「愛と性と存在のはなし」第3回 〔#Metoo運動は何をめざしたいのか〕 赤坂真理
女であるって生きづらいと思ってきた。
生まれて死ぬまでホルモンに、体調から感情まで支配されて生きるようで、身体のリズムや変化は、不可抗力な自然からの介入で自分の思い通りになることは少なくて、セックスはいいものだけれど、セックスにまつわる負担は女に一方的に、圧倒的に、多くて。
同じことやってるのに、不公平じゃない?
と、権利以前のことで神を呪いたくなった、こともある。
どこまでが不可抗力かどこからが意志なのか、女の人生は、きわめてわかりにくい。それに対して意志の持ち方が、よくわからない。持ってもどうにもならないこともあるし、流されようと思ってみれば、すべて流されることもできる。すべてがアクシデントとその結果のように、生きていくこともできる。
女の人生は意志とアクシデントのはざまにある。そんなふうに言ってみたくなる。
また、女は欲望の対象となる身体であると言う。常に視線で値踏みをされ、その価値を競うコンテストまで男によって行われていてけしからんと言う人達もいる。たしかにそれはわずらわしく、時に怖い。しかし、そのとき語られないのは、対象とならなければならないで寂しく、自信喪失する、という、女の質だ(もちろん、そんなことはぜんぜんない、という女の存在は、尊重する)。
が、わたしがときどき面倒くさくなるのは、視線や値踏みのわずらわしさや侵入性を嫌悪しつつ、それがなければ寂しいという、そういうことの「すべて」なのだ。
この頃、性的存在であること自体捨てたい、あるいは超越したい、と言う人をよく聞くのは、こういう気持ちなのではないかと思っている。にもかかわらず、人間は、死ぬまで性的存在であることを免れることはできない。どんなにジェンダーレスになってみても、性を生物レベルで捨てると、生も成り立たない。
そんなこんながもう、すべていやになりもするのだ……そんなふうに思ってきた。
もう、女のしあわせってなんのこと? 愛されること? 愛すること? 求められること? 自由に求めること? 子どもを持つこと? ハッピーなのは、どこまでがホルモンでどこからがわたしなの?
わからない。わたしにはわからない。それで女をこじらせたと思ってきたし、女をこじらせたことで泣き叫んだっていいと思っていた。それで誰を傷つけ悲しませたっていいんだとも、どこかで思っていた。
だって、わたしが傷ついているのだから。
だって、女なんだから。めんどくさいんだから。
この複雑な性を乗りこなす大変さでわたしはへとへとで、助けてほしい。
感情的なのは、わたしが望んだわけでもなく、女が不安定だからだ。そんなふうにも言いたくなる。一度、たぶんホルモン剤の影響で、ものすごく不安定になったり、破壊的になったりしたことがあった。そのとき、人格というものがどの程度意志的なものか、わからなくなった。人格と性が、どのくらいかかわり、かかわっていないかも、よくわからなくなった。ホルモンの影響は、男女ともに受けるし、男女ともに、性ホルモンがなかったら、ふつうに生きてさえいけない。が、その影響が、このうえなく精妙で劇的なのは、やはり女性のほうだろう。
不安定な性として、そして不利益を被りやすい性として、わたしは傷ついてきた。
そう思っていた。
それを言うのは、そして共感を得るのは、自分自身の内的な抑制や障害をのぞけば、案外簡単なことだったはずだ。
現代は、女の不満をおおっぴらに言えば言うほど、共感を得る言語空間だったのである。
女の不満は、比較的言いやすいし、聞かれやすい。言う定式もある程度できている。
しかしそれには危険な側面もある。
と、この頃、思うようになった。
女の不満に言葉を与えられることで、女の不満はさらに燃え上がり、それは目的を失ってゆく。
