人を「無差別」に殺してはいけない――日常に潜む狂気を描いたサイコサスペンス小説「ここからは出られません」藤野可織
どこにでもいるような平均的で平凡な女性、鳩里鳩子。そんな彼女にとって唯一健全ならざる習慣は「ときどき殺しをする」ことだった。その手口は欲望のままに行う無差別殺人に見えるが、彼女は堅固たる自分のルールに則って人を殺し続けていた。
そんなある日、彼女の身体に異変が起こり――。
※当記事は連載第2回です。第1回から読む方はこちら。
夕方に起こった殺人事件で、夜のニュースはもちきりだ。私はソファーで憤慨している。夫は背後の食卓でパソコンを開いている。食洗機のモーターのうなりと、水がざばざばとめぐる音が混じって聞こえている。
「無差別通り魔事件だってさ」私はあきれはてて言う。テレビと食洗機の音に負けないよう、半ば怒鳴っている。「ねえ、誰でもよかったんだって!」
ああそう? と夫が戸惑った返事をよこす。夫は私が何に怒っているのかぜんぜんわかっていない。
今日17時45分ごろ、都内の路上を歩いていた19歳のアルバイト女性が刺され、そのおよそ4分後、150メートル離れた駅の通路で37歳の会社員女性が刺された。被害者二人は死亡。犯人の24歳の男は、被害者二人とは面識なし。凶器は、凶行のわずか20分前に百均で購入したばかりの刃渡り約17センチの包丁で、被害者は二人とも背後から突然襲い掛かられ、滅多刺しにされた。男は血のついた包丁を持ってときおり怒号を上げながら歩いているところを、通報により駆けつけた警察官に取り押さえられ逮捕された。詳しい犯行の動機については現在聴取中だが、「誰でもよかった」との供述もあり、無差別な通り魔的犯行と見て捜査を進めている。
そのようなことを、ワイドショーのキャスターが読み上げている。
「だからさあ、誰でもよくなんてないよね!? ちゃんと選んでるよね? 最初の犯行現場にも二つ目の犯行現場にも、その途中の道にも、被害者の女の人二人だけしか存在しなかったのかよ! 絶対もっといっぱい他にも人いたよね!? なのに女性ばっか殺したってことは狙ったんだよ。誰でもよくなんてねえよ、自分より力の弱い女がよかったんだよ、これは無差別殺人なんかじゃないね、女性に対するヘイトクライムだって報道しろよオラ!」
鳩子ちゃん鳩子ちゃん、汚い言葉、使わないで……。ノートパソコンのモニター越しに夫が弱々しくたしなめる。落ち着いて鳩子ちゃん。怒らないで。
夫はいつもそう言う。怒らないで、と。私は悲しみをあらわにすることもある。すると夫は、悲しまないで、と言う。夫はそれで私を慰めているつもりらしい。しかしそれはちがう。これは私に対する弾圧である。言葉は一見やさしいが、要するに私に感情を引っ込めろと言っているのであって、私が怒る原因、悲しむ原因を精査し取り除くつもりはないのだ。
だから私はもっと怒るし、もっと悲しむ。私はソファーの上に勢いよく立ち上がって夫を振り返る。
私のいるリビングと夫のいるダイニングは続き間になっている。私たちのいるこの空間は明るく、夜になればなるほど明るく、ソファーの上から普段は見ない高さで見下ろすと、ますますその明るさはやさしく親密で、愛おしく守るべきものであるように思われる。ここは安全な密室であると、だからここであなたは安心していていいのだと、部屋が強く主張してくる。窓を閉めてカーテンを引いているから、ここが高層階であることなんかわからないのに、なぜかやっぱりここは高いところにあることが実感され、その高さと密室であるがゆえに社会から切り離され、安全に孤立し、何も心配はないのだという気持ちになってくる。私の視界の中央に位置する、日本人の成人男性としてはおそらく平均的な身長・体重であるところの健康な34歳の夫は、不安げな小動物のように私を見上げ、ほら、だから世間のこういった血なまぐさい出来事はぼくたちとは何の関係もないんだよと、そうまなざしで語りかけてくる。だから恐れる必要はない、ましてや怒る必要も、悲しむ必要もないのだと。
