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「NHK出版新書を探せ!」第9回 リベラルはエリート主義を脱せるか?――三牧聖子さん(国際政治学者)の場合〔後編〕

 突然ですが、新書と言えばどのレーベルが真っ先に思い浮かびますか? 老舗の新書レーベルにはまだ敵わなくても、もっとうちの新書を知ってほしい! というわけで、この連載では今を時めく気鋭の研究者の研究室に伺って、その本棚にある(かもしれない)当社新書の感想とともに、先生たちの研究テーマや現在考えていることなどをじっくりと伺います。コーディネーターは当社新書『試験に出る哲学』の著者・斎藤哲也さんです。
 ※第1回から読む方はこちらです。

<今回はこの人!>
三牧聖子(みまき・せいこ)

1981年生まれ。高崎経済大学経済学部准教授。専門はアメリカ外交・平和思想研究。日本学術振興会特別研究員、早稲田大学助手、米国ハーバード大学、ジョンズホプキンズ大学研究員、関西外国語大学助教などを経て現職。著書に『戦争違法化運動の時代――「危機の20年」のアメリカ国際関係思想』(名古屋大学出版会、アメリカ学会 清水博賞受賞)。訳書に『リベラリズム 失われた歴史と現在』(ヘレナ・ローゼンブラット著、川上洋平らとの共訳、青土社)がある。

「リベラリズム」の変容

――三牧さんは今年、アメリカの歴史学者であるヘレナ・ローゼンブラットの『リベラリズム――失われた歴史と現在』(青土社)を共訳されました。リベラリズムの概念がどのように変容してきたかを、古代から現代までたどっていくものですが、これを読むと「個人の権利を擁護する」ということが、リベラリズムの中心的な意味になったのは比較的最近であることがわかります。

三牧 日本でもそうですが、アメリカでも「リベラリズム」ってけっこうネガティブワードとして使われているんです。誰も誇らしげに「私はリベラルだ」とは言わない。むしろ、「あいつはリベラルだから」と人の意見や価値観を否定するときに使う。それはなぜかというと、個人主義的に、自分の権利を主張するというイメージが強く貼り付いているからです。

 でもこの本が「失われた歴史」としているように、リベラリズムの思想をたどっていくと、個人の権利擁護とは異なる文脈があるんですね。著者のローゼンブラットは、もともとリベラルとは市民としての徳を発揮したり、同胞への義務感に基づいて、共通の目標や善を実現していくことだったと指摘しています。

 だから日本でコロナ感染が拡大しようとしている時期に、リベラル陣営が緊急事態宣言を求めたことは、このようなリベラリズムの歴史的な意味から考えると別におかしなことではありません。リベラリズムは個人の自由や権利を金科玉条とする思想ではないんです。むしろ、ローゼンブラット氏の本が明らかにする歴史に則して言えば、マスクをしたり対人距離を取ったりして、共同体の保全に沿った行動をするのは完全にリベラリズムに則った行動とすらいえます。

 アメリカではいま、「個人の自由」だといってマスクをつけることを拒否したり、ロックダウンに抗議して銃を持って州議会に押しかける人々が-これらはミシガン州で実際に起こったことですが-いるわけですが、他者や社会を顧慮しない、このような思想や行動は果たして「自由」なのでしょうか。少なくとも歴史的に多くのリベラルが追求してきた「自由」は、こうしたものではない。

――本には、なぜアメリカのリベラリズムが個人の権利擁護と同義になってしまったのかという経緯も説明されていますね。

三牧 そこも読みどころです。今のアメリカに引きつけていうと、前編で紹介したルイス・ハーツのテーゼとは異なるアメリカのリベラリズムが見えてきます。ハーツは、封建社会を経験していないアメリカは、根っからの自由の国であり、リベラリズムに関して最も先進的な国だと捉えました。アメリカ外交の基本的な発想の1つには、アメリカは世界で最も自由や民主主義を実現している国なんだから、その他の国々にも自由や民主主義を伝達してあげよう、という傲慢なアメリカ中心主義がありますが、ローゼンブラットは、ハーツのこうしたアメリカ理解に根本的に挑戦しているんですね。つまり、アメリカのリベラリズムはヨーロッパから大きな影響を受けており、その発展はヨーロッパに負うところが大だというわけです。  

 たとえば、20世紀の転換期のころは、社会のさまざまな諸問題を、政府介入を通じて解決していたドイツが、リベラリズムの最先端だとみなされ、多くのアメリカ知識人がドイツで学びました。彼らが帰国して、公益を実現するために政府の積極的な役割を支持しました。彼ら、アメリカのリベラルたちは、大陸のリベラリズムの継承者だったわけです。