目的を失ってゆく、というのは、それが、何かの改善のためでなく、ただの不満の垂れ流しとなることを示す。これは建設的なことではない。
男という他者をよく理解し、彼らと共にしあわせになりたいのか、男(相手)をただ批難して溜飲を下げたいのか、女自身にだってわかっているのかあやしい。感情がとめどもなくなるとはそういうことで、女性的な言語空間では、特にすぐにそうなりやすい。
「共感」。
その観点から言えば、現代の言語空間とは、圧倒的な女の優位でできている。社会的な立場という観点では、いまだに女に不当にできた社会なのかもしれなくても。その言語空間とは、SNSなどのより日常に密着したものも含む、広大なものである。
いや、そういう日常的な言語空間こそは、誤解を恐れずに言えば「女性的な言語空間」である。
そして「共感」というのが、現代ではいいことの代表のように言われるが、暴力的にもなりうることである。
多数で囲い込んで、反対意見を封殺するような。出たものに批判を浴びせると言うよりは、それが出ること自体をあらかじめ許さない、というような。
SNSで、夫や恋人がどれだけダメか、女が言うとかなりの共感を得る。男の上司や部下のことでもいい。
有名ミュージシャンの夫を持つ妻が、夫が私生活ではろくでもない人間だと罵倒するツイートを見たことがある。大手メディアがそれを取り上げているのも。なぜ個人攻撃を大手メディアが是認するのか、わたしにはよくわからなかった。にもかかわらず、そのトピックは取り上げられ、それによりさらなる共感を得ていた。ひょっとしたら、たいへんよくあるタイプのろくでもなさで、女が次々と膝を打ったのかもしれない。としても、それをやっていいのかわたしにはわからなかった。
立場を逆にして、男がパートナーの女や彼女を、彼らの価値観に照らしてどれだけダメかを公開で言いふらし、SNS上で男同士で盛り上がったとしたら。それはかなり社会的なバッシングの対象になる。それは「暴力」だと、言われ抵抗されるだろう。
やることは、ほぼ同じでも、である。
これは、明文化された禁忌があるわけではない。が、不文律としての「ジェンダー差別」ではないだろうか。だとしたら、「ガラスの天井」と同じように、見えない差別が男性に対してあることになる。
「ジェンダー的不均衡」が問題なのならば、こういうことも問題として丁寧に扱われなければいけないと思う。
#Metooという社会運動がある 。
女性が、現在や過去に受けた性被害や性犯罪について、声をあげられる草の根の社会運動だ。女性が暴力に対して黙っていないのはよいことだし、こと性被害や性暴力というものに対して、女性がそれを語ることさえ、どれほど勇気を必要とするものかもわたしはわかるつもりだ。性被害で人がどれだけの傷を負い、抱え続けることになるかも知っている。ほとんど一生というケースもある。数に力を得てしか、言う勇気のなかった、無数の人たちの傷があるのだろうとも推察する。けれど。
#Metooの当事者には 、いつだって、特定の加害者がいたはずだ。
告発の対象は「その人」であるはずだ。
「男」ではないはずだ。
そして加害者は男だったとも限らない。
男から女にされたものとも限らない。女から男、男から男、女から女。「性」の軸だけとっても、合計4通りある。
けれど、いつしか「対男」のワードに、#Metooが定着しつつある危険性も感じている。すべての暴力が男から女に流れるわけではない。にもかかわらず、そこでは、暴力が男から女に流れることが「前提」とされている雰囲気を感じる。
それとも、#Metooやフェミニズムは、「男性や男性性を撲滅する」ための運動なのだろうか?
特定の加害者を訴えるときに、そういう被害に遭ったのが自分だけではないことに支えられ、傷つき、告発によってさらに傷つく危険をおそれながらも勇気を振り絞るためのものなのではないのだろうか?
それとも「男性全体の力の抑止運動」や「監視運動」なのだろうか?