しかし、それはまやかしだ。私はだまされない。私は片足を上げて背もたれを踏み、夫を威圧する。あぶないよ、気を付けて、と夫が中腰になる。
「気を付けるのはお前だ」と私はややぐらつく体で言う。「ぜんぶ関係あるんだよ。この卑劣な犯人の男も殺されちゃった女の人たちも完全に個人的な理由でこんなことになったんじゃなくて、社会がこうなるように促した結果、たまたまこの男が犯人でこの女の人たちが被害者になっただけなんだよ、わかんないの?」
わかった、わかったからそこから下りて。夫が私を抱きとめようと軽く手を広げながら小走りでやってくる。わかったから座って。
私は差し伸べられた夫の手をとり、馬車から降りる貴婦人みたいに背もたれから片足を下ろし、不安定なソファーの座面でバランスを崩さないよう気を付けながらうずくまる。
夫はわかっていない。この犯人の男が、被害者として自分より身体的能力に劣る者たちを選んだのは、社会がこの男にそうするように促しているからだ。そしてもちろん、社会が促した結果として、たまたま私はときどき人殺しをするし、たまたま誰かが私の被害者になる。私の被害者たちが私よりすぐれた身体的能力を持つ者たちであるのも、社会が私に、そういった者を選ぶよう促すからなのだ。
でもそのことは、夫には内緒にしている。夫は、私が座ったことを喜んで何か言っている。どうか気を付けてほしい、私だけの体じゃないとか何とか。
食洗機がピーと音を立てて、食器が洗い上がって乾燥まで終わったことを教えてくれる。私も夫も、食洗機のピーが聞こえているけどとくに反応はしない。ビルトインの食洗機から、乾いた食器を出してきちんと食器棚にしまう人間はこの家にはいない。食器が必要になれば食洗機から取り出して使うし、洗い上がった食器を出さざるを得ないのは次に汚れた食器を食洗機にセットするときだけだ。
夫が私のとなりに座る。私はアイフォンでSNSを見ている。知っている人たち、知らない人たちの無数の肉声がスリップしていく。私がフォローしている人たちの多くはこの憎悪殺人が「無差別通り魔事件」として扱われていることに私と同じように怒っていて、私は自分の正しさを誇らしく思う。誇らしすぎてうずくまる姿勢のままふくらんでふくらんではちきれそうだ。私は夫に、得たばかりの知識を授ける。
「こういう、男性による女性を標的とした殺人のこと、フェミサイドって言うんだって」
そうなんだね、と夫がうなずく。ひどい事件だね。
私たちの背後に食卓があり、その上には夫がついさっきまで注視していたノートパソコンがある。その画面を私は見ていないが、夫がまちがいなく仕事をしていたことを私は知っている。夫はネットサーフィンなんかしない。まったくしないわけじゃないけれど、私の比ではない。夫は仕事が忙しくて忙しくて、社会で何が起こっているのか政治がどのような方向に向かっているのかを、すすんで調べる時間と気力を持ち合わせていない。夫が今後、「フェミサイド」と検索して調べることが永遠にないであろうことを、私は知っている。夫の開かれたノートパソコンのさらに向こうに仕事をやり終えた食洗機があって、食洗機は今、あたたまった食器を中におさめてしずかにしている。
