健全な女性が健全ではない欲求を果たす――日常に潜む狂気を描いたサイコサスペンス連載小説「ここからは出られません」藤野可織
至高の狂気を描き出す作家、藤野可織の集大成がここに誕生!
私立大学の職員である鳩里は、ごくありふれた生活を送っている。決まった時間に出勤し、決まった時間に帰宅。ランチタイムには、身に着けたブランド品を同僚と自慢しあうなど、その生活は普通そのものだ。そんな「普通」な彼女が抱える秘密とは―――。
「ここからは出られません」というサインが輝いているのを見ている。これが私の毎朝の習慣。そのサインは、職場の最寄駅である地下鉄のホームの北の端にある。北の端とかんたんに言ってしまうとかんたんに見られそうな気がするけど、ホームは長い。エスカレーターやエレベーターや階段のために通路が狭くなった床の大きなタイル、肩に触れるくらいに迫ってくる壁の小さなタイルをいくつもいくつも越えたところ、改札の階へ上がることのできる最後の階段を通り過ぎてやっと通路が広くなって、でもその階段があるために天井が斜めになっているちょっとした空間の先の、今度こそ最後の階段の真上にそのサインはある。この階段は、このホームに降りてくるためだけのものだ。上がったところにあるのは、入場専用の改札機が二台だけ。あの改札は使ったことがない。地上にいくつも口を開けているどこの入り口から入ればあの改札にたどりつくのかも知らない。ましてや、ここから出ようとしているときにこの階段に用があるはずもない。
でも、私はこのサインを見なくてはいけない。横組みの一文を一行におさめた横長のアクリル板を内側から照らしているサイン。黒い背景の中に、白い文字が清々しく心のない輝きを放っている。いっしょに地下鉄を降りた知らない人たちと前後して同じ方向に向かって歩き、その人たちが改札に至る階段、エレベーター、エスカレーターで一人また一人と消えたあとも、たった一人残った私はハイヒールで歩き続ける。このサインを見上げるために。そのために、私は毎朝、一本早い電車に乗っているくらいだ。
「ここからは出られません」
見るたび、知ってる、と思う。ここから出られないことを私は知っている。でもそのことは、たいして私を絶望させない。むしろエンパワメントしてくれる。私はここからは出られない。それでいい。私はあらためて腹が据わるような、覚悟が決まったような気持ちになる。見るたび何度でも何度でも、変わらない強度で。
数秒見て、背を向ける。戻って、いつもの階段を使う。エスカレーターはなるべく使わない。背筋を伸ばし、腿を引き上げ、階段の段に爪先だけではなくヒールのかかとまでしっかり載るようにして上る。日常生活の中でこまめに筋力トレーニングをする。ささやかな筋肉が適切な負荷のもと伸び縮みしているのを感じる。
階段を男子高校生たちが降りてくる。揃って白いシャツに白くてかてかした四角く巨大なバッグを斜めがけしている。五人いる。笑いを浮かべ、何ごとか話している。私は目を奪われる。彼らのしっかりとした、しかし輪郭にまだかすかに子どもの頼りなさがしぶとくしがみついているのど。顔はどの子もさほどあどけなくはなく、背も私より高い。笑いのかたちに歪んでいるかさついた唇。歯が見えている。一人、上の前歯のさきっぽががたがたになっているのが目に残る。長袖のシャツからのぞく手首の骨、私は合計十あるそれらをひとつひとつ触ってみたいけど、そんなことはとうていかなわない。長袖で隠されている彼らの腕を自分のものと並べて比べてみたい。私より上背のある男子高校生でも、私より細い腕をしているということもじゅうぶんに考えられる。ただし、私より腕が細いからといって私より筋力がないということではない。
