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連載 ロジカルコミュニケーション入門――【第12回】社会的ジレンマに挑戦しよう!

●本連載では「ロジカルコミュニケーション」を推進する哲学者・高橋昌一郎が、まったくの初心者に論理的思考の基礎から応用まで、わかりやすく明快に解説します。
●「ロジカルコミュニケーション」は、論理的思考に基づくスムーズなコミュニケーションを意味します。固定観念や偏見に陥らず、多彩な論点を浮かび上がらせて、双方の価値観をクールに見極めるコミュニケーション・スタイルです。
●なぜかコミュニケーションが苦手、他者との距離の取り方が難しいなど、コミュニケーションに問題を抱えていたら、抜群の効果があります。「ロジカルコミュニケーション」で人生が劇的に好転します!
●本連載は情報文化研究所主催のオンライン講座「ロジカルコミュニケーション入門――はじめての論理的思考」と連動しています。どなたでも情報文化研究所に会員登録(一般会員・学生会員)すれば、毎月第2日曜日11時より開催中のライブ講座を受講できます。ぜひご参加ください!
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●本連載に関するご意見やご質問にはnote「動画【ロジ研#12】ロジカルコミュニケーション入門【第12回】」のページで高橋昌一郎および情報文化研究所研究員が直接お答えします。ぜひこちらもご活用ください!
https://note.com/logician/n/n93c7811f7c2b 


●論理的思考の意味

  本連載【第1回】「論理的思考で視野を広げよう!」では、「論理的思考」が「思考の筋道を整理して明らかにする」ことであると解説した。たとえば「男女の三角関係」のように複雑な問題であっても、思考の筋道を整理して明らかにしていく過程で、発想の幅が広がり、それまで気づかなかった新たな論点が見えてくる思考法である。

【第2回】「論理的思考で自分の価値観を見極めよう!」では、「ロジカルコミュニケーション」によって新たな論点を探し、反論にも公平に耳を傾け、最終的に自分がどの論点を重視しているのか、自分自身の価値観を見極めることの意義を説明した。

【第3回】「論点のすりかえは止めよう!」では、「ロジカルコミュニケーション」の大きな障害になる10の代表的な「論点のすりかえ」について具体的に紹介した。日常的にできる限り論点のすりかえを止めるだけでも、コミュニケーションはかなりスムーズで建設的になるはずである。

【第4回】「白黒論法に注意しよう!」では、とくに詐欺師がよく使う「白」か「黒」しか選択の余地がないと思わせる「白黒論法」を解説した。相手が「白黒論法」のような「二分法」を押し付けてきた場合、命題を整理すると実際の組み合わせは2通りではなく4通りであることが多いのに注意してほしい。

【第5回】「『かつ』と『または』の用法に注意しよう!」では、日常言語では曖昧になりがちな「~ではない(否定)」と「かつ(連言)」と「または(選言)」の組み合わせについて、「論理的結合子」を用いて記号で処理すると、論理的に厳密に表現できることを解説した。

【第6回】「『ならば』の用法に注意しよう!」では、日常言語では曖昧になりがちな「ならば(条件)」および「逆・裏・対偶」が、「論理的結合子」を用いて記号で処理すると、論理的に厳密に表現できることを解説した。

【第7回】「明確に『論証』してみよう!」では、日常言語では曖昧になりがちな「話の正しい筋道」が、アリストテレス以来の「論証」という概念で論理的に厳密に表現できることを解説した。論証には、モダス・ポネンスやモダス・トレンスのように「妥当」なものと、後件肯定虚偽や前件否定虚偽のように「妥当ではない」ものがある点に注意してほしい。

【第8回】「多種多彩な『論証』を使ってみよう!」では、8つの「妥当」な論証形式「MP、MT、HS、DS、Add、Simp、Conj、CD」を確認した。記号化されているため、最初は戸惑う読者もいるかもしれないが、これらを自在に使いこなせるようになれば、日常の議論にも大いに役立つので、ぜひ頭に叩き込んでほしい!

【第9回】「論理パズルを楽しもう!」では、多種多様な「論理パズル」を解きながら、これまで登場した概念を復習した。とくに、さまざまな論理結合子を用いて記号化すると、複雑に見えるパズルも機械的に解くことができることを明らかにした。この回に出した課題は自力で解いて楽しんでほしい!

