愛と性と存在のはなし20191121

「愛と性と存在のはなし」第4回 〔草食男子とは誰か〕 赤坂真理

草食男子という誤認

「草食男子」という言葉がある。
 恋愛や性に消極的な男子、という意味に使われることが多いだろうか。元気がない男と同義にされるなど、ネガティブに使われることも多い。 
 そもそもは「草食動物のように優しく草を食んでいるような男子」というポジティブな意味でつけた、と、名付け親の深澤真紀は語っている。初出は2006年である。いずれにせよ、一時の流行語であることを超えて、今では定着した感のある言葉だ。
 この言葉は、単純な事実誤認をはらんでいる。とわたしは思ってきた。
 簡単な誤認だ。
 草食動物だからといって、性に消極的などということは、ない。
 まったくない。
 肉食動物に捕食される宿命のある草食動物は、個体数を多く保つ必要があり、繁殖期のオスの発情のしかたは半端ではない。セックスする資格を得るためのオス同士の争いが熾烈なのは草食動物だ。そこに、いわゆるやさしさや競合相手への思いやりなどはかけらもない。それで致命的なほどの傷を相手に負わせるオスもいる。そして傷を負ったものは誰に謝られるでも慰められるでも癒やされるでもない。そこに「やさしさ」も「思いやり」も、かけらもない。
 また、「草食動物」の比喩に対置されているのはもちろん「肉食動物」であり、狩りをすることが特徴である。

 「草食男子」の特徴とは「狩りをしないこと」。
 つまり女性(または女性的存在)にアプローチをかけない、「襲わない」こと。
 それが、「やさしい」ことだという。
 こういう男性が「やさしい感じがする」のは、認めてもいい。
 だが、もう一つ別の事実誤認がある。
 たとえ肉食動物といえど、同種(ライオンならライオン)のメスを、狩ったりしないのだ。
 動物のオスは決して、同種のメスを襲ったりしない。同種のメスを狩ったり襲ったりするなら、その動物はストレスとか薬物とかなんらかの理由で狂っていて、野生ではないだろう。そしてその「狩り」は厳密には狩りではない。殺傷であり、命を奪った相手を食べもしない。その結果相手を食べるなら共食いである。肉食動物が同種のメスを無理やり襲ったりしていたら、その種は滅ぶ。
 野生動物はレイプをしない。メスに受け入れられなければ、無理やりに性交することはない。その意味では、野生動物は「やさしい」。草食肉食の別を問わず。人間がなくすことのあるやさしさと自制とを、本能でそなえている。野生動物の本能には自然のリミッターがかかっている。そのリミッター解除の方法を動物は知らないし、知ろうともしない。自然が解除しない限りは自分で解除しない。解除のきっかけを季節の巡り以外のなにかに求めることもない。野生動物は、自然の摂理のようにしか欲情しないし、行動しない。季節外れに自分で勇気を出して好きなメスに迫ることもない。レイプもしないし、拒否されて相手を傷害するようなこともない。野生動物は勃起不全を患わない。射精不全を患わない。拒否したメスが、あるオスのマナーが最悪だったなどと悪い評判をメスコミュニティで立てることもない。メスが団結してあるオスをメスの敵だと総スカンしたりすることもない。今言ったすべてに、草食肉食の別は、ない。

 ここでわたしが言いたいのは、「草食男子」というタームが間違っている、ということではない。
 単純な誤認に人が気づかず、この言葉をすんなり理解し納得し伝播させるのが面白い。と言いたいのだ。
 つまりは、人だけが、恋愛とセックスに、狩りのイメージを持てる。もし同種に対して持ったなら、相手を滅ぼしてしまうイメージに、恋を仮託してゾクゾクする。
 ここに、人間の性愛の秘密の一端が隠れていそうに思う。
 しかしここを考えてみると、別のよじれが浮かび上がってくる。
 恋愛やセックスの能動性に、肉食動物が獲物を襲うイメージを持ち、重ね合わせる。 
 ということは、相手を、草食動物だと見ることである。
 ライオンとシマウマ。これは、自然界としては、恋愛やセックスが発生する関係ではない。捕食する者とされる者の関係である。
 自然としては成り立つ恋愛ではなく、力関係のメタファーが人の脳内に存在するだけである。
 人の中の「みなし」である。
 人間がなぜ、こういうメタファーないしファンタジーを、性愛に持つのか。あるいは、必要とするのか。

