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もっと効率の悪い「わかる」のあり方というものもあるんじゃないか。――「ことぱの観察 #19〔飲むこととわかること〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


飲むこととわかること

 くじらに飲まれた人がいるという。ダイビング中にたまたまザトウクジラの口の中に入ってしまい、けれど暗闇のなかでもがいていると間もなく吐き出されて、奇跡的な生還を遂げたらしい。そう聞くと、ついくらっとあこがれてしまう。「くじら」と名乗ってもうすぐ十年になる身である。
 巨大なくじらが人間を飲み込む話は、ピノキオにも、旧約聖書にも登場する。ピノキオは沈没船が浮かぶくじらのお腹の中で火を熾して脱出し、預言者ヨナは三日三晩祈って救われる。実際に自分の身体がくじらの身体の中に入っていってしまったら、と思うとおそろしいけれど、しかし同時にそうなってみたいような気もする。なんといってもその巨大さがいい。人間として生活していると、ふつう自分より大きな生きものに遭遇することは少ない。その人間の身体をつるりとひと飲みにしてしまうくじらというものが、人間サイズにととのえられた日常をはるかに逸脱するのが心地いいのだ。
 とはいえ、実際のくじらは人間を丸飲みにはしない。ダイバーを吐き出したというザトウクジラの口は三メートルもあるけれど、喉の大きさは人間の拳ほどで、とても全身は通れない。ピノキオやヨナのように、喉を通りすぎてお腹の中にまで入るわけにはいかないだろう。ザトウクジラのように海水を濾過してプランクトンを食べるヒゲクジラではなく、歯があってイカや魚を食べるハクジラならば人間を食べることもできるのかもしれないけれど、おそらく噛まれるか、押しつぶされるかして、生きた身体まるごとのままで胃にたどり着くわけにはいかないだろう(一八九〇年代にクジラの胃の中から生きたまま発見されたという男がいたらしいけれど、のちにそれが事実でないことを示す証拠が出てきたそうだ)。
 それではなおのこと、物語に、人間を丸飲みにするくじらがしばしば出てくるのはどうしてだろう。くじらの巨大な姿を見たとき、つい飲み込まれる想像をしたくなるのは。その答えを、わたしは勝手に憶測している。それでいて、ほとんど確信している。
 思うに「飲む(飲まれる)」ということには、なにか人を惹きつけてやまない、蠱惑的なものがあるのではなかろうか。
 食べる側としての人間の身体もまた、あまり丸飲みはしない。健康のためにも、行儀のためにも、食べものはよく噛むようにと子どものころから言われる。けれど早食いのわたしなどは、お腹の空いたときや、とびきりおいしいものを食べるときなんかには、つい噛むことを忘れて矢継ぎ早に食べものを詰めこんでしまう。それで、あとで喉や胸を詰まらせたり、お腹が痛くなったりするのだ。だから丸飲みにあこがれる。ほんとうはなんでもかんでも頭からつるりとやってやりたいところ、身体の制約によってわざわざすりつぶし、細かくしてしか飲み込めないことが、ときに迂遠に思える。ときどき思う。「酒を飲む」ことを単に「飲む」という、あの省略がなければ、人びとはあんなにも酒に夢中にならないにちがいない。「飲みにいこうか」と言われるときの、まずはその喉の感触に、みんなついていきたくなるのだ。ただこれは、下戸であるわたしの、外がわから眺めたにすぎない妄言かもしれない。