【第10回】「論理パズルで不完全性定理をイメージしよう!」では、「いかなる有意味な体系も完全にシステム化できない」という驚異的な事実を示した不完全性定理について、論理パズルを活用してイメージ化した。

【第11回】「論理的思考で神学論争に挑戦しよう!」では、「神」の「宇宙論的証明」・「存在論的証明」・「目的論的証明」を論駁する方法を示した。いかに「論理的思考」が強力か、そのパワーを実感してほしい。

志願者のジレンマ

 正しく見える前提と、妥当に見える推論から、2つの選択肢が導かれ、そのどちらを選択しても受け入れがたい結論が導かれる現象を「ジレンマ(dilemma)」と呼ぶ。
 とくに、一定数の「志願者」が全体の利益になるように行動しなければ、全体の利益が消滅するか、あるいは全員が何らかの被害を受けるような状況を「志願者のジレンマ」と呼ぶ。

 おそらく最もよく知られている志願者のジレンマは、限られた人数しか乗れない「救命ボート」の例だろう。もし船が沈没しようとしているとき、定員5人の救命ボートに6人が乗ろうとしたらどうなるだろうか?
 無理に6人が乗るとボートが沈んで全員が溺れてしまう。したがって、誰かが諦めなければならないことになる。ちなみに海には獰猛なサメがいて、ボートに掴まって立ち泳ぎするようなことはできない状況であるとする。
 もしかして「自分は人生を十分に生きてきたから、救命ボートには乗らない」と自発的に譲ってくれる志願者の老人がいれば、残りの5人は助かることができるかもしれない。あるいは、6人が冷静に話し合って1人の犠牲者を募るか、平等に「くじ引き」で1人を選び、全員が納得してその結果に従うという可能性もあるだろう。
 この状況で、1人の獰猛な男が、突然、側にいた小男を海に突き落とし、「これでちょうど5人になった」と叫ぶ映画を観たことがある。残った5人は黙って救命ボートに乗り込むわけだが、これが実際に起こったら恐怖だろう。

 第2次世界大戦中、多くの国々の軍隊マニュアルには、もし塹壕にいて、そこに手榴弾が投げ込まれたら、その手榴弾に最も近く手が届く人間が即座に自分の身体で手榴弾を抱え込むようにという命令が記載されていた。
 そうすれば犠牲者は1人で済むからなのだが、その手榴弾に手が届く誰かが2、3秒以内に決断して抱え込まなければ、そのチャンスは失われ、全員が死ぬことになる。
 もし読者を含む6人が塹壕で輪になって座っていたところ、そのちょうど真ん中に手榴弾が投げ込まれたとしたら、どうなるだろうか?
 誰かが犠牲になって手榴弾を抱えてくれれば残りの5人は助かるが、もし誰も抱えなければ6人全員が死ぬ。
 このような「究極の選択」について、何が「合理的」な選択なのだろうか?
 「集団的合理性」は、誰かが犠牲になって手榴弾を抱えるように命じ、「個人的合理性」は、自分以外の誰かが手榴弾を抱えるように命じる。実は、これらの2つの合理性が衝突するとき、人間は、深い「社会的ジレンマ」に陥るのである。

腐ったリンゴ仮説

 もちろん、最初からそのような状況が起こらないようにするのが最善であることは明らかである。船は何があっても沈没しないように設計し、世界各国は何があっても戦争に加担しないようにすればよいわけである。
 しかし、残念ながら現代社会においても、志願者のジレンマのような事態は頻繁に起こっている。
 たとえば、映画を観ていたら、突然スクリーンが燃え上がって火災が発生したとしよう。もし避難訓練で行われているように全員が落ち着いて列を作って順番に出口へ向かえば、全員が助かる可能性は高い。ところが、何よりも自分が助かりたいとヒステリックに行動する人々は、いち早く逃げようと他人を押しのけて出口に殺到し、その結果、出口で人々が将棋倒しになって、大惨事が発生するのである。