彼らは階段の真ん中を堂々と、まるで彼らしかこの世にいないみたいに占領して降りてくる。私は避けなければならない。端に寄り、肩を斜めにし、彼らをやり過ごす。彼らの一人が仲間に向かって「お前、邪魔だろ」と呼びかけるがその声は笑っていて、私の肩にもう少しでぶつかるところだった一人は私を完全に通り過ぎてから「あっすんません」と緊張感のない声で言って、振り返りもせずに、仲間の中心に向かって身を投げるみたいに大げさに身をよじる。すれちがう瞬間に私のペリーコのネイビーのパンプスのすぐ隣を踏み締めた肉厚のスニーカーの大きさを、私は心に留める。階段を上りながら、そっと振り返る。ばたばたと遠ざかっていく十足のスニーカー、その中にある足、くるぶしに突き出ているであろう骨、歩くたびに足の皮膚を持ち上げて浮き上がる傘状の骨とその先につながるわずかにかさついた指、垢のたまった爪のことを考える。彼らは私より速く走るだろう。階段の一番上で私はとうとう立ち止まり、ホームへ達して見えなくなっていく彼らを見送る。「お前、邪魔だろ」「あっすんません」と言ったあの声、声帯のじょうぶさと声を反響させるのどのたしかさを思わせる大きな声だった。白いシャツが押し込まれている五つの腰が遠ざかり、腰から下をつつむ紺色のズボンが遠ざかり、十のスニーカーが一つ二つと消えて、全部消える。彼らが私の相手でもよかったかもしれない。もし五人じゃなくてどれか、どれでもいいから一人だったなら。彼らは若いが、若すぎることが私にとって問題になるほど若くもない。
私は前を向く。さあ、仕事だ。
私の仕事は私立大学の職員だ。街中の敷地は広大で、キャンパスは公道をいくつか挟んで広がり、門や塀はあるところにはあるけれど、ないところにはなくて、構内では毎朝、近所のおじいさんが犬を散歩させているのを見かける。犬は柴犬だ。おじいさんは痩せていて、やや背が曲がっている。こういう老人でも男の人は案外腕力があったりするけれど、この人はどうだろうかといつも思う。腕力については、私は、業務上ではちょっと自信がある。学生のレポート用紙でいっぱいの段ボール箱を持ち上げることができるし、それを持ってこのペリーコの6.5㎝のヒールで歩くこともできるけれど、この人はできるだろうか。
「おはようございます」私はきびきびと挨拶する。
「やあ、おはようございます」おじいさんが答える。柴犬が私とおじいさんのあいだで、口で息をしている。
朝の学内にはまだ学生の姿は少ない。いるのはこの敷地のどこか、研究室か実験室、クラブ棟なんかのどこかに泊まり込んだ学生くらいだ。私は薄い体をした男子大学生に背後から近づく。彼は毛羽立った白いTシャツを着て、生地の薄そうなジーンズを穿いている。彼はじゅうぶんに細長いのにジーンズはそれでも彼の脚には長すぎるらしく、コンバースが裾を踏み破って白いゴムのかかとが見えている。尻の右ポケットも端っこが擦り切れて穴が開いていて、そこに家の鍵をずっと入れていたのだけれどもう落としてしまうから二度と入れておくことができないのだということがわかる。また、鍵を右ポケットに入れていたのなら右利きだろうということもわかる。左ポケットは無事で、財布が入っている。財布の真四角の形に、ジーンズの生地が白く薄くなって出っ張っている。そこに鍵がいっしょに押し込まれている様子はない。では鍵はどこに入れているのだろう? 彼は手ぶらだ。どこかに置いているかばんの中にあるのだろうか。それとも前のポケットだろうか。すぐに出せる状態だろうか。あの尻の右ポケットの破れ方から見て、彼は鍵をしゃれたキーケースなどに入れてはいない。何かキーホルダーはつけているだろうが、むき出しのまま持ち歩いているはずだ。きっと右の前ポケットだ。私は追い抜きざまにちらりと目を下にやって彼の前の右ポケットを確認する。ある。キーホルダーのふくらみが見える。彼は猫背であくびなんかしている。彼は私より頭ひとつ分背が高い。