原作者が尊重され、守られるように――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子
『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。今月は、映像化の際に原作者に大きくかかる負担について、小説家であり、かつて脚本家志望だった柚木さんからの提言です。
※当記事は連載の第35回です。最初から読む方はこちらです。
#35 映像化と原作者
テレビドラマにもなった漫画「セクシー田中さん」の原作者・芦原妃名子さんがお亡くなりになった。映像化にあたっての条件が守られず原作が改変されてしまい、それを防ぐため自ら脚本を書くなどして、心身ともに疲弊していたことが背景にあるようだ。私はドラマも原作もその違い含めて楽しみにしていたので、事情を知って、申し訳ない気持ちになっている。
作品を守るためには、原作者がたった一人、身を削らなければならなくなる孤独も、その時に制作サイドに面倒がられる悲しさも、痛いほどわかる。同時に、こうしたことが起きてしまう制作サイドの構造もよくわかる。というのも私は、大学生の頃、テレビドラマ業界であらすじを書くアルバイトをしていたためだ。
両方の立場を経験した人はあまり多くないと思うので、書く責任があると思う。
(ここから先は、約23年前の私の回想となる。人の命が奪われ、社会的ショックが大きな事件で、ふざけたことは書きたくない。しかし、結論に向かうためには、23年前の私が書いたあるプロットに触れないわけにはいかず、それが相当ふざけているので、そういったことを今読みたくない方はスクロールして最後の段落だけ読んでほしい。見つけやすいように「★」を打っておく)
23年前、大学生の私はテレビドラマの脚本家を目指し、教室に通い、そこで紹介された制作会社のようなところでバイトし、原作になりそうな漫画や小説を探し、映像化の企画書を書いていた。
子供の頃から小説家になりたかったが、小中高通してついに一本の小説も完成させることができず、自分にゼロから物語を構築できる力はないと諦めた。そこでテレビドラマの脚本家になろうと方向転換した。
というのも、90年代、テレビドラマは原作モノが花盛りだったのだ。さらに、今の時代からは考えられないくらい、原作とドラマが別物だった。たとえば、女性監察医たちの活躍を描いたドラマ「きらきらひかる」も、バリキャリ女性行政書士とフリーター女性の友情モノ「カバチタレ!」も、原作はシスターフッドというわけではなく、重要なキャラクターの性別が違ったりする。「東京ラブストーリー」に至っては、原作のリカと鈴木保奈美さんのリカに別人感さえある。もしかすると、原作者さんには忸怩たる思いが、あったのかもしれないが、そこはまだ可視化されておらず、私は「優れた原作を脚本に起こして、自分らしさを足すのだったら、私にもできるのでは?」と浅く考えていた。
そんなわけで、制作会社で「1週間に1〜3本、ドラマ化できそうな原作を見つけて、企画書にまとめて。企画が通ったら、もしかすると、11話(当時のテレビドラマは全11話が主流だった)のうち1話くらいは、執筆できるかもしれない」と言われた時、私は待ってました、と本屋に走った。
その時の景色を今でも覚えているのだが、見渡す限りの本が、全部ドラマになる可能性を秘めている宝石に見え、ワクワクした。この世はでっかい宝島。私は片っ端から、映像化に向きそうな小説をハンティングする。
当時、私はフランス文学科で、不倫とか悲劇的恋愛を描いたフランスの名作小説をウンウン唸って摂取していたのだが、2000年代初期、同じ景色を見つめている日本の女性作家たちが描く小説をここで読み漁ることになる。面白い! 山本文緒さんに恩田陸さん――。主人公が恋や夢や仕事を通じて成長していく物語。女の人がどんどん死ぬフランス文学より断然好き! この人たちの小説をそのままドラマにすればもう、成功じゃないか!