 ところがドイツとアメリカはその後の二度の世界大戦で対立し、その過程でドイツは「リベラリズムの伝統がない国」というレッテル貼りがされていくことになりました。リベラリズムはドイツのような「犯罪国家」の伝統ではない、イギリスやアメリカという自由な国の素晴らしい思想的な伝統なんだ、という観念がつくりあげられていった。こうしてアメリカでは、20世紀の初頭まではドイツから多くのリベラリズムの思想を学んだことが忘れ去られてしまったとローゼンブラットは言います。

 さらに、その後の冷戦構造において、対立していたソ連の共産主義と、アメリカの価値観や思想を差異化するために、個人の自由や権利の擁護がリベラリズムの中心的な意味として強調されていったとローゼンブラットは指摘しています。その結果、政府介入を通じて国民の福利を図る、社会民主主義と親和的なタイプのリベラリズムは、意図的に貶められていったんだと。

リベラリズム 失われた歴史と現在

ヘレナ・ローゼンブラッド著『リベラリズム 失われた歴史と現在』

ヒラリー・クリントンはなぜ負けたのか

――いまご説明いただいたリベラリズムの意味の変容は、市民的な徳を強調するシティズンシップから、特定の集団的アイデンティティの承認を求めるアイデンティティ・ポリティクスへの移行とも重なるように聞こえるのですが。

三牧 コロンビア大学で教鞭をとる政治思想学者のマーク・リラがまさにそういうことを論じています。彼は、2016年の大統領選直後に、ニューヨーク・タイムズで「The End of Identity Liberalism(アイデンティティ・リベラリズムの終焉)」という小論を発表しました。その論文では、前回の大統領選挙でヒラリーが負けた理由として、彼女がアイデンティティ・ポリティクスを強調しすぎたことを挙げています。ヒラリーはどの演説でも、アフリカ系アメリカ人やラテン系アメリカ人、LGBTや女性など、マイノリティの投票者たちに呼びかけていたけれど、それが戦略ミスだったと。ヒラリーはアメリカ人全体に共通に響くメッセージを模索しなかった。それゆえに、ヒラリーに言及されなかった白人たち、特に決して暮らしぶりはよくなく、「白人は優遇されている」といわれてもピンとこないような低所得者層の白人たちは排除されているように感じ、ヒラリーと民主党に背を向けたのだと、リラは分析しています。

――たとえば白人労働者たちですね。そこをトランプがかっさらっていったと。

三牧 そうです。そこで排除されたと感じていた人々に、「忘れられた人々」と呼びかけたのが、トランプだった。前回の大統領選でヒラリーは概ね慎重に戦ったと思いますが――女性のエリートであるヒラリーに向けられる視線はやさしいものばかりではありませんでしたから――、私が非常に気になった失言が1つありました。トランプ支持者の大多数は差別主義者で「嘆かわしい人」だと、リベラル・エリートの高みから、白人の非エリートを貶めるような発言をしたんです。トランプ自身は疑うことがない差別主義者ですが、その支持者も一緒くたにしてしまった。これに対して、トランプや副大統領候補のペンスは、国民の半分を見下している人間が一国の大統領になれるのだろうかと、格好の攻撃材料としました。トランプの支持層には疑いもない白人至上主義者もいますので、ヒラリーの気持ちもわからなくはないのですが、しかし、やはり大雑把すぎる物言いで、分断を深めてしまう発言であったと思います。

 リラは、アイデンティティ・リベラリズムは、これ以上追求しても、すでに深刻化しているアメリカの分断をさらに加速するだけだとして、もはや役割を終えたものだと指摘したうえで、未来のリベラリズムは「アメリカ人」という共通性を基盤としたものでなければならないと主張します。邦訳された著作のタイトル『リベラル再生宣言』(早川書房)にもなっているように、リラは、リベラリズムの未来を信じています。現在のリベラリズムの問題や行き詰まりをつぶさに観察し、批判することを通じて、本来のリベラリズム、人々を分断するのではなく、結び付けていくようなそれを取り戻そうとしているのです。リベラリズムへの根本的な信頼という点では、ローゼンブラットの本とも重なってきます。

