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貧困は拡大し、人命は軽視される…。すべての源は五輪イヤーにあった!〔前編〕 貴志謙介『1964 東京ブラックホール』より

 労働者搾取、格差社会、性差別、猟奇犯罪、東京一極集中、一党支配、対米依存、汚職・隠蔽、そして疫病の蔓延。1964年と〈いま〉とは驚くほど類似点が多い。
 東京五輪が開催され、高度成長の象徴としてノスタルジックに語られる1964年だが、その実態はどのようなものだったのか? 膨大な記録映像と史資料を読み解き見えてきたのは、いまも残るこの国の欠陥だった――。
 6月27日発売のノンフィクション『1964 東京ブラックホール』。NHKスペシャル『東京ブラックホールⅡ 破壊と創造の1964年』の書籍化です。
 刊行を記念し、第一章「東京地獄めぐり」を全2回にわたって公開! 劣悪な住環境、繁栄のかげで犠牲となった出稼ぎ労働者たち……庶民が生きた現実を見ながら、豊かさを求めて疾走する日本に生じた格差を浮き彫りにします。

※本文中の筆者もしくは編集部による注は( )で示し、引用箇所の注は[ ]で示しています。また、引用した新聞・週刊誌・月刊誌の出典は( )で示しました。西暦が記されていないものは、1964年に印刷・刊行されたものです。

第一章 東京地獄めぐり

1 戦慄都市

春のうららの 隅田川 
のぼりくだりの 船人が
櫂のしずくも 花と散る
眺めを何に たとうべき
――唱歌「花」、1900年

成長のひずみ、あらわに

 2019年、東京・神保町シアターで、『東京湾』という映画がリバイバル上映された。「五輪開催前の東京を見事に活写」との宣伝文句にひかれて、小さな劇場へ足を運んだ。
 ドラマは復員兵の犯罪に焦点をあて、時代に置き去りにされた戦中派の悲劇を鮮烈に浮き彫りにする。当時の東京には、戦争で傷ついた人びとがまだ大勢いた。
 公開は、1962年(昭和37)。『砂の器』で知られる巨匠・野村芳太郎(よしたろう)の監督作品で、街頭でのロケがふんだんに取り込まれている。オリンピックを2年後にひかえ、空前の巨大工事が佳境に差しかかった東京の、騒然とした風景を垣間(かいま)見ることができる。
 息の長い空中撮影から物語がはじまる。観客を五輪工事たけなわの東京に一気に引きずり込む、すばらしい実写である。よどんだ煤煙(ばいえん)の海のなかへ、カメラは深々と潜行していく。
 建設また建設。破壊また破壊。収拾のつかない大混乱がフィルムに刻まれる。古い建物を、ブルドーザーや鉄球が、容赦なく叩(たた)き壊す。都市全体が呻(うめ)き、痙攣(けいれん)し、瀕死(ひんし)の怪獣のように断末魔の叫び声をあげる。
 東京はすでに1000万の人口を抱える、世界最大級の都市だった。ちなみに国連の統計によれば、1964年(昭和39)のデータで、世界一の大都市ニューヨークの人口は1126万人。それに対し、東京は1042万8000人である(国連「Demographic Yearbook」1964年版、1965年版)。
 敗戦後、焼け跡に再建したビルは、惜しげもなく壊される。
 戦争の記憶を覆い隠すかのように、セメントと土砂が注がれる。やがて建設資材とゴミに埋もれた大地から、昆虫が震えながら脱皮するように、未知の風景が現れる。だが、それがいったい何をもたらすのか、まだ誰にもわからない。奇妙なことに、建設の風景であるにもかかわらず、すべてが空襲で破壊されたあとの残骸(ざんがい)のように見え、ふと見分けがつかなくなる。
 都市の輝かしい創世記であるはずが、むしろ黙示録を思わせる。何かのはじまりというよりも、何かの終わりを暗示しているように感じられる。
 当時の日本がなりふりかまわず推進していた国策は、何においても工業生産の拡大である。東京オリンピックの2年前には全国15地域が「新産業都市」に指定された。日本中の大都市を工場で埋めつくそうという計画である。
 工場が誘致されれば、道路がつくられ、大量の労働者が動員されて、人口が膨張する。その先頭を切っていたのは、むろん、東京を中心とする首都圏だ。1955年(昭和30)の国民所得は、6兆9733億円。それが1964年には24兆514億円に達した。わずか10年で、3倍以上に伸びたことになる。
 世界銀行のデータベースで見る限り、それでも1964年の時点で、一人当たりGDPは835.7ドルと、世界24位に過ぎない。25位以下は、トリニダード・トバゴ、ギリシャ、ウルグアイと続く。トップは、アメリカの3573.9ドル。日本の4倍である。いわゆる欧米先進国の大半は1000ドルを超える。
 日本の場合、単に所得が低いばかりでなく、貧困、格差、貧弱なインフラ、公害の野放し、劣悪な住宅事情などさまざまな問題を抱え、生活の質も低かった。
 国家の生産力は目覚ましく向上していたが、国民の多くが豊かさを実感し、いわゆる中流意識が広くいきわたるのは、もう少し先のことである。それどころか、経済成長にともなう大きなひずみが急速にあらわになりはじめていた。
 所得倍増を掲げた池田内閣は、早くからヨーロッパ型の福祉国家に追いつく道を捨て去り、ひたすら経済成長によってパイを拡大する路線に転換していた。
 敗戦後、日本と同じように驚異的なスピードで復興を実現したドイツと比較すれば、60年代を通じて、社会保障への財源の移転は半分以下である。1970年(昭和45)の数字を見ると、対GDP比で西ドイツの社会保障移転は12.2%だったのに対し、日本は4.7%にとどまっている(宮本憲一『公共政策のすすめ』)。企業の利潤は生産拡大に向けて投資されるばかりで、国民の生活環境の改善や福祉には使われなかった。
 国栄えて、民貧し。それを象徴するのが、オリンピックを口実として、1964年までの四年間にわたって1兆円を巨大公共工事につぎ込んだ東京大改造だった。
 1964年、東京の光は、2020年よりも強烈だったかもしれない。しかし、影もまた、はるかに濃厚だった。光と影が激しくせめぎ合い、そのコントラストの強さに目がくらむ。東京のなかに地獄が生まれていた。というより、地獄のなかから、いまの東京が孵化(ふか)しつつあったといったほうがいい。それくらい、当時の東京の生活破壊はすさまじかった。
 1964年の東京を知るには、まず当時の人びとの暮らす環境の劣悪さを実感することからはじめるべきだろう。

