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震災と帰郷 44年ぶりの街での出会い――「熊本 かわりばんこ #01〔人生の第二章が始まった〕」吉本由美

 長年過ごした東京を離れ故郷・熊本に暮らしの場を移した吉本由美さんと、熊本市内で書店&雑貨カフェを営む田尻久子さん。
 本と映画、そして猫が大好きなふたりが、熊本暮らしの手ざわりを「かわりばんこ」に綴ります。

人生の第二章が始まった

 いろんなところに書いてきたからそれらを読まれた方には「もうわかった、耳タコだ」とげんなりされそうだけれど、ご存じない方のほうが多いと思い自己紹介として故郷にUターンしたところから書かせていただく。

 私は44年間東京に住んでいた。その長き暮らしを畳んで故郷熊本に戻ったのが10年前、62歳のときだ。長き暮らしを畳んだ理由については追々書くのでここでは端折り、とにかく10年前の3月13日、お昼過ぎ、唯一の家族であるコミケの入った猫カゴ抱え、数年前から住み手のなかった実家に戻った。東日本大震災から二日後のことだ。
 二日前の11日は手伝いに来てくれた友だち二人と引っ越しの荷造り作業に精を出していた。地震発生午後2時46分東京もかなり揺れ、その激しさに、長年怯えてきた東京直下型大地震がここを二日後に立ち去ろうという今起きた、と思った。なんで今!? と憤ったけれど、私には昔からそういう不運な面があるのでやはりそうかと腑には落ちた。しかし震源地は東京ではなかった。揺れが落ち着き急いでテレビをつけ、東北の大惨事を知った。テレビ画面に次々と映し出されてくる光景は、最初の「えーっ?」という驚きから、時間の経過とともに“この世のものとは思えない”ものになっていった。嘘だとしか思えなかった。言葉も出なかった。笑いながら始めた引っ越し作業はそこでストップした。
 その二日後に実家に着いたときは、大惨事のショックと引っ越し作業の疲れから夢遊病者のような状態だった……と思う。予定の時間に引っ越し業者が到着し荷物が運び込まれ、それらが一階のあらゆる空間を埋め尽くしていくのをぼんやり見ていた。東北のその後が気になり、業者にテレビだけはセットしてもらいONにすると、画面は津波被害のみならず福島第一原子力発電所1号機水素爆発事故の報道で大混乱の体だった。梱包を解いた一人掛けソファーに崩れるように倒れ込んだ。
 そのときほど「これは地獄だ」と思ったことはない。身の回りのものだけ抱え避難を余儀なくさせられた地元の人々の不安と哀しみの表情は忘れられない。テレビの前でこうして平穏でいていいのだろうかと身を正す。大切な家やペットや家畜を残し立ち去らなければならない人々、そして津波でそれらをすべて失った人々。自分と被災地の人たちとの状況の差が大き過ぎて考える力も湧いてこなかったように思う。安全な実家でこれから新しい人生を始めようという自分が罪人のように思えた。いつまでもただふぬけのようにテレビ画面を見て、段ボール箱の山を見ているだけだった。画面の中の惨事について話し合う相手がいないこともふぬけとなる要因だったかも知れない。一大事のときそばに誰かがいるということは本当に重要だと思った。一人が好きな自分だがこのときだけは心底そう思った。その夜は荷物を開ける気力も、移動と新しい環境に怯えて姿を見せないコミケを探す気力もなかった。

見知らぬ街

 という具合で、人生第二章の幕開けとしては最悪の状況でスタートした熊本暮らしだったが、それでも、肌にとろりと柔らかい天然湧き水の水道水とか、甘くておいしい空気とか、雑草の青い匂い立ち上る庭とか、東京とは異なる地方のささやかな、けれどかけがえのない恩恵に浸りながら、何とか新しい生活を始められたのはふた月後の5月、新緑の季節だった。閉じ籠もって悶々としていた日々からやっと脱出し、外に出て、顔を上げ、街をさまよい歩く(熊本の方言ではそれを“されく”とか“さるく”とか言う)ことができるようになった。