 9月のニューヨークタイムズ紙への寄稿で、マイケル・サンデルがそれに関連して面白いことを書いていました。サンデルは、民主党が人種差別や性差別とよく闘ってきたことを認めたうえで、一つ、重大な差別が批判すらされずに残っているといいます。それは、学歴に基づく差別(クレデンシャリズム)です。今のアメリカは階層分化が進み、それなりの家庭環境に生まれないと、有名大学、ましてやアイビーリーグなんて行けない。生まれのハンディもはねのけて、才能と努力で道を開ける「アメリカン・ドリーム」などはとうの昔になくなってしまいました。それなのに、社会では大卒かどうか、どの大学にいったかで序列をつけられ、その後のキャリアで決定的な差がついてしまう。サンデルは学位こそ持たないが、さまざまな形でアメリカ社会に重要な貢献をしている無数の人々をかろんじるような民主党には未来がないとして、民主党に対して、エリート主義的な体質の克服と、支持基盤のいっそうの普遍化という課題をつきつけています。

 そういう意味では、私はバイデンを評価しています。彼はアイビーリーグ出身ではないし、そうした形式的なことだけでなく、エリート主義への批判的視座をきちんと持っている。彼は、先ほど紹介したヒラリーの「嘆かわしい人」という発言に関しても、そのまずさをよくわかっていた。そこでヒラリーによって差別主義者と批判された人々は、私が一緒に育った人々だ、何ら本質的には自分たちと変わらない、同じアメリカ人なんだと、ヒラリーが敗北した後、その敗因を分析したインタビューで語っていました。

BLM運動は何を映し出しているのか

――三牧さん自身はマーク・リラの主張をどのように捉えていますか。

三牧 あの論説は2016年のヒラリー敗北という絶妙のタイミングだったので、説得力があったと思いますが、他方で「アイデンティティ・ポリティクス」に対するリラの、やや偏った見方もあるように感じます。アイデンティティ・ポリティクスとシティズンシップは対立しないと思うんですよね。アイデンティティ・ポリティクスは、市民的な共通性や公共性を破壊する危険な思想だというのは、それこそ今の社会の維持を願い、マイノリティたちの変革の要求を快く思わない保守派が長らく使ってきたレトリックです。

 でも、アイデンティティ・ポリティクスを主張する側は、そんな保守派の批判は百も承知で、その批判を乗り越えるような運動を進化させてきたと思うんです。その1つのかたちが、BLM運動だと思っています。BLM運動は1つのアイデンティティに収斂しないよう非常に配慮された運動です。発起人の3人の黒人女性にはクィアの女性も含まれ、今までの黒人の運動でしばしば周縁化される傾向にあった女性やクイア、トランスジェンダーを中心に据えることの重要性をうたっています。またBLM運動は若い世代が主流で、そこには大勢の白人も参加しています。BLM運動は多様な人々をどんどん取り込みながら、むしろ結束を強めていっている。 

 BLM運動が究極的に求めているのは、アメリカ市民としての平等です。公民権運動を継承し、それをさまざまな形で発展させていることから、公民権運動2.0と呼ぶ向きもあります。リラのようにアイデンティティ・ポリティクスとシティズンシップを対立的に捉えてしまうと、BLMのようなさまざまなアイデンティティを持つ人たちが参加する、多中心で重層的な、新しい連帯のあり方を適切に位置づけられなくなってしまいます。

コロナ禍の今だからこそ読みたい『幸福な監視国家・中国』と『戦後補償裁判』

――最後にこのコーナー恒例で、三牧さんが読んで面白かったNHK出版新書をご紹介ください。

三牧 2冊紹介したいと思います。1冊目は梶谷懐さん・高口康太さんの『幸福な監視国家・中国』です。この本は、私たちがともすると陥りがちな優越感、すなわち私たちの民主主義的で法治主義的な社会のほうが、中国社会より魅力的であり、活力があるという優越感を根本的に問う内容になっています。民主主義・法治主義を今後も守りたいと思う人々こそ、ぜひ読んでほしいです。

 本書から見える「監視国家」の様相は、私たちの想像とは異なり、必ずしも「押しつけられた」ものばかりではない。AI・アルゴリズムを用いた統治は、中国人の行動様式にフィットしている側面があり、少なくとも庶民レベルでは、自由を奪うものとして嫌悪されるどころか、合理的なもの・便利なものとして受け入れられている。他方、中国における「法の支配」の欠如を批判するアメリカや日本においても、テクノロジーの発展によって「法の支配」はどんどん揺らいでいます。自立した個人が意思決定をして、望ましい法を自分たちで決めていくという西洋起源の発想や、個人の尊厳や法の支配を価値として守らねばならないという意識は、現在、日本や欧米諸国でどれほど確かなものとして根付いているかといえば、自信を持ってイエスとは言い難い現状がありますよね。

