愛と性と存在のはなし20191121

「愛と性と存在のはなし」第5回 〔『ボヘミアン・ラプソディ』に見るマジョリティの希望〕 赤坂真理

 sometimes I wish I’d never been born at all.

 そう、まったく生まれないほうがよかった。
 影も形も。
 こんなに孤独なら。
 この世界に属せない、疎外感だけなら。
 存在するということの、まったき孤独。 
 孤独だから、誰かを求めるのか。
 求めても孤独。
 本当の望みなど、知らないほうがよかった。
 本当の自分をわかりたいだなどと。
 かなわないなら。
 手に入らないなら。
 このふたつに分かれた世界に、望むものが、ないのなら。

…… 
           
 冒頭の英語の一文は、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」からとった。
 生まれなければ味わっていないあれこれについて考える。
 わたしは生まれたのに、生まれたこの世界とあまりにちがう感じについて。

 クイーンと、そのリード・ヴォーカルであるフレディ・マーキュリーをめぐる映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、公開年2018年の社会現象と言ってもよかった。この映画によってクイーンは永遠のバンドになった。今や全年齢帯の者が、クイーンを知っている。 
 ゲイのスターの話が、なぜこんなにも「マジョリティ」の心を打つのだろう。そして、その話によってクイーンが永遠のものとなったのは、どうしてなのだろう。性的マイノリティの話が時節に合っていた、というだけでは説明できないものがそこにある。
「マジョリティ」の希求さえもが、そこにあるからだ。
 そう思う。
 この映画を題材として、存在と性愛と親密さと、家族の話をしてみたい。そのどれかだけでも、十分に、人の人生となる。そして人生とその選択とは、常に、これらのファクターの連立方程式を解くことのようにおもう。ほとんど連立不可能なほどのそれら難題を、人類はどうこなしているのだろう、あるいは、こなしていないのだろう。
 映画『ボヘミアン・ラプソディ』はドラマとしてつくられたものなので、厳密に事実に沿ったものではない。しかし、話としてうまくつながったり象徴的に見えたりするところには、普遍性が宿っているのだとわたしは信じている。フィクション作家をしてきた身として、そう思う。それに、この映画は、クイーンをまったく知らなかった層にも受けたということは、架空の話としても楽しめたということだ。繰り返すがそれは普遍性の高さの証なのである。だから、クイーンの史実というよりは、この映画を題材として、今は話をする。
 また、この映画は、仮に架空のバンドの架空のストーリーだとしても観られるようになっている。その普遍性が多くの人の心を打ち、多くの動員を得たのだと思う。わたしは、なんなら毎日観てもいい。もともとわたしには、観られたり読めたりする話が、ひどく少ない。共感できる話が、ひどく少ないからだ。たいていのドラマは、知的に考察でもしてみない限りは観られない。大河ドラマとかはいちばん観られない。観られる話が極端に少ないわたしもやはり、一マイノリティなのだと思う。

 イギリスへの移民の息子、フレディ・マーキュリー、出生名はファルーク・バルサラ。両親はゾロアスター教徒で、フレディ自身は幼年期のほとんどをインドで過ごし教育を受けた。出身はイギリス統治下のタンザニア、ザンジバル(現在のタンザニア連合共和国)。一家は当時起きた革命の余波でかザンジバルを追われた。そうしてイギリスに逃れてきたのは、フレディが17歳のとき。
 盟友を得て新しいバンド、クイーンでスターダムを駆け上がってゆくフレディが、「同性愛」という自身の性的指向を隠しきれないものとして知るのが、アメリカツアー中であったのは面白い。
 アメリカが自由の国だから、ではない。
 アメリカはイギリスの「影」だからだ。
 アメリカは長らく、ヨーロッパの紛争や人口の調整弁として存在した。アメリカは、ヨーロッパが押しやった影であり、負の部分だった。アメリカというはけ口がなかったら、ヨーロッパがどうなっていたかはわからないと言われる。だから、押しやったはずの影に直面するのがアメリカであるのは、象徴的な感じがした。
 フレディが自らの性的指向に気づくのはもっと前だとか後だとか、もっと平時だとか、これが仮に事実と少しずれていたとして、物語として大事なシーンを、多くの人に伝わるようにつくるには、ある「象徴性」の高さが必要になる。そのときに出す最も効果的な象徴は、アメリカ以外にはないだろう。

