新型コロナウイルス感染症の拡大を防ぐことは可能だったのか?――鳴らされていた警鐘(『パンデミックの世紀』抜粋掲載)
2019年末に発生するや、瞬く間に世界に拡大した新型コロナウイルス感染症。新たな変異株の登場などもあり、現在も予断を許さない状況が続いています。
医学史家のマーク・ホニグスバウムは『パンデミックの世紀――感染症はいかに「人類の脅威」になったのか』のなかで、未知の病原体によって起こる「次なるパンデミック」のリスクは、以前からさまざまなところで指摘されていたと述べています。それにもかかわらず、なぜ新型コロナウイルスの感染拡大は止められなかったのでしょうか。『パンデミックの世紀』第10章より抜粋掲載します。
※プロローグからの抜粋記事はこちらです。
「スペイン風邪」からちょうど100年
なぜ、こんなことになったのだろう。何度もアウトブレイクとパンデミックに見舞われた一世紀を経てきたというのに、私たちはCOVID―19出現の警告に耳を貸さず、きちんと対処すれば防げたはずのアウトブレイクを防げなかった。いったい、どうしてなのか。しかも、コロナウイルスが未知の宿主動物から出現し、世界中を恐怖に陥れたのは今回がはじめてではないのだ。
2002年11月、SARSが中国南部の広東省で出現したとき、今回ときわめてよく似たことが起きた。そこからウイルスはバスで香港に入り、そこからは民間の飛行機でベトナム、シンガポール、タイ、カナダへ広がった。2003年7月にWHOがSARSの収束を宣言するまでに、世界中で総計8000名を超える患者と774名の死者が出ていた。
だが、COVID―19のパンデミックが始まって3か月で、すでにその二倍の患者が出ている。専門家たちは、第二波が2020年秋に起きて21年の冬まで続くと予測している〔本章執筆の2020年3月時点の見解。実際には第二波と第三波が2020年夏と初冬に起きた〕。この悲劇がいつ収束するのかは見通せない。専門家の多くがCOVID―19を20世紀初の大パンデミック、つまり1918年から19年に起きたスペイン風邪に匹敵すると考えるのも不思議はない。今回のパンデミックがその大惨事のちょうど100年後に起きるなどとは、どんな歴史家も予想すらしなかっただろうし、どんな小説家でもあえて作品にしようとは思わなかっただろう。
予測できたはずのパンデミック
COVID―19のパンデミックが悲劇に思えるのは、ここまで本書で述べてきた過去の警告と違って、獣医学的生態学者がこのようなパンデミックがいずれ起きると予測していたからだ。ちなみに、獣医学的生態学者の仕事は、遠隔地における動物の生息地を監視して新興感染症の脅威をいち早く知ることにある。さらに、世界の保健上の安全保障を監視し、パンデミックに対する備えについて各国政府に助言を与える各種機関や研究所もまた、同様の警告を発してきていた。
この100年、私たちは幾度もパンデミックに見舞われた。オウム病のように比較的穏やかなパンデミックもあれば、エイズのようにきわめて深刻なパンデミックもあった。しかし、21世紀になって私たちがはじめて足下をすくわれるような思いをしたのはSARSのアウトブレイクだった。SARSは広東省の動物市場で売られていたハクビシンを感染源とし、珍しいタンパク源の摂取、過密状態の都市、ジェット機の国際便の就航、グローバルな市場のつながりが現代社会にとってリスクとなることを世界に知らしめた。
それらのリスクが、2009年の豚インフルエンザ由来の新型インフルエンザのパンデミックや、2014年のエボラ出血熱のアウトブレイクで見事なまでに現実になった。前者のパンデミックは当初恐れられていたほど深刻ではなかったが、それでも世界全体で12万名から20万名の死者を出した。後者のパンデミックは2014年、ギニアの南東部から始まった。CDC(アメリカ疾病予防管理センター)とWHO双方のウイルス性出血熱の専門家を驚かせたのは、出血性ウイルスの近隣諸国への広がりがきわめて速く、西アフリカで局地的であるとはいえ大規模な緊急事態につながるとともに、モンロビアやフリータウンといった都市のロックダウンにいたったことだった。エピデミックを制圧し、エボラのさらなる拡大を防ぐため、国境なき医師団(MSF)とオバマ政権の要請に応じて、国連はアメリカ、フランス、イギリスの混成部隊による平時で最大の人道的介入に着手した。おかげで大惨事あるいはパンデミックは免れたものの、大きな経済的代償をともなった。ギニア、シエラレオネ、リベリアの国内総生産(GDP)は28億ドルの減少となった。この額は国民一人あたり平均125ドルになる。