 いくつか思うことがある。
 動物の恋愛はある季節にしか起こらない。が、肉食動物の捕食なら、一年中起こる。とつぜん均衡が破られる。人間の恋のはじまりや欲情がそうであるように。
 動物のセックスより、動物の捕食のほうが、絵としてずっと美しい。見ていてずっとドキドキし、情動を揺さぶられる。
 動物のセックスはつまらないものだ。行為自体は一瞬で終わる。隠れることなく、恥じらうこともなく、仲間の面前で堂々と、ドンと、一瞬、ことがなされる。終わり。すぐさま離れる。拒否にしても、拒否されたほうの引き下がり方にしても、駆け引きもダイナミズムもない。メスは身体をかわすだけだし、オスは離れるだけだ。つまり、見て、物語が喚起されるようなところは少しもない。
 捕食はちがう。
 見てドキドキする。
 穏和な時間が流れ草食動物が草をはんでいるサバンナに、とつぜん、捕食者が走る。
 捕食者は、とつぜん、動く。とつぜん、スピードを出す。
 とつぜん群れを乱す、とつぜん間合いを詰める。すべてとつぜんであり、とつぜんでなければ、成功しない。
 これは、恋の時間と似ている。とつぜん始まる。とつぜん、日々の均衡が崩れる。それなりに安定していた一人の世界が崩れる。とつぜん、他人が心に侵入してくる。有無を言わさず。その人を見て時間の流れがちがって思える。意思でコントロールができない。とつぜん、その人に触れたくなる。
 そしてはじめて告白するとき、はじめて触れるとき、はじめてキスしようとするとき、はじめてセックスしようとするとき。
 どちらか、必ずどちらかが、均衡を破らなければならない。どちらかがリスクをおかさなければいけない。とつぜんスピードを変えなくてはならない。とつぜん間合いを変えなくてはならない。なぜだか、均等では恋は動かない。等スピードでは動かない。また、勢いのあるときとつぜんするのでなければ、するほうにも勇気がないだろう。
 恋じたいは気がついたら始まっている、恋には、落ちている。落ちたことには、気づくだけだ。恋はいつでも事後承諾だ。
 が、恋を動かすとき。必ず、一方が、均衡を破らなければいけない。
 捕食のたとえに戻ろう。肉食動物はとつぜん動く。草食動物は、とつぜん逃げる。追われたら、逃げる。逃げる。逃げる。どんな結末も度外視して見るなら、その逃げる様は美しい。美しいと感じれば、もっと追いかけたくなる。獲物を、追う肉食動物の姿というのも美しい。
 その切迫感や、見る時の心拍の上がり方、情動のうねりーーこれは、体感だけで言うなら、恋の体感と近い。

 ここで疑問が出てくる。 
 「草食男子」というものを考えた場合、その恋愛相手とされているのは何者なのだろう? 
 これに対して明確な答えを見たことがない。
 肉食男子の恋愛対象は、草食女子であろう。
 なら草食男子の恋愛対象は?
 深澤真紀は、「草食男子」を、『恋愛に「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした「草食男子」』と定義した。
 社会学者の森岡正博の定義では、「草食系男子とは、心が優しく、男性らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」である。
 それにしても、「草食男子」というタームが、もとは、人間の恋愛を狩りにたとえるメタファーを下敷きにしてはいて、そのアンチなのだが、草食男子(草食動物)が肉食女子(肉食動物)を好むという世界観は、考えにくい。
 草食女子を想定しているのだろうなあ、と思う。
 仲良く並んで草をはんでいる----草食男女の世界観としては、そういうものだろう。そしてどちらも恋愛には積極的ではなく、受け身である。
 うつくしい世界ではある。が、「肉食男子」の恋の向かいどころが「草食女子」であり、自然界には成り立たない恋愛であるのと同じくらい、「草食男女」が恋愛に消極的な仲良し、というのも、自然界に成り立たない世界である。
 というのは、自然界では、同種のオスメスは、自動的にセックスするものだからだ。
 野生動物にとって、異性に発情しないというチョイスはない。
 とすると…。
「恋愛が起こらない同種の組み合わせ」は、意外な結論を導き出す。
 意外であり、これだ、と直感してしまうこと。

