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私はとても上手に針を刺すことができます――日常に潜む狂気を描いたサイコサスペンス小説「ここからは出られません」藤野可織

 妊娠安定期に入った鳩里鳩子だが、彼女の心配は尽きない。
 彼女の信念では、生まれてくる子はあらゆる意味で「完璧」でなければならないのだ。
 自然かつ完璧な状態で、すべての「特権」を掌握できる存在……。
 そんな彼女が選んだ選択は――。
 ※当記事は連載第4回です。第1回から読む方はこちら。

 私がそれを申し出たとき、私の産婦人科医はぎくりと肩を震わせる。羊水検査だ。私のつわりはすっかりおさまっている。尿検査でもケトン体は出ていない。すべての数値が正常だ。胎児にも問題は見られない。すこやかに心拍を打ち、予期される通りに大きくなっている。リラックスした態度でにこやかにそのことを告げた産婦人科医は、しかし、もう笑っていない。彼女はこわばらせた顔をこちらに向ける。彼女は、私はその検査を受ける要件を満たしていないと機械的に言う。
「要件?」私は落ち着き払って訊ねる。「私が出産時に35歳に満たないことが問題なんでしょうか?」
「そうです」彼女は意を決したように私を見つめる。「そうです」もう一度言う。「それに、そもそも羊水検査というのはいわば出生前診断の最終段階とも言うべきもので……」彼女はそこで言葉を区切る。私は、眉毛の高さで切りそろえられた彼女の分厚い前髪に目をやってから、左右の耳たぶに行儀良く一つずつ開けられているピアスの穴へなめらかに目を移す。勤務の前後の時間、そこに挿し込まれるピアスはどんなだろう? どこのブランドのものだろう? シルバー派かゴールド派か? 毎日同じものをつける派か日替わりでいろいろなピアスを楽しむ派か? 
「知ってます」ちなみに私はどちらかといえばゴールド派、日替わり派、今日はサスキア・ディツのパール。
「ご存じのとおり出生前診断には……」戸惑った表情で彼女は言う。「トリプルマーカー、クアトロテスト、それから母体血胎児染色体検査というものがありまして……」
「私は確定診断にしか興味がないんです」私は彼女のピアスの穴に向かって言う。彼女は黙り込む。口が少し開いている。
「たしかに私がさきほど言った検査は非確定的検査で……」
「でしょう?」私は彼女をさえぎる。彼女が女性の医師だからだ。相手が男性の医師なら、私はこうはしない。男性は、なかでも医師の男性は話をさえぎられることに慣れていない。「胎児がダウン症かそうでないかのパーセンテージがわかったからってどうだっていうんですか? たとえほんの数%でもダウン症の可能性があれば、結局は私は確定的検査、つまり羊水検査を求めます。時間の無駄じゃないですか。私は100%の答えしか知りたくないんです」私は一気に言う。彼女は私のピアスを見つめて微動だにしない。相手が男性の医師なら、私はもっと手順を踏む。私はもっと自分を気弱に見せるだろう。私は医師に、助けを求めるように、すがるようにふるまうだろう。彼の話をさえぎるときは、不安のあまりついそうしてしまったふうを装うだろう。そして自分のささやかな、ちょっとネットで検索しただけで誰でも得られる知識を披露する際には、「あの……ネットで見ただけなのでまちがってるかもですが……」といちいち恥じらってみせるだろう。一言ごとに「すみません……」を差し挟む必要もあるかもしれない。でも、私は彼女が相手なのでそうはしない。
 私が言い終わって無言のうちに彼女のターンであることを示すと、彼女が口を開く。彼女はまたしても瞬時に気を取り直し、ほがらかに言う。
「不安なお気持ちはわかりますよ。でも鳩里さん、あなたは出産予定日には34歳ですよね。いまどき第一子の出産年齢としては決して遅くはありません。私の体感としてはむしろ若いほうです、私が今担当している中には40歳や41歳で初産の方だって大勢いらっしゃいますよ。みなさん問題なく健康な赤ちゃんを産んでいらっしゃいます。実際ね、私は2年前に鳩里さんと同じ年齢で第一子を出産しましたが、とくに病気はありませんでした。だいじょうぶですよ」
 私はうなずく。彼女の言い分はわかる。しかし、それも結局は確率の問題だ。
「年齢が年齢だから不安だというわけではないんです」私は懇切丁寧に説明する。「私が今20歳だとしても私は羊水検査を求めます」
 彼女もうなずく。それを見て、私の主張が正確に伝わったのだとわかる。私が彼女に対して男性医師にするような話し方をしないのは、男性医師にくらべて目の前のこの医師を敬っていないからではない。私はこの医師を敬っている。時間の無駄じゃないですか。さっき言った自分の言葉がよみがえる。私は、私たちなら時間を無駄にすることなく意思を伝達しあえるはずだと見込んでこのような話し方をしている。そして、それは的外れではなかった。
