さびしさは鳴り、そして共鳴しない。――「ことぱの観察 #17〔さびしさ〕」向坂くじら
詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。
さびしさ
さびしさは鳴る。
その一文ではじまる小説『蹴りたい背中』が芥川賞を最年少受賞したとき、わたしは小学生で、小説を書いていた。テレビに映る十九歳の綿矢りささんはきらきらしていたけれど、それでいて自分とさほど変わらない歳にも見えた。その少しあとにわたしは引っ越すことになり、転校した小学校の図書室で『蹴りたい背中』を見つけた。この一文に出会うのにぴったりのタイミングだった。図書室にばかりいたのは、本が好きだったからというだけが理由ではない。コの字型に中庭が置かれた校舎に、わたしのいられる場所は少なかった。本棚の陰に丸まって隠れ、休み時間の終わりをやり過ごそうとするのはしょっちゅうで、司書の先生の手をよく焼かせた。
「さびしさは鳴る」に続く物語は子ども向けに書かれたものではなく、むずかしい表現も、ドキッとするような男女の表現もあった。それでもむさぼり食べるみたいに読んだ。年齢から来る親近感もあったけれど、それだけではない。教室という箱に置かれて、自分と同じような思いをしたことのある人が書いた小説だと思った。
歩いても歩いても知らない街だった。建売りの住宅街はどの家も、欧風の煉瓦造に見える外装がしてあって、われこそが趣向あふれる無二の家であるという気構えをむんむんと放ち、それでいてみんな同じに見えた。だからよく道に迷った。知らない道で、猛犬注意の看板や、なすときゅうりに箸を刺したお盆飾りを見ると、怖くて駆け足になった。帰る方向の同じクラスメイトと連れ立って帰ってこられればよかったけれど、なかなかそうはできない。反対に、帰りの通学路で同じクラスの子どもたちと行きあいそうになると、出くわさないように急いで隠れたり、歩く速度を調整したりした。
近所に家があるクラスメイトのひとりに、星という男子がいた。めがねをかけた、姿勢のよい少年だった。星は声の大きい運動部の男の子たちとよくつるんでいて、話したことはない。子どもたちが小学校から帰ってくるときには、はじめ大勢でいて、交差点や曲がり角のたびに、それぞれの家の方向へ分かれていく。星の家はうちからかなり近かったから、もうすっかり解散しきってひとりになったあとの星をよく見かけた。ときにはランドセル姿ではなく、おそらく一度家に帰ったあとの、大手の中学受験塾の名前が入ったかばんを背負って歩くところにも行きあった。基本的にクラスメイトをおそれていたわたしだったが、それは集団が怖いのであって、一対一ならそこまで怖くない。だから、帰り道に会う星の少しうつむいた姿を、めずらしくよく覚えている。
席替えで星ととなりの席になっても、とくに話さないのは変わらなかった。休み時間になると星の机の周りに男の子たちが集まってくるのを迷惑に思っていたくらいで、星自体にたいした害はなかった。星は基本的に寡黙で、授業中にしゃべったり、先生に怒られるほどハメを外したりはしない。成績もいいようで、かといってクラスから浮いてもいない、うらやましいくらいの立ち位置だった。
その星が、いつになく授業中にほかのことをはじめたとき、だから目を惹かれた。理科かなにかで教室のスクリーンに映した映像資料を観ているときだったと思う。部屋の電気は落とされ、めずらしくおしゃべりも止んでいた。星は、ひとりでトランプを広げていた。机の上には筆箱も教科書もなく、トランプだけだった。くずれた山から右手と左手で一枚ずつ取り、トランプ同士がお互い支えになるように斜めに立てかけて、そろそろと手を離す。二枚のトランプが三角形のまま安定すると、もう二枚を同じように隣に並べ、指先でわずかにバランスを調整しながらまた三角形を作る。八枚のトランプを四つの三角形にしたら、今度はトランプの面で頂点を覆うようにして天井を作り、その上にまた三角形を組む。トランプタワーだ。トランプタワーを作っている。
あまりジロジロ見てもよくないと思ったけれど、やっぱり気になった。わたしたちの席は教室の一番前で、おそらく先生にも気づかれていたと思う。けれど、とくに注意されることもない。そのころ六年二組には授業中のおしゃべりや離席、先生への暴言、それからわたしを含む特定のクラスメイトたちへの嫌がらせが横行していて、ついには担任が学校へ来なくなった。それで毎日かわるがわる代役の先生が来ていたけれど、みんなそこまでやる気もない。だから、トランプタワーが見過ごされたとしても、とくにふしぎではなかった。けれど、そんななかでもいつもは教科書とノートを広げ、なにか生真面目に書き込んでいた星なのだ。トランプタワーはちょっとしたことですぐに崩れる。かなり高く積んだあとでも、なんの前触れもなく、しかしあらかじめ決まっていたことのように一方向にいっぺんに倒れて、たちまちもとの平面に戻ってしまう。星はそのたびに手ぎわよくトランプを集め、一度崩れた裏表をととのえて、ふたたび最初の三角形からはじめるのだった。
幸い、映像の流れるスクリーンは星のいる方向にあって、わたしは映像を見ているような顔をしながら、ときどき星に目をやることができた。見ているうち、星の作ろうとしているのが四段のトランプタワーであることがわかってきた。下の段から、三角形の数を四→三→二→一と減らして、一番上の三角形に向かって組み立てようとしているらしい。はじめのうちはすいすいと下から二段目まで積み上がるのは当然、調子がいいと三段目まで行くこともしばしばあった星のトランプタワーは、だんだん調子がくずれてきた。二段目にさしかかったところで倒れることが多くなり、次には一段目の四つの三角形さえ揃わなくなった。トランプのふちをやさしく叩いて角度を調整する星の指先が、ふるえはじめているように見えた。散らばってしまったトランプを集める間隔も短くなり、枚数も減って、そのぶん手つきも気ぜわしくなる。反復もむなしく、ついに最初の三角形さえうまく立たなくなった。たった二枚が何度目かに倒れたとき、星は手のひらの付け根でぐいっと目をこすった。そこではじめて、星が泣いているのだと気がついた。