いたるところに死の落とし穴が

 世界を放浪し、『何でも見てやろう』というベストセラーを著した小田実は、1964年、「何でも見てやろう」の精神で東京をくまなく歩きまわった。
「まわってみてはっきりしたことは、オリンピックに関係するところ、しないところのあまりにも明瞭な差異であった。前者に金をかけ、超近代的な建物、道路をつくり、後者はゴロタ石のゴロゴロ道のまま」と書いている(共同通信 10・17、「わしがよんだわけじゃない」。底本・石井正己編『1964年の東京オリンピック』)。
 突貫工事のおかげで、都心の表通りは見違えるほど立派になっていた。だが通りをひとつ入ると、ごみごみした路地に安っぽい木造住宅が密集し、風呂も水洗便所もない六畳一間に家族が押し込められていた。
 フランスの雑誌『レクスプレス(L’Express)』の特派員は、東京をめぐるルポのなかでこう活写している。
「何百万という農民が、大都市の工業地帯へやってきて、みじめなあばら家に密集し、わずかな賃金でやっと食べている」「住宅は、そらおそろしいほど劣悪」「たとえ給料が上がっても、異常な物価上昇でたちまち帳消しになる」(レクスプレス 11・21)
 水溜(た)まりだらけ。泥だらけ。高速道路はできたが、一般の生活道路はそのまま。バスが通る道も、信じがたいほどデコボコである。バスのなかで撮影された当時のニュース映像を見ると、すわ地震が起きたかと錯覚するほど画面が揺れている。
 経済成長の目覚ましさを池田勇人首相はことあるごとに吹聴していたが、工場ばかり増えて、日常生活はひたすらガマンの連続だった。
「交通地獄」ということばが一般に浸透したのもこのころだが、「地獄」という表現は、決して大げさではない。子どもの遊ぶ路地にダンプカーが押し寄せる。道路を横断することさえ命がけ。
 死亡事故のない日はほとんどない。この年、都内だけで毎日平均3人が死亡し、150人が負傷している。ニュース映像を見れば、警視庁には都心の地図があって、事故の発生地点にピンを刺している。ところがそのピンが増えすぎて、黒々と密生する樹林のようになってしまった。
 警察庁の調べでは、全国の交通事故による死者は、年間1万3000人を超えた。交通事故死亡率は世界ワースト1位である(朝日 4・14)。1964年、自動車1000台当たりの死亡数は、アメリカは0.6人、イギリスは0.8人、フランスは1.0人、先進国は、ほぼ1.0人を下回っているが、日本は3.2人である。アメリカの5倍、不名誉な“金メダル”というほかない(「交通安全白書 昭和46年版」)。
 この年の警察庁の発表によれば、交通事件444万件の16.4%は少年によるものだ(データは1962年度のもの)。一日2000件、年間70万件に上る。目立つのはバイクの事故。スピード違反、無免許運転は日常茶飯事だ(週刊朝日 1・31、「危い! 少年ドライバーの車が…」)。
 というと、カミナリ族(暴走族のルーツ)が増えているように見えるが、実は事故の82%は、働く少年が起こしていた。雇い主や監督者がスピード違反を助長していたのである。
 ある雇い主は弁明する。
「わたしら零細企業は、よわいもんですよ」「このごろの発注主はエゲツないですな。電話で同じ部品を三軒の部品業者に注文するんです。いちばん先にかけつけた業者のを買うんですわ。こっちは、違反覚悟で店員に、『全速力でバイクをブッとばせ』といわざるをえんのですよ」(同前)
 商売のためには、少年の命を危険にさらすのもやむをえないといい張る。
 交通事故ばかりでなく、列車事故も続発していた。2月、国鉄労働組合は「安全白書」を発表した(朝日 2・11)。頻発する事故を、労組が独自に分析したという。「輸送力の増強が、新線によらず過密ダイヤ一本で行われている」
 なぜ、「輸送力の増強」にカネが回らないのか。それは、東海道新幹線の開通(1964年10月1日)を五輪開会式に間に合わせるため、当局が「安全施設などに回すべき金を極端に切りつめ、東海道新幹線に回している」からだ(同前)。
「オリンピックまでに」のかけ声のせいで、どう考えても無茶なスケジュール。仕事量は増える一方。「[運転士の]睡眠時間も四時間を割る場合が多い」。これで事故が起こらなければ、かえって不思議だろう。