「ご存じのとおり羊水検査は」彼女はもう言い淀まない。作り笑いもしない。「すべての疾患を明らかにするものではありません。羊水検査で判明するのは、ダウン症をはじめとするほんの数種類の染色体異常などに過ぎません。この世の中には、たくさんの病気があります。本当にたくさんの病気があるんです。羊水検査で異常なしだったとしても、健康な赤ちゃんが生まれるという保証にはなりません。また生まれたときは健康だったとしても、いつおそろしい病気を発症するかわかりません。100%はないんです。鳩里さん」
「わかっています」私は沈んだ声で言う。本当は私は100%がほしい。数種類の染色体異常の有無を知るだけなんて物足りなすぎる。私はあらゆる病気の可能性を探り、あらゆる心配と危険を排除したい。私がほしいのはまったく病気をすることのない子どもだ。私がほしいのは私と夫の遺伝要素のうちでもっとも容貌の整った子どもだし、もっともかしこい子どもだ。望むことはもっとある。アレルギーのない子だといい。運動神経がいいといい。やさしい子だといい。強い子だといい。絵が上手だといい。語学ができるといい。太らない子がいい。脚が長いといい。センスがいいといい。家事が得意だといい。コミュニケーション能力にすぐれ、人間関係を築くのが苦でない子がいい。体力のある子がいい。肉体の健康だけではない、精神の病気にもいっさいかからない子がいい。視力のいい子がいい。虫歯のない子がいい。生まれたとき外性器から判断された性別のままだといい。それがふつうだからというわけではない。何がふつうかなんて私は知らないし、ふつうとかふつうでないとかそういう話は私はしていない。私がしているのは特権の話だ。一般論として、シスジェンダーであるほうが今の日本社会では生きるのが断然かんたんだ。なぜなら、日本社会のあらゆる制度はシスジェンダーであることを前提にしかつくられていないから。というより、シスジェンダー以外の性のありかたが存在するとは想定されていないから。そうそう、異性愛者であることも重要だ。ここでは生まれ落ちたその瞬間から、子どもはシスジェンダーの異性愛者として扱われる。シスジェンダーの異性愛者は、もっとも自然かつ完璧な状態にあるとされている。シスジェンダーの異性愛者は、無知と偏見に傷つけられることはない。何も説明を求められず、釈明させられることもなく、矯正しようとする圧力にさらされることもない。シスジェンダーの異性愛者は、それを特権と知りもせずに特権を享受している。私自身も十二分にふりかざし見せびらかしているその特権を、私は子どもにも与えたい。私は選べるのならとことん選ぶだろう。膨大なリストに、私は軽快なリズムでチェックを入れていくだろう。リストの先に子どもが将来迎えるであろう配偶者の条件についての項目があれば、そこにすらチェックを入れるだろう。もちろん私の子どもは異性と結婚して子どもをもうけるのだ。結婚する子、そこにもチェックを入れておく。子どもを産み育てるだけの収入を得られる子、そんな項目があればもちろんそこにもチェック。20年後、30年後もこの国は変わらないだろう。結婚や子ども、それに孫はますます贅沢なものとなり、幸福や幸運の無言のアピールとなり、他者をマウンティングするのに不可欠なものとなっていくだろう。私は子どもをこの国における特権のすべてを総なめにできる者にするために、いくらでもチェックを入れていくだろう。私は踏みにじられる可能性を極限まで下げたいだけだ。私は踏みにじられるよりも踏みにじる子がほしい。私は子どもを、殺される者よりも殺す者にする。
 でも、私にも選べないものがある。子どもの性別だ。子どもは男の子か女の子のどちらかでないといけない。前述した理由により、それ以外の性ではないほうがよい。でも、男の子がいいのか女の子がいいのかはわからない。それだけは私には選ぶことができない。本来なら何も迷うことなどないはずだ。即座に男の子のほうにチェックを入れるべきだろう。男の子のほうが一般的に賃金が高く、無償労働から自由である確率が高く、入試の点数などでもあきらかな優遇措置がある。レベッカ・ソルニットの本の帯には「殺人犯の90%は男性」とあった。世界の有名殺人鬼だってほとんど男だ。性犯罪の被害者となる確率も低い。断然男の子だ。私は特権を総なめにする者を望んでいる。それはまちがいなくシスジェンダーで異性愛者の男性だ。でも、私はどうしても男の子にチェックできない。私が持たなかった特権を持って涼しい顔をしてそれにあぐらをかく男を自分が再生産することが受け入れられない。と同時に、女の子にふつうのこととして降りかかる困難や災難を思うと、女の子にもどうしてもチェックを入れられない。性差別の被害者を自分が再生産することが受け入れられない。私は男の子も女の子も産みたくはない。男の子を産むのも女の子を産むのもぞっとする。
 それなのに私はなぜ産むのか? そもそも私はなぜ結婚をしたのか?
