貧困は拡大し、人命は軽視される…。すべての源は五輪イヤーにあった!〔後編〕 貴志謙介『1964 東京ブラックホール』より
五輪イヤーの実相に迫るノンフィクション『1964 東京ブラックホール』。前編に引き続き、第一章後編を公開します。高度成長を下支えした出稼ぎ労働者の実態をつぶさに見ていきながら、東京一極集中のシステム――地方農村を犠牲にして繁栄する首都の姿――をあぶり出します。
※本文中の筆者もしくは編集部による注は( )で示し、引用箇所の注は[ ]で示しています。また、引用した新聞・週刊誌・月刊誌の出典は( )で示しました。西暦が記されていないものは、1964年に印刷・刊行されたものです。
第一章 東京地獄めぐり
2 人命軽視
女の夢にまっさかさまに
高い鉄骨から夫が落ちてくる
乱雑なあたりのながめを天へ押しあげ
風の日の熟柿のようにみごとにつぶれる
――草野比佐男「遠い京浜」
1964年は大いなる不安とともに幕を開けた
試みに、1964年年頭の新聞や雑誌をのぞいてみよう。もちろん、五輪をめぐるご祝儀記事も目につく。しかし全体としてのトーンは明るくない。後世のメディアが「夢と希望にあふれていた年」と喧伝(けんでん)するような浮かれた気分は見当たらない。それどころか、新しい年を迎えるにあたっての悲観の空気は驚くほど濃く、得体の知れない不安が滲(にじ)んでいる。
前年に続発した、暗い事件の印象を引きずっているのかもしれない。『文藝春秋』の新年号では、世界に衝撃を与えたケネディ大統領の暗殺が特集されている。核戦争をめぐる恐怖は、相変わらず世界中の人びとの心に沈殿していた。日本はこれからどうなるのだろう――。新聞の社説は、冷戦下の代理戦争に巻き込まれることを懸念している。
国内に目を向けても、庶民の暮らしに暗雲が漂っている。物価高はいよいよ猛威をふるう。中小企業の倒産が目立つ。「経済成長さえ実現すれば、誰もが豊かになれる」という池田首相のご託宣の信憑(しんぴょう)性も疑わしかった。
殺伐(さつばつ)とした凶悪犯罪の大半が未解決のまま、年を越していた。
吉展ちゃん誘拐事件。殺人鬼・西口彰(映画『復讐するは我にあり』のモデルとなった凶悪犯)の潜伏。バラバラ殺人。地下鉄の無差別爆弾テロで都民を震撼(しんかん)させた草加次郎事件。右翼のテロ。前年の暮れに、国民的英雄・力道山がヤクザに刺殺された衝撃的な事件も記憶に生々しい。
何より国民がおびえていたのは、毎年のように繰り返される大惨事である。1963 年の三井三池炭塵爆発は458人の犠牲者、839人の一酸化炭素中毒者を出した戦後最大の炭鉱事故であり、鶴見事故は161名の死者を出した戦後最悪の列車多重衝突事故である。工事現場の爆発事故は、55年から9年間で600件を超えていた。
新年の『文藝春秋』に掲載された随筆家・福島慶子の年頭所感には、誰の心にもわだかまっていた不安が率直に書かれている。
「オリンピックの準備で、日本中が気が狂ったようにそこらじゅう掘りくり返し、突貫工事にいきり立っているので、日本人の気持ちまで荒々しくなった」「万一この状態の東京に今、関東大震災程度の災難が襲ったらどんな事態になるか想像もつかない」「どうかそんなことのないように! と新年に際しこの年にかける願いはその無事だけである」(文藝春秋 1月号、「ひたすら平穏を祈ること」)
今年は、大きな事故のない平穏な年であってほしい――。誰もがそう願っていたに違いない。
しかし、安全を希求する願いもむなしく、1964年もおそるべき事故が多発する年になった。
犠牲者の大半は「出稼ぎ」
6月11日、昭和電工川崎工場内の化学薬品製造工場で大きな爆発が起きた。タンクは20メートルも先に吹っ飛ばされた。そのあおりで、あたり半径100メートル以内の建物、資材倉庫、下請け作業員詰め所など四棟が壊滅した。
50メートルの真っ赤な火柱が黒煙とともに吹き上がり、天を衝いて燃え上がった。ニュース映像を見ると、爆発の連鎖反応が一帯の工場に広がり、炎の山脈とでもいうような巨大な壁を形成している。消防や救助にあたる人びとを呑(の)み込みそうな、まさに地獄絵図だ。18人が死亡、重軽傷者は100名を超える。
爆発事故は終わらない。7月13日、同じ川崎の化学工場で新たな爆発事故が起き、2名の死者を出した。同じ日、墨田区の石けん工場でもメタンガスが爆発し、4人が重軽傷を負っている。
