支えたくなる総理大臣の資質や性格とは――『総理になった男』中山七里/第12回
「もしあなたが、突然総理になったら……」
そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。かつての党員仲間だった山添国交大臣と意見がかち合ってしまった大隈官房長官は、加納総理の思いに応えるため、山添の説得に動くが――
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国民党本部のある平河町から麴町方向に十五分ほど歩くと、オフィス街の外れに構えの小さな居酒屋がある。
大隈は予約していた二階の座敷に腰を落ち着けると、ゆっくり記憶をまさぐり始めた。
山添とサシで吞むのは何年ぶりだろう。
最後に盃を酌み交わしたのは大隈が国民党を割る前日だったから、かれこれ十年も前の話になる。
何と十年経ったとは。大隈にはつい昨日のことのように思える。長らく同じ釜の飯を食った仲間たちと袂を分かち、思想信条の違う者同士を大同団結させ、古巣から政権を分捕り、奪還され、また党内の鼻つまみ者として燻り、あろうことか古巣の運営する内閣に招かれた。並みの議員であれば五十年かけても経験し得ないことをたった十年でこなしてしまった勘定になる。光陰矢の如しと感じるのも当然かもしれない。
「来たぞ」
ぶっきらぼうな声に振り向くと、山添が階段を上りきったところだった。
早速出されたおしぼりで手を拭きながら、山添は興味深そうに店内を見回す。
「どうした。居酒屋がそんなに珍しいか」
「あんたは赤坂の常連だと思っていたからな。こういう店を知っているのが、ちょっと意外だった」
「わしも最近まで知らなかった」
「誰かに連れてこられたのか」
「真垣総理だ」
「噓だろ」
「初めて来た時には俺も驚いたさ」
不意に思い出した。
その会合には樽見の姿もあったのだ。
途端に胸の奥がちくりと痛んだ。
「注文する前にはっきりしておきたい。このサシ吞みの目的は何だ」
「酒を吞むのに理由が要るのか」
「わたしとあんたの間柄なら要るだろう。政界では天敵同士と呼ばれているくらいだからな」
「なら手打ちってことでどうだ。同じ閣内にいるんだ。顔を突き合わす度に胸倉摑んでいたら外聞が悪い」
「喧嘩をする気はないが手打ちをする気もない。今の閣僚だって決して仲良しこよしの集団じゃないが、政権運営はできている」
「道理だな。手打ちはなしでいい。乾杯もせんでいい。だが折角来たんだから一杯くらいは吞んでいけ。見かけによらず良い酒が揃ってるぞ」
「ちょうど夕飯を食いそびれた。勝手に注文して勝手に食う」
「好きにしろ」
大隈は〈八海山〉、山添は〈雪の茅舎〉を注文した。銘柄は違えど、生まれ育った故郷の酒という点では一致している。無言のまま二杯三杯と呑んでいると、辛抱できなくなったように山添が口を開いた。
「いい加減に吐いたらどうだ」
「吐くほど吞んでいない」
「わたしを呼んだのは手打ちだけが理由じゃないだろ」
「まだだ」
「何がまだだ」
「お前さんに酒が回った頃合いを見計らっている」
「ふざけるな」
山添は盃に残っていた中身を一気に呷った。
「吞み慣れた〈雪の茅舎〉だ。一本空けても酔うもんか」
「じゃあ二本空けろ。こっちはお前さんにうんと言ってもらわなきゃ困る」
「例の、全てのダムの管轄を一元化するという話か」
「そうだ。先日の広島豪雨の傷もまだ癒えていないというのにフィリピン沖では次の台風が爪を研いでいる。真垣内閣には喫緊の政治課題だ」
「会議の席では聞きそびれたが、いったいどの省庁に一元化させる計画なんだ。防災特命大臣か」
「その案も出たが、如何せん相米はまだ若い。大臣経験もなく、人心掌握の才もない。あるのは誠実さだけだ」
「誠実さだけでは副大臣しか務まらない」
こういう認識では一致するのが面映ゆい。
「総理や風間参与と膝を交えて考えたのが、国交省による一元化だ。気象データの供給と管理を常態とし、降雨予想量が規定値を超えた時点でいち早く事前放流の命令を下す。農業用ダムも発電用ダムも国交大臣のひと声で直ちに動く。災害対策ではあるが、精緻な気象データの共有化と管理は産業界の福音になるし、縦割り行政打破の象徴にもなり得る。参与は一石三鳥だと鼻の穴を膨らませていた」
「おい、ちょっと待て。一元管理と言えば聞こえはいいが、災害時には大きな責任を負うことになるじゃないか」
「権限と責任は比例するからな」
「気象データを共有化したとしても省庁間で売買する訳じゃないから権益は発生しない」
