“真の民主主義”を公共施設の在り方から問い続ける映像作家フレデリック・ワイズマン――連載「アメリカ、その心の生まれるところ~変革の言葉たち」新元良一
自由・平等・フロンティアを旗印に、世界のリーダーとして君臨してきたアメリカ。様々な社会問題に揺れるこの国の根底には何があるのか? 建国から約230年。そこに培われた真のアメリカ精神を各分野の文化人の言葉の中に探ります。
第6回は、90歳を超えてなお精力的な作品を世に問う、ドキュメンタリー映画の巨匠フレデリック・ワイズマンです。
※第1回から読む方はこちらです。
第6回「わたしは自分が経験したこと以外、深く掘り下げる発言に慎重でありたいと思う」フレデリック・ワイズマン
2017年のアメリカでの公開時に、マンハッタンの映画館でフレデリック・ワイズマンが監督した「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス(Ex Libris: The New York Public Library:以下、ニューヨーク公共図書館)」を観たとき、経験したことのない高揚感に包まれた。この時代を生きるすべての人に対して、ワイズマンが自己解放せよと静かに叫んでいるように思えたのだ。
「静かに叫ぶ」と書いたのは、彼の映画づくりの手法に理由がある。
1930年生まれのワイズマンは、ドキュメンタリー映画監督として「チチカット・フォーリーズ(Titicut Follies)」(1967)でデビューして以来、精力的に作品を発表し続け、その数は50本近くに達する。図書館や学校、公園など公共施設を舞台とする彼の映画は、批評性の高い監督の見識が色濃く反映されると言われる。
興味深いのは、いずれの作品においても、ワイズマン自身の知見やメッセージといったものを押しつけようとしていないことだ。監督として、作品の解釈や是非の判断を鑑賞する人間に委ねる、そうした静観の姿勢が垣間見られる。
具体的な例をひとつ挙げると、ワイズマンの映画にはナレーションやインタビューといったものが一切ない。声が聞こえてくるのは、せいぜい公共施設の関係者が、当該の機関の活動報告や今後の展開を決めるなど、話し合いの場くらいで、それでもその出席者は映画のカメラに向くことはない。
つまりマスマディア、あるいはソーシャルメディアで得られるような、即座に情報の内容を伝達し消費されるものと、ワイズマンの映画は著しく異なる。端的に言えば、“自発的に思考すること”を観る側に求めるのだ。
観る側が思考で参加する映画
筆者もまた当初、ワイズマンの映画を鑑賞しようとすると、こうした独特なスタイルに面食らったひとりである。小学校や中学校の課外授業で、記録映画を“見せられている”ようで、説明らしきものが排除され、受け手への親切心に欠いた、平板で退屈な映像にすら思えた(いま振り返ると、自分の貧弱な観察力や理解力のなさに呆れるばかりだが)。
それがいつしか、全編を通じ一貫したストーリー性があり、映画のなかで提示された問題が、どのように解決に向けて取り組まれていくかなどの展開に、ある種のスリルを味わうようになった。会議で決まった活動計画が、それ以降、社会でどんな形で実行に移され、市民にどう受け止められるかをスクリーンで追ううちに、興奮や感動すら覚えた。
通り一遍のナレーションや、カメラの前で身構えて話すようなインタビューがなくても、監督の意図が汲み取れる。その時代のアメリカで何が起こっているのか、問題はどこにあるのかを認識すると同時に、問題に直面する人たちの行動からその心理を想像でき、気づきをも得られる、とそんな風にワイズマンの映画を受け止めるようになった。
映像の力だけで、多くのことを語り、なおかつ観る者に考えさせることが可能になるのは、ワイズマンの秀でたストーリーテリングのなせる業である。「ニューヨーク公共図書館」が日本で話題を集め、ヒット作となる前の2018年9月、ボストン郊外の彼のオフィスにて、監督本人と会う機会に恵まれたが、そのときワイズマンは、どれほど文学作品を愛読しているのかを語った。
