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オリンピックを招待した国としての責任――『総理になった男』中山七里/第14回

「もしあなたが、突然総理になったら……」
 そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
 ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。選手たちから直接声を聞き、オリンピック・パラリンピックの開催に向けて意志が固まった慎策。しかしそこへ次なる試練が舞い込む――
 *第1回から読む方はこちらです。


 泣きっ面に蜂、大地震直後の大雨。幾多の事例が示す通り、災いは往々にして度重なる。東京オリンピックの場合がまさにそれだった。
 執務室に平田法務大臣が駆け込んできたのは選手団との懇親会の翌日だった。執務室には風間の他に大隈もいたので、三人は期せずして平田からの最新情報をいち早く知ることになる。
「大変に申し上げにくい報告をしなければなりません」
 いつもと違い、平田がひどく殊勝な態度を見せた時点で嫌な予感がした。
「たった今、わたしの許に連絡が入りました。東京地検特捜部が大会組織委員会理事を逮捕しました」
 慎策を含めた三人がその場で凍りつく。中でも一番狼狽を見せたのは意外にも大隈で、すぐに平田に駆け寄った。
「何の容疑で」
「受託収賄の疑いです。スポンサー契約を盾に紳士服大手から総額約五千万円の賄賂を受け取った嫌疑です」
 慎策の頭に去来したのは、昨日沙良と交わしたスポンサードの話だった。全世界が注視するイベントとなれば宣伝効果は計り知れない。選手団たちがスポンサーを求める以上に、企業側はオリンピックのスポンサーを希望する。そこに利権が生じるのはむしろ当然なのかもしれない。
 だが、何故選りに選ってこのタイミングなのか。
 同じ思いなのか、大隈は味方の裏切りに遭ったかのように食ってかかる。
「平田さん、東京地検は法務省の管轄だろう。嫌疑がかけられている段階で、あんたに打診はなかったのか」
 大隈の言わんとすることは即座に理解できた。受託収賄が真実なら逮捕もやむを得ない。法に反したのだから罰を受けるのも当然だ。
 だが、どうして今なのか。大会の終わった後ならまだしも、開会式前の逮捕ではただでさえマイナスイメージのオリンピックが更に嫌悪される。開催中止の意見を後押しする材料にもなりかねない。
「打診はなく、いきなり報告でした。例によって特捜部は以前から内偵を進めており、起訴するに足る充分な証拠を揃えてから逮捕に踏み切っています」
「特捜部には色々と煮え湯を飲まされたから、そんなことは説明されなくても承知している。問題はどうしてこのタイミングかだ。証拠が揃っているのならオリンピックが終わった後で逮捕してもよかったじゃないか」
「特捜部の説明によれば、証拠隠滅の可能性があり早期逮捕の判断に至ったとのことです」
 大隈と平田の会話には、特捜部の動きは内閣の思惑でどうにでもコントロールできるという傲慢さが見え隠れする。ちまたに逆国策捜査なる言葉が囁かれてもむべなるかなと思える。
「捜査の取っ掛かりは内部告発らしいです。贈賄側の企業内部から情報が洩れているようです」
「それじゃあ」
「ええ。理事の逮捕と同じくしてスポンサー企業にも捜査が入っています。特捜部は贈収賄だけではなく談合の線でも捜査を進めている模様です」
「つまり嫌疑のかかる企業が芋づる式に挙げられる可能性があるのか」
 大隈は絶望じみた声を上げる。
 元来、オリンピックスポンサーは基本として一業種一社という取り決めがあった。その大前提を崩し、複数の企業に門戸を開いたのが件の理事だった。参加企業が多ければ多いほど集まるカネも多くなる。かくしてオリンピックは多額のカネを集めるには絶好の装置となったが、同時に汚職の生まれやすい土壌を形成してしまった。
「オリンピックのスポンサーには相応の資格と品格が求められる」
 風間は慎策の耳元で囁く。
「ただのスポーツイベントとは違い、オリンピックというのは公共性の高いイベントだから内規も厳しい。IOC倫理規程というやつだ。この規定では大会に関わる人間は一切の金銭物品を受領してはいけないことになっている。理事はその大前提を破ったんだから逮捕・訴追されても何も言えない」
「公共性の高いイベントに商売を持ち込むなってことか」
「そうじゃない、そうじゃない」
 風間は大きく頭を振る。
「これだけ大掛かりなイベントになればどうしたって多額の資金が必要になる。スポンサーを募るというのはマーケティングとして決して間違っていない。現に組織委員会の中にはマーケティング局が存在して真っ当な方法でスポンサー探しをしている。そのまま組織委員会の仕事としてスポンサーを探していれば何の問題もなかったのに、仲介をすることで私腹を肥やそうとした考えがお粗末だったんだ。ビジネスが悪いんじゃない。ビジネスに関わった人間のマインドが醜悪だったにすぎないのさ」
 風間の冷静な判断をよそに、大隈は平田を責め続ける。
「スポンサーに名を連ねる企業は数十もある。それらが芋づる式に捕まるようになれば、大会期間中といえども運営が行き詰まる惧れがある。あんたはそれを担保できるのか」
「わたしに言われても困る」
 さすがに平田は反論を開始した。
「そもそもスポンサーの不祥事は組織委員会と競技大会担当大臣の迫本の責任に帰する。法務省としては、検察庁が起訴した案件の推移を見守るしかないっ」
 今度は平田が食ってかかる。