 それは、同性である、ということ。

 どちらも受け身の、女性型の組み合わせである、ということだ。
 それはイメージの言葉であり、そこまでのことはない、という反論は受け付ける。が、イメージだからこそ、人は自分の中の大事なことを託すのだとわたしは思う。でなければ、なぜイメージを必要とするのか。
 同性カップルというものもある、という反論ももちろん受け付ける。
 が、同性カップルであるにせよ、カップルになったからには、ある時点で、どちらかがアプローチして相手を引き寄せる瞬間があったはずだ。
 誤解を恐れずに言えば、同性カップルであっても、男性的存在から女性的存在へと、エネルギーが動いたのだ。電気であれば、プラスからマイナスに流れるように。水であれば、高い方から低い方へ流れるように。それはジェンダーロール論ではなく、陰陽のしくみである。

「フェミニスト」

 これを考えているときたまたま、面白い話が聞けた。
「草食男子」を昔はなんと言ったのかなあと考えていた時、年上の友人が話してくれたこと。

「フェミニスト」

 と、その人は自分の体験から答えた。
 今で言う草食男子を、昔は、「フェミニスト」と呼んだんじゃないかと。
 その「フェミニスト」は、女性権利運動の運動家のことではない。
 字義通りのフェミニスト、つまり、フェミニン(女性的)な、イスト(マン=人間、男)だ。

 その人は、1970年代末からエロ本のカメラマンをしていた。
 「フェミニスト」は1980年頃に現場で言われた言葉だという。
 当時、モデルは素人が多く、脱がせるのはカメラマンのいちばん大きな仕事だった。
 ヌードを撮る現場で、ヌードになってくれる承諾をとるのが、仕事の肝だったというのだ。
 彼は、相手がブラジャーをとるまでは難しくなかったという。が、その先、撮ると「女が撮った女みたいな写真」になってしまい、卑猥さが足りないことを「フェミニスト」と呼ばれた、と言う。
 この人の話は、また出てくる。

男が男になるとき

 これを書いている間に、たまたまテレビをつけると、NHK朝の連続テレビドラマがやっていた。ちょうど、ヒロインに、未来の夫となる男性が恋心を告白する回だった。
 そのとき、わたしの中で不意にパタパタパタ、と、NHKの連続テレビドラマの歴史がつながった。
 これが、朝ドラの序盤から中盤のハイライトのシーンだ!!
 NHKの朝の連続ドラマとは、ヒロインが、おおむね戦争をはさんだ時代に、その時代や環境の荒波に揉まれながら、夢と愛とをかなえる話だ。半年に一本つくられてきた様々な作品に、ヒロインが、男に不意に抱きしめられるシーンがあった。序盤から中盤にかけての、お約束的おいしいシーン。そこがゆっくり時間をとって、印象的に、演出されて見せられてきた。
 詳細はこうだ。
 ヒロインには、互いに意識しあっているがどちらからも言い出せない相手の男性がいる。のちに夫となる男性なのだが、その男性に不意に抱き寄せられ、抱きしめられ、ヒロインは自分の愛の成就を知る。
 ここは大事なシーンで、いろいろなシチュエーションを観てきた。雨の中でヒロインを強く引き寄せたので傘が飛ぶ、けれど二人は濡れるのもいとわずに抱き合う、とか。そして、ヒロインが抱きしめられた後には、抱きしめられるまでの時間が、スローモーションやアングル違いで再現される。それは女の脳内だなあと思う。朝の連続ドラマは女性向けだから、これが女性の好みなのだ。様式美にまでなった好みなのだ。
 「気がついたら抱きしめられていた」
 というような、時間の飛び方。間合いの詰められ方。これは相手の腕力が強いことを示す。少し怖いような瞬間だろう。その後に続く、突然のぬくもり。時間がまた流れ出す。そのときのことを女は何度でも味わい尽くそうとする。そして画面の中の最後の演出はこうだーー驚いたヒロインは、最初身体をこわばらせているが、彼を受け入れ、力を抜いて、安堵したような表情で男の胸の中で目を閉じる。
 そのシーンを駆動したのは、男の中で恋心があふれた瞬間、である。その瞬間は、いつきてもおかしくなかったが、そのときとつぜん来た。だから雨の中だったりあぜ道の真ん中だったりした。これ以上、自分の中だけに心を押し留めておけないというポイントがいつ来るかは、本人にも選べない。そして来た波に乗らなければ、一生このままかもしれないという予感に男は焦る。その切迫感から行動を起こす。だから直線的だ。思わず手をとって、抱き寄せて、腕の中に抱く。これは、賭けだ。 
 そのとき、女が男の胸の中で見せてゆく安堵の表情は「本当はこれを待っていた」という表現である。
 「何してほしい」という希望を一切言わないまま、女性はある意味、待っていた。好きな相手が動くようにと。そういうふうに女性の気持ちが造形されている。わたしはこれを時代錯誤だとは思わない。女性のツボの具現であるから時代を超えて何度も反復されるのだと思っている。もちろん「女はみんな本当は待っている」なんて言う気はさらさらなくても。

