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戸田山和久『思考の教室──じょうずに考えるレッスン』——さあ、答え合わせをしてみよう!《解答と解説編②》

 練習問題6~10の解答と解説を見ていきましょう。
 ※練習問題6~10はこちらです。

問題6 ツッコミについてさらにツッコんでみよう
解答と解説

(1)「背理法」で考えてみる。つまり、この推論に反例があると仮定して考えていくと、おかしなことになるかどうかを試してみよう。

 この推論に反例があるとする。つまり2つの根拠が正しいのに、主張は間違いというケースがあるとしよう。その場合、主張「Bである」は間違いだから、Bではない。根拠2は正しいと仮定しているから、Aである。そうすると、「AであるのにBではない」ということになる。だとすると、「AならばBである」は間違いである。つまり根拠1は成り立たない。2つの根拠が正しいと仮定したのに根拠1は間違いになってしまった。おかしなことになった(矛盾した、と言う)。原因は、この推論に反例があるとした最初の仮定にある。この仮定は間違いだった。つまり、この推論には反例はありえない。

(2)も(1)とほとんど同じように、背理法によって反例がありえないことを示すことができる。

 この推論に反例があるとする。つまり2つの根拠が正しいのに、主張は間違いというケースがあるとしよう。その場合、主張「Aではない」は間違いだから、Aである。根拠1は正しいと仮定しているから、AならばBである。そうすると、いま、「Aである」と「AならばBである」の両方が成り立っているわけだから、この2つから「Bである」が言える。しかし、根拠2は「Bではない」と言っている。矛盾してしまった。矛盾の原因は、この推論に反例があるとしたことにある。この仮定は間違いだった。つまり、この推論には反例はありえない。

(1)や(2)の特徴はなんだろう。二つある。第一に、反例を指摘するというタイプのツッコミが絶対にできないということ。第二に、反例がありえない、ということが、文の形だけで決まっているということ(AとかBとかにどんな内容の文が来ても、以上の背理法による証明は成り立つでしょ)。
この2つの特徴を備えた推論を「演繹(えんえき)」と言う。注意して欲しいのは、演繹は、われわれが「論理的思考」とか「論理的推論」と呼んでいるものの、ごく一部の、しかもすごく特殊なものだということだ。だから、私は『思考の教室』では、あえて演繹の話をしなかった。論理的思考イコール演繹的思考と思われるとすごくマズイからだ。

問題7 ツッコミをいつもでも繰り返すと、どういうことになるか?
解答と解説

 これは答えが一通りに定まるような問題ではない。一つの解答例を示してみた。

B:どうして、アルバレス親子の言うことが信用できるってんです?
A:いや、この説は1980年に『サイエンス』という、科学の世界では権威ある論文誌に載った説だからね、まあ、信用してもいいと思うよ。
B:どうして『サイエンス』に載ったからといって信用していいんですか? この雑誌には間違いは絶対に載らないんですか?
A:いやそんなことはないよ。『サイエンス』にだって間違いが掲載されて、あとで訂正記事が出たり、そもそも古い説を覆すような論文が将来載ることはあるだろうよ。でも、こういうちゃんとした雑誌では、投稿された論文が「査読(さどく)」という厳しいチェックを受けるんだ。そういうチェックをくぐり抜けて掲載されたんだから、それなりに信頼できるということじゃ。
B:どうして、査読をパスすれば信頼していい、って言えるんです? 査読する人たちは絶対に間違えないんですか? 
A:査読だって間違えることはある。でも、査読者はその分野の高名な科学者から選ばれるし、複数の査読者の目で公平に見て評価されるんだから、まあ、信頼していいじゃろう。
B:でも、査読者もグルってことは絶対にないと言い切れますか? アルバレス親子も査読者も一緒になって私たちを騙そうとしているって可能性はないですか?
A:そんなことはないと思うが。だいいち誰が査読者に選ばれるかはわからないようになっているし、いろんな国籍のいろんなグループの学者から選ばれるんだから、グルになる、なんてことはないだろう。
B:だとしても、世界中の科学者がじつは大きな秘密結社の一員で、全員で私たちを欺(あざむ)こうとしているってことはないでしょうか?
A:なんのためにそんなことをするんじゃ? 必要性がないじゃろう?
B:いや、科学者たちの目的は別にあって、たとえば世界征服とか。ときどき大きな科学的発見のニュースをでっちあげて、私たちの目を真の目的からそらそうとしているかもしれませんよ。少なくともそうじゃないって証拠はありますか?