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自宅から熊本市街へ向かう途中の川辺

 私は熊本市で育っているのだが、半世紀近く時が過ぎると街は見知らぬ街だった。それが旅人になったようで楽しくてあちこち歩いた。新しい街の探検ほど楽しいことはない。昔の姿をうろ覚えしている身であればなおさらだ。たとえば、子供の頃はただの味気ない路地だった気のする細道が、いつの間にか間口の狭い小さな個性的な店の並ぶ楽しげな“通り”に変わっているのを見たときのワクワク感。ただの坂道が並木坂という名を貰い街路樹繁るきれいな坂道となってそこに魅惑の坩堝(るつぼ)のようなレコードショップがあるのを知ったときの喜び。ジャズ演奏を聴かせる店があり、猫のいる可愛い花屋があり、そんな中にも昔ながらの(熊本時代の漱石が通ったという)古書店が毅然として残り、記憶にある建物とは180度異なるモダンな姿に変身した映画館があり、地方の町の活気があった。高校生の頃やたら美味しい“蜂楽饅頭”を買いによく来ていたアーケード街に2軒の大きな本屋が元気に残っていると知ったときの、ああまだこの街は大丈夫という安堵感が嬉しかった。これから過ごす自分の街の今の姿を探し歩いて時を過ごした。

女の子が一人で営む店

 そして私には行かなくてはならない場所があった。それは東京を去る前にキタさんが「行ってみたらいいよ」と教えてくれた〈雑貨カフェ オレンジ〉だ。
 キタさんというのは東京の表参道にある店〈Zakka〉のオーナー吉村眸さんのパートナーである写真家・北出博基さんのことだ。同業(スタイリスト)だった眸さんが開いた雑貨屋ということもあり〈Zakka〉にはオープン当時から仕事でもプライベートでもよく行った。私がまだスタイリストをやっていた頃だからもう30年以上も前の話だ。当時は原宿明治通りのビル地下にあった。地味なビルの地下なので人通りもなく静かで、眸さんとお喋りしていると、ときどき奥からキタさんが顔を出してひと言ふた言茶茶を入れサッと消える。それは気の利いたアドバイスだったり、ただの冗談だったりする。照れ屋なので出入りはとにかくサッと。だから聞き返せないことも多かった。
 私が恵比寿のバーでバーテンダー修業を始めたときは様子を見に夫婦二人で来店くださった。シングルモルトの店とわかって、その後ときどきキタさん一人でいらした。いつも暗い店内のカウンターのいちばん隅っこの、カウンター内からは死角の席にお座りなので目の悪い私にはわからなかった。マスターの青木さんが「あの端っこにいる人、キミのお友だちじゃないの?」とか「お友だち来てるよ、いつもの端っこのとこ」とか言ってくれるまで毎度私は気付かなかった。気付いたからといって何を喋るでもない。黙って2、3杯飲んで「じゃ」と言って帰られるだけだ。そっけない。でもこの飲み方がキタさんらしくて私は好きだった。
 そんな彼が「熊本に帰ったら行ってみたらいいよ」という店とはどういうところか興味が湧く。キタさんは「女の子が一人でやっているんだよ、喫茶店と雑貨屋を」と笑って言う。女の子ったってキタさんから見ればってことで、ちゃんと大人の女性だろう。眸さんが「あの人、他とは違ってたね」と言う。二人の話を組み合わせると、今や丁寧な手作りのものだけを扱う雑貨店の“老舗”である〈Zakka〉には、これから雑貨屋さんをやりたいという若者が参考のためや取引の挨拶によく訪れるという。その誰も彼もの口から出るのは「〈Zakka〉さんのような器を中心としたお店を作りたい」という言葉。つきましては仕入れ先を教えてほしい、ということらしい。それを聞いて、甘えんなよ! 企業秘密を誰が教えるかよ!と外部の者ながらカッとした。仕入れ先は眸さんが長年かけて探し回って見つけたのだ。それを簡単に教えてと頼むその甘え心が許しがたかった。
 そういうことをひと言も口にしなかった唯一の存在が〈雑貨カフェ オレンジ〉の田尻久子さんとのことだった。彼女はキタさんの写真で作ったポストカードやカレンダーの仕入れの依頼に来たという。キタさん、それは嬉しいはず。だから鮮明に覚えていたのだろう。それで私の熊本帰郷を知って即座に「行ったらいいよ」と口に出たのだ。どういう店を作ったのか知りたい様子だった。

