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「日記の練習」5月 くどうれいん

小説、エッセイ、短歌、俳句とさまざまな文芸ジャンルで活躍する作家、くどうれいんさん。そんなくどうさんの5月の「日記の練習」です。


5月1日
棒に振った一日。もらったあんこペーストをぺろぺろなめていたら日が暮れた。

5月2日
動物園。寝ていると思っていたシロフクロウが思い立ったように「ホウー!」と鳴き出してびっくりした。野太い声だった。ホーホーではなくて、ホウー!ホウー!と言い、鳴くたびに顎を前に出している。脚がむくむくしている鳥は全部かわいい。イヌワシの太い脚見てからフラミンゴの脚見たら細すぎて造花かと思った。

5月3日
青森。いい展示を観たせいか、こんちくしょーわたしだって!というきもちになり、かと言ってそれが原稿を書くエネルギーになることはなく、白桃ソフトがおいしかったことばかり思い出して唸っていたら深夜。

5月4日
秋田。おっぱいに夕陽を見せた。わたしはもっとわたしのおっぱいにいろんな景色を見せてあげたい。

5月5日
山形。天ぷらがうやうやしく出てきてうれしかった。

5月6日
花束を頼むために好きな花屋に行った。かすみ草とガーベラがきらいなので入れないでほしいと言うと「あ~はいはい、新鮮なかすみ草ってくっさいしね!」とげんきに言われ、それは知らなかった。わたしはただ、みんなが好きな花が嫌いだからかすみ草も嫌いなのです、とは、わざわざ言わなかった。はじめてミドリに貰った花束に入っていた、名前を知らないかわいい花が店頭にあったので名前を聞くと「アキレス」とのこと。「わあ、思った以上に強そうですね」と言うと、あれ?と奥に入ってから「ごめんごめん、アキレアだったわ!」と言われた。アキレアはぽんっと白くてかわいい。

5月7日
ストローの飲み物の最後を「ずごごご」と言わせながら飲むから。という理由で疎遠になったひとがふたりいる。そのときわたしは十代だった。いまは「ずごごご」と言わせながら飲むひとのことをなんとも思わずにやりすごせるように訓練している。なぜならわたしは二十代だから。「いい大人」だから。あの「すごごご」という音を聞くとわたしは反射的に(ありえない!)と白目になり、そのあと雪崩のような、膝の力が抜けるような、(な~んでそんな……)というきもちに襲われる。

5月8日
思い切った総額になると覚悟して思い切って購入すると、表示されたお会計がそんなわけないくらい安かった。(打ち間違えていませんか?)という顔をすると(いいえ、この金額ったらこの金額です)という顔をしてくる。さては大幅に値引いてくれようとしているな、とわかり「いやっ、それはおかしい、だめですよ」と言うと「だってもう打っちゃったもん」とくちびるを突き出された。かっこいい値引きはこういうやり方もあるのだな、と痺れた。

5月8日深夜
信じらんない!と他人のことを思うとき、自分が信じらんない!と言われてしまう可能性のことはひとつも考えていない。
手を動かしたくないので口ばかり動かしてごねて最悪な夜だった。仕事が捗っていない自分のことがわたしはとてもきらい。

5月9日
ピチカートファイヴの曲はみっつくらいしか知らないけれど「ふたり まるで恋人みたいなふたり そして とてもつかれてるふたり」という歌詞が手馴染みのある年齢になってきたと思う。30歳付近を浮遊するわたしたちは暮らしているだけでとてもつかれていて、そしてそれはとてもセクシーである。「恋人みたいなふたり」というのは本当にこの世に溢れているし、この頃はそちらのほうが尊いものであるように思うことがある。わたしは決して所謂大人の恋、とか、叶わぬ恋のうつくしさ、とかを言いたいわけじゃない。このごろ、それが恋か恋じゃないかで考えることがとても退屈に思えるようになってきた、というか……恋ではないところで起こる、そのふたりでいるときしか起きない空気、仲の良さや落ち着きのようなものが好きになってきたのかもしれない。同僚同士とか、友人同士とか、兄弟とか、朝のニュースのふたり並んだアナウンサーとか、ふたつ並んだダイドーの自販機とか、自転車置き場のふたつのチャリとか、七味と胡椒の瓶とか、そういう、わかる?わたしはわかんなくなってきた。タッグ?タッグみたいなものに興味があるのかもしれない。
ふたりだからといって必ずしも恋人同士であるとは限らない。そして、恋人になることが最もすばらしいことだとも限らない。恋人になることと恋人であり続けることに躍起になっていたときの自分のことを考えている。