 社会心理学における「腐ったリンゴ仮説」によれば、母集団の人数が多ければ多いほど、他者と協調しない裏切り者の存在する可能性は高くなり、ちょうど腐ったリンゴが周囲のリンゴも腐らせてしまうように、その影響で周囲の人間も裏切り者に変身する可能性が高くなる。

 日常生活で考えてみよう。テーマパークで、皆が座って見ているパレードを前方の2、3人が立ち上がって見始めたら、その後方の4、5人も前が見えないので立ち上がる。やがて、その後方の人々も立ち上がり始めるので、最後には全員が立ち上がらざるを得なくなる。

 何人かのグループがレストランで食事をする際、総額を「割り勘」で支払うことに決めていたとしよう。そこで値段の高い料理や酒を注文する人がいると、徐々に周囲の人々も高い料理や酒を注文するようになる。いわば「皆で渡れば怖くない」と信号を無視するような群集心理が一部に生じて、周囲に伝染していくわけである。結果的に、割り勘で支払う金額も想定以上に膨れ上がって驚いた経験のある読者もいるのではないか。

囚人のジレンマ

 社会的ジレンマの原点に位置するのが、2人の選択において生じる「囚人のジレンマ」である。これは、1950年にプリンストン大学の数学者アルバート・タッカーが講演した次のような話に基づいている。

 2人の銀行強盗が警察に捕まった。検察官は2人に罪を認めさせたいが、囚人は刑期を短くしたいと考えている。そこで検察官は、2人を別々の独房に入れて、次のように言う。
 「お前も相棒も黙秘を続けることができたら、銀行強盗は証拠不十分で立件できない。せいぜい武器不法所持の罪で、2人とも1年の刑期というところだろう。逆に2人とも銀行強盗を自白したら、刑期はそろって5年になる。しかし、お前が正直に2人で銀行強盗をやったと自白すれば、捜査協力の返礼としてお前を無罪放免にしてやろう。ただし、相棒は10年の刑期になるがね。どうだ?」

 おそらく囚人は、相棒に協調して黙秘を続けるべきか、相棒を裏切って自白すべきか、考え込むだろう。さらに検察官は、次のように催促する。「実は、お前の相棒にもまったく同じことを話してあるんだ! もし相棒が先に自白してお前が黙秘を続けたら、相棒は無罪放免だが、お前は10年も牢獄行きだぞ! さあ、どうする? 急いで自白しなくていいのか?」
 この状況で、2人の囚人は深刻なジレンマに陥る。もしお互いに黙秘を続ければ、1年の刑期で2人とも出所できるため、それが2人にとって最もよい結果であることは明白である。しかし、もし相棒が裏切ったらどうなるか? 相棒はすぐに出所して自由になれるが、自分は10年も牢獄に閉じ込められてしまう。
 結果的に、2人の囚人はそろって自白して、どちらも5年の刑になってしまう。そして2人は牢獄で考え込むわけである。お互いが黙秘していればたった1年で済んだはずなのに、もっとうまくやる手はなかったのか、もっと「理性的」な選択はなかったのかと……。

ナッシュ均衡

  映画『ビューティフル・マインド』でも知られるプリンストン大学の数学者ジョン・ナッシュは、社会的ジレンマを数学的に解析して現代ゲーム理論の基礎を築き、1994年にノーベル経済学賞を受賞した。
 ナッシュは、囚人のジレンマのような状況で、一方のプレーヤーが最適な戦略を採ったとき、他方のプレーヤーもそれに対応する戦略を最適にするような「ナッシュ均衡」が存在することを証明したのである。

 「均衡」あるいは「安定」という概念は、自然科学のさまざまな分野に登場する。たとえば、紅茶に砂糖を入れ続けると、ある時点で化学的に「均衡」な状態になり、砂糖は溶けなくなって沈殿し、紅茶もそれ以上は甘くならなくなる。
 ナッシュは、囚人のジレンマにおいても各自が最善を尽くした結果としての均衡状態があることを示したが、それは、2人の囚人がどちらも「裏切る」という選択なのである。
 この選択では、どちらの囚人も5年の刑になる以上、それが2人にとって最適な状態とはいえないように思われるかもしれないが、かといって協調して相手に裏切られて10年の刑になるよりはマシだということである。