 私の幸福によって他者を踏みにじるためだ。そうしないと、私が他者の幸福によって踏みにじられるから。
「100%はないんです。鳩里さん」
 医師が再度、静かに訴えかける。私ははっとして彼女のピアスの穴に目を戻す。彼女は私のサスキア・ディツに、感情を押し殺した声で言う。
「羊水検査を受けるには要件があります。35歳以上である場合。すでに染色体異常のあるお子さんを出産している場合。非確定的検査の結果、異常がある可能性が高かった場合。どちらかの親族に染色体異常を認める方がいらっしゃる場合」
「それです」私は言う。
「はい?」
「それです」私はうんうんと小刻みにうなずく。「親族に染色体異常の者がおります」
 医師がサスキア・ディツをじっと見ている。彼女が私に悟られないように気をつけながら長いため息をついているのがわかる。ふと、彼女の目がまともに私を見る。私も見つめ返す。
「ご存じだと思いますが、羊水検査にはリスクがあります。流産を引き起こす可能性があります」
「およそ0.3%ですね」
「正確なことはわかりませんが、多く見積もってその程度であろうと言われています。また、羊水検査には保険が使えません」
「この病院では15万円ほどでしたっけ」
「そうです」
「このことは、ご主人とはよく相談されましたか」
「はい」スムーズにうなずく。そういえば夫には話したことがない。話す必要もないと思っていた。夫の意見がどうであれ、私はこの検査を受けるからだ。費用も私が負担する。しかし、よく考えてみれば私ばかりが負担することもない。夫には意見なんてないだろう。妊娠期間中の私の精神状態の安定には不可欠な検査であると説き、費用の負担を迫れば彼はすぐにお金を出す。これまでの健診費用も当然のように私が払ってきたが、都度請求するべきかもしれない。
「鳩里さん。それで鳩里さんは、もし羊水検査の結果、お腹のお子さんに染色体異常があるということになったら、中絶するんですね?」
 背筋を伸ばした医師は神のようだ。彼女のつめたい表情と厳かな声。絶対的な位置から私の罪状を読み上げるように彼女が問いかける。
「はい」私は動じず、微笑みさえ浮かべて答える。私はこのように訊かれるだろうと想定している。何もためらうことはない。もちろんそのために、羊水検査を受けるのだ。医師は私をきびしい目で見つめている。私も目を逸らさない。
 ふと医師が下を向き、小さく息を吐く。次に顔をあげた彼女は、ふっきれたようなさっぱりした顔をしている。もう彼女は裁定者ではない。彼女は独り言を言っている。「えーと……羊水検査は15週から18週で……検査結果が出るまでがだいたいまあ……4週間……中絶手術が受けられるのは22週未満までだから逆算すると……」ボールペンの先がデスクの上のカレンダーの数字を追う。「えーと、私の勤務日がこの日とこの日と……処置室の空きが……えっと……」ボールペンがとんとんとんと踊るのを私はじっと待つ。やっと検査の候補日がいくつか提示される。私は希望の日を伝える。看護師が呼ばれ、医師が決定事項を言い渡す。看護師はうなずき、姿を消す。
「私は得意ですよ」カルテにボールペンを走らせながら軽い調子で医師が言う。
「は?」
「羊水検査。得意なんです」医師がにやりとする。
「え? あ、そうなんですか」
「ええ。私はとても上手に針を刺すことができます」
「そうなんですか」私は不意に不安になる。「あ、その、針を刺すんですよね……?」
「そうです。長ーい針を刺します」医師は楽しそうに彼女の両耳のずいぶん外側に二本の人差し指を立てる。「このくらいの長さかな。長いでしょう? でも痛くないですよ」
「麻酔は……?」
「うちではしません」医師はくるっと回転椅子を回し、私に背を向ける。「だいじょうぶ、痛くないですよ」
「でも針を刺すんですよね」