 2019年9月スタートの『スカーレット』では、お約束シーンの、男の感じがすこしばかり違った。
 彼は、許可を求めたのだ。
「抱き寄せていいですか?」
 これに許可を求めるヒロインの未来の夫を、初めて見た。
 ヒロインの男の型を守っていながら、かなりアプローチに慎重な造形をされている。これが現代の「草食男子≒消極的な男」と、「男からアプローチするのが普通だった時代」をつなぐ男性造形かもしれないと思う。
「抱き寄せていいですか?」
 というセリフと言い方が新鮮。 
 それでも、男から言い出している。ジェントルだが、切羽詰まっている。方程式は崩していない。あぜ道の真ん中という唐突さ。そういう唐突さ、切迫感が、恋だ。心はどの瞬間も恋で満ちているのだから、飽和するのは時間の問題なのだ。
 女が答える、
「いやや!」
 ひるむ男。
 ここで決定的にすれちがって恋愛に発展しないかもしれないのが、現代のリアルである。ここで男は、言葉を真に受けて何もしない可能性がある。
 この女のセリフはリアルで、女はここで、こういうアンビバレントなことを言うことがある。ひとつには、こわい。筋力が圧倒的にちがう存在と抱き合うのは、こわいことだ。そして少し、逃げるそぶりにも似たものを見せる。これこそが、草食獣に似ている。  
 性愛の局面で 肉食草食のたとえは、どちらかが肉食獣で、どちらかが草食獣である、という場合にだけ、成り立つ。つまり、同種ではなく、どちらかがどちらかを捕食する関係の属性を持っている。そんな場合にだけ、「草食男子」のたとえは、成り立つ。
 しかしさすがNHKの朝ドラ、約束の山場、抱きしめシーンである。ここからの脚本フォローが見事だ。
 女は素直にこう告白する。
「泣いてまうから。好きやから!」
 かなり意思表示をするヒロイン造形がされている。
 しかしこれは、アプローチへの「許可」というかたちをとる。許可を求められて、許可を与える。ヒロイン自ら行動を起こしたわけではない。
 許可を得て、女を抱き寄せる男。
 抱きしめるシーンは、歴代の朝ドラの同類シーンからすると、さらっとしていて、甘い反復もない。そこには、とつぜん手をひかれるような、スピードの変化やダイナミズムがなかった。そしてすぐ、抱き合っているのを父親に見られて引き離されるというドタバタな展開へと至る。父親は男を殴りヒロインを無理やり連れ帰る。ヒロインが連れ帰られた家では、父親が、恋愛に終始反対する。一方では、ヒロインには見合い話が用意され、結婚はかまわないし、むしろ早くして孫を抱かせてほしいが、その結婚は親が望む相手と、と父親は思っている。世界観と時代の価値観が交錯する。
 次のシーンではヒロインが男の下宿に行く。男は怪我をしている。恋の話をする男に対して、ヒロインは怪我の治療など、関係ない話をしてはぐらかし続ける。
 男の、この次の察しのセリフがすごい。
「お父さんか?」
 ヒロインは、黙りこむことで肯定を表する。画面にはヒロインの横顔アップ。視聴者はわかっているが、これを、現場の男が、表情だけでどういうことかを読み取るというのは、非常にむずかしい。もしかして、すべては場の勢いで、自分は間違ったことをして、それを女に無言で訴えられているのかもしれないのだ。ここで引き下がる男もきっといる。女にも強い恋心がなければ、このくらいで終わる恋はざらにある。ここをミスらないことは、現実にはむずかしいのではないか。
 と、ヒロインが唐突に言う。
「帰さんといて」
 これもドラマや芝居で女性好みのセリフではある。が、実際には読み取りがものすごくむずかしいだろう。こういう場面で判断をまちがえた痛恨の話が、至るところに転がっている。
 女が誘っている言葉だ。
 しかも、とてもあやふやに。
 女が誘うが、最終決定を男にゆだねる、というかたちをとっている言葉だ。
 責任は最終的には、男にあるかのようにする。
 ここでも、決定的な瞬間は男に渡す。
 最終的には、それを受諾したのは、男だ、というかたちにする。
 これを古いタイプの女と呼ぶことは、できない、とわたしは思う。自己決定ができない女、というわけでもないと思う。
 エネルギーの流れとして、最終的には、プラス極からマイナス極に流れるのが自然だ。
 女の欲求とは、それを起こしたいということなのではないかと思う。想う男に最後のスイッチを入れたいということなのではないかと思う。
 見ようによっては「女の罠猟」。
 また、現代では、こういうふうな責任を担わせられることを重荷に感じて嫌う男がいそうだ、ということも、思う。