 ところでわたし、「くじら」を名乗っておきながら、あまり飲み込みのいいほうではない。とくに音声で発された言葉を聞くときには。
 忘れっぽいせいで言われたことは端から抜けていくし、あれこれ連想してはすぐに本題を見失う。なによりもひねくれていて、「はい、わかりました!」とすんなり返事ができることはかぎりなく少ない。「それってどういうことですか?」「○○ということですか?」という問いかえしばかり舌になじんでいる。それでもまだていねいなほうで、実際のところは「えっ?」と言うのがもっとも板についている。
 いちおうの申し開きをしておくと、聞いていないわけではない。ただ、人のしゃべることは多くの場合、わたしが聞くには多すぎる前提を含んでいて、なかなかわたしを素通りさせてくれない。ある一文のなかの単語ひとつとっても元になる文脈があるはずで、一方で言葉尻には受け取るべき要請がひそんでいる。そんなふうに耳をすませているうちに頭は意味と意味とのあいだでねじれ、置いてきぼりにされて、最終的に「えっ?」と発声することになるのだ。読むこととは違って聞くことにはたいてい一回きりしかチャンスがなく、それもまたわたしを覚束なくさせる。
 わたしの喉はやはり狭くて、言葉を飲み込もうとするとき、かならずなにかが引っかかる。固有名詞が、速すぎる論理が、ほほえみが、小骨や皮や筋のように、わたしの喉をかんたんには通らない。考えてわかろうとするときにも、日本語は「咀嚼」という言いかたをする。わたしの咀嚼は、たいてい少なすぎるか多すぎるかのどちらかで、ちょうどいいことがない。あるときにはすぐに早とちりするくせに、またあるときには味がなくなるまでくにゃくにゃ噛みつづけていたりする。昼間言われたことを、夜うちで布団に入ってもまだ執念ぶかく噛んでいることもある。
 それにくらべて、クマガイユウヤという男は飲み込みがいい。
 クマガイは長くユニットを組んで一緒にライブをしているギタリストの相方で、この連載では「敬意とあなどり」にも登場した。そちらを読んでもらえたらわかるように、ユーモアがあって、それでいて他人への「敬意」をそなえ、わたしのような狭量なものをさえあまりいやな気持ちにさせることのない、気のいい男である。
 わたしたちの組んでいる「Anti-Trench」という名前のユニットは、わたしが詩の朗読をし、クマガイがギターを弾くという変わった形態の音楽を作っていて、楽譜もその他の決まりごともない。各楽曲に基本形はあるけれど、とはいえライブとなると毎回かなりの部分を即興が占めている。そんなふうだからよく「どうやって曲を作っているんですか?」とたずねられるけれどたいした秘密はなく、わたしが先に詩を書き、クマガイに渡して、ギターを弾いてもらう。それで完成。ふたりで作っているとも言えるけれど、それぞれがひとり孤独に作っているような感覚もある。
 制作のとき、わたしはあらかじめ詩を書いて持ってきているけれど、クマガイはその場ではじめてギターを弾くことになる。印刷した詩を渡し、彼が黙って読んでいるあいだ、わたしは特になにも言わないで待っている。クマガイはやがて詩を机の上に置き、ギターを断片的に鳴らしはじめる。わたしはやはり黙っている。しばらくするとクマガイが「やってみようか」と言い、それからいきなり即興で最初から最後までを合わせる。演奏が終わると、ひとこと、ふたことなにか言い合い、ふたたび演奏する。そのくりかえし。
 わたしは音楽についてたいして知らないし、クマガイも詩についてはあまり知らない。だからお互いの作品やパフォーマンスについて指示することはほとんどなく、ただ漠然とした印象のようなものだけを言い合う。「いまのはちょっとかわいすぎたかも」「もっと人を食いたい」「町中がめっちゃ光ってる感じなんだよね」というふうに。相手になにか言うのでさえなく、単なる次への宣言、ひとりごとのようなものであることもある。「オッケー、もっとバリバリな感じでいくわ」「ちょっとがんばらないでおってみる」「いっぺんここまでのこと全部忘れるね」「繊細に、繊細に、繊細に!」……。
 その会話ともつかない会話が、しかしわたしに心地いい。わたしが言ったことを彼が理解したかはわからない、反対も然り、というか互いに特段それを目指していないことさえある、けれど演奏が始まれば、どれほどわかりあえたかがありありとわかる。言葉のあらわれる前にはつねに、まだ言葉を与えられていない膨大なものがある。さしあたっては未完成の作品から受ける印象について話すことしかできないけれど、わたしたちは実際のところ、まだあらわれていない完成のことをずっと話している。その反復と修正が、わたしたちがお手本のない作品を作る唯一の道である。
 実を言うとはじめわたしは、これがふつうだと思っていた。自分たちにとって自然な作り方であるあまり、ある程度音楽のできる人なら、みなクマガイのようにできるものと思っていた。けれどクマガイ以外のミュージシャンと時折コラボレーションをする機会があって、ようやくそうでもないことがわかった。彼らはわたしが印象についてぶつぶつ言っても、あまりそれにうなずかない。首をかしげて、「メジャーとマイナーだったらマイナーってことですか?」「じゃあ、アンビエントっぽい感じのほうがいいですか?」というようなことをたずねてくる。知らん、と思う。いじけているのではなく、単に知らんのである。用語のことではない、音楽に明るくないとは言ってもメジャーとマイナーくらい、またアンビエントくらい知っている、しかしこの曲がそうであるかは、わたしの知るところではない。わたしがなにもわからない顔をしていたからか、あるセッション相手のミュージシャンに「Anti-Trenchだといつもこんな感じで作ってるんですか?」と聞かれた。
 「そうです」
 「へえ……クマガイさんって、すごいんですね……」
 それはなにか棘のある言いかただったが、わたしもそこで思った。へえ、クマガイさんって、すごいんですね。
 そのことを最近、煙草に火を点けるクマガイを見ながら、なんとなく思い出していた。煙草をのむ、という言い方がある。「喫む」と書くらしい。そして、クマガイほどうまそうに煙草を喫むものはいない。火のついた煙草をうつむきながら深く吸いこみ、身体いっぱいに溜めこんだまま空を仰いで、いっぺんに吐き出す。口を細くすぼめて吐くから、煙はしばらく直線を進み、あるところでもやっと拡がる。クマガイがすると、そのあとに吸う空気までうまそうに見える。他の人がするより煙が多く見えるからふしぎだ。わたしもときたま煙草をやるけれど、彼に比べるとどうもけちくさくていけない。よそ見をしながら浅く吸いこみ、吐くときにも唇を薄くひらくだけで、焦点のあわないまま煙をのがしてしまう。一瞬一瞬の快楽をみずから掴みとるようなすごみが、クマガイの姿にはあって、わたしにはない。
 「のむ」だ、と思う。「吸う」でも「やる」でもない、「のむ」がやはり似合う。一滴も漏らさずに身体のなかへ流しこんでしまう、そこに咀嚼の挟まるような余地はなく、するするとものを受け容れる、伸びのいい喉。飲み込みのいい男。たくさんの煙も、ほかのミュージシャンが首をかしげるわたしの未完成な言葉も、つるりと飲み込んでしまえる男。