私は寝る間を惜しんで、これぞという原作をポップな企画書に仕上げていく。一ページ目に物語を一言で表す分かりやすいキャッチと企画意図、大体のストーリー、二ページ以降には原作を元に11話分のプロットを書く。すぐ慣れた。
(それからわずか10数年にして、自分が勝手に企画書を書いてきた作家たちに出会い、同業の後輩として接するようになるとは、この時の私は知らない)
しかし――。
「君の企画書は面白いけど、これ、ただ単に原作のプロモーションじゃないか」
これはあるプロデューサーに言われたことだ。
そうなのである。先輩であるプロの脚本家さんたちは原作をちゃんと生かしつつ、自分らしい物語を構築したり、オリジナルキャラを生み出したりしていたのだが、私はただ単に原作の良さだけギュッと詰めて「この作品を今どこよりも早く映像化すべき10の理由」「この作者のここがスゴい」と熱く解説することしかできなかった。脚本家というより、これではビブリオバトルである。そんなわけで、数えきれないほど企画書を書いたが、一本も通らなかった。これはよく業界で言われることだが、プロットばかり書いていると、オリジナルの物語を構築する技術は身につかない。そうしている間にもまめに応募していたシナリオ・コンクールでは落選ばかりだった。
(しかし、それから10年以上の時が流れ、書評仕事を引き受けるようになった時、本を爆速で読み、最大限に魅力を伝える能力は、ちゃんと役には立つようになるのである)
私のような人間は、原作ではなく、オリジナル企画で勝負するしかなさそうだ、とようやく気付く。そうだ。賞を取らずにいきなりオリジナルでデビューできる人もいるにはいるではないか! 今は事情が変わっているかもしれないが、当時は「世にも奇妙な物語」の企画書コンペで勝ち抜くことが一つの方法であった。あの北川悦吏子さんも「世にも〜」デビューであることは有名な話である。
新人プロットライターたちのブレイキングダウン、それが「世にも」!
そこで次クールの「世にも」スペシャル企画に出せそうなやつ、何かない?とプロデューサーが口にしてすぐ、私は渾身のオリジナル物語を書き上げ、提出した。今手元にあるので、要約して書き写そうと思う。当時大好きだった、ともさかりえさん主演ドラマ「ロッカーのハナコさん」(これも漫画原作)に多大な影響を受けているのはご愛嬌である。
「バブルさん」
〜ロッカーの向こうはキラキラした花金のTOKYO!?
平成OLはシンデレラの約束を守れるのか〜
日々に疲弊する派遣OLの奈美は、会社で同僚から白い目で見られている、年齢不詳のトサカ頭厚化粧ボディコン姿のベテランOL「バブルさん」に誘われ、終業後、彼女のロッカーに入る。長い階段を降りた先には、バブル期の東京が広がっていた。現代ではイタいバブルさんのファッションもここではむしろ最先端! 二人は踊り狂い、男たちに奢らせ、夢のように楽しい時間を過ごす。十二時までにロッカーに戻らないと現代に戻れない、とバブルさんは何度も忠告するが、奈美は回を重ねるごとに、だんだんと帰りたくなくなり、最後は「この時代に残る」と決める。すると、バブルさんは重大な真実を告げる。実は「バブルさん」という役割はもう何代にもわたって受け継がれてきて、自分の前には何百人ものバブルさんがいたそうだ。役目を終えるには、現代に生きる女性を過去に誘い、バブルの時代に残ることを選ばせ、生贄としてTOKYOに差し出すしかない。すると、現行のバブルさんは次のバブルさんに切り替わるのだという。「私も以前はあなたと同じような平成の派遣で、毎日つまらなくて、前のバブルさんに誘われてここにきた。楽しく過ごすうちにいつの間にか月日が流れ、バブルさんになっていた。そりゃ楽しいけど、ずっとひとりぼっち。あなたを次のバブルさんにしようと思って声をかけたけど、友情を感じている。生贄にはできない」と告白する。奈美はにっこりしてある決断をする。「二人でここに残ろう」と。
