝受した二〇〇二年の賀状には、次のように書かれている。

御新稿拝見するのが楽しみです。猶拙稿「時宜論」は未完の形ですが、結論部分だけは平凡社「日本史大事典」の「時宜」項で書きました。折あらば御一見下さい

 もはやご本人の許諾をいただくこと叶わないものの、江湖の読者の参考に供すべく、佐藤の結論が右(このサイトでは上)にあることを紹介させていただいた次第である。
 佐藤進一の学問の規範性については、最後にもう一点、学者としての実存にかかわる問題に触れないわけにはいかない。佐藤は、一九六八―六九年の東大闘争時に、学生処分の不当性へのプロテスト(体制側から見れば「造反」)として、藤堂明保とともに東大文学部を辞したのである。佐藤自ら明言するとおり、東大闘争時のあの経験なくして、最後の単著『日本の中世国家』は書かれなかったのであり、そのことは私の博士論文『公共圏の歴史的創造――江湖の思想へ』でも論及したとおりである。二〇一八―一九年はその東大闘争から五十年であり、また私の博論の参照点である東欧革命から三十年にもあたる。明治維新百五十年、などと浮かれている場合ではない。
 佐藤進一の東大辞任が、文学部教授会の決定に対する単なるプロテストでなかったことについては、ヴェーバー学者折原浩がそのホームページで紹介している。佐藤は、「自分は長年、鎌倉幕府の権力構造を研究してきたにもかかわらず、ごく卑近な現場の権力関係には気づかず、対象化できず、翻弄されてしまった」と語ったというのである。佐藤のこの学問姿勢は、近代批判者としてのヴェーバーが批判する「没意味化した近代人」、歴史学で言えば規範の自覚なき素朴実証主義者たちの、まさに対極に立つものであって、規範(目的合理性)と実証(整合合理性)との両輪を生きる、学問人の強靭さを示した、という点において、きわめてヴェーバー的と言うほかないのである。

(了)

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プロフィール

東島 誠(ひがしじま・まこと)
1967年、大阪府生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、博士(文学)。現在、立命館大学教授。専攻は歴史学。著書に『公共圏の歴史的創造――江湖の思想へ』(東京大学出版会)、『自由にしてケシカラン人々の世紀』(講談社選書メチエ)、『〈つながり〉の精神史』(講談社現代新書)、『日本の起源』(與那覇潤と共著、太田出版)など。