狂気の航海・東京湾の砂利船

 10月に行われるオリンピックの準備を急ぐ突貫工事が、いかなる現実を生み出していたか。それを如実に物語る映像を見た。NHK現代の映像『乾舷ゼロ 砂利船と日本人』。東京湾へ向かう砂利船の実態を密着取材したドキュメンタリーである。
 何よりも衝撃を受けるのは、航行中の貨物船の甲板が押し寄せる海水に満たされ、沈没寸前になっている様子だ。静岡から大量の砂利を首都圏の工事現場に運ぼうというのだが、あまりに欲張って積んだため、その重みで船が深々と沈み込んでいる。
 砂利は、道路やビルの工事には欠かせないセメントの原料である。運搬業者はオリンピックの建設工事という好機をとらえて、文字どおり命がけで砂利の運搬量を増やしていた。
 愚かなロシアン・ルーレットを思わせる。リボルバーの銃に一発だけ実弾を仕込み、弾倉を回して、運を天に任せる。繰り返し引き金を引けば、いつかは命を失う。
 この年、大型貨物船3隻が沈没し、乗組員16人が海の藻屑(もくず)と化した。会社の利益拡大のために、なぜ命まで捧げなくてはならないのか。運搬業者は語る。
「怖い怖いと思いながらもやっぱり砂利船同士じゃ、負けたくないという気持ちが勝っとるもんで、20トンでも30トンでも余計積むことによってね、一銭でも早く余計稼ごう、余計航海しようというね」「知らず知らずのうちに砂利船はそうなってしまったと思う」(『乾舷ゼロ』)
 1964年、不慮の事故による死者は、世界一多い。人口10万人当たり9.4人で、アメリカと比べて3倍も高い(朝日 4・14)。激増しているのは、まず交通事故、ガス中毒である。あとでふれるが、建設現場からの転落も驚くほど多い。工場や鉱山の爆発もめずらしくない。通り魔などの凶悪犯も多かった。
 東京は“戦場”だった。どこで命を失うことになるかわからない。しかも、これほど事故が増えていても、補償は雀(すずめ)の涙。交通事故の場合、「多くて二百万円、悪くすると五十万円[現在の貨幣価値で、およそ二〇〇万円]。これは自動車損害賠償保険の最高額が五十万円だからで、ひいた方はこれだけですませようとする」(文藝春秋 1月号)。
 ひとの命は安くて、軽かった。