話は現代に戻る。今日も遠巻きに見られている二人の年齢不詳のベテランOL。時代にそぐわない化粧とファッション。それはバブルさんと年齢を重ねた奈美の姿だった。誰もが時代おくれ、イタいと笑うが、二人は今日もアフター5のために幸せそうに力を合わせて働いていた。
タモリ「現実よりも奇妙な世界の方が居心地良く感じる人は案外、多いんじゃないんでしょうか? ほら、今夜もこんなにたくさん――」
振り向くと、何百人ものバブルさんが扇子を手に踊っている。タモリもニヤリと笑ってそこに飛び込む。
〜FIN〜
「これ、いくらかかると思ってるの_」
企画書から目を上げたプロデューサーに問われ、私は面食らう。
「エッ、面白くないですか!?」「面白いとか面白くないじゃなくて、バブル期の東京を再現する予算はない」と、彼はあくまでも優しい口調で諭した。
そもそもタイムスリップものはお金がかかるから、当時は御法度とされていた。暗黙の了解でダメなことは他にもたくさんあった。駅での撮影は早朝、利用者が少ない時間を狙うしかないから避けるのがベター。海外ロケなんてもってのほか。物語はA地点からB地点にわかりやすく進み、主人公は何かしらの達成をしないとダメ。固有名詞やブランドは登場させない方がいい。一話の中で出てきた舞台は何度も使い回さないとダメ。あと喫煙シーンは女性の俳優の事務所が嫌がるから基本NG。
私は当時、アメリカの「セックス・アンド・ザ・シティ」(以下SATC)にハマっていたのだが、あのドラマにはとんでもないお金がかかっていることをやっと理解する。一話の中に複数の脚本家が参加し、一回こっきりの実在するカフェやクラブが多数登場し、主人公たちは固有名詞を乱発しながらダラダラ無駄話をして、物語はAからBに進むどころか停滞、後退する時さえある。あと主人公はヘビースモーカー。面白いドラマにはとんでもないお金がかかるのだ。かけられないのであれば、あらゆる規約や条件を守りながら、自分だけの物語を構築するアクロバティックな才能がないといけない――。
ここまで日本のテレビが原作に頼るのも、そもそも予算と時間がないからなのだ。それでも私は、懲りずにオリジナル企画を出したり、二時間サスペンスのオリジナルあらすじをプロの方に買っていただくなどして、自分なりにいろいろ頑張ったのだが、もう就職活動の季節だった。時間切れである。私に脚本家は無理。
同時に、閃いた。「あれ、原作を書いた方がまだ楽じゃないか?」
そして23年後、私は当初の目標だった小説家になっている。いろいろと苦労もあるが、少なくともドラマのような制約が何もないので、その点は本当に楽である。だから、私の小説には、自分が煙草を一本も吸ったことがないのに喫煙者がよく登場するし、駅が意味もなく出てくるし、海外や好景気の東京が唐突に登場する。禁止されていたことが、無料かつ、誰からも批判もされずのびのび描けるのはありがたい。
同時に、映像化の話もいただけるようになり、過去の自分の言動がブーメランになってぶっ刺さってもいるのである。映像化にあたっていくつかの改変を求められ、「ウッ」となったことならある。全部流れてしまった企画なのだが、例えば、原作では親友同士の女性を、水面下で憎み合っているように変更すること、元気いっぱいのキャラクターを余命いくばくもない設定に変えること、カラッと陽気な物語にとても悲しい、同情すべき過去をつけ足して「深い」ものに変えること――。
「え、それ、もう私の小説じゃなくてよくないですか? オリジナルで書いたらいいじゃないですか?」と言いそうになることがある。そうなると蘇る。
大学生の頃、原作ハンティングしている時、書店の本がみんな宝石に見えた。それは、著者が心を込めて書いた原作が、自分の夢をかなえるための「素材」に見えていたということではないか――。「まあ、私も同じようなことしようとしていたんだよなあ」と悔やみつつ、あまりにも「?」と思った時は、意見を言うようにしている。何十人もが関わっているプロジェクトがその時点で止まる事情も理解できるので、心苦しくもある。