 というわけで、この場合、過剰なツッコミはみごと陰謀論につながってしまった。これはもちろんフィクションだ。現実に行われている実り豊かな議論、つまりツッコミとサポートの連鎖は、必ずどこかで止まる。議論に参加している人たちが、互いに「これはもうツッコまなくてもいいよね」と合意する共通の前提のところで打ち止めになる。
過剰に根拠を求めないということが、逆に根拠にもとづいて議論するという「ツッコミサポートゲーム」の基盤になっているというわけだ。その暗黙の了解を無視すると、このBさんのようになる。

問題8 もう一回、紙とペンを使って考えてみよう
解答と解説

(1)かりに、ロバートとエイドリアンは向かい合って着席していたとする。そうすると、ビルとジェイミーも向かい合って着席していたことになる。(b)により、小籠包を注文したのはビルである。また、エイドリアンはロバートの正面に座っているから、エイドリアンの左隣はビルかジェイミーのいずれかである。
 ところが(c)により、エイドリアンの左隣は、餃子を注文したのであるから、一人一品の条件により、エイドリアンの左隣はビルではありえない(ビルは小籠包)。したがって、エイドリアンの左隣はジェイミーであり、ジェイミーが餃子を注文した。そうすると、肉まんを頼んだのは、残るロバートかエイドリアンである。しかしながら、エイドリアンの左隣はジェイミー、ロバートの左隣はビルであるから、いずれにせよパーカッショニストである。したがって、ロバートとエイドリアンのどちらが肉まんを頼んだにせよ、肉まんを頼んだ人の左隣はパーカッショニストである。これは条件(d)に矛盾してしまう。つまり、ロバートとエイドリアンが向かい合っていたという仮定のもとでは、すべての条件を満たすことはできない。したがって、この仮定は成り立たない。

(2)まず、この問題で円卓の席順を考えるときに、誰がたとえば入り口に一番近い席に座ったかはどうでもいいので、反時計回りに4人がどういう順番で座ったのかだけ考えるようにしよう。そして、順番を考える起点はつねにロバートということにする。4人をそれぞれアルファベットの頭文字にギタリストかパーカッショニストかを示すGとPを添えて表すことにする。ロバートはギタリストだから「RG」になる。円卓だということを忘れないように、ぐるっと回ってきて、再びロバートに至るまで、順番を表すことにしよう。たとえば次のように。

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 このように書くと、円卓上で左隣はこの表でも左隣になる。たとえば、ジェイミーの左隣はビル、ロバートの左隣はジェイミーである。
 そして、せっかく(1)でいいことがわかったのだから、その結果を条件(e)として付け加えよう。つまり、

(e)ロバートとエイドリアンは向かい合って座ってはいなかった(ジェイミーとビルも同様)

 条件(a)と(e)は他の条件とちょっと違っていて、席順についてしか述べていない。まずはこの条件を使って、可能な席順を絞り込もう。まずは、この二つの条件を上記の表の作り方についての条件として述べ直すと次のようになる。

(a)BPは左から2番目か4番目の欄に置く
(e)AGを左から3番目の欄に配置してはいけない

 そうするとすぐにわかるのは、左から3番目の欄に置けるのはJPだけということだ。というわけで可能な席順は次の二つしかない。

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 さて、大根もちを注文した人がいたとしたらそれは誰か、を考えるわけだが、そのためには表を二段にして、下段に何を注文したかを書き込めるようにしておこう。ついでに(b)の言っていることも書き込んでしまう。

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 次に、条件(c)を考える。AGの左隣は餃子を注文したのだが、場合Aではそれを満たせない。AGの左隣のRGの下段にはすでに小籠包が書き込まれているからだ。そうすると、残るのは場合Bだけで、次のようになる。

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 条件(d)はどうなるか。Gの右隣にしか「肉まん」と書けない、ということだから、BPのところに肉まんと書くしかない。