翌7月14日、またしても悲惨な爆発火災が起きた。品川区の倉庫会社・寶組(たからぐみ)の危険物倉庫が爆発、火災が広がり、消防士19名が死亡、117名が重軽傷を負った大事故である。
事故を起こした工場の多くが、違法な操業を行っていた。とりわけ爆発が多発していたのは、LPG(液化石油ガス)などを扱う石油化学コンビナートである。この年、高圧ガスを扱う工場の数は、1955年の20倍の8000に達し、それにともない大事故も増えていた(朝日 6・12)。
1964年、作業中に事故に遭い、被害を受けた労働者は一年間で約70万人。うち死者は4135人に上った(朝日 12・28)。どこの工場でも、生産の拡大を急ぐあまり、安全管理は後回しにされ、人命を軽視する風潮が蔓延していた。
犠牲者の大半が、地方の農村などから出稼ぎに来た非正規の労働者だった。慣れない危険な作業を任され、事故を誘発する要因にもなっていた。
新幹線工事も、五輪開会式に間に合わせよという至上命令に従い、無謀な突貫作業を続けたせいで、事故が頻発していた。ここでも犠牲になっていたのは、出稼ぎ労働者である。給料は出来高払いゆえ、みな無理に無理を重ねていた。仕事を完了させなければ、賃金がもらえない。
10月12日午前10時、川崎市上丸子の下り線路で、ひかり6号にはね飛ばされて亡くなった労働者は、青森県黒石市から来た出稼ぎ農民だった。11月23日午前7時、こだま207号が、静岡県磐田市に差しかかったとき、作業中の下請け労働者がはね飛ばされた。亡くなった6人は、鹿児島と山口から来た出稼ぎ農民だった。
すでに多くの出稼ぎ労働者が、新幹線工事の落盤事故で生き埋めになっていた。1964年、推定100万を超えるとされる出稼ぎ労働者は、経済成長を支えていたにもかかわらず、報われぬ人生を強いられた。
新聞記事には、犠牲となったひとたちの名前さえ載っていない。私が瞥見(べっけん)した範囲では、この年、出稼ぎ労働者の人生に寄り添い、読者の共感を喚起するような記事は多くない。ジャーナリストの柳田邦男は、当時、NHK社会部の記者として、首都高速道路の突貫工事を取材していた。
「私は開通式の取材に行っています。その時、関係者の雑談の中で、『工事現場では、建設費一億円ごとに一人死ぬんです』と言った。たとえば三百億円かかった工事であれば、三百人死ぬ」「たとえ死者が一人であっても、その父ちゃんを送り出した東北の家にしてみれば大変なことなのです。それが建設業界では、十人とか百人という単なる数字で括くくられてしまう」「当時、工事現場とは出稼ぎ労働者が必ず死ぬところでした」(『心の貌』)
開通式で胸を張り、犠牲者を数字で片づける建設会社幹部の感覚は、戦場で大量の兵士を死なせて平然としていた大本営の参謀と変わらないように思える。
「開通当初は明治神宮の裏手にあった料金所の脇に、建設中の事故で亡くなった人たちの慰霊碑が建っていましたが、いつの間にか料金所と共に慰霊碑もなくなってしまいました」(同前)
毎日10人が転落した
突貫工事に狂奔した当時の建設現場が、いかに危険でずさんだったか。その実態がうかがえる映像が残されていた。五輪工事の現場を労働基準局の監督官が見回るというニュース映像である。
「オリンピック開幕に間に合わせるため、関係現場は、夜を日に継ぐ突貫工事の明け暮れです」
冒頭のナレーションとともに、突貫工事の現場を点検する当局の職員による視察が紹介される。
「渋谷[労働基準]監督署でも、大きなオリンピック工事が45、監督官はわずか5名、手が回り切れぬようです、そこを見越してか、ずさんな工事も横行」
監督官のかたわらで、労働者が目もくらむような高所作業を続けている。
「高さ55メートルの鉄塔の上は、20メートルの突風」「こうした危険な作業の手当が一回36円なり。オリンピックの陰の命の細るような話です」
1964年1月15日、ビルの高層化が解禁された。この年の建設現場では、一日に10 人以上の割合で転落事故が起き、死者が出ていた(中央労働災害防止協会『産業安全年鑑 昭和40年版』)。たとえ助かっても、重傷を負う者が1万8000人もいる。
工事の見積もりには、安全に配慮するための経費が計上されていたが、元請けの予算には組み込まれていても、下請けへ、そして孫請けへ仕事が流れるうちに消えていく。理不尽きわまる「ピンハネ構造」が幅を利かせていた。
