わたしたちはどこになら、どんなふうにいられるのだろう。――「ことぱの観察 #18〔寝る〕」向坂くじら
詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。
寝る
汐留のペデストリアンデッキは日中、そこまで人がいない。まだ新品だがすでにいくつか傷のついた黒いパンプスを脱ぎ、ベンチに座る。それからスーツのジャケットを脱いで、ビジネスバッグの口をふさぐように包み、横倒しにベンチの端に置く。襟元のボタンを外したら、さっき置いたバッグを枕に、膝を曲げて小さく横になる。二十一歳、就活生のころのことだ。選考と選考のあいだに時間が空くと、よくそうやって路上で眠った。
就職活動をしているあいだ、とにかくいつも眠たかった。午前にはここ、午後にはこことそこ、みたいに一日であちこちの会社を回らないといけないのもよくないし、服もよくない。女性用のスーツは硬く、狭くて、動くたびどこかが引き攣れる。スカートとパンプスを履いてしまえばすたすた歩くこともできなくなり、合皮のかばんにはふだん使っていた男もののメッセンジャーバッグの四分の一もものが入らない。制限をかけるために着させられている服であるような気がした。早々にパンツスーツしか着なくなり、そのうちパンプスもやめて平底の革靴を履くようになった。けれど、すぐに眠くなるのは変わらなかった。
だから選考のためにはじめての駅で降りるたび、わたしは眠る場所を探した。ベンチもいいけれど、人通りが多すぎるのも少なすぎるのも怖い。長いこといると迷惑になる場所もいけない。かといってお金もない。うろうろとさまよい、人がまばらな喫煙所のベンチで眠り、商業ビルの中にある謎の休憩スペースで眠り、駅のホームに座って眠り、噴水や街路樹の縁で眠り、遊具もない小さな公園で眠った。隙間のようにひと目を逃れる場所、だれでも入れるのにだれにも求められていない場所というのは、探してみると案外あちこちにあった。就職活動はあまりうまくいかなかった。出くわす人の大半とはうまが合わない。それなのに、わたしの生存や働く意義について、また人生の意義なんていうものについて、ときにその人たちと話さなくてはいけなかった。ひとりで考えなくてはいけない問題と、たかだか就職程度の問題が、しかし無遠慮につなげられてしまうのがいやだった。
だから、街なかで眠るのは、ほとんどあてつけのようなものだった。居心地の悪い服でも眠ってやれる、「女性は膝をくっつけて座らないといけない」と言われたその身体を、スーツの往きかう街のなかに横たえることができる。そのことが、眠たいわたし、退屈でたまらないわたしの、かすかな休養だった。
街なかで眠るためにはコツがいる。半分はできるだけぐっすり眠るけれど、もう半分は意識を残しておくのだ。ベンチから転がり落ちたくはないし、脱力して脚を大きく開くのもいけない。身体の中心だけを眠らせ、末端には意識を残しておくような感覚である。全身が眠っているときにも、カバンの持ち手を握る手だけは目覚めている。
飛行機のトランスファーが好きなのは、みんながそんなふうに眠るからだ。大陸へ向かう安い便は、乗り継ぎのために十時間以上も待たないといけないことがある。夜のはじめに降り立った目的地ではない国を、陽が昇ってくる頃にやっと出発できるというぐあいになる。だからその長い夜を、床に座ったり椅子の上で丸まったりして眠るのだ。知らない言葉を話す人たちと同じ空間で、それぞれの荷物を注意ぶかく抱きしめながら。東京の路上で荷物を抱えたまま寝ている人はめったに見かけないけれど、そこではみんなが半分ずつで眠っている。
ここが、帰る場所ではないからだ、と思う。自分の帰る場所ではないところで眠らないといけないときに、わたしたちは半分だけ眠るのだ。大人というのはふつう、帰るべき場所のほかでは眠らない。しかしどうしても眠りたいことがある。帰れる場所の必要に先立って、眠ることの必要が襲ってくる瞬間があるのだ。そのことを空港で、半分しか目覚めていない意識が、かえってありありと考える。
就職活動をしていたころからしばらく、街から眠れる場所が減っていくのを実感していた。なんのためにあるのか分からないけれど、もしくは分からないゆえに居心地のよかったスペースには、新たにものが置かれたり、建物が建ったりした。ショッピングモールの椅子はマッサージチェアに代わり、お金を払わないと座れなくなった。路上のベンチはずいぶん減ってしまった。代わりにアルミの棒を使った、わずかな時間ならかろうじてお尻を載せておける程度のベンチが増えた。かろうじて残った平面のベンチの真ん中には肘かけのような仕切りが置かれ、横にはなれなくなった。