 仮に2人の囚人が、捕まった場合には必ず協調することを事前に約束していたとしよう。そのため彼らは、毎日続く取り調べのなかでも、それぞれが相棒を信じて黙秘を続けているとする。しかし、いくら堅く約束していたとしても、もし相棒が裏切って自白したら、その瞬間、相棒は無罪放免だが自分は10年の牢獄行きが確定してしまう。
 おそらく2人の囚人は、お互いに疑心暗鬼に陥ることだろう。このように、相手の戦略次第で自分の将来が左右される状況は、ナッシュによれば「不安定」なのである。したがって、2人の囚人は、相手が裏切る前に自分が裏切るという戦略を選択せざるを得なくなり、その結果、2人とも5年の刑に服するという「安定」した状態に落ち着くことになる、というのがナッシュの考え方である。

 もっとも、ナッシュ均衡が必ずしも「理性的な選択」を意味するわけではないという反論もある。トロント大学の心理学者アナトール・ラパポートによれば、囚人のジレンマの状況では、「理性的」な人間であれば、あくまで相互に「意識して」協調して黙秘を貫くべきだという。なぜなら、2人の囚人が疑心暗鬼を振りきって取り調べに耐え抜くことさえできれば、2人とも1年の刑期で出所できるわけで、それが2人にとっての最大の利得だからである。
 囚人のジレンマでは、「個人的合理性」は「裏切る」ように命じ、「集団的合理性」は「協調する」ように命じる。そして、2人の囚人が「個人的合理性」よりも「集団的合理性」にしたがって行動する方が、両者にとって望ましい結果となることを両者が知っている以上、2人はそのことを「意識して」協調すべきであり、それこそが「理性的」なのだとラパポートは考えるわけである。

 すでに囚人のジレンマが公表されてから74年にもなるが、協調すべきか裏切るべきか、どちらの行動をとるのが「理性的」なのかについては、いまだに議論が続いている。実際に、これまで何度も実施されてきた「囚人のジレンマ」の模擬実験によれば、約60パーセントが「裏切る」一方で、約40パーセントが「協調する」という結果が出ている。
 ちなみに、私の敬愛する論理学者レイモンド・スマリヤンと認知科学者ダグラス・ホフスタッターも、会うたびにこの問題で論争を繰り返してきたそうだ。
 この2人は、それぞれが論理パズルやパラドックスを明快かつ愉快に解説するうえでの世界的な代表者であり、かつてインディアナ大学での同僚であり、親友でもあるのだが、囚人のジレンマに対しては、スマリヤンは「裏切る」べきで、ホフスタッターは「協調」すべきだと言って譲らず、この点だけは永遠に合意できなかったということである。

  読者は、囚人のジレンマの状況で、協調するだろうか、あるいは裏切るだろうか?

プレゼント・ゲーム

 1984年、全米科学振興財団が『サイエンス』誌上で志願者のジレンマを検証する実験を行ったことがある。ルールは、読者が住所・氏名と「100ドル」か「20ドル」のどちらかをハガキに書いて財団に送るという単純なものであり、もし「100ドル」の希望者が全体の20パーセント以下であれば、全員に書いた通りの金額を財団が支払うというものだった。
 「100ドル」か「20ドル」のどちらを選ぶかは個人の自由だが、「他の読者と相談してはならない」という但し書きも付いていた。さて、読者だったら、どちらを選ぶだろうか?
 このゲームを計画した『サイエンス』編集部は、顧問の社会心理学者の「腐ったリンゴ仮説」と数学者のゲーム理論の計算に基づいて、財団は絶対に賞金を支払わずに済むはずだと主張したが、財団は万一の場合を考えて、ロンドンのロイズ保険に保険を掛けたいと申し出た。
 ところが、ロイズ保険は、学者の予測を信用しなかったらしく、この実験の保険は拒否されてしまった。おそらくロイズ保険は、多数の読者が相談して「20ドル」を投票する危険性を考慮したものと思われる。
 というわけで、リアルな賞金は実際には出ないことになってしまったのだが、ともかく読者は、賞金が出るものと仮定して参加することになった。
 その結果、参加者は33,511人にのぼり、21,753名が「20ドル」、11,758名が「100ドル」と書いた。つまり「100ドル」と書いたハガキの割合は35.1パーセントで、仮に実際に賞金が掛かっていたとしても、全米科学振興財団は何も支払わずに済んだという結果に終わったのである。