 本の内容から少し離れますが、たとえばいま国際社会でアメリカと中国、どちらが魅力的か、即答できるでしょうか。人権については、アメリカは中国に対してほぼ絶対的なアドバンテージがあったはずです。しかしトランプ大統領は、人権弾圧を強めている中国を批判しながら、人種差別の是正を求めるBLM運動を「極左の扇動」と批判し、「法と秩序」を掲げて弾圧すらしようとしている。トランプ大統領は、いや、米中の事情は全然違う、といいたいでしょうが、しかし、世界から見ると、人々の抗議に対する米中のリーダーの対応にはどっちもどっちに見えるところもあるでしょう。トランプ大統領は、WHOを「中国寄り」と批判して、懲罰の意味も込めて脱退を宣言したわけですが、その間、中国の方は着実にWHOとの提携関係を強めている。もちろんそこには中国の野心もあるでしょう。しかし、パンデミックの最中に脱退を宣言したアメリカと、中国、どちらが頼りになるリーダーに見えるでしょうか。世界の諸国は、結構冷静にみていると思います。

新書1

 中国の人々にいくら自由や人権、法治国家の理念を説いたところで、そもそも自分たちの国でこれらの価値の揺らいでいるのならば、説得力はありません。梶谷さんの本は、日本をはじめ「リベラル・デモクラシー」を自称する国々の現状を省み、その先を考えるうえでも必読の本だと思います。

 2冊目は、栗原俊雄さんの『戦後補償裁判』です。戦後、日本政府は、元軍人・軍属やその遺族へ莫大な恩給や遺族年金を支給してきました。しかしそれとは対照的に、広島と長崎の被爆者や沖縄戦遺族らを除き、民間被害者への補償を一貫して拒否してきたわけです。この本では、そういう姿勢を支えた論理として「戦争被害は国民が等しく耐え忍ばねばならない」という「受忍」の論理を指摘されていたことが、とても印象的でした。

 この「受忍」の論理は、民間人への補償を拒む論理として機能するだけでなく、政策決定者の選択の結果として生じる戦争を、あたかも天災の受忍であるかのように論じることで、結局誰の選択の結果、先の戦争が起こり、敗戦必至の情勢でも無益に続けたのかという「責任」の問題が見えにくくしてきたようにも感じています。そうした意味では、「戦後は終わった」どころか、私たちはまだ戦後を始められてもいないのかもしれません。 

 そもそもは天災でありながらも、その後の政府の対応も加わり人災の要素も強まったコロナ禍で、国家から「受忍」をひたすら迫られている日本国民の現在の苦境とも重なるところが多くあります。その意味でも、いま読まれてほしい本です。

新書2

――丁寧なご紹介をありがとうございます。三牧さんの次著はもう決まっているんでしょうか。

三牧 今日お話ししてきた、第一次世界大戦期に、世界に対するアメリカの使命をうたいあげたウィルソンの時代からのアメリカ外交の100年を「例外主義」をキーワードにまとめたいと思っています。今回、アメリカの例外主義が終わりつつあることをお話ししました。トランプ大統領は就任演説で、アメリカは世界に対して特別な使命を持つ「例外国家」などではない、むしろ外国に搾取されて傷ついている「普通の国」なんだとうたいあげ、「アメリカ・ファースト」の方針を掲げました。つまりアメリカ・ファーストというのは、アメリカだってその他の国とそう違わないんだ、さまざまに傷ついて弱くなっているのだから、今後は自国の利益になることを赤裸々に追求させてもらう、という表明であり、その根底にあるのは弱さの認識といえます。アメリカは特別じゃない、強くなんかないし、国内はいろいろボロボロだという認識は、今、多くのアメリカ人に共有されています。

 しかし私がここで注目しているのは、だからといってみんながみんな「アメリカ・ファースト」でいこうという、トランプ大統領の方向を追求しようとしているわけではないということです。そこに実にさまざまな模索が生まれている。特にアメリカの若者世代が今後、どのような国際認識に立って、どのような世界との関わりを模索しているのかをみていきたいと思っています。かつて、アメリカが強さを誇った「アメリカの世紀」は終わりつつある。しかし、これは必ずしも暗い話ではない。アメリカ外交100年の歴史を踏まえて、新しいアメリカがはじまりつつある「いま」を捉えたいと思っています。

〔第10回へ続く〕

〔第8回へ戻る〕

プロフィール
斎藤 哲也(さいとう・てつや)

1971年生まれ。ライター・編集者。東京大学文学部哲学科卒業。ベストセラーとなった『哲学用語図鑑』など人文思想系から経済・ビジネスまで、幅広い分野の書籍の編集・構成を手がける。著書に『もっと試験に出る哲学――「入試問題」で東洋思想に入門する』『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』がある。TBSラジオ「文化系トークラジオLIFE」サブパーソナリティも務めている。
*斎藤哲也さんのTwitterはこちら
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