ふたたび下の段に取りかかりながらも、星が目をこする頻度は増えていった。ついには黒縁のめがねを外し、フレームをひらいたまま机の角に置いてぽたぽたと泣き、洟をすすりながら、それでもトランプを積もうとするのをやめない。見ているわたしまで、どうしてか胸がいっぱいになってくる。
わたしは星のことが苦手だった。直接わたしをつきとばしたり、授業中に消しゴムのかけらを頭にぶつけたり、陰口を言ったりする男の子たちよりも、だまってそれを見ている星のほうに、かえってばかにされているような気持ちになることがあった。重たそうなリュックを背負い、熱心に受験勉強をしているようすも、それに拍車をかけた。星と話したことはない。話したいと思ったこともなかった。けれどそのとき、星になにか言ってやりたかった。なんで泣いてるの、トランプすごいね、もっといけるよ、だれかに、なにかされたの、もうやめちゃいなよ、がんばれ。ぽたぽた泣いてはトランプを積み、倒してはまた涙をぬぐう星を見ていると、なにも星がトランプタワーがうまくいかなくて泣いているんではないことだけは、しみじみと伝わってくるような気がした。どうして泣いているかは分からなくとも、それだけは分かると思った。涙がこぼれてくるより前から、トランプをやさしく叩く指先で、星はすでに泣いていたのだ、と思った。
泣いてしまったらふしぎに調子を取り戻したのか、タワーはふたたび二段目まで到達するようになった。けれど何回かそれを繰り返し、久しぶりに三段目に差しかかったところでまたはたはたと倒れた。そこで、星はやおら赤んぼうのような手つきでトランプを一枚つかんで縦にちぎり、二枚目もちぎって、ちぎれたものをまたちぎり、小さな紙きれにしてしまった。続けてもう何枚かびりびりとやり、それからトランプと毛羽だった紙きれとのまざった山の上にうつ伏して、そのまま動かなくなってしまった。
そのときわたしは「さびしさは鳴る」に続く、『蹴りたい背中』の冒頭を思い出していた。
さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。
さびしいんだ、と思った。星がではない。わたしがさびしかった。星がトランプを積み上げるのをやめてしまったことが、ひとりうつ伏してわたしの覗き見をのがれる場所へと隠れてしまったように思えたことが、星とはきっとこのまま、ひとことも話さないであろうことが。悲しいのでもない、怒っているのでもない、さびしさだった。星がトランプをちぎる手つきが、『蹴りたい背中』を一瞬で経由して、そのときさびしさと結びついた。確かに、「周り」であるわたしに、ちぎる音まではよく聞こえない。その、わたしのところへは届かなかった、聞いたことのない音のことを、しかしさびしさの音として、わたしは強烈に記憶してしまった。
予感はあたり、そのあとも星とは一度も話さなかった。星は次の時間にはいつも通りめがねをかけ、男の子たちの輪に加わり、教科書を広げて、もう授業中にトランプを取り出すことはなかった。家が近いから卒業したあともたまに姿を見かけたけれど、目もあわない。そのうちにわたしの家のほうが再び引っ越して、もう見かけることもなくなった。けれどさびしさについて考えるとき、わたしはそのときのことを思い出す。星のふるえる手や、放り出された黒いめがねのことを。さびしさというものはいつもそんな姿であったような気がしてくる。
「風景」という吉原幸子の詩がある。
自分ではない他のものがさびしいことが、ときにわたしたちにさびしいのはどういうことだろう。他者である「犬」に対するこの詩の目線、また星に対する小学生のわたしの目線も、外がわからおこなう勝手な意味づけや感傷にすぎないのかもしれない。ときに、わかった気になることを厳しく押しとどめ、明確な線引きをしなくてはならないものかもしれない。しかしそれでいて、なにかさびしさというものの根幹にかかわるような迫力を、わたしはこの詩から感じる。
ふたたび『蹴りたい背中』の表現を借りれば、さびしさは鳴り、そして共鳴しない。ほかの人のなかで起こっていることを、わたしたちは聞き取ることができない。反対に、自分のなかで起こっていることを人に聞かせることもできない。けれど、その気配をわずかに感じ取ることはある。悲しみでもそう、怒りでもそう、そしてそれがさびしさである気がするときには、いくらか似ていると思うぶん、なおさらにさびしい。
「さびしさは鳴る」とは反対になってしまうけれど、むしろその静寂の感覚こそが、さびしさの本体ではなかろうか。
さびしさ:
他人や自分のなかで起こっているできごとのかえようのなさ、分けあえなさを、ときにその内実に先立って感じとること。そうして、他人と自分とが離れた場所にあるように思うこと。
子どものころ、図書室や通学路の死角に隠れながら、わたしはさびしかった。大人になってもたいした解決は訪れず、さびしいと感じることはむしろ増えた。知りあう他人の数が増え、また自分のなかで起きるできごとも増えていく以上、当たり前のことかもしれない。けれど、本棚の陰で丸くなっていたころに比べて、さびしさを悪いものとは思わない。いつか満たされるとも、そうでないといけないとも思わない。
もとよりわたしたちにはかえようがないのだ。そう思えばすべてさびしさからはじまる。
ひとつ前に戻る 次を読む
プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)
詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。