ジカ熱のアウトブレイクは2015年にブラジルで発生したが、そのとき世界の目はまだ西アフリカのエボラに注がれていた。このアウトブレイクによって、私たちは21世紀に入って四度目の不意打ちを食らったと言える。これまでのアウトブレイクとの違いは、ジカウイルスが新種の病原体ではなく、ウイルス学者なら数十年にわたって知っていた病原体だった点にある。このウイルスは1947年にウガンダの森林ですでに同定されていたのだ。だが、あまり顧みられることのない多くの熱帯病の例に漏れず、ジカウイルスが南アメリカのもっとも人口の多い都市群で脅威となり、あろうことかカリブ海諸国やアメリカ南部の州にまで広がると考えた科学者はいなかった。
米国医学研究所が1992年に新興感染症にかんする報告書を出してからというもの、生物学者をはじめとする専門家が、グローバル化と気候変動や動物性タンパクの需要増加が相まって、世界は未知あるいは既知を問わず感染症に対し過去と比べて本質的に脆弱になったと警告している。だが、世界がどれほど緊密につながっていて、パンデミックを引き起こしかねないウイルスのどれほど多くがコウモリを宿主にしているかをまざまざと見せつけたのはSARSだった。
2005年、科学者たちが中国でSARSコロナウイルスに酷似したウイルスをキクガシラコウモリから分離したことが突破口となった。ところが、このウイルスはヒト細胞に感染するために不可欠なタンパク質でできたスパイクを持っていなかった。事情が変わったのは2013年だった。この年、ニューヨークに拠点を持つ世界規模の非営利組織エコヘルス・アライアンスの科学者チームが、中国南部の昆明市にある鍾乳洞に入った。この鍾乳洞には、SARSコロナウイルスを保有するキクガシラコウモリに近縁のキクガシラコウモリ属の仲間の巣があった。身を守るために防護服を着た科学者たちは、このコウモリから血液を採取し、鍾乳洞の地面から糞の試料も採取した。血液を採取した117匹のほぼ四分の一がコロナウイルスを保有していた。これらのコロナウイルスには、SARSコロナウイルスとほぼ同一の(とりわけスパイクのタンパク質をコードするゲノム部位が同じ)二つの新たな株が含まれていた。エコヘルス・アライアンスのピーター・ダサック代表と、報告書の著者の一人は『サイエンス』誌でこう述べた。「このことは、現在、中国には直接ヒトに感染し、もう一度SARSのパンデミックを起こすことのできるウイルスを保有するコウモリがいることを示している」
コウモリと多種多様なウイルス
地球上に暮らすあらゆる哺乳動物の種数の五分の一を占めるコウモリは、コロナウイルスのみの自然宿主ではない。マールブルグウイルス、ニパウイルス、ヘンドラウイルスも保有することがあり、これらのウイルスがアフリカ、マレーシア、バングラデシュ、オーストラリアでヒトの病気やアウトブレイクを引き起こしている。コウモリは狂犬病ウイルスも保有し、エボラの自然宿主と考えられている。
コウモリがなぜこれほど多種多様なウイルスに耐えられるのかについては現在研究が進行中だ。一説によれば、飛行への適応と引き換えに(コウモリは翼を持つ唯一の哺乳動物である)、コウモリは免疫系の機能が低下するように進化したとされる。免疫機能の低下は飛行のストレスに対する適応かもしれないという。ストレスを受けるとコウモリの細胞が破壊され、DNA断片が細胞外に放出される。通常ならこれらの細胞断片は炎症を起こす原因となるが、免疫系が低下しているので炎症を起こさないのだ。この仮説によれば、コウモリは細胞の断片による炎症を起こさないのと同じ仕組みによって、異種のウイルスに感染したときに病気にならないという。
ロンドン大学の動物学および寄生虫学の博士号を持つダサックは、キャリアのほとんどを野生生物を巡る議論に捧げてきた。当初、彼はコウモリがヒトの健康に大きな脅威であるという考えには懐疑的だった。ところが、2017年にエコヘルス・アライアンスの生態学者ケヴィン・J・オリヴァルなどと、754種の哺乳動物と586種のウイルスのデータベースを作成し、どのウイルスがどの哺乳動物を宿主とし、これらの宿主にどのような影響を与えるかを解析した。