1000万人の糞尿はどこへ

 子どもたちは、線路には近づいてはいけないと注意された。鉄道事故に巻き込まれるかもしれないという心配のほかに、思いがけない“トバッチリ”を受けるおそれもあった。
 実は当時、列車内のトイレに溜まったし尿は、線路に垂れ流しされていたのである。線路の近くで遊んでいると、列車が通過する際、時折、霧雨(きりさめ)のような水滴の洗礼を受けることになる。線路の周辺の住宅にも“トバッチリ”が及び、洗濯物が黄色く汚れることもある。
 路地や街角にそこはかとなく立ちこめるにおい。バキュームカーがそこらを走っている。いまや記憶が失われているが、そのにおいは、たしかに1964年の日本の都会に、日夜、漂っていたのである。
 人口1000万を数える、華やかな大都会であるはずの東京のライフラインは信じがたいほど貧弱だった。当時、水洗便所の普及率はわずか4%。都心でもせいぜい20%である。
 ちなみに同じ時期のイギリスでは90%、オランダで80%、西ドイツで70%である。文明の尺度を生活に快適さをもたらすライフラインに置くなら、日本は先進国にはほど遠かった。
 東京にひしめく1000万人のし尿。その後始末には、42億円の予算がかかった。2262人の職員が動員され、交通渋滞が深刻化するなか、毎日850台ものバキュームカーを走らせてし尿を収集し、それを船で東京湾の沖合に運び、捨ててしまうのである。一日5000トン、およそ500万人分のし尿が、海に垂れ流された(三浦運一「し尿処理の現状と将来」『公衆衛生』28巻5号所収)。
 当時のニュース映像に、し尿の行方を追いかけた記録がある。海にホースを垂らして、ナイアガラの大瀑布(ばくふ)を思わせるようないきおいで、し尿が放出される。映像から、黄色いにおいが伝わってくるようだ。
 人間というもの、文明というものがいかなる存在であるのか、それを突きつめたとき、かくのごとき光景にたどり着くのかもしれない。これほど大量のし尿で海洋を汚染しても、問題はなかったのだろうか。このし尿が、はるかアメリカ西海岸にまで流れていき、カリフォルニアの沖合にプランクトンを大発生させたという説さえある。
 たしかなことは、し尿を垂れ流していたのが海だけではない、ということだ。ひどいのは多摩川である。上流の三多摩地区の人口が急激に増えたため、市町村が処理に困り、大量に川に流した。東京都水道局の発表によれば、「浄化に使う薬品が十年前の五倍から七倍」となっており、「これ以上アンモニアがふえたらお手上げだ」ったという(朝日 8・25)。

魚が大量に浮かぶ川

 この年の隅田川の記録映像を見ていると、小さな渡し船が頻繁に登場するのに気づく。佃島と対岸の明石町を結ぶ、「佃の渡し」。徳川家康の命令で隅田川に佃島が築かれた江戸時代からの伝統を持つ、いわば東京の文化遺産である。
 だが1964年、東京大改造の一環として佃大橋が建設されることになり、320年の歴史を閉じることになった。数多くの映像が残されているのは、そのためだ。佃の渡しを愛惜(あいせき)する市民が撮影したフィルムもたくさん残されている。
 名優・花柳章太郎も、「東京が片っぱしから壊されてゆく」と嘆いた(文藝春秋 10月号、「『佃の渡し』の終曲」)。佃島の住民も、東京の変貌に不安を隠せない。
 最後の日、大勢の都民が駆けつけ、静かに別れを惜しむ様子は物悲しい。しかし、佃の渡しを利用する人びとは、隅田川から立ち上る悪臭に耐えなければならなかった。船のなかで、懸命に鼻をつまんでガマンしている子どもの映像が、においのすさまじさを雄弁に物語っている。
 水の都・東京には、多くの水上生活者がいた。東京都民生局(現・福祉保健局)の調査では、1963年時点で1225隻、1670人が川に船を浮かべて暮らしていた(毎日 5・18)。しかし、川の汚染がひどくなり、水上生活者は喉をやられ、喘息(ぜんそく)をわずらい、トラコーマ(伝染性の結膜炎)にかかった。水上生活者は子どもの健康を心配し、次第に姿を消していく。
 そのころから下町に工場が林立しはじめ、隅田川は”死の病”にとりつかれた。環境省の資料によれば、すでに1962年には、隅田川には魚もシジミも棲(す)めなくなっていた。
 隅田川を流れる水には、大量の発がん性物質も含まれていた(朝日 8・14)。工場から川に排出されていた主な毒液は、青酸化合物(シアン化合物)、ヒ素化合物、有機リン製剤、有機塩素剤、水銀化合物などとされた(日経 1・6)。
 この年、工場廃液が原因で、多摩川の下流ではナマズ、フナ、ハヤなど魚1000匹が浮かんだという(日経 4・25)。調布にあった日本庭園・京王百花苑のコイも大量に死滅した(毎日 6・2)。死んだ魚がぷかぷか浮かぶ不気味な光景を目にした者は、人間社会への影響を思い、不吉な予感に襲われたに違いない。
 事実、同じころ、水俣病やイタイイタイ病はじめ、悲惨な公害病が各地で進行し、急速に人体を蝕(むしば)んでいた。だが政府は見て見ぬふりをしていた。