「そうですよ。でも痛くないです。細ーい針ですからね。あ、下手くそな先生がやると多少は痛いかもしれないですね。でも私は上手ですから」医師の低い位置でまとめられた長い髪が、彼女のうきうきした気分を代弁するようにほわんとはずむ。「ではお大事に」またくるっと回転椅子が回って医師のにこやかな顔があらわれる。
 私は立ち上がり、お礼を言って去る。
 羊水検査の前日、私は妊娠16週を迎えている。経過は順調だ。職場にはすでに4か月目の時点で妊娠を報告している。オーバーサイズのセーターが流行っているので、私はそういうのを着ている。ズボンはお腹の部分がスパッツのように伸びる布になっている妊婦用のものを穿いているが、そこさえ見せなければまったくふつうのズボンに見える。
「妊娠してるって知らなかったら、わかんないかもだ」犬山さんが食後のヨーグルトを舐めながら感心している。「いや、コート着てたら完全にわかんないですよね」
「妊婦だからっていかにもっていう服着るのいやじゃない」なんでもないことのように私は言う。
「私ミニマリストだから妊娠中しか使えないものって買うのいやなんですけど、鳩里さん見てたら最小限の出費ですみそう」犬山さんがうなずく。
「そうそう、総務の鯉川(こいかわ)さん、妊娠したっぽいすよ」蝉本さんがコンビニ袋から出したピザまんからすごいにおいがしている。
「へえ、知らなかった」蟻谷さんが言う。私も知らなかった。「同期なんですよ鯉川さん。えー、まじで知らなかった。ていうかわかんなかった。インスタ、フォローしてんのに」
「見た目でもまだわかんないけどさ、マタニティマークをバッグにつけてたよ」
「いいなあ」蟻谷さんはこの事務室にみんなでお金を出して置いているインスタントコーヒーを飲んでいる。私は今はノンカフェインのインスタントコーヒーを持ち込んで、自分のデスクに入れている。
「なんでですか? 蟻谷さん子どもほしいんですか?」貝沼さんが訊ねる。
「え、わかんない。でも妊娠中って生理ないでしょ? 私、生理きついからさあ。生理ないのがうらやましすぎて」
 私は深くうなずき、もしお腹の子が女の子なら、「生理が軽い」にもぜひチェックを入れなければと思う。周期は28日ぴったり、出血量は適量、PMSも生理痛もいっさいなし。
 羊水検査の当日は有休を取っている。私が選んだ産科はこのあたりでは一番人気の個人病院だ。それが何を意味するかというと、まず建物が新しくてきれいでおしゃれ、入院の個室も新しくてきれいでおしゃれ、食事は豪華、それに無痛分娩に24時間対応している。24時間、というのが重要だ。なかには無痛分娩対応と謳っておきながら、夜間に産気づくなどした際には麻酔科医が帰宅しているため事前に申請しておいたにもかかわらず無痛分娩の処置をしてもらえない、という事態が起こりうるという。おそろしい。
 待合室の床はぴかぴか光る大理石か大理石を模した床材で、私はそこを茶色いスリッパで進む。いつもなら白いソファの並ぶ待合室に他の妊産婦あるいは婦人科の患者と肩を並べて座ることになるが、今日は受付ですぐに二階に上がるよう指示される。
「検査ですね」受付の若い女性がやさしげに言う。なぜか羊水検査とは言わない。「検査の方はお二階です。そちらのエレベーターからどうぞ」
 二階の床もぴかぴかしているが、一階とちがって静まりかえっている。白い廊下の向こうから看護師が姿を見せ、私を呼んで手招きする。
 私は小さな病室で横たえられ、張り止めの点滴を打たれる。
「1時間ほどかかります。それから、この点滴、ちょっと心臓がどきどきするかもしれません」看護師が去っていく。
 しばらくすると、看護師の言ったとおりになる。だが、ちょっとどころではない。ものすごく心臓がどきどきする。胸を破ってぽーんぽーんと弾んでいるところが見えないのがおかしいくらいだ。同時に、私は下腹部で何かがごりごりと動くのを感じる。胎動だ。1週間ほど前から、私はすでにはっきりと胎動を感じている。子どもはすでにちゃんとした人の形をしているのを私は知っている。そんなことはちょっと本を読んだらすぐにわかる。この子どもにはもう指紋がある。爪ができはじめている。産毛や髪の毛が生えはじめている。今からこの子どもを生かすか殺すか私が決めるための検査をする。私はものすごくどきどきしているが、それは子どもの生き死にを決めるからではなくてただ薬剤のせいだ。