手を出していないなら何が悪かったのかわからない

 同時期に偶然読んだ『やれたかも委員会』という漫画のある回が好対照だったので、比べてみたい。
 同作は、やれたかもしれない(セックスできたかもしれない)という甘苦い思い出を持つひとが「やれたかも委員会」という面接会場風の場所をおとずれ、思い出を独白し、最後に、やれたかやれなかったかを委員会に判定される、という話であり、基本的には、1話読み切りのコメディ的な作品である。
 ただ、わたしが読んだ「童貞からの長い手紙」というのが6回続きで、他の話より、生の痛みのようなものがあったので、心に残った。
 委員会の中心メンバーである中年男・能沢に、恋愛で傷ついた若い男性・寺河内からの手紙が来る。それは恋愛で「何かした」傷というよりは、「何もしなかった」ことによる傷なのだ。
 何もしなかったのに、相手に不興を買った。しなかった傷だからこそ、何が悪かったのかわからなくて手紙の主である若い男、寺河内は苦しんでいる。タイトル「童貞からの長い手紙」からすると、それ以来、他の相手とのセックス経験もない。かなりの傷になったと見たらよいのか。
 手紙の内容で、ある回想が再現される。
 それは寺河内が、前出のNHK朝ドラの抱きしめシーンと同等の「恋心や欲望がピークであふれそう」なシーンで、行動を起こせなかった話だった。
 大学時代に在籍していたスキューバダイビング同好会で、好きでたまらない女の先輩がいた。先輩は自分を男として見る素振りを見せず、告白したがふられる。しかし卒業後、ひょんなことで再会した先輩は、寺河内を部屋に招き入れる。そして先輩自身はベッドに倒れ込んで眠ってしまった。同じひとつのシングルベッドに一緒に寝た寺河内。はちきれそうな身体を持て余しながら、ぐるぐると先輩の心を推測したあげくに、先輩が疲れたときは邪魔をせず心の支えになれる男になろうと、心に誓う。そして眠りに落ちて指一本触れなかった朝を迎える。先輩は明るく、自分の選択は正しかったと寺河内は内心ほくそ笑む。だがその日を境に、先輩は一切の連絡をとってくれなくなる。

 何かを間違ったのだろうか?
 やらなかったからこそ、わかりにくい。わかるよすがもない。
 女がかすかに出すサインを、読めなかったか、読み間違ったらしく、何を後悔していいかもわからないようなことをした後悔?
 そんな後悔は、無間地獄だ。

 先輩の心は、一切描かれていない。
 本当は誘ってほしかったのかもしれないし、
それも彼とセックスをしたいというよりは、自分の魅力をたしかめたかったのかもしれない。
 それで傷ついたのかもしれない。
 一切合切、わからない。
 本人にも自分の心がわからず、何が自分の望みか知りたいのかを知りたいというのが望みだったかもしれない。
 やはりわからない。
 もし、本当に口説いてほしいなら、リスクをとって、口説いてほしいと言わなければ、男はわからないだろう。
 そこまでしなければ、現代日本では男はアプローチしにくいかもしれない。
 男のリスクは女より高い。
 ただフラれる可能性、だけではすまない。現代では。


 この回がとてもしみたので、身近な男にきいてみた。
「好きな女の子と同衾までしておいて手を出さない男の子の気持ちって、わかる?」
「わかる」
 と男。
「それはどうしてなの?」
「レイパーだと思われてしまうかもしれない。それで女のネットワークで悪評判を立てられたら、社会的に死ぬ。SNSでつぶやいただけでも、すごく拡散するおそれがある。女社会からハブられたら、そこでは生きていけないということだ」
「ふられるリスクだけじゃないということね?」
「そう」
「それすごく大変じゃない? 恋愛だけじゃなく、日頃から」
「江戸時代くらいまではさ、祭りでみんな乱交して、誰の子かわからない子を、村のみんなで育てたとか言うじゃない? 性は祝祭なのでセックスにコミュニケーション能力はあんまり必要ではなかったと思うんだよね」
「でもさ、和歌を詠んだりとかのスキルが」
「それは上流の人ね。庶民にとっては、祭りと同じような感じがあったんじゃないかと思う」
「今は?」
「男性も女性と同じコミュニケーション社会に組み込まれて、男社会と女社会の境目がなくなってきた感じ。
 女とつきあうには女にならないとダメ、っていう均質社会。
 均質社会。
 男も女の仮面を着けないと、コミュニケーション空間では生きていけない。
 そこから恋愛関係になるには、いったん女の仮面をとらないといけないんだが、女の仮面をずっとかぶっていると男の質が成熟しない。あるいは、男の質を嫌悪するようになる。
 女の同質性の力学が働く。そこでよほどのリスクをとらないと、男になれない。