彼らの解析結果は『ネイチャー』誌に研究報告として掲載され、コウモリがその他すべての哺乳動物を足し合わせたよりかなり多い人獣共通感染症の病原体を保有することを示した。実際、オリヴァルとダサックは、個々の種のコウモリがそれぞれ平均17種の未知の人獣共通感染症の病原体を保有すると推測している。これに対して、齧歯類や霊長類では10種にとどまる。しかし、彼らが突き止めたのはこれがすべてではなかった。
『ネイチャー』誌にこの研究報告を発表したあと、ダサックと勇敢なウイルスハンターたちは、中国その他の東南アジア諸国の洞窟などコウモリの生息地を調査し続けた。これまでに、彼らは中国のコウモリだけで約500種類の未知のコロナウイルスを発見している。2018年、広東省の四か所の養豚場でアウトブレイクがあった。このアウトブレイクは、豚流行性下痢によるものと特定されたが、ダサックらは、このときの病原体が2007年に広東省と香港のキクガシラコウモリから分離されたコウモリ由来のコロナウイルスとほぼ同一の未知のコロナウイルスだったと報告した。興味深いことに、このアウトブレイクはSARSの初発症例の自宅からわずか100キロほどしか離れていない場所で起きていた。ダサックと同僚たちは、15年にわたって洞窟を探検して「ぬぐい液」をコウモリから採取し、中国だけでも500種類の未知のコロナウイルスを同定した。
さらに恐るべきことに、これらの新種のコロナウイルスの現在の発見速度から推測して、ダサックは1万3,000種類の未発見のコロナウイルスが存在すると考えている。ダサックと同僚たちは、1940年から2004年のあいだに起きた335件の新興感染症事件を同定し、その発生率のピークが1980年代にエイズのパンデミックが起きた時期と一致すると明らかにした。彼らの調査結果を見る限り、これらの事件の発生率は前世紀なかばから増加してきたことは疑う余地がない。
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コロナウイルスや、コウモリなど他の野生動物から突如として出現する他の未知の病原体によって次のパンデミックが起きる、と注意を喚起するのはダサックのみではない。2015年のTEDトークで、ビル・ゲイツはこう述べている。「今後数十年で1000万人以上を死亡させる疾患があるとすれば、その病原体はきわめて感染力の強いウイルスである可能性が高い」。このトークは瞬く間に話題になった。
西アフリカで起きたエボラのアウトブレイクは自然に潜む脅威の片鱗を見せつけた。エボラの感染が都市の中心部にまで広がらなかったのは、怯(ひる)むことなくエボラの感染経路を追跡した保健職員の努力と、症状が急速に進行するため、患者が動き回ることなくベッドに寝たきりになるというエボラの特徴があったからだ。もし次に出現する病原体が1918年のスペイン風邪のウイルスのように空気感染するタイプで症状がすぐ出ない場合には、感染者は自分が感染していることに気づかずに飛行機に乗るかもしれない。「次回は」とゲイツはトークを結んだ。「私たちは幸運に見放されるかもしれない」
WHОと「疾病X」
出現するウイルスや再出現するウイルスの脅威を忘れ去っていない機関もある。2003年のSARSのエピデミック以来、WHOは四回にわたって国際的な公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)を宣言してきている。2009年の豚インフルエンザ(新型インフルエンザ)のパンデミック、2014年のポリオとエボラのアウトブレイク、そして2016年のジカ熱のアウトブレイクである。
今後は未知の病原体の出現にうろたえることなく対処するという強固な決意の下、WHOは2018年に「研究開発ブループリント」の刷新を決定した。このブループリントは、現状では適切なワクチンもしくは治療法、あるいはそのどちらも存在しないため、WHOが付加的な研究資金を必要とする病原体候補の優先順位リストである。2015年の時点で、リストにはクリミア・コンゴ出血熱、エボラ出血熱とマールブルグ病、MERSとSARS、ラッサ熱、ニパウイルス感染症、リフトバレー熱が挙がっていた。