ともあれ、原作者がタッチできるのは、ここまで。あとは撮影現場を見学できるくらいで、作品に関わる機会はもうない。この「蚊帳の外」である構造を逆手に取ったのが、2022年に作家仲間たちと出した「映像業界への性暴力撲滅ステートメント」である。当時、映像業界の内部にいる人たちがセクハラパワハラをやめてくれと訴えるのは難しい状況だったが、基本的にクレジットに名が出てくるだけで、部外者である原作者が何を言っても、しがらみは発生しない。映像化に強い作家さんたちが参加してくれたおかげか「効果があった」と業界関係者からの声を聞いている。
★
23年前でさえ、予算のなさと時間のなさがテレビドラマの現場ではしきりに叫ばれていたのだから、現状は推して図るべしだ。立ち止まることが一切許されない激流のような制作現場で、原作者が「あの、ちょっと待ってください」と声を上げた時、どんな反応をされたのか、想像すると胸が痛む。
いきなり構造を変えるのは、無理だとは思う。ただ、一年のうち、一つの局で扱う原作モノの点数に制限をかけてはどうか。もしくは、テレビドラマの枠を減らし、そのぶん、一本にかける制作費を上げることは難しいだろうか。空いた枠には、配信もされなければソフト化もされていない、過去の名作を流したらどうかというのは、素人考えだろうか。
ドラマ版の「セクシー田中さん」の最終回、日本のテレビではほとんど見たことがないような場面があった。思うようにダンスが踊れなくなった田中さん(木南晴夏さん)を朱里(生見愛瑠さん)が外に連れ出す。二人はゲームセンター、中華街、スケートリンクで遊ぶ。ここにかなりの時間が割かれ、二人のやりとりは丁寧に描かれる。劇的なことは何もないが、田中さんはいつの間にか、元気を取り戻す。この場面を見た時、私は日本のドラマは成熟したんだな、と感動した。これが従来のルールだったら、おそらくスケートリンクは、何らかの深い意味を持つ場所(例えば、朱里の生き別れた家族との思い出の場所とか)だったりする。ないし、朱里から衝撃的な告白が繰り出される、など。
何か特別なことが起きないと、主人公は元気になってはいけない、という不文律が、少なくとも私が片足を突っ込んでいた頃のドラマ業界にはあったように思う。現実の私たちは、誰かにそっと寄り添ってもらったり、ふとした瞬間見上げた景色によって心が動くのに、それを描いてはいけないことになっている。
だから、あの場面を原作者が自ら書いたものだと知った時は、ショックだった。ああ、原作者が手弁当でここまで身を削らないと、日本で豊かなエンタメは作れないのか――。去年、ドイツで本が出た時、向こうの編集者に私の日々の仕事内容を聞かれて、驚かれたことがある。
「日本の作家は、エージェントをつけないの? プロモーション含め、一人でこれだけ動いてるの? それでもし本が売れなかったらどうするの? 出る媒体の選別は自分でするの? 映像化の脚本の確認から単発のコラム依頼もみんな受けるの? 一体、どうやって長編書き下ろしの執筆時間を捻出するの?」
出版社やテレビ局の激務や世知辛さもわかる。でも、どうか、孤立しがちな作り手を守ってほしいとも思う。原作が、原作者が、巨大プロジェクトを動かすための、単なるコマの一つとみなされている限り、悲劇はまた起きる。
芦原妃名子さんのご冥福を心からお祈りします。
次回の更新予定は3月20日(水)です。
題字・イラスト:朝野ペコ
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はじめての子育て、自粛生活、政治不信にフェミニズム──コロナ前からコロナ禍の4年間、育児や食を通して感じた社会の理不尽さと分断、それを乗り越えて世の中を変えるための女性同士の連帯を書き綴った、柚木さん初の日記エッセイが好評発売中です!
プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)
1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』『オール・ノット』など著書多数。12月25日に初の児童書『マリはすてきじゃない魔女』(エトセトラブックス)が発売に。