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胡蝶蘭をともに育ててくれた「おひとりさまプラン」――「マイナーノートで」#23〔フラワーボーイ〕上野千鶴子

各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
※#01から読む方はこちらです。


フラワーボーイ

 今朝、窓辺のちょうらんが1つ、開花した。
 いつのまに蕾をつけ、いつのまにふくらんでいたのだろう? 咲いたときには、いつもびっくりする。おや、おまえ、ここにいたのかい? すっかり忘れていてごめんね、と。

 わが家の胡蝶蘭はちょうど12歳だ。年齢を忘れることがないのは、2011年、あの大震災の年のいただきものだからだ。季節も同じ頃。その年に、20年近く勤めた東京大学を退職した。3月に最終講義が予定されていた。その直前の大震災だった。東京都内も交通が混乱し、すべての行事がとりやめになった。

 その後、わたしの最終講義がないことを惜しんで、卒業生たちが特別公開講義を主催してくれた。そのあいだにわたしの講義のタイトルが変わった。「生き延びるための思想」(注1) へと。震災と津波、原発事故を報道するTV画面を呆然と眺め続けたあの数週間が、わたしの講義のタイトルを変えさせた。逃げよ、生きよ、生き延びよ……と。

 胡蝶蘭はその退職のお祝いにいただいたものだ。みごとな花をつけた胡蝶蘭の鉢が、いくつも届いた。並べてみて、「パチンコ屋の新装開店みたいね」と毒づいた。お祝いというと胡蝶蘭、としか思いつかないのか、とうんざりした。引っ越し先に持って行って、さて、どうしたらよいものか、と案じた。

 だが、胡蝶蘭はけなげに咲き続けた。蘭は花期が長い。花のないときにも目を楽しませてくれた。

 世の中には、植物を育てるのがうまいひとと、へたなひとがいる。どんな一枝からも移植してみごとな株をつくってしまうひともいるし、どれだけ鉢植えを買い求めても、無惨に枯らしてしまうひともいる。わたしはどちらかといえば後者だ。一時は植物好きのいとうせいこうさんよろしく「ベランダー」(注2) を自称してマンションのベランダにさまざまな鉢植えを持ちこんで、来年も咲かせてみせるぞ、と意気ごんだりもしたが、ほとんどの鉢花は、翌年のシーズンが来る前に枯れ果てた。ネグレクトしたわけではない。たぶん水遣りのしすぎで根腐れを起こしたのだと思う。どちらかといえば過保護の方だ。

 とはいえ、出張の多いひとり暮らし、海外にもしょっちゅう出かけた。夏や冬の長期の休みもある。落ち着かない暮らしのなかで、気がつけばざぶざぶとお水を遣り、心ここにあらずとなれば注意が向かない、気まぐれな世話だった。植物の世話をしていると、もしかしたら自分が親になったらこんなふうに子どもに接するかもしれない、とぞっとする。

 蘭をもらって、よおーし、来年も咲かせてやろうと思った。さて、長い休みをどうするか? 大学の教師になったおかげで、一生のあいだ、夏休みのある生活を味わうことができたのはぎょうこうだった。だが1ヶ月以上も家を空ける暮らしは、植物を育てるにはふさわしくない。

 友人の写真家でベランダを薔薇ばらで埋め尽くしている女性がいる。松本路子さんだ。薔薇を愛し、薔薇を求め、薔薇を写して『晴れたらバラ日和』(淡交社、2005年)というすてきな写真集も出している(注3)。
 しょっちゅう海外にも取材旅行に出かけるのに、そのあいだはどうしているの? と尋ねると、なかまうちで留守宅を守ってくれる「フラワーボーイ」を雇っているのだという。もちろんそんな職業があるわけではない。気心の知れたなかまのうちに、たまたまフリーターの青年がいて、部屋の鍵を預けて、ゴミ出しやプランツの水遣りをお願いしているのだとか。おひとりさまの女性の留守宅の鍵を預けるのだから、よほどの信頼がなければならない。そんな便利なひとがいるのか、と感嘆したが、どこでも見つかるわけではない。