男という、愛すべきでもあるもう一方の性と、よりよくわかり合い折り合うためのものなのか。
それとも男の力をあらかじめ止めたいという欲求の産物なのか。
どうも、後者へと行く可能性を孕んだ運動であるように思えてならない。
以前、創作を教えたことがある二十代の男性が、突然こんなふうにつぶやいたことがある。
「男性として、女性の眼差しの中で生きていくのがしんどい。加害者たちと同じ性を持った人間であるということが申し訳なく、消えてしまいたい」
なんと悲痛な声なのだろう。そしてなんと、かすかな。そしてほとんど、真面目にとられることもない。
これが本当に、真面目に吐き出した言葉だったら。
生きづらさのかたちは、こんなにもちがうのだ。
■
性にまつわる不平等や不均衡は日々問題になる。
ただその議論は、2つの点で不備があるように思う。
まず、両性の側面があっていいと思うが、男性はほぼ、ケアされるべき主体とみなされないこと。
性に関する議論が、「権利」偏重になりやすいこと。
それはたとえるなら、「陰と陽」を、同じ基準で比べようとすることに感じられる。
権利の平等はいいことではある。可能な限り目指されるべきである。それを突き詰めると、女子も徴兵に応じることにはなるが。これを言うと戦争は男がするものだという反論があるかもしれないが、女は戦争をしないというのは、ただの嘘だとわたしは思っている。「今のような」戦争はしないだろうというだけで、女も争う。女も誰かを攻撃する。
わたしが言いたいのは、「男女同権論」の中で忘れられがちなのは、あまりにちがう身体への想像力だろう、ということ。
産むようにできている性と、産むようにできていない性。一緒にいたとしてもライフコースがまったくちがう、というだけではない。
それほどにちがうからには、生まれてから死ぬまでの日常で、感じることや、世界の捉え方が、まったくちがうのだろう、という想像力だ。
人間は、どこまでも、身体のインプットと、身体の情報取捨選択傾向や処理能力などによって、この世界を体験している。
そこまでちがう身体は、感じるものがかなり、想像を超えて、ちがうはずなのだ。
前回扱った、東大入学式の祝辞の、いちばん大きな主旨は、「男女の権利の平等」だった。大学の学部ごとの男女比率や合格比率の不均衡が、それが存在する根拠であり、それは選抜段階のみならず、その以前から「男だから(高いところをめざしてよい)」「女だから(控えめに、女性らしい分野で)」などという、親や社会からの刷り込みがあるから、だという。
一理はあると思う。
けれど、そのどこまでが身体にねざした傾向で、どこからが社会的刷り込みなのか、それをはっきりと分けられる人は、いない。
男児の多くが電車や乗り物とそのおもちゃを好むわけを、刷り込みだけに求めるわけにはいかない。長じて、工学部などへの志願が、男性のほうが多いのが、どの程度「女性への抑制」のためなのか、判別することはできない。
性がらみのワードは、日々、自動生成機でもあるかのように量産される。
にもかかわらず、人がそういう語をつくるとき、本能的に瞬時にしている「仕分け作業」には、驚いてしまう。
例をあげるなら。
◯◯女子(○○ガール)、◯◯男子(○○メン)、という言葉は、よくあるが、ジェンダーのイメージギャップのあるときにのみ、使われる。
たとえば「狩りガール」「釣りガール」「テツ女(男のテツはただのテツだ)。「肉食女子」。
たとえば「手芸男子」「家事男子」「イクメン」「草食男子」。
女が家事をしても、「家事女子」と誰も自称しない。面白いほど、しないものだ。それは誰の注目も引かないとわかっている。
そのとき人は、無意識にセクシュアリティとジェンダーをないまぜにして、その指標でもって、瞬時に、自他をラベリングする。それと同時に自分に有利なポジションを得ようとする。
セクシュアリティとジェンダーは、日々、随意に混同されたり、随意にどちらかだけ選ばれたりもしている。はっきりと分けられる人がいないからこそ、日々、随意に混ぜられ、随意に分けられている。
「草食男子」については、実は堂々と見逃されている面白い論点があると思うので、次回以降語りたい。
了
プロフィール
赤坂真理(あかさか・まり)
東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。アート誌『SALE2』の編集長を経て、95年「起爆者」で小説家に。体感を駆使した文体で、人間の意識を書いてきた。小説に『ヴォイセズ/ヴァニーユ』『ミューズ』(野間文芸新人賞受賞)『ヴァイブレータ』など。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶと大森南朋主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通して戦後を見つめた『東京プリズン』が大きな話題となり、戦後論の先駆に。同作で毎日出版文化賞など三賞を受賞。大きな物語と個人的な感覚をつなぐ独自の作風で、『愛と暴力の戦後とその後』など社会批評も多い。