ある労災病院の光景
労働者の受難は、映像にも残されている。とりわけ見る者の心を震わせるのは、労災病院の記録映像だろう(NHK日本の素顔『野丁場トビ』)。病院は転落事故のせいで歩けなくなった患者であふれた。
ある労災病院。首都圏の工事現場で転落した患者が次々と搬送される。整形外科の病室には、脊髄を損傷した患者60人が入院している。大半が建設労働者で、下半身が麻痺しているひとも多い。ひとりでは何もできなくなっている。
器具を使って、風呂に入れてもらうひとがいる。両足義足のひとがいる。寝たきりのひとがいる。一切の希望を断ち切られ、押し黙り、ただ天井を見つめる。ナレーションが、冷厳な現実を告げる。
「もしこのひとたちが、半身不随で生涯を送るようになると、労働保険は賃金日額の240日分を年金として補償してくれます。日額1000円のひとで月2万円ですが、身の回りの世話をするひとが必ずひとりは必要だというこの病気では、この金額も看護人に支払う給料だけに飛んでしまうのです」
当時、資本金5000万円以上の大企業は全体の1%。全国で8万といわれた建設業界の大部分は中小企業である。そのほとんどが下請けの下請けの、そのまた下請けといったかたちで階層化されている。
事故で手足を失っても、大企業の工場で働いている本工(正規の労働者)と中小零細の町工場で働いているひとでは、そもそも補償の額が違う。
手配師に雇われ、出稼ぎで上京した非正規労働者であれば、補償そのものが危うくなる。「出稼ぎ労働者を雇う、下請け会社」といっても実態は単なるブローカー、もしくはヤクザだったりするため、そもそも会社として保険に加入していないことさえある。けがをしようが事故死しようが、見舞金程度でごまかされてしまう。理不尽な差別というほかない。
病人でもこきつかう暴力飯場
「毎朝七時から同じ仕事をしています。残業、残業で夜の十一時頃まで働いております。それから風呂に入り、洗たく」という、出稼ぎ労働者の証言がある(美土路達雄『出稼ぎ』)。一日16時間労働。労働基準法も出稼ぎ労働者にはハナから無縁だ。
突貫工事の現場では、長時間の重労働はあたりまえで、その結果、過労による心臓麻痺と脳貧血で、労働者がバタバタと倒れた。先にふれたように、1964年の夏は水飢饉が発生し、蛇口から水が出るのは一日9時間だけだったため、脱水症状で倒れた労働者も数知れない。
一日800円程度の安い賃金から、さらに飯代、布団代などが差し引かれる。酒も市価の2倍の値段で売りつけられる。
いわゆる「タコ部屋」、あるいは「暴力飯場(はんば)」も野放しになっていた。タコ部屋も飯場も、土木工事の現場などに設けられた作業員向けの宿舎である。
手配師が出稼ぎ労働者に声をかけ、相場よりも高い報酬が得られるなどと甘言を弄(ろう)して暴力飯場に連れていく。いったんタコ部屋に入れられれば、簡単には足抜けができない。四六時中監視され、自由を奪われ、危険きわまりない労働に駆り出された。
暴力飯場に入り込み、取材を行った毎日新聞の記者は、病人でさえ酷使される実態を目撃した。
「最初の一日だけは休養させ、二日目から地下鉄の穴掘りやコンクリートの打ち込み、荷役などの重労働につかせた」という(毎日 5・2)。
過酷な労働に耐え切れず、多くの労働者がヒロポンを打った。覚せい剤である。だが中毒になれば、稼ぎがヒロポン代に消える。やがて健康を失い、廃人となる。
そして誰もいなくなった
出稼ぎ労働者は、前述のとおり、東北や九州など、地方から来た農民が多い。このころ、東京と地方の所得格差が広がっていた。たとえば、1964年、東北で一人当たりの所得がもっとも低かった岩手県に対し、東京はその2.4倍ほどである(内閣府「県民経済計算 昭和30年度-49年度」)。
経済成長を実現するために、都市は、低賃金の労働者を大量に求めた。政府は農村の人口を大量に都市に移動させ、産業労働者に変えようと考えた。そもそも「所得倍増」という政策には、農村のありかたを根底から変えてしまう「離農の推進」が含まれていた。
そのために農業の機械化が進められた。耕運機やトラクターを購入しなくてはならない。テレビ、洗濯機、冷蔵庫なども農村に入ってくる。耐久消費材もほしい。先立つものは現金である。まずは現金収入を増やさなくては、豊かな生活ができない。