あの国について

 アメリカ。
 かつてのイギリスの植民地支配から独立した国。イギリスの支配を排除し、200年ほどでついには世界の覇権を握った国。第二次世界大戦で疲弊しなかった唯一の参戦国。大国を超えた超大国。
 アメリカがピューリタンの建てた「清い国」であり、明るく未来にあふれた約束の地という「神話」がある。
 この神話があるのは、そう思わないと存続できない「影」の国だったからだとわたしは思う。
 だからこそ、そこは、自身の「影」に出会うのにはふさわしい。
 アメリカが本当に、ピューリタンが信仰の自由を求めてつくった国であったとしても、当時、生まれたところに居場所があったなら、命の危険すらある航海などしない。遠く海を隔てたアメリカまで来たのは、多かれ少なかれ、追われた人、他に選択がなかった人だ。失うものがこれ以上ないような状況で、捨て身の勝負に出る。

 映画の中盤で、アメリカで異性装のミュージッククリップが放送禁止になったときギタリストのブライアン・メイが言う面白い台詞がある。

「アメリカ人は、公の場ではピューリタンで、倒錯は私的にするんだ」

 なにげない台詞だが、それゆえに本質と実感がある。
 個人的な体験として、思春期の一部をアメリカで過ごした身としてもよくわかる。アメリカに、クイーンのような両性具有的バンドや、フレディ・マーキュリーやミック・ジャガーのような、少年と女が自然に同居したようなフロントマンを抱えるメジャーバンドはいなかった。自分が後で持った認識では、十代のときの音楽経験がアメリカだったため、自分はそれでセクシュアリティの目覚めが遅れたり、自然なセクシュアリティの発露を持てなかったり(表現が救ってくれるものは大きい)、そこに無駄な抑制を刷り込まれたように思う。
 そして今でもアメリカの事情はあまりかわらないように思える。アメリカに両性具有的スターやそういう世界や汎神的な世界や非キリスト教世界を打ち出す者がいたとして、人気だとしても、陽の当たるサイドの存在ではない。強烈な「影」であり、負性を帯び、それゆえの熱狂やひどい誹謗を浴びる。近過去で言えばマリリン・マンソンとか。
 今でもそういう存在をあまり思いつけず、いたとして、倒錯的な感じを受ける。少なくとも男性スターではそうだろう。どちらかというと女性側からしかそういう主題を意識的に扱うスターは出てこず、それはそれで、強烈な自意識と操作性を感じさせるもので、あまり自然な存在とは見えず、ハイパーである。意識的に造りこまれた存在である。マドンナやレディ・ガガなど。逆に不思議なことに、彼女たちは女なのに、ドラァグクイーン(ハイパーに女装する男)の雰囲気がどこかある。
 両性具有的な存在感の者、というのが、アメリカの大スターとして出てくる様が、今でもあまり想像できない。男では特に。出てきたなら、やはり倒錯的で抑圧を内化した感じがするだろう。
 そう考えると、フロントマンが異教徒の両性具有的存在であったクイーンが、まごうことなきポップな曲で全米一位を成し遂げたのは、数字以上の、世界的快挙であったように思われる。

強烈な影

 しかし、「強烈な影」だからこそ、影は、はっきりする。
 光とのあわいにまぎれていたらあまり見えなかった影でも、はっきりしていれば、はっきりと出逢う。
とてもアメリカらしい光景の中で、フレディは自分の本当の欲求のかたちに最初に向き合う。
 州道を少し奥に入った暗い町外れに突然現れるお祭りさわぎの小屋のような酒場の、外にある公衆電話から、フレディはメアリーに長距離電話をしている。メアリーとは、フレディが結婚を申し込んだばかりの女である。
 そこに長距離トラックが着く。