私は妊娠している。夫は私がソファーから転がり落ちたりしない限り私は安全だと思っているし、私の妊娠が安全に継続されるという以外の可能性を考えもしない。夫は自分の身も安全だと思っている。夫は何か言いながら、夫が無害だと信じている私の手に自分の手を重ねる。私の手は血塗られているのに夫には見えていない。まったく、こういう男こそ、私の被害者にふさわしいってのに。私がちょっと笑ったので、夫はますますほっとして私の有害な手をやさしく強く握る。
何もかも計画どおりだ。私は私の年齢、私のキャリア、私の年収、私の貯金、そういったものに照らし合わせ、自分がそろそろ妊娠すべきだと考えた。そして、そうなった。
妊娠すると決めると、妊娠1ヶ月前から摂取すべきとされている葉酸のサプリを飲みはじめた。同時にアルコールを断ち、大学の学食前で買える限定のローストビーフ丼弁当も泣く泣く控えた。ローストビーフは諸説あるものの、一応、妊婦が避けたほうがいいとされている食品の一つだ。じゅうぶんな加熱処理がされていないローストビーフは、トキソプラズマという寄生虫による感染症を引き起こし、妊婦本人は無症状であっても胎児に先天性トキソプラズマ症を発症させる可能性がある。
私だってローストビーフは食べたかった。同僚たちには私が妊娠を計画していることなんか話していないから、ローストビーフ丼弁当が販売される日にはそんなことは忘れていたふりをしたけれど、実際は前夜に私は家のソファーに横たわってアイフォンで死ぬほど「ローストビーフ 妊娠中」と検索し続けていた。私は妊娠していないかもしれないけれど妊娠しているかもしれなくて、医療機関でそれを確かめるとしてもまだ早すぎる時期だった。私は専門家の意見を聞くことができる段階になかった。夫に相談しても無駄だということはわかっていた。夫はもちろんこの計画の加担者ではあるけれども、夫には妊娠中に食べるべきでない食品についての知識はないし、自分でその知識を得るつもりがないことを私は知っていた。そういう知識は私からもたらされるものであり、その知識を授けるべき私が相談したところで、夫にしてみれば戸惑いつつもやめておくよう控えめに私に進言するしかない。
それが正解だった。ここまで気に病むのならば、ローストビーフは食べない。
10ヶ月に及ぶ妊娠期間を、ローストビーフを食べてしまったことによる弊害を恐れながら過ごすのはごめんだった。私はローストビーフは食べない、妊娠しているかもしれないから。
そうと決めてみると、なおさらローストビーフが食べられないことが惜しまれてならなかった。食べてはならないとなると、ますますローストビーフが食べたくなった。私は腕のだるさとしびれに耐えながら、未練たらしくいつまでもいつまでもローストビーフの危険性について検索し続けていた。そのあいだ、夫は食卓でパソコンに向かっていた。いつものように持ち帰った仕事をしているはずだった。
生理が周期どおりに来ないことを確認して、妊娠検査薬を使った。陽性だった。産婦人科へ行き、医師の口から妊娠を告げられた。私は帰りにスターバックスへ寄った。窓際の一人用の席が空いていた。デカフェを注文し、それをローテーブルに置く。ローテーブルとセットのローチェアには、すでに私が休日用として愛用しているエルベ・シャプリエの小ぶりの舟形トートバッグが置いてあった。私はアイフォンをかまえ、斜め上からぎりぎり私のエルベ・シャプリエが入るよう計算して、デカフェの写真を撮った。席に座って画像の明るさを少し上げ、コントラストを少し下げる。妊娠については書かず「今日はデカフェ☕」とだけのキャプションを添えてインスタグラムにアップし、やっとデカフェのカップに手を伸ばした。熱いデカフェを味わいながら、私は自分の今の立ち位置について思いをめぐらせた。私は公式の妊婦だ。だったら私は、どのくらい弱いのだろう?