飲む:自分ではないものを口から入れ、腹へ送ること。飲まれたものは飲んだものを侵略することはなく、飲んだものの一部になる、つまり、飲んだものは飲まれたものを身体の中へ受け容れるが、飲まれたものになるわけではない。

 さっきまで、わたしたちは話し合っていた。話し疲れて煙草をやりに来たのだ。作品についてでもイベントについてでもない、人間関係についてだった。このところわたしの悩んでいたのを軽く話し出したら、クマガイが思いのほか力強くそのトピックを拾ってくれ、しばらく制作をそっちのけにしゃべりまくった。人とどうつきあうか、という問題は結局のところ自らとどうつきあうか、という問題で、フリーランスのわたしたちにとっては仕事とどうつきあうかという問題もふくんでいて、また芸術とどうつきあうか、という問題でもあった。
 話をするとき、クマガイは煙草を喫むときみたいに気持ちよさそうにはしない。制作のときのように簡単に飲み込むこともしない。ずっとむずかしい顔をして、わたしの言うことをしばしば引き受けて言い換え、それをわたしが修正すると「そうか、そうか」とつぶやく。咀嚼。制作のあいだは演奏だけが本当で、会話はどこか宙に浮かんでいるようなのとは対照的に、あくまで言葉でもってやりとりをおこなおうとする。そしてそれがそのとき、わたしにうれしかった。うれしかったことからの逆算で、はじめて自分が思いのほか深く悩んでいたとわかったほどだった。自分で驚くくらいの素朴な喜びだった。
 つまりそのとき、わたしは「わかってもらえた」と思ったのだった。