5月10日
キコが「ほらあの、サンリオの、水色の、魚太朗(うおたろう)」と言うのが妙にツボに入ってしまい、口の中のビールをふきださないように両手で口を押えて必死に耐えた。ハンギョドンな。おもしろすぎて笑ってしまいその時口の中に入っていた飲み物を飲み込めなくなる、という状況になったことが久しぶりすぎて、飲み込んで「ぷは、しぬ」と思うときの喉の苦しさが妙にうれしかった。安藤さんはわたしたちにカクテルを作ってくれた。簡単なやつですけど、と言っていたのに、大きなリキュール瓶を何本も抱えて来たので笑ってしまった。とても綺麗なエメラルドグリーンのカクテルをグラスにかっこよく入れながら「アラウンド・ザ・ワールドです」と小さな声で言うので、そこで照れんなよ。と思った。

5月11日
貰った芍薬があっという間に散りはじめました、と白い芍薬が花瓶の周りに花びらを溢している写真を送ると「ドラマチックですね」と言われた。この場合、写真を送ったわたしと、芍薬をくれたその人と、どちらのほうがドラマチックなのか。

5月12日

5月13日

5月14日
優しくしてもらうためにバーへ行き、優しくしてもらった。わたしは絶対に、絶対に絶対にきょうのことを忘れない。

5月15日
ミドリが「俳句大会がんばったから」と買ってきてくれた3本の芍薬。白い芍薬を貰ったときに「芍薬大好き、芍薬の旬って短いんだよ、今年はあと何回見れるだろ」とほぼカツアゲのようなことを言ってしまった後なので、言ったから買ってくれたんだろうなと思ってしまう。言われて買う花と言われてするセックスほどときめかないものはないと昔から思っているが花はセックスではない。それに、わたしから花を買うように言われた上で、花を買わなければ余計に機嫌を悪くされ、買ったら買ったで言ったから買ったんでしょと思われるミドリのことは非常に不憫である。去年の秋に一度「花が欲しい」と拗ねたことがあり、それ以降にもらう花はすべて「言ったからくれる花」に見えてしまう。どうすればミドリから貰う花束を純粋にときめいて受け取ることができるのだろう。今度はうすピンク色の芍薬である。水を吸って開くので毎日茎を切ること、とのことだったが、切らなくても十分咲きそうな、ぽってりとした蕾である。
そういえばきのう「日本酒の一合の十分の一を『いっせき』と数えるんだよ、芍薬のシャクって書いて」と教えてもらってとても感動したのだが、さっき調べたら『いっせき』は『いっしゃく』と呼ばれることのほうが多いうえ『一勺』または『一杓』だったので、ちげーじゃん。と思った。前にその人に「シナモンって漢字で肉芽って書くんですよ」と言われて、えっちすぎる!と大喜びで帰って調べたら「肉桂」だったことを思い出した。バーで酔っぱらってにこにこしている人の雑学はあてにしないほうがいい。

(もっとこう……と思うことはたくさんあるが努力する体力がない)(本当に努力したければ体力とか関係ないのでは?)(そうですよね、口だけえらそうにすみませんでした)(わかればいいんだよ)
↑最近自分に対して毎日思うこと

5月16日
佐藤様が砂糖様と変換されて(またまた~)と思った。

5月17日
きのう「あなたと話しているとこころが満たされることに気が付いた、それはあなたと話していると、上っ面ではなく、言葉が言葉としてちゃんと届いていることがわかるからだと思う。どれだけ親しいと思っていたとしても、そういう会話は多くない。言葉が言葉として相手に届いていると実感できることはとてもうれしいことで、わたしはあなたと話すのがうれしい」と言われてから、そのことばかり考えている。桐の花をはじめて見た。地味。と思ったが「上品ですね」と言った。

5月18日
大泣きして、寝た。

5月19日
起きても目と鼻の先がまだ赤かった。妙にすっぴんの調子が良かったので、目つきが悪いまま何枚か自撮りして、まあ、こんな顔だよなと思って消した。芍薬がなかなか咲かない。まいにち茎を切っていなかったからだろう。咲き終えた一輪を捨て、残りは二輪。そのうちひとつは蕾のまま朽ち始めている。
夜は「犬王」を見ながらふるさと納税のねぎとろを解凍して、ねぎとろ丼とねぎとろカルパッチョにして日本酒を飲みながら食べた。すっかりご機嫌になり、歯磨きしながら鏡を見て、昨日「なんでわたしは天才になれないのっ」と泣きわめいたのが本当にあほらしく、そんなのあたりまえだろ、あんた天才じゃないんだから……と失笑して寝た。

5月20日
「フードコートは整理番号で呼ばれるのがいい、あのなかではわたしの名前ではなくたくさんの番号の一部として呼ばれるのがきもちいい」と言われて深くうなずいた。遠野でイベントのあと打ち上げの会場まで歩きながら「あーたのしい」と言うと、「れいんちゃんはいつも、たのしかった、じゃなくてたのしい、って言うのがいいよね」と言われて、あ、これは日記に書きたいな、と思った。

