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日比谷で働く書店員のリアルな日常、日比谷の情景、そして、本の話――エッセイ「日比谷で本を売っている。」第12回 〔猫とうなぎ〕新井見枝香

※第1回から読む方はこちらです。

 うさぎを追って穴に飛び込んだアリスは、元の世界に戻れないと、ハートの女王に泣きついたのだが、猫を追って路地裏に迷い込んだ私は、お家に帰れないと、Googleマップに頼ってしまった。情けない。
 それにしても、不思議な猫だった。動物に好かれない私は、犬ならまだしも、猫には全く相手にされないどころか、脱兎のごとく、逃げられる。野良猫は警戒心が強かろうと、知人の飼い猫にチュールを持って近付けば、猫パンチで叩き落とされる始末。血が滲んだ腕には、飛び散ったチュールが残っていた。悲しい。猫に片想いる私は、バッグに最高級まぐろ味のチュールを常にしのばせているが、差し出す距離まで行けないのが現状だった。言葉が通じれば、嫌なことはしない、と言えるのに。
 ところがスーパーの帰りに見かけた、その首輪をしていない三毛猫は、一歩近付いた私に「にゃ」と言った。鳴いた、とはとても形容ができない、言葉であった。猫と暮らしたことがないので、よく分からないが〈止まれ〉と言われたような気がして、言う通りにした。醤油や砂糖を買い込んだマイバッグが肩に食い込む。しばらくすると、また「にゃ」と言って、入ったことのない路地を進んでいった。〈好きにしろ〉だろうか。やがて猫が腰を下ろしたので、私も荷物を置いて、道路にしゃがみ込む。そろそろ勤め人の帰宅時間だが、ここは全く人が通らなかった。「にゃ」を〈よし〉と捉えて、チュールを差し出す。最高級まぐろ味は、なかなか悪くないようだった。野良猫にしては毛に艶があるが、これほど美しく聡明な猫なら、ごはんに困らないのかもしれない。ふと、猫の視線を追って振り返り、納得した。こんな寂しい住宅街にひっそりと佇む、うなぎ屋。そろそろ夜の営業が始まるのだろう。〈用は済んだ〉と言うので、引き下がることにした。さよなら、猫さん。また明日!
 ……しかし、ここはどこだ。見通しが悪い細路地を、一体どちらへ進めば家に近付けるのか、見当が付かない。残念ながら、これは不思議な国に迷い込んだわけではなく、ただの方向音痴だ。たった5分の距離を、iPhoneを握りしめて歩き、1年半も住んでいる我が家へと辿り着いた。

 うなぎ屋の前でじっと待つのは、猫だけではない。病気で食が細くなった父に頼まれ、ひとりの少女が、けむりを吸い込みながら、待っていた。戦後の貧しい頃で、たった一串のうなぎは、父のものである。喉が鳴るほど食べたいけれど、全て平らげて元気になって欲しい。その狭間で揺れる子供心は、大人になった彼女の「うなぎの味」になった。
 佐野洋子さんといえば、絵本『100万回生きたねこ』の作者だが、長く愛される作品は、他にもたくさんある。先のうなぎのエピソードに出会ったのは『佐野洋子の「なに食ってんだ」』に抜き出されたエッセイだった。洋子さんが綴った文章から「口に入れたもの」だけを抽出し、あいうえお順に並べたという、ちょっとヘンテコな食(?)事典なのである。三段の重箱に詰めたおせちを《猫に中身を食われては大変》と十文字にひもをかけた話なんて、正月が来る度に思い出すだろう。私は、猫と暮らせないアパートにひとりきりで暮らしている。それなのに、元旦の惨状にショックを受けウォーウォーと泣く洋子さんが目に浮かび、柱の陰からそっと覗く猫を思って、噴き出すのだ。

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プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)

書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。
*新井見枝香さんのTwitterはこちら
*HMV & BOOKS HIBIYA COTTAGEのHPはこちら

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