髪の毛はヘルメットみたいに伸びて目にかぶさっているけれど、もしかしたらあれはおしゃれでやっているのかもしれない。このところ、前髪が目を半分覆い隠さんばかりの髪型の男の子が多いから。鬱陶しくないのかとは思うけれど、そうやって目元を隠すと顔の造作の間の抜けたところがなんとなくごまかされてかわいく見えることも認めざるをえなくて、私はこの不潔なジーンズの男子学生もきっと正面から見たらかわいいのだろうと思う。彼は異様に痩せている。もしかしたら50キロ台かもしれない。それでも大学生の男子だから、いくら私が学生の提出レポート受け取りの段ボール箱を持ち運べるからといっても、私より腕力が弱いということはないだろう。それに鍵もある。
でも、私は学内の子は相手にしないことにしている。
昼休みになると、私たち職員はいっせいに休憩を取る。私の部署は文学部事務室で、独立した建物の一階にある。上の階には、文学部の各専攻の教員の部屋と、各階ごとに学生も自由に出入りできる資料室と談話室がある。
私たちがいっせいに休憩を取ることについては、たびたび学生から苦情が寄せられているが、これは我が校の決まりなので如何ともしがたい。それに、私たち職員の昼休みは学生の昼休みより30分早くはじまり、30分早く終わる。すなわち学生たちは彼らの昼休みの前半には事務室を利用できないが、後半には利用できるのだから、それでよしとしてもらいたいところである。昼休みになるやいなや、私たちは事務室のドアに鍵をかけ、ガラス戸の内側から人間の皮膚の色みたいなカーテンを引く。そしてそれぞれの席でお昼ご飯を食べる。購買に何か買いに行きたい者、外で食べたい者は裏口から自由に出入りする。
「あれー鳩里(はとさと)さん今日、ローストビーフ丼弁当の日ですよ!?」私が給湯室の冷蔵庫からコンビニのレジ袋を出してきたのを見て、犬山(いぬやま)さんが目を丸くする。中身はサンドイッチとヨーグルトと野菜ジュース。サンドイッチは一つはよくあるハム卵だけど、もう一つはいつも手に入るとは限らないいちごと生クリームのフルーツサンドだ。
「あーそうだっけ」おぼえていたけど、忘れてたふうをよそおって私は席につく。机に常備している除菌ティッシュできれいに手指をぬぐう。
「先月のローストビーフ丼弁当の日、私が食べてたらめっちゃうらやましがってたじゃないですか、いいんですか?」
「いいよいいよ、もうサンドイッチ買っちゃってるし。それより犬山さん、走って行かないとローストビーフ丼弁当、売り切れちゃうんじゃない? 二限目さぼって並ぶ不届きな学生もいるんでしょ?」
それを聞いて犬山さんは裏口から飛び出して行ってしまう。それを追いかけて、蟬本(せみもと)さんと蟻谷(ありたに)さんも財布だけを持って出ていく。あとの者はそれをなんとなく見送って、裏口のドアがばたんと閉まってしまってからそれぞれのことを再開する。ローストビーフ丼弁当は出入りの弁当の業者が先月からはじめた限定弁当で、値段のわりにかなり豪華だった。いいなあと思う。私も本当なら食べたかった。
しばらくして、私がサンドイッチもヨーグルトも全部食べてしまい、野菜ジュースを飲んでいるとき、今年入ってきた貝沼(かいぬま)さんがまだ口紅を買ったことがないという話が聞こえてくる。
「グロスはありますよ、ドラッグストアで買ったやつ。でもちゃんとしたのって持ってなくて……なんかおすすめあります?」
「グロスといえば昔、アニエスベーのが流行ったなあ」だらしなく体をかたむけて頬杖をつき、野菜ジュースを吸っている体勢のままで私が加わる。文学部事務室は女性が五人、男性が一人で、女性ばかりが自分の席に座ったままなんとなく話したり話に急に加わったり抜けたりする。たった一人の男性の松原(まつばら)さんは50代で、ワイシャツの腕に妻手作りのアームカバーをしていて、静かな人だ。昼休みはたいてい時代小説を読んでいる。