そうなれば、大都市へ出稼ぎにいくほかない。結局、農業を捨てて、工場の労働者になるというケースが激増していた。伝統的な出稼ぎといえば、季節労働者を意味したが、高度成長下の出稼ぎは、むしろ「民族大移動」ともいうべき現象だった。
出稼ぎ農民や離農者が増えるにつれ、農村社会そのものが音を立てて崩れはじめた。五輪がらみの建設ブームが一段落した9月、朝日新聞にこんな記事が載った。
「空前の『農民大移動』 “五輪出かせぎ”総決算」(朝日 9・2)。記事から、長期にわたる過酷な労働に心身をすり減らしたにもかかわらず、業者にだまされて賃金をもらえなかった労働者が多かったことがわかる。不払いを訴えたケースは確認できただけで、その年1月から半年の間に、秋田県で151件、山形県で117件あったという。
松葉づえを壁に立てかけ、目を宙に泳がせる中年の男性がいる。将来への不安に駆られて役所に相談に訪れた出稼ぎ帰りの村人である。NHKのドキュメンタリー・現代の映像『出かせぎの村』のワンシーン。ナレーションが重なる。
「この地方[秋田県仙北郡]から出稼ぎに出る者の大半は、東京地方の建設現場で働いている。にわか労務者には事故も多い。このひとも足に切断寸前の重傷を負った。その結果、労災の補償金はおろか見舞金ももらえずに、這(は)って帰ってきたという」
この年、東京で行方不明になる出稼ぎ農民が激増した。警察庁の調べでは、この年、届け出のあった全国の行方不明者の総数は8万人(「昭和39年行方不明者届受理状況」)。届け出がない事例も考えられ、たしかな総数はわからない。
東北の村役場は相談者であふれた。工事現場で事故に遭ったり、悪徳業者にだまされたりしたケースが多い。東京まで出かけて人捜しをしたい気持ちがあっても、農作業が忙しく、旅費もままならない。たとえ東京まで出たとしても手がかりをつかむことは難しいだろう。1964年の前半に、日本全国で発見された身元不明者の死体は500を超えるという。
どん底に落とされた農村の女たち
農村に残された女たちの疲弊も深刻だった。先に引いた記事によれば、「『五輪出かせぎ』では、これまで村外へ出なかったような農家の主人や長男までかり出された」という。「男手のなくなった村ではイモチ病[イネに発生する病害]が続発」(朝日 9・2)。すべて女性と老人だけで対処しなくてはならなかった。
消防団を主婦だけで組織した村もある。村人が長きにわたって支えてきた農村共同体は、あっけなく崩壊に向かった。新潟のある村では、主婦の労働時間が一日平均14時間に及び、「農婦病」が深刻になった(朝日 9・17)。重労働による神経痛である。心の病も増えた。仕送りが途絶え、自殺が増えた。リウマチで歩けないおばあさんを家族がリヤカーで田んぼに運び、稲を刈らせている農家がある。全国の農家から悲鳴が聞こえてくる。
「こどものお守りをする人がいないため、幼児が池に落ちて死んだ(静岡県)。息子が農家をきらって家出したため、父親が自殺した(長野県)。離婚が多くなった(福島県)。母親の農作業中に火事が起こり、こどもが焼け死んだ(岩手県)などの犠牲者も出ている」(同前)
衝撃的な映像が残されている。東北のある村、子どもたちだけで暮らす家族の記録である(NHK現代の映像『凍った村 崩れゆく出稼家庭』)。ナレーションによれば、「父親は出稼ぎに行ったまま帰らないうえ、母親も子どもたちを捨てて逃げてしまった」。
この家では、中学2年生の男の子、そして小学校6年生と3年生の兄弟が、子どもだけで暮らしている。かれらは自分たちで食事をつくり洗濯をし、明るくなれば起きて学校へ行き、暗くなればボロをまとって寝るという生活を送っている。公開調査の結果、この子どもたちの父親は静岡県のある工事現場で見つかった。だが父親は来年の春まで帰ってこないという。
夜、子どもたちはマンガを読みふける。壁には、『スーパージェッター』や『鉄人28号』のマンガの落書き。どちらも、そのころ人気のあったテレビのアニメである。貧しい暮らしにもテレビは普及していた。
テレビには、華やかな東京の消費生活が映る。東京へ行けば、現金を手にすることができるかもしれない。現金さえあれば、貧しい暮らしから抜け出すことができるかもしれない――。テレビから、出稼ぎを後押しする富の香りが漂っていたのではないか。