 引っ越した先の地域に、介護事業者がいた。しかもヘルパー指名制を採用しているユニークな事業者だ。ヘルパーだって得意分野もあれば好き嫌いも相性もあります、人気のあるヘルパーさんには指名制を採用して、指名料をとればいい……がわたしの持論だった。あるところでそんな話をしたら、「実は、うち、やってます」と名乗りを上げたのがその事業者、グレースケア の柳本文貴さんだった。ホームページをのぞいてみると、ヘルパーさんの顔写真と共に得意分野が書いてある。マッサージが得意とか、中国語ができますとか。人気があるのは片づけのプロ。一見まるでキャバ嬢の紹介ページみたいだが、キャバクラでは指名料をとるのだから、介護だって指名料をとったらいいのだ。

 どんな利用者が指名制を使っているの? と尋ねてみたら、いろんな事例を教えてくれた。

 若い女性障害者がイケメンの男性介護職を指名して、ベッドから車椅子に乗せてもらうときに、お姫様抱っこをしてもらうんだという。郷里の鹿児島から老母を呼び寄せた女性が、鹿児島出身のヘルパーさんを指名して、その訪問のあいだは鹿児島弁でしゃべってもらうようにしているとか。片づけヘルパーさんはひっぱりだこだそう。
 人間のケアをするなら、うちの蘭のケアもしてもらえないものだろうか?

 柳本さんと相談して、「おひとりさまプラン」という商品を作ってもらった。介護保険外の自費負担サービス事業である。年間一定時間数を使うことを条件に、年間契約を結ぶ。それ以下でも金額は変わらない。上限をオーバーしたらその分だけ超過料金を支払う。1時間当たりの金額は介護保険の自費サービス10割負担に当たる。安くはない。

 だが、これで長期の出張や休みが安心してとれるようになった。プランツの水遣りはもとより、留守宅に届いた宅配便の受け取りや転送、毎日山のように来て郵便ボックスを満杯にする郵便物の引き取りなど、お願いすることがいろいろあった。鍵を預けてあるので、緊急事態にも対応してもらえた。出先で、しまった、あの電化製品の電源、オフにしたかしら、と気になってしかたがないときには、緊急コールで走ってもらった。どうしても家に戻れない時間帯に友人が成田空港から自宅へ到着することがわかっていたときには、駅まで迎えに行ってもらった。アメリカ人の友人だった。「英語ができるの?」と訊いたら「なんとか」と答えが返ってきて、そのとおり、なんとかなった。

 うちの蘭は、そのおかげで12年目の今日も、無事に花をつけた。いただいた翌年にもみごとに花をつけ、3年目にも咲いた。植物を育てるのが名人の女友だちがそれを見て、「ふーん、って3年、と言うものね」と「呪い」をかけていったが、その「呪い」も乗り越えて、4年、5年……と毎年花芽をつけ、今年も咲いた。ほめてやりたい。自分を? いや、この蘭たちを。

 その代わり、蘭の花枝は野放図に伸びて、コントロールできない。見ているとけなげにも日の当たる方へと伸びていく。その方向がわたしの目に触れるのとは逆方向なので、花芽が出たことがわかると、向きを変えてやる。そうするとそれにまた抗って、日の当たる方向へと身をよじらせる。なんだか、虐待をしているみたいで気がひける。

 パチンコ屋の開店祝いか、と毒づかれた胡蝶蘭たちは、退職後の歳月をわたしと共にして、それを目撃してきた貴重な伴侶になった。蘭をくださった方たち、ごめんなさい。株は乱れ、花芽はしだいに小さくなり、ひげ根はあたりかまわず伸び放題。わたしと同じように、蘭だって加齢しているのだと思う。それでも季節になると律儀に花を咲かせてくれる。その花の美しさに変わりはない。12歳になった記念に、この子たちに名前をつけようか……。


注1 「生き延びるための思想」はウィメンズ・アクション・ネットワーク(WAN)の「最終講義」アーカイブで動画を公開している。https://wan.or.jp/article/show/4989#gsc.tab=0

注2 ベランダ・ガーデナーを自認するいとうせいこうさんの命名。いとうせいこう『ボタニカル・ライフ 植物生活』新潮文庫、2004年

注3 ベランダーの人にはこちらを。松本路子『秘密のバルコニーガーデン12カ月の愉しみ方、育て方』KADOKAWA、2021年

(タイトルビジュアル撮影・筆者)

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プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)

1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。

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