「権益を発生させれば当然、省庁間での格差が生まれる。無償は当然だし、それが理想だと思っている」
「責任だけが重くなる。そんな役目を押し付けられて喜ぶ省庁があると思うか」
「だからお前さんにうんと言ってもらわなきゃ困る」
「ふん」
山添は盃に新しい酒を注ぐ。
「わたしが、はいそうですかと快諾するとでも」
「地域住民の生命と財産が掛かっている。政治の根幹だ」
「省庁の思惑もある。わたし一人で即断できることじゃない」
「手前で即断できずに、何が大臣だ」
「あんたには国交省全体が恨み骨髄だと言ったはずだ」
「洪水の話なんだから水に流せ」
「流しもしないし忘れもしない」
「まあ、せんだろうな。しかもなかなか酔わんときた。それなら後の手段はこれしかない」
そう言うなり、大隈は座布団を外し、卓の上に両手と額をついた。
「この通りだ」
一拍あって頭の上に声が落ちた。
「やめろ。みっともない」
慌てぶりを隠しきれない声だった。
「あんたが人に頭を下げるなんて見たことも聞いたこともないぞ」
「何なら店の表で土下座をしてもいいぞ」
「やめろと言っているだろうっ」
山添は力任せにこちらの肩を摑んで、無理やり上半身を起こさせた。
「あんたのそんな姿、見たくもないっ。酒が不味くなる。今どき土下座で頼みごとだと。そんな風だから昭和の遺物だとか言われるんだ」
「遺物だろうが何だろうが役に立てれば御の字さ」
「いったい何に義理立てしているんだ」
「真垣統一郎の役に立ちたい」
「ついこの間までは倒閣の立場だったろう。どういう風の吹き回しだ」
「あんたは総理の目を真正面から見たことがあるか」
「ないな。総理の目がどうかしたのか」
「あれは政治家の中でもかなり異質な目をしている。喩えるなら子どもの目だ」
「いやに詩的な表現をするじゃないか」
「私心も邪念もない、透徹した目さ。だからという訳じゃないが、真垣総理から権勢欲や自己顕示欲を感じたことがあるか」
山添は束の間考え込んでから答えた。
「ないな。政治家には珍しく。だから党内の誰からも憎まれていないし、国民の信望も厚い」
「本来、ああいう無欲なタイプは総理になれるはずがないんだ。総理総裁の椅子の周りには権謀術数が渦を巻いている。下手をすれば死人すら出そうな権力闘争を勝ち抜き、更に運がなければ総理にはなれん。ところがあの男からはキナ臭さも血の臭いもせん。まるで一年生議員がそのまま総理に上り詰めたような佇まいなんだ」
「それは否定しない。真垣総理からはエゴの臭いすらしないからな」
「ああいう人間が総理になったのは一種の奇跡みたいなものだと思っている。真垣政権が長く続けば、この国は変われるかもしれないと期待を持たせてくれる」
「それが真垣総理に尽くしたい理由か」
山添は盃の中身を一気に呷る。〈雪の茅舎〉に強いというのは本当で、今度はコップに注ぎ始めた。
「〈壊し屋〉大隈がずいぶん可愛くなったものだな」
「お前さんはどうなんだ。真垣総理の助けになってやりたいと思わんのか」
山添はコップ半分ほどになった酒を凝視していた。
「わたしには、よく分からんのだ。聖人君子みたいな総理を担いだのは初めてだし、策謀も問題回避もしない人間が果たして総理に相応しいかどうかも判断がつかん」
山添ならそう言うだろうと思っていた。大隈が政治的な勘で動く人間なら、山添は徹頭徹尾政治論理と時代の趨勢で動く人間だ。突然変異のような真垣総理を政治家として採点するには無理がある。
「なあ、樽見を憶えているか」
「忘れたことがない。一度ならず官房長官の座から引きずり降ろしてやろうと画策していた」
「真垣総理は樽見の忘れ形見のような気がするんだ」
山添は口の中を噴きかけた。
「まさか総理が樽見さんの隠し子だとでも言うのか」
「そうじゃない」
慌てふためく山添をよそに、大隈はゆっくりと盃を傾ける。
「わしもあんたも樽見も所謂古いタイプの政治家だ。遺物と罵られても返す言葉がない。日本の政治の古い体質を体現していると言ってもいい。あと五年十年は続けられそうだが、その後は見当もつかん。ケータイはスマホになり、メディアの主役はまるで日替わりだ。昨日までの常識が今日は非常識になり、明日は反社会的になるかもしれん。樽見も同じことを考えていたフシがある。その樽見が、真垣総理をえらく買っていた。まるで残りの政治生命を全て彼に注ぎ込むようなのめり込み方だった。実際、樽見は総理の右腕のまま鬼籍に入ったがな」
「樽見さんが真垣総理に後を託したというのか」
「ああ、樽見ならそうするんじゃないか。お前さんはどう思う」