「えー昔っていつですか?」貝沼さんが無邪気に尋ねる。
「昔というと昔よ、私が大学生のときくらい」私は33歳で、五人の中でいちばん年上だ。「アニエスベーのね、透明のやつ。あれ塗ると唇がこってり系のラーメン食べたあとみたいにぎらぎらしておかしかったなあ。でもみんな持ってたんだよ。でね、ケースも透明だし、グロスの液も透明だから、使ってるうちに唇についてたゴミとか汚れが混入して、なんか黄ばんできて見るからに不潔な感じになるの」
「今は何使ってるんですか?」
「えーとね」私は床に置いているジル・サンダーのショルダーバッグからセレクトショップのフェアで見つけたこぎん刺しのポーチを取り出す。「じゃーん、トム・フォード様です」
私が親指と人差し指でつまんで掲げた四角い口紅に、みんなが「おおー」とそれなりの実感のこもった感嘆の声を上げる。
「でもトム・フォード様の口紅、やっぱでかいっすよね」犬山さんがうなずいている。
「まあね、すごく四角だしね。かさばるよ」
「私ミニマリストだからポーチも小さいんですよ」
「犬山さんの何よ」
「口紅といったらこれ、シャネルじゃないすか?」犬山さんが掲げるシャネルの口紅のパッケージは、トム・フォードに比べると角が丸くて小さくやさしげだ。「貝沼さん、やっぱはじめはシャネルでどう?」
「私はねこちゃんです」蟻谷さんが掲げて見せたのはまちがいなくポール&ジョーだ。何かの花の模様が浮き彫りになっている白と、スカートのプリーツみたいな筋の入っているブルーグレーのツートンの、ぷっくりとしたケース。
「おーじゃあ中身も……」犬山さんがわくわくした声で言う。ポール&ジョーのリップは中身も猫の頭部を象っていてかわいいけど、私は買ったことがない。
「……ハイ、かつてはねこちゃんでした」蟻谷さんが蓋を取ると、後頭部を失い、右耳を失い、右目がどろりと溶け出したみたいになっている猫の姿があらわれる。
「ああ……」とため息が漏れる。そうなるに決まってるから私は買わないのだ。
「私はこれ」蟬本さんがぴーんと右手を上げて、銀色の横縞の入った口紅をみんなに見せつけた。「クリニーク。『ローグ・ネイション』のイルサが持ってたのを見て以来、ずっとこれです」
「ああ『ミッション・インポッシブル』ね」私もその映画は見た。イルサは敵のスパイと見せかけて味方だったスパイで、女性だけど主役のトム・クルーズと互角の腕前を持つ凄腕の人物だ。映画のクライマックスでいちばんガタイが良くて強そうな敵と格闘して殺すのもイルサだった。イルサくらい強くなりたいと思う一方で、もし自分がイルサだと大変だろうなとも思う。だってイルサほどの女性には、そう簡単には相手が見つからない。
「でもさーイルサ、あのときドレスだったですよね? そこにクリニークってのはちょっとちがう気がしません? そこはシャネルじゃない?」犬山さんがアイフォンをいじりながら言う。
「そんなこと言うなら、そこはトム・フォード様でしょ」私は伸びをする。
「いいんですよあれは本当は中身はUSBメモリだったんだから」蟬本さんが擁護するが、私にはだったらなぜいいのかよくわからない。「だから、普段用の口紅じゃないとだめなんですよ、普段から持ち歩いてるんだから。だから敢えてのクリニーク」
「そうなの?」私は犬山さんに声をかける。「そうなの? 犬山さん」
「はっ? え?」犬山さんが素っ頓狂な声を上げる。
「え? 今、なんでイルサがクリニークなのか調べてんじゃないの?」
「ちがいますよ!」犬山さんは笑い出す。「インスタにアップするローストビーフ丼弁当の写真をオシャレ加工してたんすよ。私、彩度ちょっと下げてホワイトバランスいじって青めにするのが好きなんですよね、そしたらめっちゃ不味そうになっちゃって」