ハーマン・メルヴィルやヘンリー・ジェイムズといった作家の小説に登場する人びとの言動や表情、立ち振る舞いから、映画作家としていつもインスパイアを受ける。さらに、古典と呼ばれる文学作品から、場面と場面のつなぎ方などのストーリーテリングの手法を学び取り、映画に反映できると語る一方で、映画づくりで目指すものを彼は言葉にした。
それが、「すぐれた文学は説教じみていない。わたしの映画もそうありたい」という思いだった。小説の文章の行間から社会や時代、そして人生の意義を学び取るように、場面から浮かび上がってくるものを、観る側が察知し、深く考える映画づくりを彼は常に心がけている。
自己を解放せよ
撮影中に提示された問題や状況を分析した上で、語るべき各場面を一本のドキュメンタリー映画に落とし込み、メッセージを反映させるのが、ワイズマン流の「叫び」と言えるかもしれない。スクリーンを前にしたわれわれはその光景をそれぞれの目で確かめ、現場の人たちの会話をそれぞれの耳で傾聴し、自分たちの価値観や倫理観、知識や経験を通して場面を理解しようと努める。
この鑑賞のプロセスを通じ、観る側はワイズマンが描く社会の断片を、ある意味で自分のものにしているのだろう。一方的に大量の情報を提供し、消費を強要し、考える余地をあまり与えようとしない既存のマスメディアや、誤情報を流すことも厭わないソーシャルメディアとは違い、登場人物の言動を注視し、状況を把握し、そこから思考をめぐらすといった映画の世界に身を置く経験と刺激は、これまで“眠っていた”自分を覚醒させる機会にもなり得るわけだ。
観る側の自主性を重んじる映画づくりに徹するのも、ワイズマンが民主主義への並々ならぬ思いがあるからだ。映画で取り扱われる問題と、それに対する取り組みの場面を見るにつけ、その思いは揺るぎないワイズマンの信念と捉えていいのかもしれない。
たとえば、「ニューヨーク公共図書館」で紹介される、インターネット接続に関する地域格差がある。シリコン・バレーというデジタル産業における最前線の地域を有するアメリカで、しかも国の最大都市となるニューヨークで、ネット回線が普及していない地区が存在するという、ショッキングな事実が本作によって伝えられる。
この格差に対応するため、図書館側は協議を行い、日常的にネットにアクセスできない市民に向けて、コンピューターを貸し出すプログラムを実施する。そればかりか、デジタルのインフラ整備ができていない場所へ図書館のスタッフがわざわざ足を運び、アクセスが可能となる回線を配備するなど、IT企業顔負けの市民サービスを提供する活動を、ワイズマンは提示する。
つまり、今や情報の入手が欠かせなくなった生活で、これを利用できない人がいることは不当で受け入れがたい、誰もが平等にネット利用が可能でなくてはならない、という民主主義に根ざした監督の訴えがここに存在する。
冒頭で書いた、「ニューヨーク公立図書館」を観て、自己解放を叫んでいるように感じたのも、この映画が民主主義の精神に立脚したものであることを、筆者が何らかの形で察知したからかもしれない。
ネットへのアクセスができず、情報が得られない人間がいる一方で、そんなライフスタイルをすでに取り入れる人間は筆者も含めて、果たして恩恵を活かし、自分の思考を十分に機能させているだろうか? 情報を即座に手に入れたとしても、次にまた新しい情報が出現するために、目移りし、消費するだけに終わっていないだろうか? あるいは、誰かがもっともらしい意見を述べたからといって、きちんとした考証もせず、それを鵜呑みにすることはないだろうか? 「いいね」の数が多いから間違いないと、ろくに内容をチェックせず、安易にその考えに賛同していないだろうか?