隣で本屋も

 そういうわけで帰郷後私はそこへ行かなければならなかった。現在は移転したが10年前の〈オレンジ〉は新市街という熊本でもことさら繁華な街中にあった。玉屋通りという小さな路地の奥、傾きかけたような古い長屋造りの建物の一角だ。白い木枠のなかなか開かないガラス引き戸が入口だった。最初に行ったときその戸が開けられなくて苦労していると店の中から若い女性が「コツがいるんです」と言って開けてくれた。キタさんが“女の子”と言っていたからこの人か、と思ったが、違う気がした(後にお手伝いのゆきこちゃんと知る)。店内に入って奥のカウンターに座り、中にいた青年にコーヒーを頼んだ。ついでに「田尻さんはいらっしゃいますか?」と訊いてみたら「今日はお休みしてます」ということだった。う~む、やっと来られたというのに不在とは。
 唸りながら店内を見回す。古い造りにいろいろと工夫を凝らし居心地の良い雰囲気に仕立ててあった。器あり、アクセサリーあり、布小物あり、可愛い置物あり、石けんあり、靴下あり。〈Zakka〉と比べると雑然としているところが若くて素人っぽい。キタさんが“女の子”と言ってたからな、と納得しながらカウンター横の棚を見ると、そこはカード専用の棚で中にキタさんの写真のポストカードがあった。ある、あると思ったが、それ以上に目を引いたのがその横にある大きな穴だ。大人はちょっと屈む必要があるが子供なら平気で通り抜けられるほどの大きな穴だ。隣と通じているらしく先ほどの戸を開けてくれた女性がひょいひょい屈んで出入りして、訝しげに見ている私に「隣で本屋もやってるんです」と教えてくれた。え?と興味が湧いたが客が次々やってきてカウンターあたりが賑わい始め、気後れしてその日は帰った。

この夜も……

 二度目に行ったのは6月だった。詩人伊藤比呂美の『方丈記』朗読会が催されるという記事を地元新聞のインフォメーションで知り、大震災の直後にふさわしい題材だと申込先を見ると〈オレンジ 橙書店〉となっていた。あの穴の向こうの本屋は〈橙書店〉というらしい。そうか雑貨屋が〈オレンジ〉だから本屋は〈橙書店〉ってわけか。道理道理、と納得しながら申し込んだ。 
 朗読会当日は平安京の大災害を語る内容にふさわしく大荒れの天気で、バスが遅れ焦って橙書店に行くと中はすでに満杯でドアは開かない。オレンジ側に走り込むと一人の細長い女性が対応に出た。遅れ気味の客を急かすこともない落ち着いた雰囲気にこの人が「田尻久子」とピンと来た。申し込み氏名を告げると彼女は「ドアは開けられないので」と言ってあの大きな穴を指差し、「ここから入っていただけますか?」と聞いた。もっちろん! ですことよ、まるでアリスの世界じゃないですか。前回からその穴抜けたくてうずうずしていたのだ。
 穴を抜けると本屋……というか朗読会場だった。狭い本屋店内はすでに超満員で、今か今かと皆さん穴の横のステージを見つめ目を輝かせていた。そんなところにチョンコロリンと穴から出て来たチビな老女の私である。「ん?」という声なき声を全身に浴びて固まり、「あそこしか空いてないんです」と久子さんの言う一番前に置かれた誰も座れないような小さな腰掛けにカラクリ人形のように座った。そして見上げる伊藤比呂美。偉大だ。1メートルほど目の前で鴨長明に乗り移られたかの如く、熱く、ときに激しく語る彼女の迫力たるや、言葉なし。
 今日こそ挨拶をと思っていたが、朗読終了後はサイン会、被災地復興募金、詩人の本の販売、と忙しい久子さんに声を掛ける勇気もなく、募金だけしてこの夜も帰った。

三度目の正直

 ようやく話すことができたのは6月末だか7月初めの梅雨も明けそうな暑い日だった。すぐそばのモダンに様変わりした映画館で映画を観た後だったと思う。咽が渇いて〈オレンジ〉にお邪魔した。ラッキーなことに店内には久子さんだけで……いやもうおひと方、白い猫「白玉さま」もおいでで、猫の話からすぐにうち解けられた。普段はあまり飲まないアイスコーヒーを頼んだ。暑い日の昼下がり出歩く人はいないのか、客は誰も来ない。おかげでのんびりと茶飲み話に興じられた。