東京大学でのプレゼント・ゲーム

  2009年春学期、東京大学で担当していた「記号論理学」の授業時に、私もプレゼント・ゲームを行ったので、その様子を紹介しよう。

 ある日の授業の最後に、私は次のように言った。本日のコメントシートには、裏に「1万円」か「1千円」のどちらかの金額を書いてほしい。どちらを選ぶかは個人の自由だが、クラスメートと相談してはならない。もし「1万円」と書いたシートがクラスの20パーセントを超えたら、プレゼントは何もない。しかし、もし「1万円」と書いたシートがクラスの20パーセント以内だったら、書いてあるとおりの金額を君たち各々にプレゼントしよう。
 クラスは大きなざわめきに包まれた。すぐに一人の手が挙がって「それってリアルにですか」と聞いてきたので、「限りなくリアルに近いと思って書いてほしい」と答えておいた。

 仮に読者だったら、「1万円」か「1千円」のどちらを記入するだろうか?

  この授業で提出されたコメントシートの総計は176枚であり、その裏に記載してあった数字を集計した結果、「1千円」と書いたシートは108枚(61.4パーセント)、「1万円」と書いたシートは68枚(38.6パーセント)だった。
 つまり、このクラスで「1万円」と書いたシートの数は、プレゼントの成立する上限20パーセントを遙かに上回る38.6パーセントだったため、仮にこれが「リアル」なゲームであったとしても、私は東大生に1円も払わずに済んだことになる。
 なぜこのような結果になったのか、クラスにその理由を尋ねると、次のような返答があった。

東大生A ボクは「1万円」と書きました。だって仮にプレゼントの成立する状況になった場合、自分が1万円貰えるグループの方に入っていないと悔しいじゃないですか!
東大生B オレもそう思って「1万円」と書きました。1千円か1万円だったら、どう考えても1万円の方が得なわけだし……。東大生は負けず嫌いが多いですから、クラスの38.6パーセントが「1万円」と書いたというのも当然の結果でしょうね……。
東大生C 何言ってるんだ! 君たちみたいなエゴイストが多かったから、プレゼント自体が消えてなくなったんじゃないか! クラスの8割以上がボクと同じように全体の利益を考えて「1千円」と書いていたら、全員が1千円以上貰えたはずの話なのに……。
東大生D そうだよ。先生は、このゲームで、ワタシたちがいかに理性的かを測っているんでしょ? それがわからないの?
 それに「1万円」と書いて1万円貰えたとして、それは自分以外の80パーセント以上のクラスメートが「1千円」と書いてくれた場合でしょう? そんな状況で自分が1万円受け取るなんて、後ろめたくて、ワタシは嫌だな……。ですからワタシは「1千円」と書きました。
東大生A しかし、先生から引き出す利益が最大値になるのは、クラスのちょうど20パーセントが1万円を受け取り、ちょうど80パーセントが1千円を受け取る場合じゃないか。もしそうなったら、利益の多い20パーセントの方に入りたいと思うのが当然だろ!
 もっとも、ボクと同じように考えた東大生が多かったからプレゼントも消滅したわけだけど、それも自己責任だから仕方がないと諦めもつくわけなのであって……。
東大生B そうそう、1万円だったら欲しいけど、1千円だったら別に欲しくないし……。
東大生C そういう問題じゃないよ! これがリアルなゲームだったら、君たちが原因で1千円のプレゼントが消えてなくなったんだから、少しは責任を感じてほしいものだ!
東大生D ワタシは自己犠牲の精神で「1千円」と書いたのだから何ら悔いることはないし、「1万円」と書いたクラスメートを恨む気もないけど、結果的にクラス全員が何も貰えないということは、やはりワタシたち全体が理性的じゃない、ということになるんじゃないかな……。