あとになって、それを「排除ベンチ」と呼ぶことを知った。座る以外の使いかたを意図的にできなくさせ、路上生活者を排除するための設計であるのだという。話題になったのはここ数年だが、建築史家の五十嵐太郎によれば、「排除ベンチ」はオブジェ風の「排除アート」とともに、一九九〇年代後半にはすでにあらわれていたらしい。いざ眠れる場所を探してみるまで、わたしがまるで気がつかなかっただけで。
そう思うと、やるかたなかった。街のなかに、ひいては社会のなかにいる場所がないと感じて、たかだか数時間眠ってみせたとしても、わたしには夜になれば帰るところがあった。それであてつけができたような気になっていたのがいやになった。たった数時間、それも暑すぎも寒すぎもしない昼間に眠ったぐらいのことで、自分のいることを主張したような気になっていたことが。
そうして、はじめて気がつく。無理やりに街のなかで眠ることはわたしにとって、自分がここにいられるという訴えだったのだ。
華原朋美さんの「I’m proud」の歌詞が、寝る場所についてすばらしいことを言っている。
なんていい歌詞だろう。「家の明かり」が「ひとつふたつ消え」るのを、自分は外から眺めており、たくさんあるどの家のなかにもいない。「体中から涙こぼれていた」としても、「街中で寝る場所なんてどこにもない」。自分のいられる場所がないことの痛みそのものである。それを「寝る場所」のなさでもって言いあらわしているのが、寝ることといることとの関係をよく示している。
寝られる、というのはそのまま、いられるということだ。反対に、「排除アート」がいびつに示すように、寝させないということはいさせないということを、ときに意味する。
だから、「ねえ、寝ないで、起きて、起きて」としきりに言いながら、ふっと不安になる。
「ねえ、ねえ、いま中断できないんだってば。これ終わるまで起きててよ、頼むよ」
ゆさぶられた夫はしかし、口のなかでもにゃもにゃいうだけで、目を開けようとはしない。ゲームをしていた。ひとり用のアクションRPGゲームで、わたしがプレイしているのを夫が見ている最中だった。わたしはあまりゲームのうまい質ではなく、敵と戦うとすぐにやられ、よく道に迷って、しなくてはいけないことを簡単に忘れる。だから基本的に夫が見ているときしかゲームはしない。というか、わたしがゲームをするのを見た夫がわあわあ言うのもふくめて、やっとゲームを楽しめるのだ。
それなのに夫はすぐに眠ってしまう。晩ごはんを食べたあと、わたしにゲームをやれやれといって勧めるわり、いざはじまると返答がひとこと減り、ふたこと減って、つぎにはついにいびきになってしまう。そして、わたしはそれがいやでしかたない。ゲームをしているあいだのコミュニケーションは、わたしが画面を見ている都合、声だけで成立している。それが前ぶれもなく打ち切られてしまうと、夫が突如いなくなったように錯覚する。わたしは夫の死をとてもおそれているところがあって、さっきまでふつうにしゃべっていた夫が急にしゃべれない状態になってしまうということ、その否応なさに、死によって夫を奪られることをつい連想してしまう。あった意識がなくなるというのは、怖い。眠ってしまったが最後、わたしの発する言葉その他のメッセージを夫は受け取れないし、ゲームの進みぐあいを共有することも、わたしに向かってなにか働きかけることもできない。すなわち死、とは言わないまでも、意識どうしの別れである。
夫にそう話すと「起こしてくれればいいじゃん」といささか不満げに言われるけれど、しかし起こして起きる夫ではない。だからもうあきらめた。基本的には夫が寝た段階でゲームを打ち切り、わたしも一緒に眠るか、眠くなるまでそのまま本やなんか読んでひまをつぶすことにしている。けれどそのときは、そういうわけにはいかなかった。ゲームが重要な局面に差しかかり、システム上中断しようがなくなっていたのだ。
「ねえ、このあとって戦う? そしたらセーブできる? いやなんだけど!」
ゆすったり押したりしてなんとか夫を座らせると、夫はまだ薄い目でうらみがましくこちらを見、しばし画面をながめて、また眠る姿勢に入ろうとする。なんだ、そのかたくなさは、と思って、こちらも腹が立ってくる。だいたいまだ二十一時である。夫は子犬のような睡眠スタイルで、成体の人間にあるまじき時間に眠り、そのぶん早くに起きる。しかし単に眠たいという以上に、なにかわたしのふるまいに気に入らないところがあるように見える。