黄色いマスク

 川ばかりではない。空からも“妖気”が舞い降りてくる。
 1964年のニュース映像や記録映像を見はじめて、最初に衝撃を受けたのは、スモッグに覆われて何も見えない東京のパノラマだ。地上の修羅場を隠す天の雲海もまた、ひとを窒息させる有毒のガスだった。
 スモッグの海からかろうじて顔をのぞかせるのは、東京タワー。国会議事堂のてっぺん。それだけである。東京は世界最大の汚染都市だった。この年、新聞紙上では、東京の大気汚染がいかにひどくなっているかを示す調査機関のデータが頻繁に掲載されている。
 たとえば、東京都の首都整備局都市公害部の調べによれば、「目に見えない白い灰分や有毒の亜硫酸ガスがシリ上がりにふえ」、浮遊ばいじんの量は、「アメリカの百九十都市での最高」よりも多く、世界最悪のレベルになっていた(朝日 12・3)。
 それでも、産業の成長のためには、生活の破壊はやむをえないと考える政治家や役人、経営者や学者が多かった。1963年に放送されたNHKのドキュメンタリー・日本の素顔『公害都市』には、三重・四日市の工場の責任者のこんな声が残されている。
「工場地帯で仕事をしていて、煙を出しちゃいかん、音を出しちゃいかんと、それが公害だということは非常に誤った問題だとわたしは思います。公害、公害という問題で工業を、工場地帯を圧迫してくるならば、これは明らかに日本の産業の破壊に向かっていると思います」
 思い起こさなければいけないのは、所得倍増計画の池田首相が1959年(昭和34)に通産大臣を務めていたころ、水俣の工場廃液規制に反対し、チッソ(当時、日本窒素肥料)を擁護した人物であるということだ。
 産業の繁栄、企業の利潤のためなら、人命を軽んじてもかまわないという論理がまかりとおっていた。下町の工場地帯では、子どもたちの通う学校の教頭がPTAと一緒に工場を訪ね善処を求めたが、まるで相手にされなかった。
 小学校では、やむなく自衛手段を講じ、喘息で苦しむ四日市の住民が開発した特殊な黄色い公害対策用マスクを採用した。それが、24時間、子どもたちの必需品となった。当時のドキュメンタリーの映像に、黄色いマスクを着用して朝礼に臨む子どもたちの姿が記録されている(NHK現代の映像『黄色いマスク』)。路地で遊ぶときもマスクを着用したままだ。マスクをした人びとであふれた、2020年の日本を想起させる。
 江東区立第五大島小学校の周辺は、当時、亜硫酸ガスの濃度が東京都内で最も高いとされていた。1965年2月、第五大島小学校で98人の児童について検診を行ったところ、そのうちの81人、およそ83%の子どもに鼻炎や扁桃(へんとう)腺肥大などの症状が見られ、肺の機能にも異常があることが認められた。
 スモッグでどんよりした工場地帯の映像に、子どもの声が重ねられる。
「あのね、喉がね、痛くなっちゃってね、煙なんて出さないほうがね、いいと思うんだよね、声がね、かすれちゃってね、イヤになっちゃうからってね、ウチのなかに入ってね、本でも見ている」
 もうひとりの子「ぼくもね、喉が、喉に扁桃腺があるでしょ、あれが赤くはれてね、熱が出てさ、病気になったりする」
 車の排気ガスも深刻だった。関東屈指の桜の名所のひとつとして知られる、小金井桜1000本のうち、150本が排気ガスの影響で完全に枯れてしまった。苗木を植えつけても、車の地響きで育たなかったという(朝日 4・4)。