社会的ジレンマ国際学会

  実は、東大生に限らず、いかに豊富な知識を持った「理性的」な人々ばかりが集まった集団でも、社会的ジレンマを解決することは容易ではないのである。

 1988年、オランダのフローニンゲンで「第3回社会的ジレンマ国際学会」が開催された。この学会に世界中から集まった43名の参加者は、全員が社会心理学から認知科学にいたる幅広い分野の代表的な研究者で、もちろん「社会的ジレンマ」に関連したゲーム理論やグループ・ダイナミクス論に関する最先端の知識を持つ専門家ばかりである。
 この学会を主催したカリフォルニア大学サンタバーバラ校の社会心理学者ディヴィッド・メシックは、この稀な機会を活かそうと、学会の参加者全員に次のようなゲームを提示した。

 ルールは、参加者が最大10ギルダー(当時のオランダの通貨)までの好きな金額を出資するという単純なもので、もし出資の合計が250ギルダー以上であれば、主催者は参加者全員に10ギルダーずつをプレゼントし、もし出資の合計が250ギルダーに満たない場合は、出資の全額を主催者が没収する。もちろん、参加者が相互に相談することは許されていない。

  さて、もし読者がこの学会に出席していたら、どのように考えるだろうか?

 仮に43名全員が均等に6ギルダーずつ出資すれば、合計は258ギルダーとなって、プレゼント条件の250ギルダーを超えるので、全員が10ギルダーを受け取ることができる。つまり、全員が差し引き4ギルダーを儲けることができるはずである。
 といっても、参加者のなかには5ギルダーしか出資しない裏切り者がいるかもしれない。そのことを考慮して、読者が余裕をもって7ギルダーを出資したとしても、合計がプレゼント条件の250ギルダーさえ超えれば、10ギルダー戻ってくるので3ギルダーは儲けることになる。この場合、5ギルダーの出資者は5ギルダー儲けることができるので、それ以上出資した参加者からすればシャクかもしれないが、少なくとも参加者全員としては主催者に勝つことになる。
 しかし、もし2ギルダーや3ギルダーだけしか出資しないような裏切り者が多ければ、出資の合計そのものが250ギルダーに満たなくなり、読者の出資も消えてなくなることになる。したがって、読者は、参加者のうち何名が協調して6ギルダーよりも多く出資するか、何名が裏切って6ギルダー未満の「ただ乗り」で得しようとしているかを予想して、実際の出資額を決めなければならないだろう。

 それでは、実際に行われたゲームの結果を発表しよう。国際学会に参加した43名の出資の合計は、245.59ギルダーだった。よって、プレゼント条件の250ギルダーに惜しくも4.41ギルダー不足していたため、彼らは何も受け取れないばかりか、彼らの出資した金額はすべて主催者に没収されたのである!

 このゲームの参加者は、出資の合計がプレゼント条件を満たすと考えるか否かも事前に予想するように求められていた。
 そこで興味深いのは、出資が条件を満たすと考えた参加者27名が平均7.24ギルダーを出資していたのに対して、出資が条件を満たさないと考えた参加者12名は平均1.83ギルダーしか出資していなかったことである。なお、この予想に答えなかった参加者4名は平均7.0ギルダーを出資していた。

 つまり、他者が協調すると予想した人は自分も協調して7ギルダー以上を出資し、他者が裏切ると予想した人は自分も裏切って2ギルダー以下しか出資していない。また、中には最初から失敗を予想して、まったく出資しなかった参加者が7名いたが、逆に全体の利益のために10ギルダーを出資した参加者も8名いた!

 このゲームに類似した数多くの実験を行い、その結果を分析して多彩な論文を書き、何が起こるのかを予測できたはずのプロの専門家集団でさえ、社会的ジレンマに打ち勝つことはできなかったのである!

 今回は「論理的思考」を駆使しても、社会的ジレンマを克服することは非常に難解であることを示した。お楽しみいただけたら幸いである。

参考文献
高橋昌一郎(著)『感性の限界』講談社(講談社現代新書)、2012年
高橋昌一郎(著)『東大生の論理』筑摩書房(ちくま新書)、2010年
高橋昌一郎(著)『20世紀論争史』光文社(光文社新書)、2021年
高橋昌一郎(監修・著)/山﨑紗紀子(著)『楽しみながら身につく論理的思考』ニュートンプレス、2022年 

イラスト・題字:平尾直子

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高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)
國學院大學教授・情報文化研究所所長
専門は論理学・科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『実践・哲学ディベート』(NHK出版新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)など多数。

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