「そこは信条を曲げて彩度上げましょうよ。青くするのもなし。むしろ黄色味のほうに寄せれば?」蟻谷さんがわざわざ席を立って覗き込みに行く。
私たちの前にはそれぞれデスクトップパソコンがあり、さらにそれぞれがアイフォンを持っているが、誰もなぜイルサがクリニークなのかは調べない。貝沼さんがはじめに買う口紅のブランドも決まらない。
カウンターの向こうにあるカーテンで隠されたガラス戸のあちら側で、各種手続きや提出物を出そうと学生たちがじりじりと待っている気配がしている。
事務室は決まりどおり17時ぴったりに閉める。それからいろいろな雑務を終えて、18時半には帰路につく。その時間の大学には教員も学生もまだまだたくさんいる。薄暗くなっているキャンパスを、私は移動する彼らの波とともに移動する。私は女の子たちのやわらかいスカートを、むっちりとした生足を見る。ハイウエストのパンツをモデルみたいに穿きこなしている子もいる。攻撃的な真っ赤な口紅を塗っている子もいれば、何も塗っていない子もいる。私は女の子でも別にかまわない。ふさわしい子がいさえすれば。なかなかそのへんの見極めがつかないのだ。だから結局、相手は男の人ばっかりになってしまう。
私はだいたい日本人の成人女性の平均とほぼ同じくらいの身長で、太ってもいないし目立つほど痩せてもいない。運動は苦手じゃないけど得意というほどでもない。大学ではテニスサークルに入っていた。テニスはあんまり上手くなかった。長距離走はきらいだった。走っているあいだ、退屈だから。それだったらさっさと終わる短距離走のほうがましだった。就職してすぐの頃は、週に一回はジムに行って泳ぐようこころがけていたが、生理中には中断せざるを得ず、コストパフォーマンスのあまりの悪さにすぐ辞めてしまった。今は家の近所を真面目にウォーキングしている。体力は、たぶんふつうにはあると思う。腕力は、レポートでいっぱいの段ボール箱を持ち上げられるくらいはあるけれど、でも他の職員の女の子もみんななんだかんだ言って持ち上げるから、別に大したことないのかもしれない。表情ひとつ変えず、掛け声もなしで持ち上げるから、みんな「鳩里さんさっすが」なんて言うけど、みんなもやろうと思えばそのくらいできるのかもしれない。
腕力はあればあるほどいいような気がするけれども、実際は決してそうではないから考えものだ。もしイルサみたいに誰よりも強いかっこいい女になれたら、どんなにいいだろうとは思うけど。
でも世界はそんなに単純じゃない。
私は帰るときには「ここからは出られません」のサインを見に行かない。たくさんの人に混じって駅の入り口、地下への開口部に足を踏み入れ、たくさんの人に抜かされ抜かしながら階段を降り、タイルの床を歩き、改札を通り、また階段を降りてたくさんの人といっしょにじっと地下鉄を待つ。
今日は火曜日で、夫が夕食を担当する日だ。きっと惣菜を買ってくるだろう。夫の買う惣菜は、なぜかだいたい唐揚げと餃子だ。野菜は私が休みの日に大量に切って冷凍しておいたのがあるから、そのなかからいくつかを電子レンジでチンして……。私は本来降りるべき駅の一駅先で降りる。その駅からすぐのところに、大きなドラッグストアがあるからだ。自宅の近くにもあることはあるけれど、最寄駅と自宅のあいだにはないし、一駅先のドラッグストアで買い物をしてまた地下鉄に乗って帰るほうが、歩く距離が短くてすむ。私は自分がいつもより疲れているような気がしている。
ドラッグストアの突き刺さるような白い照明。この白さは「ここからは出られません」の文字の白さに似ている。私は特価品の洗濯洗剤やヘアスプレーや歯磨き粉や台所用洗剤やトイレの洗剤、生理用ナプキン、マニキュアや口紅やアイシャドウを越えてずんずん歩く。やがて、おむつがあらわれる。ひとかかえもある大きなパッケージいっぱいに、目を見開いてにっこり笑う赤ん坊の写真が印刷されている。サイドから斜めに流した前髪、振り向きざまの完璧な笑い顔。私はそれをじっと見る。これは実物大くらいの大きさなのか? この印刷された赤ん坊は。それとももっと小さい? 大きい? 私には子どもがいないからわからない。私の買いたいものは見つからない。