5月21日
きのうの遠野のたのしさのことばかり思い返して、夕方ちょっと不機嫌になって、鎌倉で買った麻婆豆腐作ってご機嫌になって寝た。

5月22日
パソコンが壊れたので、わたしも壊れようと思います。

5月23日
頭をてのひらでぽんぽんぽんぽん、と叩きながら、しきりに首をかしげている小学生男子とすれ違った。なんだろうこの子、へんな動き。と思う。するとすれ違ったあとでその男の子は「せんせえ~、帽子失くしましたあ」と大声で言ったのだ。そう言われると、帽子を失くした人間としては百点の動きだったと思う。

5月24日
シュレッダーが壊れた。正確に言うと先々週には既に壊れていた。ばらばらになった紙くずを取り出すための取っ手を引っ張ってもまったく開かないのだ。紙くずを捨てずに使い続けてしまったため、ぱんぱんのぎちぎちで開かないらしかった。うんともすんとも言わない。シュレッダーを壊すのははじめてではない。ミドリに言ったら呆れられるだろうと思いしばらく言えずにいたが、さすがに処分したい紙が溜まっていたので、夕飯を食べた後にしょぼしょぼしながら「シュレッダー壊しました」と言った。ミドリは「こういうのはこまめに、こまめに捨てなきゃなんだよ……」と言いながらやれやれと大きなビニール袋を拡げ、そこにシュレッダーをひっくり返したりたたいたりしながらすこしずつ紙くずを掻き出し、ついに直した。「みてよ、こんなちっちゃいところにこんなにたくさん入ってたんだよ、こんなにたくさんだよ、ねえ、ちょっと触ってみなよすごいから」と言われ袋を持ち上げてみると、確かに、引き出しの4倍はある大きさの紙くずが入っていた。「すごいね」と苦笑いする。「こんなちっちゃいところにぱんぱんに詰め込んでさあ」「わたしみたい」「え?」「働きまくっていた時のわたし、こんなかんじだったよね」。ミドリは(そういうことを言いたかったんじゃないけど)という顔をしつつも「次はこまめに捨てるんだよ」と言い、”ここがこまめ”を示すところにシールを貼ってくれた。”こまめ”とは七分目のあたりらしい。

5月25日
「おねがいしたいことがあるんだけど」と言うと「ミュージカル調で言って」と言われたので、くるりと回りながら「洗濯を~回し、回し、回し、干し~て~」と言った。

5月26日
最後の芍薬を捨てた。結局咲かなかった。

5月27日
神様、わたし今、白金でフレンチを食べています。

5月28日
この人に気に入られたい!と思うときにするとっておきの話をいくつか重ね、最後の切り札として「わたし、ゆるキャラの中に入ったことがあります」と言うと、その人もゆるキャラの中に入ったことがある人だったのでドローとなった。
「犬のお尻の穴を見ると何歳か大体わかります。あっちは5歳超えてる、こっちはもう少し若いです」と言われながら浅草をとてとて歩く犬たちをお尻の穴で選別していたら、わたしもなんとなく見分けられるようになってきて、そんな特技ほしくなかったが、これからは犬のお尻の穴で年齢を当てられるとだれかに自慢してまいそうな気がする。
スカイツリー見ると毎回シャープペンシルのことちょっと思い出す。

5月29日
突然疲れが来た。東京に来てから連日ずっと会いたかった人とお酒を飲み続けており、そのどれもがはっちゃけすぎた、もっとうまくできた時間だった気がしてきて、頭を抱えて、コンビニでもずく酢を買ってホテルに帰り、食べずに寝た。

5月30日
ヨーコが「わたしに会えば元気にはなるが、物理的な体の疲れは寝ないと取れないよ」と言ってくれたが、ヨーコに会えば元気になるので会って、元気になった。

5月31日
ひとくち欲しいなあと思っていたらトッシーが「おたべ」とハーゲンダッツを差し出してくれて、がばっ!と前のめりになってカップを掴んだ。「くどう選手、いまのは早かったですね」と言われたので「もう一度スローで見てみましょう」と言って、ゆっくり前のめりになってカップを掴み直したら、トッシーはとても笑ってくれて、わたしは、こういう時間が多い人生でありたい。


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タイトルデザイン:ナカムラグラフ

「日記の練習」序文

プロフィール
くどうれいん

作家。1994年生まれ。著書にエッセイ集『わたしを空腹にしないほうがいい』(BOOKNERD)、『虎のたましい人魚の涙』(講談社)、絵本『あんまりすてきだったから』(ほるぷ出版)など。初の中編小説『氷柱の声』で第165回芥川賞候補に。現在講談社「群像」にてエッセイ「日日是目分量」、小説新潮にてエッセイ「くどうのいどう」連載中。
6月9日、2作目の食エッセイ集『桃を煮るひと』が発売

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