WHOが第七位としたのが「新種の疾患に対する研究開発の備え」だったが、この疾患のカテゴリーは今後を想定した空欄であって、当時はほとんど誰も気にも留めなかった。しかし2018年、WHOはジカ熱をリストに加えるだけでなく、完全に未知の病原体が与える桁違いの脅威についても世界に知らしめるべきだと考えた。彼らが「新たな疾患」のカテゴリー名称として提案したのが「疾病X」だった。
ダサックはこの瞬間を鮮明に覚えている。「それは会議の締めくくりのことで、私たちはリストを最終的に採択するところでした。そこで、リスクの数学的な解析をする担当者が立ち上がって、こう言ったのです。『みなさんがこの未知の病原体というカテゴリーにご賛同くださることはわかっています。私たちは疾病Xと呼ぶつもりです』。私は思いました。WHOの用語なのに何てクールなんだろうって」
数週間後にニューヨークに戻るとき、ダサックは新聞記事に疾病Xへの言及があるのを見つけて、こう思ったのを覚えている。「本当にすばらしい。やっと我々も自分たちの仕事を一般人にわかってもらえるようになった」
エコヘルス・アライアンスのダサックや同僚たちにとって、疾病Xが話題になることは追加の研究資金を獲得する機会が得られることを意味した。MERSコロナウイルスやSARSコロナウイルスのような既知のコロナウイルスだけでなく、未知のコロナウイルス、さらに動物界に潜むパンデミックを引き起こしかねない他のウイルスの研究ができるのだ。
二年前、イタリアのコモ湖の畔(ほとり)にあるロックフェラー財団のベラージオ会議センターで開催された疾病生態学のサミットで、ダサックなどの感染症専門家は、世界はだんだん脆弱になり、ますます新種のウイルスの脅威にさらされていると述べた。さらにエピデミックかパンデミックを起こす可能性のある推定160万種類の未知のウイルスのわずか0.1%しか同定されていないと指摘し、グローバル・バイローム・プロジェクト(GVP)〔バイロームはある系に存在する全ウイルスのゲノム〕の立ち上げを提案した。個人レベルのゲノム解析の時代を拓いたヒトゲノム計画に範を取ったGVPは、将来新種のウイルスが出現する前にワクチン、治療薬、その他の医学的措置の備えをしておくための開発資金の獲得に役立つだろう。
米国国際開発庁によるPREDICTプログラム〔2009年に同庁が立ち上げた新興感染症予測のための疫学研究プログラム。2020年3月、トランプ政権が終了させた〕は、2010年以降、30か国において900種を超える新種のウイルスを発見してきた。ブリーフィング文書によれば、GVPの目的は、このPREDICTの成功の上に「自然発生するすべてのウイルス」の網羅的なデータベースを構築することによって「知識の穴を埋める」ことにある。文書はさらにこう続ける。「ウイルスのリスクが囁ささやかれるなか、世界は次のウイルスが、いつ、どこで、どの動物種から出現するかを依然として予測できない。十分な備えをするには、敵が姿を現す前にその正体を知る必要がある」
アウトブレイクを未然に防ぐダサックがGVPの資金を募っていたころ、感染症流行対策イノベーション連合(CEPI)は新たなワクチン開発プラットフォーム構築のために資金集めをしていた。ノルウェーのオスロを拠点とする非営利団体CEPIは、2017年にスイスのダヴォスにあるスキーリゾートで開催された世界経済フォーラムで、ノルウェー政府とインド政府の主導で設立された。連合の使命は「エピデミックの先回りをする」ことにある。アウトブレイクが発生する前に新たなワクチンに投資することで、ここ30年ほど新興感染症研究を特徴づけてきた研究資金の増減の波を断ち切ろうというのだ。CEPIは10億ドルの財源を確保する五か年計画を立てていたが、ビル&メリンダ・ゲイツ財団とウェルカム・トラスト、さらに欧州連合(EU)と数か国の政府の支援を得て、2018年までに7億6000万ドルを集めた。この財源の大半は、主要な三つの感染症(ラッサ熱、ニパウイルス感染症、MERS)のワクチン開発に注ぎ込まれる。