さんざん探し回って私は妊娠検査薬を生理用ナプキンの棚の片隅に見つけ、隣の百均で金槌を買う。私はやっぱり、駅に戻って地下鉄には乗らず、家まで歩くことにする。すっかり暗くなった住宅街で、私は背広の男を見つける。他に人はいない。パンプスの中で、足の小指の爪の外側が痛いがいつものことだ。私は足早に彼に近づく。髪に白髪が混じっている。いくつだろう? しかし私より背が高く、少し太っている。この人はまちがいないはずだ。私は「あの」と声をかける。私たちが立っているところにある家の、防犯のセンサーライトがぱっと点く。
振り返ったその人が何か言う前に、ジル・サンダーから買ったばかりの金槌を静かに取り出し、こめかみを打つ。その瞬間、あっと思う。この人、今、ちょっと顔色悪くなかった? どうしよう、何かの病気だろうか? 風邪くらいならいいけど、まさか大病だろうか? でももうしかたがない、私は続きをし、終わらせる。
私はジル・サンダーの中を汚したくないので、金槌をレジ袋に慎重に入れる。
沈んだ気持ちで歩く。大病だったのならルール違反だ。私はときどき殺しをするけれど、自分より弱いものは決して手にかけないと決めているのだ。暗い道をいくらも歩いて、はっとする。さっきから、誰ともすれちがわない。左右から迫ってくる家々に灯りはまばらで、私のまわりは真っ暗なのに、まっすぐに続く道路の奥には暮れる日の最後の燃焼がある。それはオレンジ色で、透明で、しかしみるみる濁って赤紫になる。真上から世界を抱きしめるみたいに広がる暗闇が、燃焼をじんわりと押し潰していく。私はジル・サンダーからイルビゾンテのキーケースを取り出す。片手でスナップボタンを外し、鍵を直接こぶしに握り込む。よく知らない、ひとけのない夜道では、こうすることに決めている。もう中学生のときからの習慣だ。変質者から身を守るための知恵だ。私は幸運にもまだ変質者に襲われたことはないけれど、こうやって汗ばむ手で痛いくらいに鍵を握りしめるだけで少しだけ心が落ち着く。さっきの男の人、もし仮に大病であっても、死にかけているというわけじゃなかった、と私は思う。体格もしっかりしていたし、筋力だってあったはずだ。だんだん気持ちが上向いてくる。それに、中年男性って別にどうってことなくても顔色が悪い人、多くない? あの人もきっとそうだったんだ。
案外早く、見慣れた地区に入る。たった一駅だもんね、そう遠いはずがない。まったく、こんな大人になっても、いつも通らない道を暗い中で歩くと、子どものときみたいに不安になる。いつものコンビニの灯り、いつもの小さな居酒屋の灯り、いつもの車道を走る見も知らない車の排気ガスのにおいまでもが私をやさしく刺激して、胸に切ないくらいの親しみが込み上げる。
マンションにたどりつき、私はますますほっとする。集合ポストを見て、夫はまだ帰っていないことを知る。まだスーパーにいるのだろう。私はポストから出した化粧品メーカーや服飾ブランドのDMを見ながらエレベーターで13階まで上がる。
プロフィール
藤野可織(ふじの・かおり)
1980年生まれ、京都府出身。2006年「いやしい鳥」で文學界新人賞を受賞しデビュー。13年「爪と目」で芥川龍之介賞、14年『おはなしして子ちゃん』でフラウ文芸大賞を受賞。精緻な描写表現により、単なるホラーとは違う、異質な「怖さ」が漂う作品を生み出している。著書に『ファイナルガール』『ドレス』『私は幽霊を見ない』『ピエタとトランジ <完全版>』『来世の記憶』など多数。
*藤野可織さんのTwitterはこちら