朝、大学の敷地内に足を踏み入れてすぐに、私は立ち止まってアイフォンを取り出す。アスファルトにいい具合に木漏れ日が落ちるポイントを、私はおさえている。私はきちんと揃えた自分の足を真上から撮ろうとして、しかし履いているスニーカーを捉えるにはやや前屈する必要があることを知る。私は少しずつ前屈していき、ちょうどいいところでぴたりと止まり、シャッターを押す。けしゃん、というシャッター音を模した電子音とともに、私のグレーのニューバランスが画像になる。背景のアスファルトは青みがかっていて、狙ったとおり周辺にかすかな黄色みを帯びた白い木漏れ日の点々が、画面に清潔さを与えている。しかも、私の立ち止まった位置だけは絶妙に木漏れ日をまぬがれていて、ニューバランスを邪魔しない。私は歩きながら、少しだけ画像の明るさを上げる。ニューバランスのグレーが飛んでしまうほど上げるわけにはいかない。微妙な作業だ。いつもの犬をつれたおじいさんが前方を斜めに横切っていく。顔を上げて、「おはようございます」と笑顔をつくる。
「やあ、おはようございます」とおじいさんがこちらを向く。柴犬がいい具合の木漏れ日のあたりに踏み込んでいて、栄養状態の良さそうなきつねいろの背中がやわらかく光っている。アイフォンで撮っておきたい気も少しするが、私は呼び止めず彼らを見送る。
アイフォンに目を戻す。ジル・サンダーを肩にかけ直し、「スニーカーの日々」とキャプションを打ち込む。目の端に、けっこう遠くだけど、ショートカットの女の子が歩いているのがちらついている。黒いオーバーサイズの長袖Tシャツ、裾から中に着ている白のTシャツだかタンクトップだかの生地が5センチくらい覗いていて、その下は黒のスキニーパンツだ。ドクターマーチンのブーツを履いている。中肉中背といったところか。たとえば、ああいう子はどうなんだろう。妊婦である私の相手としては。
そういうことはネットで検索しても出てこない。私はまちがえたくない。まちがえてしまうと、私はきっと自分に誇りを持てなくなる。私は妊婦だけれども、今のところべつに体調に変わりはない。お腹が出ているわけでもない。だったら、妊婦だということに甘えるのはやはりまずいように思う。いつもの基準で人を見るのがいいのかもしれない。
始業時間の9時、ハーブティーのティーバッグを入れたマグカップにポットのお湯を注いでいると、うしろで蟬本さんが笑い出した。
「えー犬山さん、それってどうなの?」と言っている。犬山さんがいったんこの文学部事務室に出勤してきてリュックを下ろしてから身ひとつで外に出て行って、たった今戻ってきたのは気配でわかっていた。私は湯気のたつマグカップを持って振り返る。私の置きマグカップはマリメッコのもので、柄はモノクロームの森。犬山さんは、彼女の無印良品の黒のリュックの中に、透明のジップロックをしまおうとしている。
「えーだめかなやっぱ」犬山さんも笑っている。よく見ると、ジップロックの中身は生理用ナプキンだ。「この前、なくしちゃったんですよね、ポーチ」
「新しいの買おうよ」席につきながら私が言う。
「いやー、でもあわてて適当に買って、気に入らなかったらいやじゃないですか。私ミニマリストだから、気に入らないものはすぐに捨てちゃう」犬山さんはいったんしまいかけた生理用ナプキン入りのジップロックをまた取り出して、額のあたりに掲げて私たち全員に見せる。ジップロックは限界まで空気を抜かれているらしく、重ねられたナプキンが硬く潰れて密着している。 「それに、けっこういいですよジップロック。空気抜くとミニマルになるし。中身が減ると嵩も減っていくし」
「はい」と貝沼さんが挙手する。「私はいやです。私は手首にかけられる紐がついてるポーチじゃないとだめです。なぜなら少々潔癖で、外のトイレの棚に自分のポーチを置きたくないんですよね」
「ジップロックだって棚に置かないこともできるよ。顎に挟んどきゃいいんだよ」犬山さんが即座に反論し、ジップロックを推す。
「私も今ちょうど生理中なんですけど」蟻谷さんがわざわざ席を立ってロッカーがわりの棚まで行き、唯一の男性である松原さん以外の私たちみんなが視線で彼女を追う。蟻谷さんはフルラのピンクベージュのトートバッグから生成りのリネンのポーチを出す。「私のはこれなんですけど」それは手首にかけられるような紐はついていなくて、とくに変わったところのないごく当たり前のポーチなのだけれど、少々サイズが大きい。