「大隈官房長官、あんたは嫌いだろうが検察には検察の正義がある。殊に今の特捜部を仕切っている部長は名うての硬骨漢だ。政財界に何の遠慮も忖度そんたくもない」
「検察の正義を曲げろとは言っておらん。司直の手が伸びる前に、せめて事前に情報を吸い上げておけと言っているんだ。今回のように寝耳に水ではすげ替える首を用意する間もない」
 やはりこうした舌戦になれば大隈の側に一日の長がある。平田は悔しげに口を閉ざすしかない。
「いいか、日本で開催されるオリンピックだぞ。この意味が分からんあんたじゃあるまい。つつがなく開会式を行い、無事に閉会式を済ませる。それまで大会は滞りなく運営され、どんな問題が起きてもならない」
「それくらいは承知しています」
「だったら、そういう動きを示してくれ」
 相手が大隈だからか、それとも官房長官だからなのか、平田は弁明を重ねることなく「失礼します」と執務室を後にした。
「呪いだの何だのとオカルトじみたことは言いたくないが、今度のオリンピックは確かにたたられている感じが拭えん」
 大隈は疲れきったようにして椅子に座る。深く身体を沈めて嘆息するさまは老兵を思わせる。
「少し意外でしたね」
「何がだ、総理」
「大隈さんがこれほどオリンピック推進派だったとは、今の今まで知りませんでした」
 風間もこれに加わる。
「官房長官は現民生党の議員でもあるので、てっきり中止派だとばかり思っていました」
「国民党の中でも一部若手議員の中には中止すべきという声もあっただろう。事情は野党もあまり変わらん」
 大隈の口ぶりにはどこか懐かしさと寂しさが同居しているような響きが聞き取れる。慎策は好奇心を抑えずにはいられない。
「党に関係なく、議員の世代で意見が異なるという意味ですか」
「そんな大袈裟なもんじゃない。ただなあ、わしや平田くらいの世代にとって、オリンピックというのが侵しがたい成功体験であるのは確かなんだ」
 大隈は天井を仰ぎ見る。その目は郷愁の色に満ちていた。
「昭和三十九年の東京オリンピックは終戦の十九年後に開催された。各国からの選手と観客を迎えるために首都高を建設し新幹線を開通させ、インフラ整備を急ピッチで進めた。その結果、街の装いが一変し、昨日までの敗戦国が一気に先進国へと躍り出た。経済面だけじゃない。日本は海外のメダリストたちと好戦し史上最多となる十六個の金メダルを獲得した。敗戦で泥に塗れていた国威を昂揚させるに、あれ以上の効果はなかったと断言できる」
 ああ、大隈の郷愁めいた目は、高度経済成長を懐かしむ目なのだと気がついた。
「奇跡的とも称された経済発展とスポーツイベントでの躍進で、やっとこの国は国際社会に復帰できたと実感した国民は多い。かく言うわしもその一人だ。平田もそうだ。この体験は党や主義主張の違いは関係ない。実際、大会後の日本経済には弾みがつき、会場跡地は多目的な利用価値が生まれ、批判らしい批判も影を潜めた。本当にいいことずくめの大会だった」
「戦後日本が味わった初めて且つ最大の成功体験という訳ですか」
「そうだ。そんな成功体験を味わった子どもたちが長じて国会議員になる。するとな、自分の味わった昂揚感を若手や新人議員にも味わわせてやりたいなどと、ついつい考えてしまう」
「昭和三十九年と今では、この国を取り巻く経済環境は大きく異なります。新型コロナウイルスという不確定要素もある。下手をすれば成功体験どころか国を衰退させる一因にもなりかねないのですよ」
 風間から冷徹な言葉を浴びせられると、大隈は寂しそうに笑った。
「それも重々承知している。だからこそ多くの古参議員たちは今回のオリンピックに複雑な気持ちを抱いているのさ。総理はどうかね」
 いきなり話を振られたので少し慌てた。
「わたしが生まれた時分には、東京オリンピックというのはほぼ伝説でしたからね。正直、個人的な思い入れは薄いですね」
「だから、いい。前回の東京オリンピックに熱狂した世代でないあなたなら、もう少し冷静な判断で事に当たれる」
「わたしが推進派かどうかはお訊きにならないんですね」
「そんなもの」
 大隈はいつもの態度に戻って笑い飛ばす。
「あなたが総理の立場でいる以上、大会は開催せざるを得ない。風間先生の話ではないが、当時と今を同列に語ることはできん。コロナ禍で無観客試合が決定している以上、この大会はいかにして経済的損失を最小限に抑え、且つ国家としての面目を保つかが重要だ。非常に詮無い物言いになるが、既に負け試合であるのは決まっている。更に悪態を吐かせてもらえれば、総理は敗戦処理を任されたピッチャーみたいなものだ」
 敗戦処理投手。言い得て妙なので、つい慎策も苦笑したくなる。
「だがオリンピックを招致した国として最低限の責任を取らなければ、日本は今後世界から信用されなくなる。それは短くない期間に亘って国益を損ない続けるだろう」
 奇しくも大隈の意見と風間の意見が一致した。二人の意見が同じということは、現時点においてそれが最適解であるのを意味する。ちらと風間の顔色を窺えば、彼もまた不承不承に頷いている。
 トロイカ体制の意志はこれで統一された。後はオリンピック汚職とマスコミ報道に対する処し方だろう。
 いずれの対処も難問には違いなく、慎策の懊悩おうのうは尚も続く。

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プロフィール
中山七里
(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。

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