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白玉さま

「白玉さま」のことは初回の久子さん不在の日にお手伝いのゆきこちゃんから「いつもは猫がいるんですよ」と聞いていた。どんな猫かと思っていたらキリッと目元の涼しげな頭の良さそうな雄猫で、初めての人間にも動じることなく接客できる。感心した。ほぼ毎日久子さんと出勤して、一日を、店内を歩いたりカウンターに置物のように座わって接客したり二階に置かれた専用ベッドで眠ったりして過ごすそうだ。相棒なのだ。猫の相棒がいるとはまことに羨ましい限りである。私のところにもコミケという猫がいるが、相棒というより同居人だろうか、互いの生活には立ち入らないという距離がある。
 二階でボーダーの服の展示会をやっているというので見に上がった。小さな部屋いっぱいに様々なボーダー柄のシャツやワンピースが並んでいた。天井の低い屋根裏部屋のようなスペースだ。こういう空間は楽しいのでいつまでもいたら階下から久子さんが上がって来た。買わなきゃならないような気になり日頃の自分には派手に思われるカラフルな大きなボーダー柄のワンピースを買った。買ったもののさすがに外に着て出る勇気がなくて(服はとことんオジサン趣味なので)、けっきょく部屋着となり、後に寝間着へと育っていったが。

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橙書店の中2階から見下ろした店内

 再び階下の店内に戻り、もう一度アイスコーヒーを頼み、しーちゃん(白玉さまの愛称)をからかっていると突然「あの、吉本由美さんですよね?」と久子さんが訊いた。そういえば名乗らないままお喋りしていたのだ。はい、と答えると「すみません!今気付きました。失礼しました」と久子さん恐縮の面持ちになる。いえ、とんでもない。実はキタさんの紹介で来たのよね。一度目は久子さん不在で二度目の伊藤さんのときはご多忙で、今日が三度目。三度目の正直ね、と笑って答えた。
 それ以来〈オレンジ 橙書店〉には街に出るたびお邪魔している。以前の玉屋通りのときは、しーちゃんと遊び、久子さんと喋り、夕方6時を過ぎるとビールかワインを飲み、久ちゃん手作りのメニューを晩ごはんにだらだらと店の閉店時刻まで過ごし、家が近いので車に乗っけてもらって帰っていた。ときには互いの家に行き、互いの猫(当時彼女は白玉のほかに3匹の雄猫と暮らしていた)を可愛がった。

さらに思いもしないことが

 大晦日の夜は毎年〈オレンジ 橙書店〉に仲良し数人で集まって忘年・年越し会が開かれた。私が参加するようになって2、3年が人がいちばん多かったと思う。10人くらいはいただろうか。飲み物食べ物を持ち寄ってわいわい喋って除夜の鐘を聴いた。年を越したらみんなで近所の小さな神社へ初詣に行った。街はそことは違う有名神社へ向かう人々の話し声や足音でざわついていた。大晦日のさっきまでとは不思議に異なる新年の改まった気配が暗い街のそこここにあった。知り合いの誰一人いなかった熊本でこんな楽しい年越しができるとは、大震災の余波を体験したときは、東京を出るときは、思いもしないことだった。
 
 そして今年で10年という私の人生第二章。そのちょうど半分にあたる2016年の4月、再び大揺れに見舞われたのは日頃の行ないが悪いせいか。けれど熊本地震という二度目の大地震遭遇も大した被災もせず、普段の生活の大切さを知る良い機会ともなった。この夜のことは、空も音も匂いも空気の感触も映像として鮮やかに頭の中に刻み込まれている。でも長くなり過ぎた、このことはまた後日。

次(田尻久子さん)を読む

プロフィール
吉本由美(よしもと・ゆみ)

1948年、熊本市生まれ。文筆家。インテリア・スタイリストとして「アンアン」「クロワッサン」「オリーブ」などで活躍後、執筆活動に専念。著書に『吉本由美〔一人暮らし術〕ネコはいいなア』(晶文社)、『じぶんのスタイル』『かっこよく年をとりたい』(共に筑摩書房)、『列車三昧 日本のはしっこへ行ってみた』(講談社+α文庫)、『みちくさの名前。~雑草図鑑』(NHK出版)、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹、都築響一両氏との共著/文春文庫)など多数。

田尻久子(たじり・ひさこ)
1969年、熊本市生まれ。「橙書店 オレンジ」店主。会社勤めを経て2001年、熊本市内に雑貨と喫茶の店「orange」を開業。08年、隣の空き店舗を借り増しして「橙書店」を開く。16年より、渡辺京二氏の呼びかけで創刊した文芸誌『アルテリ』(年2回刊)の発行・責任編集をつとめ、同誌をはじめ各紙誌に文章を寄せている。17年、第39回サントリー地域文化賞受賞。著書に『猫はしっぽでしゃべる』(ナナロク社)、『みぎわに立って』(里山社)、『橙書店にて』(20年、熊日出版文化賞/晶文社)がある。

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