だが、2019年末、CEPIは未知あるいは既知を問わず、いかなる感染症にも、突発的な感染症にも対応できる斬新なワクチン開発プラットフォームの確立を訴え始めた。その年のはじめ、世界銀行とWHOがパンデミックに対する世界の備えについて年次報告を発表していた。報告は厳しいものだった。WHOは、2011年から18年のあいだに、172か国で1483件のアウトブレイクが発生したことを突き止めた。このアウトブレイクの発生頻度にもとづき、WHOの懸念は増すばかりだった。「拡大が速く、きわめて致死性の高い呼吸器病原体のパンデミックによって5000万人から8000万人が死亡し、世界経済が5%近く落ち込む恐れがきわめて高い」とWHOは警告した。「パンデミックに対して、私たちはあまりに長くパニックと無為無策を繰り返してきた……もう行動を起こすには遅すぎるほどだ」
「コロナウイルス関連肺炎症候群」のシミュレーション
どれほど事態が切迫しているかは、2019年10月19日にニューヨークで行われた最新のシミュレーションが教えてくれる。ジョンズ・ホプキンズ・センター・フォー・ヘルス・セキュリティが、ビル&メリンダ・ゲイツ財団および世界経済フォーラムとともにこのシミュレーションを計画した。シミュレーションモデルは、「コロナウイルス関連肺炎症候群(CAPS)」という仮想のウイルスによるパンデミックだった。
まず、新種のコロナウイルスがコウモリからブラジルのある農場にいるブタに感染してパンデミックが始まる。次に、ブタがブラジルの農家の人にウイルスをうつし、ヒトからヒトへの感染の連鎖が起きる。やがて感染は南アメリカのサンパウロなどメガ都市の低所得者層に急速に拡大する。ウイルスはさらに南アメリカから空路でポルトガル、アメリカ、中国に到達し、地球規模の感染の連鎖が起きて感染者が毎週のように倍増する。このウイルスに対する免疫を持つ人は誰一人いないので、モデル予測によればパンデミックが収束するのは世界総人口の80%が感染したときのみだ。シミュレーションでは、これには18か月かかり、世界全体で6500万名が死亡する。
ウイルス界のシンデレラ、コロナウイルス
この予測(そして現実世界におけるCOVID―19による犠牲者の数)を変えられるものといえばワクチンだ。しかし、2003年のSARSのエピデミックや2012年のMERSのアウトブレイクがあったにもかかわらず、コロナウイルス研究は資金の増減の波に翻弄されている。SARS以前、コロナウイルスの研究には先がないと考えられていた。最初のコロナウイルス群は1937年にブタ、ニワトリ、その他の動物で同定された。それ以降、ヒトに感染するコロナウイルスはわずか四種しか発見されていない。一方で、コロナウイルスはふつうの風邪の三分の一で病原体とわかっているが、死者を出すことはあまりない。実際、唯一厄介なコロナウイルスといえば鶏伝染性気管支炎のウイルスで、ニワトリを死に追いやるがヒトに伝播することはなかった。つまり、コロナウイルスは「ウイルス界のシンデレラ」と言われ、野心ある若き微生物学者は研究者としてのキャリアを積みたいならこのウイルスには手を出すなと周囲から助言される。この傾向はSARS後に変化したとはいえ、それも長くは続かなかった。
以前のアメリカでは、アメリカ国立アレルギー・感染症研究所が、コロナウイルス研究に一年につき300万ドルから500万ドル注ぎ込んでいたが、SARS後に研究費を年間で5100万ドルに増やした。ところが数年後には、平均年間研究費は2000万ドルに落ち込んだ。2012年のMERSのアウトブレイクで研究費がにわかに増えたものの、2019年までには2700万ドルに落ち着いた。ヨーロッパでも状況は似たり寄ったりだった。非営利組織のCEPIは不足分の一部を何とか補うことができたとはいえ、集まった資金は目標額に届かず、それをいくつか優先順位の高い疾患に振り分けなくてはならなかった。ロンドンのフランシス・クリック研究所のあるウイルス学者は、こう述べている。「ウイルス学者に必要なのは知識だけではない。お金も必要だ」。そしてコロナウイルス研究費こそ、COVID―19のパンデミックが起こる前に必要とされていたものだった。
※続きはぜひ『パンデミックの世紀――感染症はいかに「人類の脅威」になったのか』でご覧ください。
プロフィール
マーク・ホニグスバウム
医学史家、ジャーナリスト。ロンドン大学シティ校上級講師。感染症の歴史を専門としており、医学・環境人文学と科学社会学の知見を組み合わせて、ワクチンをめぐる科学的知識についての研究に取り組む。一般紙「オブザーバー」や医学誌「ランセット」に定期的に寄稿するほか、本書『パンデミックの世紀』をはじめとして感染症に関する5冊の著書がある。