 看護師がやってきて点滴の針が抜かれ、私はほっとする。心臓はたちまちおとなしくなる。私は立って処置室へ行き、分娩台に寝転ぶ。医師がやってくる。角度が悪くて、彼女の耳のピアスの穴が見えない。
「調子はどうですか?」私の露出させたお腹をエコーで見ながら医師がにこやかに声をかける。「うーん、このあたりに刺せばいいかな? すぐに終わりますからね」
 私は寝転がっているが、看護師が私の頭のすぐそばに置いたトレイに、やたらと長い針が置かれているのが少し見える。医師がそれを手に取る。注射器だということがやっとわかる。考えてみれば注射器であって当然だ。針だけ単体で刺したってどうしようもないではないか。
「はい、じゃあ刺しますねー」しごく楽しそうに医師が言う。下腹に味わったことのない衝撃があって、しかしたしかにそれは痛くはない。ただ、内臓になにかが侵入しているのがわかる。「おっ、すごくいい位置に刺さりましたよ!」医師はうれしそうだ。「はい、おしまい」
 医師はまたエコーでお腹の様子を確認する。「うん、問題ないですね。お腹、いつもより張ってる感じとかします? ない? うん、じゃあだいじょうぶ」
 分娩台が動き、背もたれが上がる。医師は私に背を向けている。看護師が私のお腹にタオルを置く。
「すごくうまくいきましたよ」医師は振り向いて小さな瓶を私に見せる。かすかに黄ばんだ液体が入っている。「これが羊水」私はそれに見惚れて、医師のピアスの穴を見るのを忘れる。
 私はまたもとの小さな病室に連れて行かれ、ベッドに横たえられる。お腹にぺたぺたとコードのついたシールを貼られ、子宮内の状態に異変がないかモニターされる。ただし今回は、ベッドに角度がついていて私は身を起こした状態でいられる。ベッドには机が渡してあって、小さなバームクーヘンの載った皿と熱いハーブティーのカップアンドソーサーが置いてある。下腹部で子どもがうごめく。子どもは針の侵入に気づいただろうか。私はそっとセーターと下着をまくって自分のお腹を見る。硬くなだらかに膨らむお腹の右の下のほうに、小さな真四角のテープが貼られている。そこには血も滲んでいない。針が刺さったのに、しかも内臓に到達するほど深く刺さったのに、どうしてこんなものですむのか私にはわからない。どこの部位でもそうなのだろうか。まさか。私はあの針を腕に突き立てることを想像してみる。きっとごく当たり前に痛いだろう。血も出るに決まってる。でも私じゃなくてあの、羊水検査がとても得意だと言うあの医師の技術を持ってすれば、腕に突き立てたって痛くもなければ血も出ないのだろうか。
 1時間ほど放っておかれたあと、もう一度丹念なエコー検査を受け、受付で15万円をカードで支払うと私は解放される。院内のトイレでお腹に貼られたテープを剥がして、傷跡を見る。それは毛穴がちょっと広がったくらいの小さな穴だ。
 まだ昼過ぎだった。私はどこかでお昼ご飯を食べようと思った。インスタグラムで自慢できるようなランチがいい。でもその前に、どうしても試してみたいことがある。ICカードは使わず切符を買い、電車に乗って隣県に行った。そう大したことじゃない。隣県といっても、1時間も乗っている必要はない。降りたことのない、大きすぎず何もないというわけでもなさそうな駅で私は降りる。ちょうどいいことに、小ぢんまりした駅ビルの中に100均がある。すみずみまで照明の灯りが染み渡るような、明るくて大きな店舗だ。私はそこをじっくりと見ながら歩き、化粧用品のコーナーでやっと注射器を見つける。5、6センチはありそうな針のついたそれはどう見ても注射器なのだけれど、パッケージには「化粧品用スポイド」とある。こんなもの、いったい何に使うのだろう? 私はそれを一つとハンカチを一枚買う。店を出ながらパッケージを開け、針を注射器本体にセットする。螺子(ねじ)みたいにくるくる回せば針が固定されるのだ。私はそれを握った手をさりげなくトートバッグに隠す。