騒音から生まれた完全犯罪

 騒音のすさまじさも半端ではない。クラクションの高音から、米軍ジェット機のうなり、突貫工事で杭を打ち込む轟音(ごうおん)、ブルドーザーの重低音、オートバイの炸裂(さくれつ)音まで、ありとあらゆる騒音が混じり合い、街中を荒れくるった。
 騒音の暴力に対して、当時の日本人は鈍感だったのだろうか。
 東京の生活は「ニューヨークの2倍めまいがする、シカゴの3倍騒がしい」
 1964年の東京を取材したアメリカの有力誌『タイム(TIME)』の記者はそう断言する。だがアメリカ人の記者がもっと驚いたのは、建設現場のスローガンだった。
「工事現場には、『オリンピックのため、ガマンしてください』と大書されたサインがある」(タイム 7・10)
 いかに工事の騒音がすさまじかったかを物語る事件も起きている。騒音にまぎれて金庫破りをする強盗事件が四五件も発生していたというのである。
 驚くべきは、その手口である。犯人は、「オリンピック道路工事など、建設工事がうるさいのを利用し、工事現場で拾った石のみ、ハンマー、ドライバーを工事の音に合わせて打ちこみ、ガラス戸を破って侵入口をつくったり、金庫をメチャメチャにこわしていた」(朝日 8・30)。いかにも荒っぽいが、ここまで盛大に破壊を繰り返しても、近所の住人は誰も犯行に気づかなかったという。
 この年、国民生活研究所(現・国民生活センター)がまとめた報告書によれば、東京では「道路の狭さ、住宅の密集、騒音、ばいじんなどの増加」で、「対隣関係が悪く」なった(朝日 12・21)。いまから想像もできないほど劣悪な生活環境のなかでも、なんとか日々を生き抜いていこうとする庶民の姿が思い浮かぶ。ノイローゼ、自律神経失調症、心の病に苦しむひとも激増していた。
 やむをえず東京都を相手どり、訴えを起こす住民もいた。東京地裁で台東区の住民の主張が認められ、「事業者はその騒音について補償しなければならない」という判決が出て、住民が勝訴した(日経 6・22)。工事騒音にも限度があることを明確に示した、賢明な判断だった。ところが、東京都は控訴する。
 当時、副知事だった鈴木俊一(のちの都知事)は、判決の内容について、こうコメントした。
「一審で敗れたからといって東京都はすぐ損害賠償を払わない」「[騒音は]すべての公共事業についていえることだ」「公共事業について都民はある程度やむをえないものとしてがまんしていただきたい」(同前)
 耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び――。戦争が終わったら、次は経済の総力戦。庶民は、いつの時代も忍耐を強いられる。抜き差しならないほど事態が深刻化しているにもかかわらず、企業は産業擁護を譲らず、役所は公共事業優先を盾にとり、住民の訴えを踏みにじる。
 ふと連想することがある。2008年の北京オリンピックのことだ。あのとき、日本のメディアは中国の大気汚染や公害の蔓延(まんえん)、産業優先の国策、庶民が暮らす町並みの破壊を非難した。
 しかしながら1964年、東京オリンピックの年、日本の政府がまったく同じことをしていたこと、東京がいかにすさまじい汚染都市だったかということ、しかもそれに対してまったく無策だったことを覚えていたなら、隣国の混沌をこき下ろす資格などないことに気づいたはずだ。