「あ、それやっぱ生理用のポーチなんだ。前から思ってたんですけど、蟻谷さんのポーチって大きいですよね」蟬本さんが指摘する。
「私、けっこう出血量が多いんですよね。だから夜用のナプキン入れてるんです」蟻谷さんは無念そうだ。
「そこでジップロックですよ」犬山さんがさらに推す。「空気を抜くんですよ」
私は一応年長者として、蟻谷さんに婦人科で出血量のことを相談したことがあるかを尋ね、蟻谷さんはうなずく。私たちみんながなんとなくほっとする。それならば、そのことについてはもう私たちには言うべきことはない。
言うべきことは、これだ。
「だいたいさあ、なんで生理なんてあるんだろうね?」
たちまち賛同の声が上がる。
「設計ミスでしょ自然の」
「生理には悪い思い出しかないですね」
「生理イコール体調最悪・着たい服が着られない・ナプキンが嵩張るから小さいバッグで出かけられないの三重苦」
「予定立てても、ああ生理にひっかかるなあとなれば、この三重苦にいかに対処するかに心を砕かねばならない」
「だから私たちっていつも頭のどこかで生理のこと考えてません?」
「そうそう! 生理じゃないときもいつも頭のどこかで生理のこと考えてる」
「私はそもそも現代人として、股から血を垂れ流してる現状が許容できませんね」
「我々は進化せねばならない」
「ほう、生理のない身体を進化によって獲得するというのか」
「それには賛成ですが私たちのこの身体はその進化には間に合わないじゃないですかどうしてくれるんですか」
「これは私が常々考えていることなんですが、生理をアウトソーシングしてはどうでしょう。ヒントは先日から我々がまわし読みしているエスパー魔美です」
「了解です、例の『尿のテレポーテーション』事件ですね」
「魔美は自分の尿を他人の膀胱にテレポーテーションさせましたが、なぜそんな不潔な暴力をはたらくのかわからない、私たちは経血を直接トイレにテレポーテーションさせましょう」
「その際、テレポーテーション能力を人に負わせ業務に当たらせる必要はありませんよね。科学の力で魔美のテレポーテーション促進バッジそのものをテレポーテーション装置として開発すればよい」
「はい採用」
「待って。テレポーテーション先はトイレではなく専用のビーカーではいかがでしょうか。経血量に異常がないかどうか一目でチェックできます」
「なるほど。しかしビーカーに経血を溜めておくのは不潔です、やはり直接トイレに流すのがいい。経血量はテレポーテーション装置が計量してデータを記録すれば済む話です」
「はい、まだ提案があります。生理中、ずっと自分でバッジをポチポチ押すのではあまりにも負担が大きい、QOLが下がる」
「たしかに」
「そこで経血テレポーテーション装置は、バッジ型ではなく経血カップ型での開発を提案します」
「なるほど」
「採用」
「えーつまり我々の事業は結局は生理のアウトソーシングではなく新たな生理用品の開発ということでよろしいでしょうか」
「いや、アウトソーシングですよ。だってテレポーテーション先のトイレはやはりそれ専用のものを用意する必要があるでしょうし……」
私は、私がしばらく味わずにすむ、ナプキンの感触を思い出す。汗で股間に貼り付く不快さ、血や汗のぬめりのないときにカサカサと皮膚に擦れてかすかに、でもたしかに持続している小さな痛み。私は私の生理用ポーチがクローゼットのプラスチックの引き出しにこれから長いこと放置されて、中に何ヶ月も前に補充されたナプキンをおさめてしずかにしている様子を思い浮かべる。私の生理用ポーチは、今使っているA. P. C.の財布の前の前に使っていたイルビゾンテの財布を買ったとき、その財布が入っていた布の巾着だ。巾着の紐は手首にかけられるけど、何度か洗濯をしてもうだいぶくたびれてしまっているから、生理が再開したらもうジップロックでいいかもしれない。
事務室のドアが開いて、学生が入ってくる。
「あのーすみません、この書類って……」
「あ、はい」犬山さんが素早くリュックを椅子の背もたれにひっかけて立ち上がる。
そのうしろから、もう一人入ってくる。新しく来た非常勤の先生だ。
「すみません、ちょっとわからないことがあって……」
「はい、おうかがいします」蟬本さんが立ち上がって対応する。