 長距離トラック。

 イギリスではこの荒々しさに似たものをあまり見ない。
 少なくとも、アメリカのトラックドライヴァーたちが旅する距離は、イギリスや、ヨーロッパのドライヴァーのそれよりずっと長い。海洋性気候、内陸性気候、平原、壁のような山脈、山間部、砂漠、……気候帯をいくつも横切るような旅を、どこまでも続く道がつなぐ。 
 アメリカのトラッカーたちはさながら国内ボヘミアンで、運転は「ツアー」であり、巨大トラックという動く城に住む、たった一人の主人であり下僕である。エンジンをかけている間じゅう、ステアリングのみならず床から壁からびりびりと戦車のように微震し、また路面のでこぼこや気流を拾って揺れ続けるものを制御下におきながら、彼らは重い荷を曳いて、長い距離を移動する。ときどき、船の霧笛のような音を上げながら。彼らは現代社会の船乗りのようで、そこここで行きずりのラヴァーを探す。
 そんな一人の男のドライヴァーがトラックから降りてきて、電話中のフレディと目を合わせる。二人の視線に何かが流れる。何か、電気のようなもの。痺れ。震え、怯え、同時に、甘さ、 
 …疼き。
 フレディはこの時点で、「クロゼット」ですらない。クロゼット、つまり、タンスの中に本当の自分は隠れて決して人に自分のことを言わないゲイ、ですらない。
 彼は、自分の「欲望のかたち」をまだ知らない一人の男なのだ。
 彼は愛する女と、愛をたしかめあって新しい生活を始めたばかりの男なのだ。
 愛する女がいる時空と、疼きを感じた男がいる時空。
 男に疼きを感じる。でもその女に持つ愛情は嘘ではない。
 遠距離電話の一方の端末で、女が言う。切り際に。

 “Say hi to the boys.”
「ボーイズによろしくね」

 皮肉だ。
 妻は、バンドメンバーたち、彼女もよく知っている男の友達を、親しみを込めて「ボーイズ」と呼んだ。
 夫は見知らぬ土地で、見知らぬ男たち(ボーイズ)に、見知らぬ情動を抱いている。
 何重かの意味で皮肉だ。
 これは、boys(少年)時代の終わりでもある。少年たちの、みんなで一つの夢をめざして冒険し、他愛もないことで笑いあい、喧嘩し仲直りしまた冒険に繰り出す、それだけでよかった黄金の少年時代は終わって、彼らは個々の生活へと分かれてゆく。個々の責任へと。それぞれが、異性の恋人との結婚生活へと入ってゆく。
 その時代の終わりが、フレディにとってだけ、結婚生活の終わり、ともなるのだ。
 ひとつの扉が閉ざされ、もうひとつの扉が突きつけられる。
 ふたつの時空で、同時に扉がバタンと閉まるという印象的な演出で、このシーンは終わる。
 ひとつは、ロンドンで妻が閉めた自室ドア。
 ひとつはアメリカの田舎町の酒場で、男が閉めたドア。
 アメリカ側のその扉の表には、こう書いてある。

 MEN

 フレディの内的には、この瞬間に、心のべつの扉が、開いたのだ。
 新しい自分。
 男の自分。
 男を欲する自分。
 少年(boys)から大人(MEN)になること。男(MEN)になること。
 多くの物語が、このときの痛みを描いている。性的に未分化で男も女も「みんなでいられた」時代から、性的存在として目覚め、孤独や孤立を感じるときの。
 一般的には、前思春期から思春期になる体と心の痛みを描いて名作と言われる物語が、男女ともに多い。
 フレディ・マーキュリーは大人であったけれど、どこかこのときまで、男も女も平等に愛し、寝食をともにし、自らも両性具有でおそれを知らない、太古の神かギリシャ神話の少年神のように描かれていた。粗野で上品で卑猥で優美。
 そして実際、そこまでの「男の子たちの王国」が、本当に輝かしく描かれていた。具体的には「ボヘミアン・ラプソディ」を含むアルバム『オペラ座の夜』をつくるまでの日々が。あたかも少年神たちの終わらない祝祭のように。無邪気で、傲岸なほど自信にあふれ、なにものも彼らを止めることはできぬと思わせる輝かしさで。
 そして祝祭のような日々は、ピークで崩れる。次の季節がくる。
 自らの欲望や、自らの在り方が孤立する長い季節。
 他の誰でもない、自分だけの独立した欲望を感じたとき、そのかたちは、周囲とも、自分の予想や願望とも、ちがった。
 自分は自分で在るだけなのに。