ひょっとして、と思う。寝られることとはいられることである。ならば、わたしが夫の眠るのをいやがり、ときに起こそうとすることは、夫からすると自分のいることさえもいやがられているように思えるのだろうか。わたしは夫の意識がなくなるのが怖い。夫がいなくなったように思えてさびしい。しかし実際には夫はいる。少なくとも、いる部分が残っている。わたしの錯覚は、その残された部分を否認し、いないものと扱ってしまうことだろうか。
しかしそうだとしたら、ときに意識をなくせる場所のことを、わたしたちはすなわちいられる場所だととらえているのだろうか。
ゲームはなんとかイベントを終え、すっかり眠っていた夫をふたたび起こして、いっしょに寝室へ行く。ふしぎなもので、夫が寝室で寝ているぶんにはそこまで怖いと思わない。眠っているにしても、夫が意図しているように思えるからだろう。そうしてわたしも眠る。連続する意識を手放し、夫のいびきの聞こえない世界へ行く。それはもはや、いっときこのわたしではなくなるようなものである。けれどやはりふしぎに、それもさほど不安には思わない。ふたたび目覚めるとわかっているからだろうか。しかしそれを本当にわかっていると言えるだろうか。
このわたしであることをなくせる場所が、わたしのいられる場所である。
そう書いてみると、確かにそうであるかもしれない。「ここはわたしのいられる場所ではない」と知らされるときのあの痛みの本体は、なんといっても「わたしがあまりにもこのわたしである」ことにほかならない。わたしだけがこんなにもこのわたしであり、そうである以上他の人たちとは異なっている。それがわたしに痛いのだ。反対に、「ここはわたしのいられる場所である」と思えているときには、そんなことは考えない。それなら、さびしいときにわたしたちの求めているのは、「わたしがこのわたしではなくなる」ことであるのかもしれない。
夫はしゃべっている途中で夫ではなくなり、そうすることで二人がけの小さなソファにいられる。わたしは寝室でわたしではなくなり、だからこの家にいていいと思える。そうかもしれない。そうだとしたらやっぱり、夫がときに言葉の通じる夫ではなくなることを、しかし夫の持つありようのひとつとして、あまりおそれすぎずにかまえているのがいいのかもしれない。
寝る:
外がわのことを感じたり考えたりする力をなくし、目覚めているときの自らではなくなること。また、そのことの不安を持たずに、その場所に向かって自分をあずけること。それでいて、目覚めていたときと連続する自らとして、ふたたび目覚めること。
けれど、本当にそうだろうか。仮にそうだとしても、それが本当によいのだろうか。なんだかゾッとするような気持ちがする。わたしたちがいられる場所を求め、ときにさびしく思い、街や社会のなかをあちこち歩きまわって他の人たちと関わりあおうとするのは、いつかこのわたしではなくなることを望むためだろうか。その先に生まれるのは、誰もが同質で、ひとりひとりに分かたれた意識を持たない、つるりとした集団ではないのか。
もう一度考えてみたい。知らない国の深夜、空港で荷物を抱えたわたしたちは、みな一時的にそこにいるだけだった。たまたま同じところに居合わせているだけで、日が昇ればそれぞれほかの国へ飛びたつ。だから半分しか眠れない。けれど、半分は眠れた。荷物をかたく抱いたまま、いつまでもここにいられるわけではないわたしは、ふしぎにやすらかだったのだ。さて、わたしたちはどこになら、どんなふうにいられるのだろう。ときにめんどうで、なくしたくもなる「このわたし」というものに、しかし朝にはまた戻ってしまう。それなら、どうやって他の人と一緒にいることができるだろうか。
「だから君が眠るとさびしくなるんだけど、そんなこと言われても君としてもいややろう、と思ったから、なんかうまいことやるようにがんばってみるよ」
雑多にそう話すと、「まあ、それはわかるよ」と夫は答え、ではその「わかる」とはなんだろうとわたしは思う。考えすぎだとよく言われる。おしゃべりをしていてもそう、仕事をしていてもそう、この連載をしていてもそうだ。考えすぎると、結局わたしがこのわたしであることに行き当たり、自分が異なって、浮いているように思える。なにもわたしが特別だと言いたいのではなく、みんないくらかずつはそうであるみたいだ。それではなおさら、「わかる」とはなんだろう。めんどうなこのわたし――やっぱり、考えないわけにはいかないだろうか。
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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)
詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。