五輪の開催があやぶまれた

 敗戦から19年たち、その間、東京の人口は700万人も増えた。高速道路や競技場はできても、人口増加に応えるライフラインの整備が極端に遅れている。
 そこへ突然の水飢饉(ききん)が起き、東京はパニックになった。
 60年代、東京では慢性的な水不足が続いていたが、とりわけ1964年の夏は40日間の日照りに見舞われ、水源の水量は極端に落ち込んだ。当時の新聞には、「東京の水ガメ、小河内、村山、山口三貯水池の貯水はいよいよ底をつき、六日午前七時現在、六百五十六万トンと満水時のわずか三%になった」とある(朝日 8・6)。
 ニュース映像のなかに、カラカラに乾いた水源地の様子が残されている。大地に亀裂が走り、まるで火星かどこか、ほかの惑星のように見える。庶民の生活は深刻な影響を受け、社会が麻痺(まひ)した。
 アメリカの『タイム』誌は、“東京砂漠”をめぐるパニックを次のように報じている。
「先週、東京の超モダンなオリンピック村で、一斉に掘削作業が行われた。棒高跳びのポール用の穴? いや、実は緊急の井戸だった。オリンピックまであと8週間」「水源地にはもはや480万トン、わずか二日分の水しか残っていない」「そこで、政府は水を違法とした。蕎麦(そば)屋は休業を余儀なくされ、銭湯の営業時間が制限され、プールは閉鎖された」「銀座のナイトクラブでは、ホステスからこんな声がかかった。『ウィスキーはストレートでお願いね。東京を救うためよ』」(タイム 8・21)
 オリンピックが開催できなくなるかもしれない――。
 当局は、「人工降雨」の実験をはじめた。自衛隊の航空機が埼玉・入間基地を出発。「積乱雲に突っこんだ飛行機がドラムカンのコックをまわすと、胴体下のパイプ口からだいだい色の水がふき出す」。水には「雲に強い刺激を与える塩化カルシウム」などが含まれているという(朝日 8・13)。果敢な挑戦だったが、残念ながら効果はなかった。
 科学もダメなら、神頼みになる。ニュース映像には、多摩川上流の小河内貯水池で行われた雨乞いの儀式が記録されている。儀式を行った宮司によれば、雨を降らす龍神サマが聞き入れるまで、少なくとも二日はかかるのだという。しかし、この祈禱も残念ながら天には届かなかった。
 7月末、ついに自衛隊5000人が動員され、給水車127台が出動。給水車のサイレンが聞こえるやいなや、大人も子どもも一斉にバケツを持って駆け出す。
 若い母親が怒りをぶちまける。
「朝からおっぱいが出なくて本当に困るんです。赤ん坊のおっぱいのミルクやる水もなくて、本当に水道局、何してるのかしらと思っているんですよ!」(NHKニュース)
 都民の怒りが爆発し、水道料金の不払いは3万戸に達した。目の敵(かたき)にされた集金人は、魚屋や寿司屋の前で、二の足を踏んだ。包丁でブスリとやられるのではないか――。「刃物を使う所は寄らないことにしました」(週刊現代 9・3、「水道料金集金人も命がけ」)。そのくらい、社会の空気は剣呑(けんのん)になっていた。
 8月20日になって、恵みの雨が降った。政府は他県の川から135万トンの水を引くために、ふたつの用水路の突貫工事に着手した。さいわい、最悪の事態は回避されたが、そもそもは異常な人口爆発に対して、しかるべきライフラインの整備を怠った都政が招いた危機だった。

ハエと闘う自衛隊

 生活環境を破壊する脅威として、し尿、工場廃液、大気汚染、騒音に匹敵(ひってき)するものがある。ゴミである。
 1964年、東京23区の家庭、会社、学校などから出るゴミの量は一日平均7230トン。当時のニュース映像を見ると、ゴミを街路や川に捨てることが日常茶飯事になっていたことがわかる。大量のゴミを集め、運ぶために作業員約6000人、車1810台、それに運搬船156隻が使われていた。
 読売新聞の記者がゴミ運搬船を追跡取材した記事によれば、「神田川、隅田川、東京湾沿いに、こうした運搬船の港が二〇箇所近くもあって、都内から出るゴミの七割以上がこの港に集まって」くる。そして、そこから「船は進路を東南にとって、東京湾を約二キロ、夢の島に着岸」した(読売 2・15)。
 夢の島のゴミの埋め立ては1957年(昭和32)に開始されたが、7年もたたないうちに早くも満杯となり、東京のゴミ処理はパンク寸前、深刻な危機に陥っていた。
 1964年、7月はじめから夢の島にハエが大発生した。ハエの大群は、夢の島から江東区にかけて、文字どおり真っ黒になるほど増加した。映像にも、世の終わりを思わせる、ぞっとする光景が残されている。自衛隊員300名が動員され、火炎放射器でハエの大群を“攻撃”したが効果はなく、かえってハエの繁殖を広げたと非難された(東京都『東京百年史 第6巻』)。