 遠回りをしてしまった。「わかる」ことについて考えていたのだった。
 ときどき、子どもっぽい空想をする。漫画みたいに他人の考えていることを読み取れたら、どんな気持ちになるだろうと思うのだ。漫画の登場人物たちは、ときに能力を隠し、ときに戦闘に活かし、ときに思い悩む。読んでいると彼らの行動に納得したり共感したりすることもある一方、しかし疑問に思う。
 彼らはなぜ、それが他人の考えだとわかるんだろうか?
 他人の声として聞こえてくるとか、意識したときだけ読み取れるとか、作品によってもいろいろだろうが、しかしもしも頭の中にあって目に見えない「考え」というものが「考え」という形のままでふと自分の頭へ去来したのなら、それは自分の考えと見分けがつかないのではないだろうか、と思うのだ。だいたい現実を生きるわたしたちにとっては、自分の考えだって、自分の思うままにはならない。だれかとおしゃべりしているときにも、ふと突拍子もないこと、考える。もしそれが目の前の相手から伝わってきた考えであったとしても、わたしはきっと気がつかない。自分の考えたことだと思うだろう。
 そして、それは単なる想像にすぎないとしても、しかしときに「わかる」ことを、わたしたちはそういうふうに感覚しないだろうか。
 誰かの考えを受けて心の底から納得したり、感嘆したりするとき、それがはじめから自分の考えであったように錯覚することがある。そのような、ほとんどテレパシーのような理解の経験がわたしにもあり、そしてうっとりとあこがれる。くじらのまる飲みにあこがれるように、そのスムースさ、したたかさに心惹かれる。
 相手の発したことをそのまま「飲み込む」ことが、それでは「わかる」だろうか。そうかもしれない。けれど、飲み込みのよいクマガイが、しかし慎重に、急がずにわたしの話を聞いてくれたことをふりかえって、思う――「わかる」ことにしても、そうじゃないか。まる飲みのいさぎよさにあこがれながら、またそんなふうに「わかってもらう」ことに渇きながら、しかしそうでない、もっと効率の悪い「わかる」のあり方というものもあるんじゃないか。そうして、だからこそそのときうれしかったんじゃないか。
 詩を書く身として、比喩やレトリックが持っている威力には、なにかただならぬものを感じている。単なる表現上の誇張や言い換えではない、なにか人びとにイメージ上の現実として経験された事実のようなものが、ときにレトリックの中には見える。だから、「わかる」ことの付近に「飲み込む」「咀嚼する」あるいは「腑(腹)に落ちる」や「条件を呑む(承諾する)」というレトリックのあることを、ここであらためて真に受けてみたいのだ。
 思い切って言い切ってみよう。「わかる」こととは、やはり「のむ」ことに通じる。わかるとは、口をひらき、自分ではないものを、自分のなかへ受け容れることである。こじつけとは思いつつ無理に言いかえてみると、こんなふうになるだろうか。

わかる:自分ではないものの考えを受け容れ、自分の一部とすること。わかられた考えはわかったものの一部になる、つまり、わかったものは他人の考えを自分の中へ受け容れるが、その考えそのものになるわけではない。

 しかしそれは、ときにまる飲みではむずかしい。他人の考えはときに大きすぎ、ときに硬く、ときに筋ばったりとげとげしたりしている、少なくともわかろうとする側にはそういうふうに感じられる。だから噛まなくてはいけない。
 わたしの考えているのはいわば、くじら的理解ではない、人間的理解、わたしたちのよく見知った食性での理解、というようなもののことだ。他人の考えを、丸呑みにするのでも、吐きもどすのでもない、よく噛んで食べる。ああ、なんでもかんでも飲み込んでしまえるんだったらよかった、と思うこともあるけれど、しかしくにゃくにゃとしつこく噛む。そうすることでしか共にはいられない他人というものがあるのかもしれない。
 そう思うと、いくらか明るい気持ちになる。わたしたちの持つ、陸をゆく小さな雑食の身体。そのまずしい喉こそ、しかしなんでも飲み込める気がしてくる。他人の考えこそが、わたしたちが生命を持続させるための栄養なのだ。そこから、他人になるのでもなく、他人と混じりあうことのないわたしのままでいつづけるのでもない、新しいこのわたしになることはできるだろうか。
 さんざん話し、煙草を喫み終わったあと、わたしたちはやっと制作に取り掛かった。制作がスムーズにいくことはあまりない。即興という制作方法上、ちょっと集中が欠けると、すぐこれまでに作ってきた作品に似てしまう。そして、自分たちでそれが許せない。修正をくりかえしていると当然くたびれてくる。制作自体にも、自分の狭量さにも、腹が立ってくる。しかし同時に、クマガイも同じようにそれを許さず、同じようにくたびれているのがわかって、それがうっすらとうれしい。咀嚼。
 そうだ、新しくなりたい。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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