 そして人間(マン)となり男(マン)となったかつての少年神は、男を欲する男となる。
 男に求められる男となる。
 男に求められることを求める男となる。
 苦悩がはじまる。
 自分は自分で在るだけなのに。

女のようであること

 比喩的に言うことを許してもらいたいけれど、異文化の中にむき出しの個人として身を置くことは、女のような存在になるということである。 
 誰であれ、圧倒的に弱い。どんな立場があろうと、彼らはあなたが何者かを知らない。スターであろうと、圧倒的に多くの者が、あなたを知らない。あなたを無名の者として扱う。あなたにつけられた特典はない。どれだけ資産があろうと、その資産でただちに身を守れるわけではない。むき出しで無防備でその場に在る。異邦人としてじろじろみられ欲望の客体になる。これを描くのに、アメリカほどに適した場所はない。

 客体、面白い言葉だ。
 客の体。

 いや、フレディ・マーキュリーは、どこにいても客の体であったのかもしれない。故国から追い出されてロンドンにきた異教徒の息子。
 育ってきたすべての文化コードの中で「客の体」であった彼が、逆にマジョリティをねじふせるほどのスターとなったとき、その内的な属性は、逆に彼自身から隠されたのかもしれない。私生活において支配的なパーソナリティである者が、もっと奥にある逆の資質に気づくのはむずかしい。   
 フレディは、受けのゲイである。描かれ方から見てそうである。
 欲されて、初めてわかる。 
 もっと言えば、男に欲されて、初めてわかる。初めて「個」のかたちがくっきりする。
 こういう者は、欲望の自認にワンクッション要る。欲される過程がいる。
 自分が欲する側の男、女にプロポーズする側の男、だと思っていたときには、彼にはこのことがわからなかったのだ。 
 キスされて、初めて瞳に星が宿る。受け身で発動する欲望の持ち主。言ってみれば、女性的なゲイ。
 こういう人が、自分の性的指向に気づくのは時間がかかる。ホームの状況にいたら、気づくのはもっと遅く、ゆるやかだったかもしれない。
 受け身のゲイが、主体として「受け身のゲイ」と自分で認めるには、アメリカくらいの異質な荒々しい土地で、異質なものの中に身を置くことが必要だったのではないかとわたしは考える。少なくとも、それ以上に説得力があって象徴的なシーンを思いつけない。イギリスの田園地帯で感じる孤独と全く異質な孤独。危険信号がずっと細胞の中で鳴り続けるような、ひりひりした違和と圧倒的な孤独。

これは人類の問題だ

 自分の性的指向を認め、恋人メアリーに打ち明けてからの展開は一気だ。 
 幸せからの劇的な破局。劇的におとずれる孤立感、これは輝かしい少年たちの日々との、痛いまでの対比である。劇的な転落、喜劇的なほどの。そしてエイズ罹患。転落からの劇的な復活。45歳の死。
 本作でのフレディ・マーキュリーの描かれ方は、見ようによってはすべて、自分自身との劇症の出逢いの暴力性を、吸収するプロセスなのだ。 
 この出逢いの衝撃を、そのときプロセスできていたのなら、フレディ・マーキュリーは愛していた女メアリー・オースティンと、そこまで暴力的な破局を体験しなくて済み、自暴自棄に陥ることもなかったのではないかとわたしには思える。
「あなたにとってわたしは何?」
 というメアリーの問いに関するフレディの答えが、今もわたしに刺さっている。
 