コレラ流行の兆し

 し尿やゴミがコントロールできなくなるほど都市にあふれたら、どうなるか。
 最大のリスクは、疫病の誘発である。ゴミが放置され、し尿が垂れ流され、衛生状態が悪化する。ネズミが繁殖し、下水道のないところでハエや蚊が大発生するなどして、感染症の温床となる。病原体を媒介して、赤痢(せきり)やチフスなどが流行する。
 事実、1964年の東京は、感染症のオンパレードのごとき様相を呈した。新聞には、連日のように感染症についてのニュースが見つかる。「町田の腸チフス29人に」(朝日 2・24)、「また43人集団赤痢」(読売 6・10)、「都でまた五人死ぬ 日本脳炎」(朝日 8・22)
 赤痢や腸チフスは、集団で罹患(りかん)するケースが多い1964年の数字では、赤痢の患者は5万2420人、死者は471人に及ぶ。もはや忘れられているが、日本は国際的に「赤痢の国・ニッポン」という汚名を受けるほどだった。腸チフスは赤痢と並んで流行しており、1964年、患者は890人、死者は20人である。
 蚊が媒介するウイルス性疾患では、日本脳炎という、日本独特の感染症が猛威をふるっていた。日本脳炎は1946年(昭和21)から60年代前半までの間に、毎年2000人から4000人の患者が出た(岡部信彦「3.日本脳炎ワクチン問題 その背景」、日本ウイルス学会編『ウイルス』第55巻第2号所収)。
 対策も遅れていた。この当時のニュース映像を見ると、医療機関が路地やドブ川にむやみにDDTという殺虫剤を大量に吹きかけているが、これは占領時代、アメリカが進駐軍の兵士を守るために日本中にDDTを散布したやりかたをそのまま踏襲したものである。いくらDDTをまいても、非衛生的な生活環境を改善しない限り、感染症の蔓延を防ぐことはできないだろう。
 ちなみに、この原稿を書いている2020年3月現在、新型コロナウイルスによる肺炎が世界的に大流行し、WHOが緊急事態宣言を発表、二度目の東京オリンピックは延期された。
 実は1964年の東京でも、感染症による騒動が持ち上がっていた。オリンピック開催直前に、千葉でコレラの感染者が発見されたのだ。8月26日、各紙は一斉にこのニュースを報じ、政府や東京都、厚生省(のち厚生労働省)、オリンピック関係者は、一様にパニックに陥った。
「五輪を目前にコレラの恐怖 感染源追って懸命の防疫」。センセーショナルな見出しが紙面に躍る。「東京オリンピックを前に、突然ふってわいたようなコレラ騒ぎ。外国旅行者とは無関係な配管工の発病、死亡という想像もできなかったケースだけに、厚生省当局者も、最初は、『信じられない』といったおももちだったが〝真性〞とわかると、沈痛な表情に変わった。感染経路が不明なだけにコレラの不安はよけいに大きい」(読売 8・26)
 感染防止の緊急体制が敷かれ、早朝から保健所に行列ができた。ワクチンの緊急接種を受けるためである。亡くなった患者が利用したと思われる国鉄や私鉄の駅などでは、徹底的な消毒が行われた。
 その後、葛飾区でもコレラ患者が出たが、感染源は依然として不明だった。だがオリンピックが近づくにつれ、報道はまれになっていく。
「厚生省がコレラ終結宣言、感染経路もつきとめずに。オリンピックの前なので急いだようだ」(小和田次郎『デスク日記』)
 もしコレラが大流行していれば、オリンピックへの出場を取りやめる国も増えていただろう。
 1964年の東京。道路や競技場は突貫工事で間に合わせ、”よそいきの貌”を美しく磨いていたが、都市のインフラという“基礎体力”においては、きわめて脆弱(ぜいじゃく)だった。いくら先進国をとりつくろっても、内実はお粗末だったのである。
 水飢饉といい、疫病といい、環境汚染といい、治安の悪さといい、産業の傲慢(ごうまん)といい、都や政府の無策といい、いまにして思えば、よくぞ五輪の開会にこぎつけたものだ。
 しかし、その陰でどれほどの犠牲が払われたのか、思い返されることはない。

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プロフィール
貴志謙介(きし・けんすけ)

1957年生まれ。1981年、京都大学文学部卒業後、NHK入局。ディレクターとしてドキュメンタリーを中心に多くの番組を手がけ、2017年に退職。主な番組に、NHK特集『山口組』、ハイビジョン特集『笑う沖縄・百年の物語』、NHKスペシャル『アインシュタインロマン』『新・映像の世紀』など。著書に『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』、共著に『NHKスペシャル 新・映像の世紀 大全』(どちらもNHK出版)など。

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