繁栄を支える「犠牲のシステム」
東京の繁栄は、数え切れないほどの労働者の犠牲のうえに成り立っていた。だが多くの出稼ぎ労働者は東京で搾取され、使い捨てにされた。社会を支えているにもかかわらず、立場の弱い労働者や農民には繁栄の恩恵が回ってこない。
1969年から72年まで駐日アメリカ大使を務めたアーミン・H・マイヤーは、日本特有の「二重経済」のギャップが、社会を不安定にし、長期的には経済発展を阻害する、と予見した。
「日本には、高賃金と低賃金、ふたつの部門を隔てる巨大な格差が存在し、その仕組みは『二重経済』と呼ばれている」「1965年のデータによれば、日本の総世帯のうち52.7%は、国民総所得のたかだか25%にあたる収入を得ているに過ぎない。その一方で、3.9%の富裕層が総所得の16.5%にあたる高収入を得ているのだ」「しかも、この『二重経済』の格差は、急激な経済成長によって、さらに拡大してしまった」(Assignment:TOKYO An Ambassador’s Journal)
「二重経済」の構造を温存していたからこそ、急速な成長が可能になったという見方もあるだろう。しかし、不安定で脆弱なシステムは長続きしない。
「日本の経済が不安定かつ脆弱な仕組みを抱えていることは、日本人もよくわきまえている」「いずれこの仕組みが日本経済の発展にとって大きな障害になるのではと懸念される」(同前)
戦後最大の国民運動だった60年安保闘争が挫折し、政治に幻滅した大衆は、今度は「所得倍増」のかけ声に敏感に反応し、向日性の微生物のように、モノとカネのあふれる世界を目指して一斉に移動した。われ先に蜜のしたたる花園を目指し、咲きみだれる花の香りをかごうとする。
夢とか希望とかいうことばが示すのは、もはや敗戦直後の焼け跡でつかのま夢見られたような民主主義のユートピアではなくて、経済成長のパイに少しでもありつこうと突進する、切迫した欲望なのだ。しかし、それは誰かを踏み台にし、犠牲にしなければ成り立たないシステムだった。
もちろん、そうした「犠牲のシステム」は、出稼ぎに限らない。1964年の繁栄を支えた「東京のからくり」について、さらに探っていく。
* * *
『1964 東京ブラックホール』第二章以降で取り上げる内容を、簡単にご紹介します。
●第二章「忘れられた人生」……集団就職の若者たち(=団塊の世代)と、貸本マンガの世界や新たな宗教団体の隆盛の関係。当たり前のように行われていた売血と、731部隊出身者が設立した民間の血液銀行である日本ブラッド・バンク。
●第三章「ブラック・ソサエティ」……政財界に蔓延した汚職・隠蔽、拡大の一途をたどる組織暴力、オリンピック直前に行われた「東京浄化作戦」。
●第四章「虚妄のホワイトカラー」……「新中間層」、いわゆるサラリーマンという層の増大と、かれらが構成する「企業社会のシステム」の構造的欠陥。それに由来する性差別や、多発する少年犯罪。
●第五章「首都圏=USA」……冷戦下に決定づけられた対米依存。米軍基地の存在により悪化した人びとの暮らしから、政府とCIAの結びつきまで。
●第六章「五輪をめぐる幻想」……冷戦の現実に振り回された東京オリンピックの実態――工作員が舞台裏で暗躍、北朝鮮とインドネシアがボイコット、アラブ諸国とイスラエルの確執で破綻寸前だった閉会式。会期中に行われ、日本政府をゆさぶった中国の核実験。
●第七章「宴のあと」……オリンピック閉幕後に訪れた、戦後最悪の不況。そして、ベトナム戦争によって実現された驚くべき経済成長。
了
プロフィール
貴志謙介(きし・けんすけ)
1957年生まれ。1981年、京都大学文学部卒業後、NHK入局。ディレクターとしてドキュメンタリーを中心に多くの番組を手がけ、2017年に退職。主な番組に、NHK特集『山口組』、ハイビジョン特集『笑う沖縄・百年の物語』、NHKスペシャル『アインシュタインロマン』『新・映像の世紀』など。著書に『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』、共著に『NHKスペシャル 新・映像の世紀 大全』(どちらもNHK出版)など。
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