学生も非常勤の先生も女性だ。そんな書類やら手続きやらはどうだっていいから、と私は言いそうになる。みんなでこっち来て生理の話の続きをしようよ。
でもそういうわけにもいかなくて、私はパソコンに向かう。ハーブティーを一口飲む。やっぱり女の子を相手にするのはリスクがあると私は考える。もし相手が生理中ですごく調子が悪かったりしたら、フェアじゃない気がする。かといって、いちいちパンツを下ろさせて確認するわけにもいかない。そんな手間はかけられないし、だいいち倫理的に許されることではない。絶対にだめだ。でもどうなんだろう。私は考え込む。見た目が女性だから生理があるとは限らないし、見た目が男性だから生理がないとも限らないではないか。私は目を閉じる。みんなに聞こえないくらいの小さなため息をつく。ストレスはお腹の赤ちゃんによくない。あまり厳密に考えすぎると誰も殺せなくなってしまう。私はちょっと真面目すぎるのかもしれない。もっと肩の力を抜かなければ。私はハーブティーをもう一口飲み、まだ熱いマグカップを両手で包む。てのひらが熱でじんわりと痛むのを私は黙って楽しむ。
夜、私はマンションの自室のベランダにいる。夫は食卓でノートパソコンを開いている。
私は洗濯物を取り込むところだけれど、下の道路にタクシーがやってきてこのマンションの目の前で止まったのでなんとなく覗き込む。
もう深夜といっていい時刻だ。私は化粧も落としているし、お風呂も歯磨きも済ませている。薄手のスウェットの上下を着ていて、もういつでもこのままベッドに飛び込んで眠ることができる。下の道路はこのマンションの裏側に当たり、一方通行で昼間からあまり人通りがない。この時間ならなおさらだ。タクシーから降りたのは、女の人だった。一人だ。まだ若そう。彼女は、このベランダの真向かいの一軒家の住人であるようだった。タクシーの車内から明かりが漏れて、彼女の長い髪と、薄いコートの裾がストッキングのふくらはぎにじゃれつくみたいにまとわりついているのが見える。靴はハイヒールだ。
タクシーがパタンとドアを閉じて発車する。行ってしまう。彼女のまわりが暗くなる。とはいえまだ外灯があって、私の目はまだ彼女を捉えている。玄関のドアへは二段ほどの段がある。彼女はそれをおぼつかない足取りで上る。私は物干し竿からするりと取ったタオルの端と端を合わせながら、ベランダの柵にたいして半ば背中を向け、肩越しにはるか下の彼女を覗き込んでいる。
彼女はなかなか家に入らない。彼女のバッグはとても小さいのに、彼女はいつまでも肩から提げたバッグの中をまさぐっている。まさぐり続け、3秒ほど休憩してまた再開する。ああ酔っているのか、と私は思う。しかもこれは相当酔ってる。
とうとう彼女は肩からバッグを下ろし、体の正面に持って頭をバッグに突っ込むみたいにして鍵を捜している。少し風が冷たい。そろそろ部屋に引っ込みたいけれど、私は彼女から目が離せないでいる。彼女はコートのポケットに手を入れている。右、左。そこにも鍵はないようだ。
いいよ、ゆっくり捜しなよ。私は彼女が家に入って安全を確保するまで、気長につきあうことにする。彼女はまたバッグを引っかきまわしている。そこに入っているものを、一つ一つポケットに移すことにしたようだ。いい作戦だ。そのうち鍵に行き当たるだろう。私が見張ってるからだいじょうぶ、私は心の中で彼女に話しかける。でも実際には、もしほんとうに暴漢があらわれたら、私はここから何もできずに彼女が惨殺されるのを見ているしかないだろう。私は自分だけが安全なところにいて、彼女に何もしてあげることはできないだろう。
それでも、私は彼女を見下ろし続ける。彼女ははっとうしろを振り返る。だいじょうぶ、誰もいないから。私は彼女を励ます。きっともうすぐ見つかる。彼女はのろのろと前を向く。私はずっと見ている。あまりにずっと見ているので、この世界は夜と上空の私と地面の彼女と、入れないドアだけになる。
プロフィール
藤野可織(ふじの・かおり)
1980年生まれ、京都府出身。2006年「いやしい鳥」で文學界新人賞を受賞しデビュー。13年「爪と目」で芥川龍之介賞、14年『おはなしして子ちゃん』でフラウ文芸大賞を受賞。精緻な描写表現により、単なるホラーとは違う、異質な「怖さ」が漂う作品を生み出している。著書に『ファイナルガール』『ドレス』『私は幽霊を見ない』『ピエタとトランジ <完全版>』『来世の記憶』など多数。
*藤野可織さんのTwitterはこちら