草食男子とは誰か?

 ここでもう一度、草食・肉食のたとえを思い出す。
 誘っておいて逃げる、あるいは、逃げながら誘う。誘いながら最終的には決定を男に委ねる。そんなアンビバレンスを女が、どこか本能で好むとしたら、そのふるまいは、あやふやに、草食獣的である。
 もし、男が肉食獣で女が草食獣、そういう関係性が、性愛が起こりやすいものだとする。
 だとすると、男性のむずかしさが、もうひとつある。
 もし、男が狩りをしないといけないのなら、狩りは、教わらないとできないということだ。
 生まれ落ちて、単独で狩りができる肉食獣はいない。絶対に狩りを習う。
 男にセックスの「教材」やハウトゥ本が、異常に多い理由が、初めて腹に落ちてわかった気がする。
 それは、必要なのだ。
 しかし、「狩り」の内容が、現代では複雑な情報戦になってきている。これは男の不得意分野に入る。
 女も狩りをするとは言える。
 しかし女の狩りは、「罠猟」である。
 エネルギーがプラスからマイナスに流れるのが、恋愛のはじまりとしては、スムーズなのだ。

 ポルノやハウトゥ、男による男向けのもので、本当は女のツボなんかをぜんぜんわかっていないとしても、男はそういう指針を必要とするし、ある程度は、間違いでも真に受ける。感性のゆたかな男の中には、そういう「教材」に傷ついてしまう者もいる。そして間違いを適用しようものなら、女に手痛く拒絶されるか、訴えられる。
 女にも責任はある。
 思うに。エネルギーの流れとしては男性が押すのが良くても、セックスは、二人でなくてはできなくて、そこに「教材」は、本当のところ、ない。感覚や好みを伝え合うしかない。出逢った者の間で模索するしかないことで、そこにはどちらにも忍耐がいる。たまたますごくうまくいったセックスは、アクシデントだ。おそらく再現性はない。


「許可なしのセックスないし性的接触」を「レイプ」という。
「関係性や力が上なことを利用した許可なしセックスないし性的いやがらせ」を「セクシュアル・ハラスメント」という。
 そこで。
「許可がないので、できない」「許可をどうやってとったらいいのかわからない」のが、<草食男子>と言えるのではないだろうか。
 これは、言うよりむずかしいことである。一触即発で訴えられる可能性もはらんでいる。フラレるだけならともかく、社会生活にまでダメージをもたらす危険がそこにはある。
 女にも責任がある。
 セックスは、たぶん、端的に言って「女性に感覚を教えてもらわないとうまくできない」ものだ。あるいは、女性と練習しないと。それを、どう切り出していいのかわからない男性が多いのではないだろうか。プライドもある。男のプライドを、決して軽視してはいけない。そのうえで、女が度量を持たないと、現代日本では性愛というものがとても難しい。そして「許可をとるのがとてもむずかしそう」と思うのは、敏感な男たちであり、感性がゆたかであり、彼らはたしかに、優しい男たちなのだ。そして女にも、女性的情報空間にも、女を内化して防備している自分にも、おそらく疲れている。

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プロフィール

赤坂真理(あかさか・まり)
東京生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。アート誌『SALE2』の編集長を経て、95年「起爆者」で小説家に。体感を駆使した文体で、人間の意識を書いてきた。小説に『ヴォイセズ/ヴァニーユ』『ミューズ』(野間文芸新人賞受賞)『ヴァイブレータ』など。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶと大森南朋主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通して戦後を見つめた『東京プリズン』が大きな話題となり、戦後論の先駆に。同作で毎日出版文化賞など三賞を受賞。大きな物語と個人的な感覚をつなぐ独自の作風で、『愛と暴力の戦後とその後』など社会批評も多い。





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