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渋谷の書店員のリアルな日常、街の情景、本の話――〔いくらと思い〕 新井見枝香

※当記事は1話読み切りのエッセイ連載の第25回です。どの回からもお読みいただけますが、第1回から読む方はこちらです。日比谷から渋谷の書店に移った新井見枝香さん、連載もリニューアル再開です。


 渋谷の書店で働くようになって、まず最初にぶち当たる困難が昼飯だとは思わなかった。限りある休憩時間に公園通りを行ったり来たりするも、食指が全く動かない。どこにでもあるチェーン店は悔しいし、キラキラした目新しい店は、制服の上にパーカーを羽織っただけの私には、敷居が高かった。私が食べたいのは、日本初上陸とか、SNSで話題とか、そういう意味ではない「渋谷ならでは」の昼飯なのだ。漁港に行ったら漁師が通う店を選びたいし、海外に行ったら日本語なんか通じない店に潜り込みたい。その土地に直接お金を落とすような、日常の昼飯こそが、午後からの仕事に活気を与えてくれるのだ。
 仕方なく入ったハンバーガー屋で空気みたいな昼飯を摂った日、仕事を終えた私は、腐るほど飲食店が並ぶ渋谷を抜けて、地元上野のアメ横に向かった。魚屋の店先で、立ったまま一杯500円のいくら丼を食べるのだ。立ち飲みの〆に適した茶碗サイズが、晩ご飯前のおやつに丁度いい。しかし、それが一気に「750円」にまで値上がりしていて、ハッとした。いくらを運ぶ飛行機が、混乱極まるロシアの上空を飛べる状況ではないのだ。その真下の国だって、食品の値段が高騰しているに違いない。食生活の自由が奪われることを想像すると、握りしめた500円玉がおめでたかった。
 今年、本屋大賞を受賞した『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬・早川書房)は、第二次世界大戦のソ連が舞台となるエンタメ小説だ。一流の狙撃兵になるべく集められた少女たちが、共に厳しい訓練を受け、それぞれの思いを抱いて戦地へ赴く。その中には、ウクライナ出身の少女もいた。現在のロシアによるウクライナ侵攻とたまたま出版時期が重なったわけだが、日本人作家が誠実に綴った物語は、その地に生きる人々の心を想像する力を我々に与えてくれたのである。直接的ではないにせよ、著者は自分にできる方法で世界に関わり、物事を良い方向へ導こうとしたとは言えまいか。果たして、私がこの大好物のいくら丼を食べる行為は、誰かのためになるのだろうか。
 『みやぎから、』は、東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県に、俳優の佐藤健さんと神木隆之介さんが実際に赴き、県内各地を旅しながら10年後の今を伝える一冊だ。震災直後にボランティアで訪れた二人だからこそ実感する復興の今が、地元の人との会話から浮かび上がる。特に「せんだい3・11メモリアル交流館」の見学と、そこでそれぞれが当時の記憶を語る対話が印象的だ。彼らが今この本を作るに至った、強く前向きな思いが伝わる。震災当時は私と同じ書店員だった「わたしが本を売ってるからって誰かの家が戻ってくるわけでもないし……」という佐藤ジュンコさんの言葉は、大きな被害のなかった東京の書店にいた私の、10年前の気持ちを鮮やかに甦らせる言葉だ。ドラマ撮影中だった佐藤健さんの「エンターテインメントって(中略)何ができるんだろう、なんの意味があるんだろうって……」という思いと、とても近いものだろう。片やジュンコさんが、津波で流されてしまった人の思い出をイラストにしたように、俳優である二人は、自分だからできる震災との関わり方を見つけたのだ。人のためになりたい、困っている人を助けたい、という思いは、きっと誰の心にもある。そのとっかかりに、このなんだかやたら美形の男子二人が「石ノ森萬画館」や「くりでんミュージアム」で(オタクか!)楽しそうにキャッキャする本はうってつけだ。自分だからできることを、自分の目で見て、自分の頭で考えて、楽しんで見つけていきたい。

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プロフィール
新井見枝香(あらい・みえか)

書店員・エッセイスト。1980年、東京都生まれ。書店員歴10年。現在は東京・日比谷の「HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE」で本を売る。芥川賞・直木賞の同日に、独自の文学賞「新井賞」を発表。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)、『本屋の新井』(講談社)。
*新井見枝香さんのTwitterはこちら
*HMV & BOOKS HIBIYA COTTAGEのHPはこちら

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