 “Almost everything.”
 ほとんどすべて。

 ほとんどすべて。なんと残酷なんだろう。
 ほとんどすべてだけれどほんの少しだけ欠けていて、その決定的なものである。
 しかしそこに本当に、道はないのか?
 思いもしなかった道が、人間の愛と性と存在の織りなす人生には、あるのではないだろうか?
 わたしのこの問いは、願いに近い。祈りに近い。
 これをわたしは、同性愛者と異性愛者のすれ違いととらえないで、人類すべての問題ととらえてみたい。
 仮に異性愛者と異性愛者であったとして、こういう問題はないのか。同性愛者と同性愛者にはこういう問題はないのか。
 あるだろう。それも日常的に。
 簡単なようでいて、人類がいまだに解けていない問題だ。
 愛する対象と性的に欲する対象がずれることは、よくある。微妙だったりあからさまだったりしながら。
 そんなときどうするのか。でもそんなときは、しょっちゅうある。性と愛は、ずいぶんちがうものでありながら、混同され、また混同が心地よくて人みずから混同してなだれ込んでいったりもする。ずいぶんちがうものでありながら、あるときひとつになることもある。人はそのつど、喜んだり悩んだりして、ようするに、振り回されている。人知れず悩んで八つ当たりしたり、不用意に言って致命的な喧嘩になったりする。しかしその気持ちを、大事な人と虚心坦懐に出し合うということはめったにない。愛していても、めったにない。
 もしかしすると私たちは、それで、相手や他人の、思いがけない美しさに出会いそこねているかもしれない。
 これはすべての人の、人生の選択なのだ。
 そしてすべての人は、モザイク状にできていて、男であり女である。そのモザイクのピースが、男と女、どちらかに生まれたボディと適合したりしなかったりすると思っている。すべての人は、細かい要素では性同一性障害である。モザイクのピースが小さいからと言って、それが決定的でないということはない。どこがつらいのか。どこが受け入れがたい自分か。どこが他人と折り合えないと思っているか。自分で知るしか、自分の人生の舵を取る方法がないように思える。
 意識的に選択するか、無意識に振り回されるかも選択だ。
 これからは、そのようにして生きるしか、幸せに生きていく方法はないのではないかと思える。
 そして、迫害こそされない異性愛者ではあるが、異性愛者のほうが、性につきまとう選択をこまかく突きつけられる機会は、実は多いと思う。異性愛者は、一回のセックスごとに常に考えなければならない。ここでもし子どもができていいのか嫌なのか、この人の子どもならいいのか、いやなのか、欲望を感じたこの人と「両親」となれるか、子どもさえできればパートナーなどいらないか、逆にパートナーシップが大事で子どもは二次的か。などなど。
 これは、同性愛者も同じように考えることのできる問題である。が、同性愛者の場合には、きわめて意思的に考えなければならないというちがいがある。アクシデンタルに子どもができたりすることがないからだ。
 
 フレディ・マーキュリーが残してくれたもの。これを、同性愛者と異性愛者の溝と考えてみないで、繊細に、すべての人の問題としてみてみたいのだ。
 もちろん、これを考察することはクイーンやフレディ・マーキュリーのありのままの存在や業績やすばらしさを、少しも傷つけるものではない。

 わたしは、これを、人類の問題として考えてみたいのだ。
 映画の中で、不意に涙が噴き出すポイントがいくつかある。ひとつは、ライヴ・エイド前のクライマックスの、この歌詞。
 
 “I consider it a challenge before those human race, and we ain’t gonna lose.”
 これは人類を前にした挑戦だ、そして決して、負けはしない。

 負けてもいい。
 とわたしは言ってみたい。
 でも挑戦したい。それを挑戦とみなして人生と向き合うこと。そこに意味が在るような気が、わたしはしている。

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プロフィール

赤坂真理(あかさか・まり)
東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。アート誌『SALE2』の編集長を経て、95年「起爆者」で小説家に。体感を駆使した文体で、人間の意識を書いてきた。小説に『ヴォイセズ/ヴァニーユ』『ミューズ』(野間文芸新人賞受賞)『ヴァイブレータ』など。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶと大森南朋主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通して戦後を見つめた『東京プリズン』が大きな話題となり、戦後論の先駆に。同作で毎日出版文化賞など三賞を受賞。大きな物語と個人的な感覚をつなぐ独自の作風で、『愛と暴力の戦後とその後』など社会批評も多い。