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 というわけで、もし大根もちを注文した人がいるなら、それはAG以外にありえない。大根もちを注文した可能性があるのはエイドリアンである。
 この4人のミュージシャンの名前にニヤリとした人は、私と音楽の趣味が共通しています。お友だちになりたし。

問題9 図による思考増強の威力を実感してみよう
解答と解説

 社会学科の男性合格者数をx人としてみよう。社会学科で男女の合格率が同じになるためには、女性は9x人合格しないといけない。そうすると、自然学科の合格者数もxを使って表せる。

社会学科

 自然学科の男女の合格率が同じになるためには、次の式が成り立たないといけない。

33-9x/10=57-x/90

 これは、中学生にも解ける方程式だ。答えは、x=3になる。というわけで、次の表が得られる。

社会学1

 うーむ。たしかに問題文にあるようなケースって起こりうるんだということがわかる。これは、私たちの想像力というか直感というかに反しているので、シンプソンのパラドックスと呼ばれる。

問題10 最後にもう一つ、図による思考増強を実感するためのワーク(R指定)
解答と解説

 というわけで、『パルプフィクション』を世界史年表形式でまとめてみたのが次の表だ。[1]とか[2]という数字は、そのシーンが映画で描かれる順番を示している。これだけ見ていてもいろんなことに気づく。ヴィンセントとジュールスに関しては、時間の行ったり来たりが激しいが、ブッチについては、ほぼ起こったことが起こった順番に描写されているとか。両方について時間を前後させたら本当にわからなくなってしまいそうだ。もうひとつ気づいたのは、登場人物がトイレに入っていると、トイレの外で物語を大きく動かす事件が起こるという法則だ。

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 さて、この年表を頼りにすれば問いに答えるのは簡単だ。

(1)ヴィンセントが若者たちを殺して金を回収したのは1日目、ヴィンセントがブッチに殺されたのは4日目([15])。だから、3日後に殺されている。

(2)この映画を観ている観客が最後に耳にするセリフは、[24]でヴィンセントとジュールスが食堂から出て行くときに語られる、「I think we should be leaving now.(そろそろ行ったほうがよさそうだぜ)」「Yeah, that’s probably a good idea.(ああそのようだな)」だ。でも、これは物語世界内の時間で最後に語られるセリフではない。だいいち、ヴィンセントは途中で死んでいる。答えは、ブッチがファビアンに言う「Zed’s dead, baby. Zed’s dead.」である。

(3)ブッチとマルセラスが八百長試合の相談をしているバーに、ヴィンセントとジュールスがやってくるのは、1日目のおそらく昼間だ(バーの開店前だろう)。つまり[5]。二人は、ジミーの家で着替えたTシャツ姿のままだから、食堂から直行したと思われる。ということは、ジュールスは回収した金を届けるだけでなく、ボスに足を洗わせてくれ、と頼みに来たことになる。

(4)ブッチがボクシングの試合で相手を殴り殺したのは3日目の夜。ミアが麻薬の過剰摂取で死にかけたのはその前日の夜。ミアが死にかけた方が先だ。これは映画で描かれる順番と一致している。

(5)ミアが5ドルのミルクシェイクを飲んだ[7]のは、ヴィンセントとの「デート」のとき(2日目の夜)。ブッチがインスタントのトーストを温めて食べようとした[15]のは、アパートに時計をとりに行ったとき(4日目の朝)。ヴィンセントが食堂でパンケーキを食べた[22]のは1日目の朝食。だから、パンケーキ、ミルクシェイク、トーストの順である。

プロフィール
戸田山和久(とだやま・かずひさ)

1958年東京都生まれ。89年、東京大学大学院人文科学研究科単位取得退学。専攻は科学哲学。現在、名古屋大学大学院情報学研究科教授。著書に『新版 論文の教室』『科学哲学の冒険』(以上、NHKブックス)、『「科学的思考」のレッスン』『恐怖の哲学』(以上、NHK出版新書)、『論理学をつくる』『科学的実在論を擁護する』(以上、名古屋大学出版会)、『知識の哲学』(産業図書)、『哲学入門』(ちくま新書)、『教養の書』(筑摩書房)など。

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