「死んだ人間の気持ちなんか分かるか」
山添は腹立ち紛れのように吞み続ける。
「本当に強いんだな」
「あんたが妙なことを言い出すものだから酔うタイミングを失った」
「生きている者の真価も死んだ人間の気持ちも分からんか。難儀なことだな」
「分かることもある」
さすがに山添も目がとろんとし始めていた。
「わたしが総理の要請を断れば、この先ずっとあんたから嫌みを言われ続けるんだろ」
「そうだ」
「豪雨災害が発生する度にわたしが悪者扱いされるんだろ」
「そうだ」
「ふん、胸糞悪いったらないな。進むも地獄退くも地獄か」
「大臣なんて大抵そんなものだ。今更何を言っている」
山添は音を立ててコップを置く。
「承知した。ダムの管轄の一元化、国交省で引き受けてやろうじゃないか」
「恩に着る」
「着るな。あんたが頭を下げたから引き受けるんじゃない」
「真垣総理に貸しを作るつもりか」
しばらく返事はなかった。
山添は空になったコップを指で弄る。
「樽見さんが亡くなった時、わたしは海外視察の最中だったから葬儀にも参列できなかった。それだけが心残りだ」
死者への手向け代わりか。
樽見よ。
お前さんは死んだ後でも真垣統一郎を助けようとしているんだな。
*
八月一日、またもや台風が日本列島を襲った。大型で雨の多い台風は勢力を強めながら沖縄の先島諸島南へ進み、大東島に被害をもたらした後、九州地方を直撃したのだ。
九州には一級河川が二十水系もあり、その最大のものは流域面積二千八百六十三平方キロメートルを誇る筑後川だ。上流域に日田市、中流域に久留米市及び鳥栖市、下流域に大川市及び佐賀市などの主要都市を擁し、いったん筑後川が氾濫すれば人的被害も物的被害も計り知れない。
前々日午前の段階で各地の降雨予想量が規定値を超えたため、国交省はほぼ全てのダムに事前放流を命じた。各ダムの動きは俊敏そのもので、一斉に実行された放流は壮観ですらあった。
いよいよ台風が九州に上陸すると各地に記録的な豪雨をもたらした。部分的な氾濫と床下浸水までは避けられなかったものの、一級河川は事前放流の甲斐もあって現在も何とか持ちこたえている。
慎策たち非常災害対策本部の面々は豪雨の模様を大会議室のモニターから見つめていた。篠突く雨に街の景色が煙る。それでも濁流が道路を飲み込む場面はわずかだった。
画面では勇敢なレポーターが暴風雨に晒されながら河川の状況を中継している。
『こちら、久留米市内です。先ほど気象庁から発表された情報では一時間最大八十ミリ、二十四時間累積では最大二百二十ミリという記録的な雨に見舞われています。雨は勢いよくというよりも、既に痛いほどの降り方です。きゃあっ』
別のモニターには国交省から配信される各地のダムの貯水状況が刻一刻と表示されている。筑後川流域には下筌ダム、松原ダム、寺内ダム、大山ダム、江川ダム、夜明ダムそして筑後大堰が控えているが、このうち一基でも決壊すればたちまち下流は氾濫する。
だが七基のダムの貯水率はどれも七十パーセント前後を維持している。一時間最大八十ミリの雨量でこの貯水率ならば、まず氾濫の心配はなさそうだった。
事前放流を命じた山添は一番離れた場所からモニターを見ていた。緊張が続いているらしく、唇は真一文字に締められている。
慎策は祈る気持ちと報復の気持ちが綯い交ぜになっていた。
頼むから持ちこたえてくれ。
川を御してくれ。
もう二度と人の命を奪わせない。家も流させない。
『雨はますます強くなってきました。筑後川が心配です。橋が心配です。しかし、まだ川の水位は橋の下に到達していません。道路も健在です。まだ川は氾濫していません』
その後も中継は続けられ、雨の勢いも次第に落ち着いてきた。
ダムの貯水率も八十パーセントに届いていない。
どうやら峠を越えたらしい。会議室の空気が一気に和らぐ。閣僚たちは一様に安堵の表情を見せている。視界の隅で大隈と山添が一瞬だけ目礼を交わしたのを認めたが、その意味するところは慎策にも分からなかった。
九州全域を強風域に巻き込んだ台風は一日午後には海上に抜けていった。一級河川は氾濫こそしなかったものの、三名の重軽傷者を出し、そして三棟の家屋が流失した。
だが、それは台風の規模を考慮すれば過去に類を見ないほど軽微な被害だった。
プロフィール
中山七里(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。
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