こうした疑問が矢継ぎ早に湧いてくるのと並行し、情報社会のなかで、自分で考えるためのアイデアを、ワイズマンが映画を通じて提案しているように感じた。そしてそのアイデアの形成には、“対話”という彼が尊重する民主主義の精神が、重要なカギとなっている、そんな気がした。
“対話”こそが民主主義の精神のカギ
「ニューヨーク公共図書館」に限らず、ワイズマンの映画には人びとが集い、互いの意見を交わす場面が毎回出てくる。納得したり、賛同したりするときもあれば、自分の考えと異なり、譲歩さえできない状況に直面すると、激論へと発展する場合もある。
ワイズマンの最新作となる「ボストン市庁舎(The City Hall)」(2020)の後半に出てくる、ボストン市内のとある地域のケースでは、同市で合法化された大麻を販売する小売店の出店計画についての企業側と住民側との話し合いが激論になる。
企業から店舗進出の打診を受け、その企業の幹部を交え、市政側は住民に呼びかけ、意見を聞く場を設けることとなった。
企業誘致は、新規のビジネスをもたらし、地域経済を活性化させる起爆剤となる可能性が見出せると企業側は期待する。さらに就業も確保されるなど恩恵がもたらされると強調し、住民代表の一部から同調の声も上がる。しかしその一方で、治安が悪化し、自分たちの暮らしが荒れると別の住民代表は懸念を表明する。
市役所からのスタッフが取り持つ企業と住民との話し合いは、その場で決議がなされることはなく、その場面を映画に収めたワイズマンが解決策を匂わせる風でも無論ない。一見すれば、どっちつかずの、答えのない状況のようにも思える。
しかしこの場面で重要なのは、スピーディに決議することでもなければ、異論を唱える相手を説き伏せたり、論破したりすることでもない。注目すべきは、出席する誰もが発言する権利を持ち、それを誰にも気兼ねせず行使している点にある。
労働者階級の住民が多い同地域は、黒人やラテン系、さらにはカーボヴェルデ(アフリカ北西部に位置する島々からなる国家)と多様なコミュニティによって構成される(ちなみに、出店する企業の代表は中国系)。それぞれに住宅や生活事情が異なり、文化的習慣も一様でなく、大麻の店ができることへの悩みや不安もひとつに限るわけではない。
だが、住民は声を上げる機会を得て、自分たちのさまざまな思いを自分たち以外の人へ周知することができる。そのすべてを受け入れるかどうかはともかく、耳を貸すことで企業側は、自らの思惑や言い分を再検討し、譲歩する可能性も出てくるかもしれない。
そんな状況を、映画のクライマックスに持ってくるところに、ワイズマンの民主主義への尊重と傾倒が表れている。さらに、住民や企業関係者が実際に向き合い、胸の内を明らかにする対話の様子に、「自己解放」という光明を筆者は見出す。
リアルなコミュニティが機能することで成長する社会
「ニューヨーク公共図書館」では、情報入手は平等の権利と訴えながらも、その情報はあくまで基盤であり、これを基に一般市民それぞれが思考し、知見を得て行動を起こし、良い社会が建設される希望を語った。しかし個人が考え、行動を起こすための知見を得る源泉は、情報ばかりではない。
「ボストン市庁舎」における住民と企業の対話の場面は、人びとが直接対峙し、自分の知らないこと、自分とは反対の意見に耳を傾ける機会を映す。その結果、それまで見過ごしていた誤りを認知させ、気づきをもたらす可能性も生まれる。
ソーシャルメディアの発展と普及は恩恵をもたらしつつも、同様の意見を持つ人との交流に慣れるがあまり、偏向した考えに陥りやすい状況をつくったと言われる。そうした時代にあって、対話の機会は新たな発想や知識、柔軟な判断力を授け、われわれの思考をアップデートさせ、個人、さらにはコミュニティ、社会全体の成長につながる期待を抱かせるのだ。
固定概念や他者に追随する思考の束縛から自らを解き放ち、新しい自分の獲得を目指せと映像を通して“無言で”訴えかける、ワイズマンが提示するそんな自主判断の行き着く先には、「行動」があるのだろう。「ボストン市庁舎」の公開に合わせ、「NYタイムズ・マガジン」で掲載された記事で、公共施設とは何か?と問われた彼の返答が、奇しくもそれを言い表している。
「わたしは自分が経験したこと以外、深く掘り下げる発言に慎重でありたいと思う」(拙訳)
多くの公共施設を舞台にした映画を撮ってきても、まだ答えを出すまでに至っていない。さらに映画を撮り、さらに考えを深める経験を積まなくては、自分の思いを口にできない、そう語っているように聞こえる。
来年1月1日に、92回目の誕生日を迎えるドキュメンタリー映画の巨匠。いまだ自身の学びや成長に貪欲な現役の映画監督である。
(了)
写真=Capital Pictures/amanaimages
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プロフィール
新元良一(にいもとりょういち)
1959年神戸生まれ。作家。元京都造形芸術大学教授。1984年から22年間ニューヨークに在住した後、2006年京都へ移転。2014年、NHKラジオ「英語で読む村上春樹」の番組ホストを1年間担当。2016年に活動拠点を再びニューヨークへ移す。著作に『あの空を探して』(文藝春秋)、『One author, One book』(本の雑誌社)など。現在、「ワイアード日本版」「TOKION」にて連載コラムを執筆中。