 長い階段を降り、駅の建物を出ると、そこはロータリーだ。私はつめたい外気に向かって体内で熱くなった息を吐く。マフラーの内側に湿気がこもる。ロータリーにはタクシーの姿もバスの姿もなくて、おまけに人も一人しかいない。制服の上にダッフルコートを着たとても体格のいい男の子が、バス停のベンチにずり落ちそうな恰好で腰掛けてスマートフォンに見入っている。ハの字に投げ出された重そうな脚。がくんとうなだれた首は、私のために差し出されているようにそこだけがつめたい空気に触れている。そのうしろを通り過ぎるとき、私はさっと注射器を握った手を出し、針を耳のすぐ下に叩き込む。針の強度が心配で、できるだけ負担がかからないよう針をまっすぐに突き通すことをこころがけて刺す。男の子は何も言わないので、「どう? 痛い?」と私は訊ねる。それでも男の子は何も言わず、かすかに震え出している。「すごくいい位置に刺さりましたよ!」私はちょっと私の担当医の真似をしてみる。針を抜くとき、コートの袖に血がかからないよう、もう片方の手でずり上げる。私はそのままロータリーをぐるりと回りつつ、針と注射器を片手の指先だけで分解してハンカチに包む。針にも注射器にも少ししか血がついていない。歩きながら男の子の方をちらりと見る。男の子は首を押さえながら前のめりになって、目を見開いて私を見ている。くるんとして子どもみたいな目と、ごつい鼻とそれと取り合わせるには小さく分厚い唇が生々しくて、なんだか中年男みたいな顔の下半分。首を押さえた手からインクみたいな血がとぷとぷと溢れ、彼の黒のダッフルコートをぐずぐずに濡らしていく。顔には血飛沫はほんの少し、それこそ針で突いたようなのが三つ四つ散っているだけで、顔の色がみるみる薄い灰色になっていってそれはこの冬の空みたいだ。私がロータリーを回り切るころ、男の子はベンチから地面に倒れ込む。私はさきほど下った階段を上り、切符を買って改札を通る。さっきの男の子と同じ制服なのかどうかはわからないけれど、コートを羽織った制服姿の女の子や男の子たちが何人かホームでふざけあっている。私はやってきた電車に乗って自分の住んでいる街に戻る。
 私はスターバックスに入って豆乳のラテとスコーンを注文する。窓際の席で、自然光を取り入れながらそれらの写真を撮る。スコーンだけではちょっと足りなくて、サラダラップも注文して食べる。ラテを飲み終わると、カップに注射器と針を包んだハンカチを押し込んで蓋をする。分別せずに私はそれを「紙類・食べ残し」のゴミ箱に押し込む。
 私は新しくあたたかいデカフェを注文し、スターバックスでのんびりした時間を過ごす。スマートフォンで、鯉川さんのSNSを探す。見つけ出すのは簡単だ。蟻谷さんのインスタグラムのフォローのリストから鯉川さんらしき人をピックアップして投稿内容を洗っていけばいい。私は一人がけのソファにゆったりと身をあずけ、辛抱強く蟻谷さんがフォローする人たちを指先で辿っていく。

次回へ続く

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プロフィール
藤野可織(ふじの・かおり)

1980年生まれ、京都府出身。2006年「いやしい鳥」で文學界新人賞を受賞しデビュー。13年「爪と目」で芥川龍之介賞、14年『おはなしして子ちゃん』でフラウ文芸大賞を受賞。精緻な描写表現により、単なるホラーとは違う、異質な「怖さ」が漂う作品を生み出している。著書に『ファイナルガール』『ドレス』『私は幽霊を見ない』『ピエタとトランジ <完全版>』『来世の記憶』など多数。
*藤野可織さんのTwitterはこちら

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