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いちばん旨いマグロとは何か?〔前編〕――中原一歩

和食にとって特別な意味を持つ魚、マグロ――。晩秋から冬にかけて「旬」を迎えます。マグロ取材歴10年を超える気鋭のノンフィクション作家が「いちばん旨いマグロ」とは何かを追究します。
※本記事は、2019年12月に刊行されたNHK出版新書、中原一歩『マグロの最高峰』の内容から一部を抜粋したものです。

 本当に旨いマグロは人生観さえ変えてしまう――。
 そんな迷信めいた話を耳にしたのは、ずいぶん昔のことだった。言葉の主は、東京・銀座に店を構えていた、その世界ではつとに名の知れた鮨屋の名店の主人だった。
 世の中に旨い食べ物は星の数ほどある。ただ旨いのではなく、人生観さえ変えてしまうというのだから話は尋常ではない。私はノンフィクションの書き手として、この主人の言葉を頼りに、マグロに魅入られ、のめり込み、人生をマグロに捧げてきた食のプロたちを十年かけて追いかけてきた。
 冷たいみぞれ交じりの雨と、耳がちぎれるような風が吹き付ける中、マグロ漁師の船で海に繰り出して地獄を見たこともあったし、それまでもマグロにこだわって取材をしていたため、マグロは人並み以上に食べてきたという自負があった。しかし、自分の人生を左右するものとしてマグロを表現するようなことは一度もなかった。人生観を変えるというマグロに出会ってみたい――。私はさらに意地になって、国内最高峰と言われるマグロを片っ端から胃袋に収めていくことになった。当然、それなりの散財をする羽目になるのだが、そうした経験を経てたどり着いたひとつの答えがある。
 「マグロほど、人間の食指を動かし、前のめりにさせる別格の旨さを秘めた魚はない」
 しかしその一方で、こうした感慨を抱かせるのは、〝マグロ界〟の頂点に君臨する生の本マグロ(クロマグロ)の中の、さらに一握りの魚でしかないことも知った。なぜ、マグロは私たちの胃袋を鷲摑みにして離さないのだろうか――。
 そして、「味」と並行して注目されるのが、その想像を絶する「価格」だ。〝海のダイヤ〟の異名をとる本マグロの値段は、平時でも一匹あたり国産車一台分に相当する。ご祝儀相場が期待される正月ともなれば、平時の百倍、数億円に化けることだってある。事実、二〇一九年の正月には三億三千三百六十万円という史上最高値が飛び出した。一匹の魚に三億円である。人類史上稀に見るこの「三億マグロ」事件は、メディアによって国内はもとより、全世界で大々的に報道された。なぜ、空前の破格値が出たのだろうか。本書はそうした、国内最高峰のマグロをめぐる謎にも迫っている。
 私が本書を執筆しようと思ったのは、冒頭で紹介したマグロ漁船に乗り、折からの波と風に揺られていた時だった。漁師に言わせればさほどでもない天候だったにもかかわらず、私の目には、波が鉛色の壁に見えた。その壁が船の脇腹を叩くたびに、私の体は右へ左へと木の葉のように舞った。そして、嗚咽の果てに胃袋が空になり、起き上がる気力も失って船の甲板にへたへたと突っ伏してしまったのだ。後悔の念と共に「板子一枚下は地獄だぞ」という漁師の言葉を反芻した。
 その時ふと思ったのである。この板子一枚下を何百、何千匹というマグロがゴウゴウと泳いでいるのだ。船底に耳を当て、目をつぶると、そんなマグロの群泳が目に浮かぶようだった。彼らは太古の昔から今日まで片時も休むことなく泳ぎ続けている。考えてみると太平洋に生息するマグロは、沖縄のさらに南の南西諸島からフィリピン南方沖で産卵し、孵化した幼魚は黒潮に乗って台湾を経由し、日本近海に到達する。黒潮は久米島沖で対馬海流と分岐し、太平洋と日本海に分かれて日本沿岸を北上する。つまり、南北に長い日本列島は、すっぽりとマグロの回遊路の内側に収まっているのだ。マグロの回遊路の内側に存在する日本。その日本を代表する鮨という文化の頂点に君臨するマグロ――このマグロについて書かないわけにはいかない、と思ったのだ。
 書籍では、国内最高峰のマグロがどのように誕生するのかについて、産地から市場、そして鮨屋のカウンターを経て私たちの胃袋に収まるまで――つまり川上から川下までを追いかけた。国内最高峰のマグロは今、絶滅の危機に瀕している。マグロの価値と実態をなんとか読者に伝えたいというのも、書籍を執筆しようと思った動機の一つである。
 そして最初に断っておきたいことがある。ここで登場する「マグロ」とは、とくに説明がない限り「本マグロ(クロマグロ)」を指すということだ。国内で流通するマグロには、ミナミマグロ(インドマグロ)やメバチマグロ、キハダマグロなどがある。これらももちろん旨いが、“マグロの最高峰” を追いかけることを大前提とするので、やはり本マグロをめぐる冒険がテーマになる。
 本マグロを「真鮪」と書いた人物がいる。今は亡き俳優・緒形拳だ。緒方は吉村昭原作の映画『魚影の群れ』でマグロを獲る海の男を演じ、喝采を浴びた。マグロの中のマグロだから「真鮪」。その『魚影の群れ』の舞台となり、今や “マグロの聖地” と呼ばれるようになった青森・大間をめぐる旅から、始めることにしよう。

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プロフィール

中原一歩(なかはら・いっぽ)
1977年、佐賀県生まれ。雑誌を中心に取材記者を始め、新聞・雑誌・ウェブメディアなど多岐にわたり、記者として活躍中。事件が起きると一番乗りで現地入りし情報収集して迫真のルポを書くことで定評がある。著書に『私が死んでもレシピは残る――小林カツ代伝』(文藝春秋)、『最後の職人――池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)などがある。銀座の鮨屋、大間の漁港、築地と豊洲の仲卸について長年の取材経験あり。地方の鮨屋をめぐる「旅鮨」もライフワークとする。