明日への扉を開く~執筆の陰で――熊谷達也インタビュー
河北新報などで好評だった連載をもとに書籍化した『明日へのペダル』(6月28日発売)。本作は、直木賞作家であり、自ら愛車を駆りイベント入賞も果たす現在最も自転車に詳しい作家・熊谷達也さんが、ロードバイク愛を込めて描いた感動の物語です。
コロナ禍での新聞連載、そして単行本化にあたって大幅改稿をすることとなった経緯やその舞台裏について、熊谷達也さんに担当編集者がお話を伺いました。
まず、熊谷先生ご自身も相当のロードバイクフリークと伺っています。自転車をはじめたきっかけはなんだったのでしょうか。
――50代後半になり、健康診断の数値が悪化して、いよいよ薬を飲んだほうがいいという状況になり、まずは体重を減らさなければということで、その際にもっとも効果的なスポーツが自転車だと知ってはじめたんです。まさに小説の主人公優一の体験と同じですね。おそらく中高年で自転車をはじめられた方のいちばん多い理由ではないでしょうか。ちょうど家にケーブルテレビを引いて、ツール・ド・フランスなど欧州のロードレースの番組を見るようになり、そのカッコよさへのあこがれもありました。2015年ころのことでした。
はじめは近所を軽く走るくらいだったのが、自転車ショップで知り合った仲間と、走行を楽しむイベント、ファンライドに参加するようになり、次第に走り込むようになりました。
そしてついにはレースで上位に食い込むまでになったのですね。
――ぼくはなんでものめり込んでしまうくせがあって、とめられなくなるんですね。2016年にはツインリンクもてぎのエンデューロレースに参加するようになり、最終的には4.8キロのコースを4時間で30周はしり、60歳以上のクラスで優勝することができました。2019年の秋のことです。
ニセコクラシックロードレースにも2017年から3年間毎年参加し、5歳刻みの年齢別クラスで最もよいときは7位に入りました。ニセコクラシックは国際規格のレースなのですが、上位25%以内の入賞者に与えられる世界選手権への出場資格も2回得ることができました。
それだけの経験を踏まえて、自転車をテーマにした小説を書こうとされたのですね。
――ちょうど2019年くらい、コロナの直前に各地でファンライドイベントが隆盛を極めていました。参加者を含め多くの観光客を集客でき、エイドステーションという休憩ポイントで地元の食品を提供しアピールするなど、地域活性化の切り札として人気を集めていました。
そこで、主人公が自転車に乗るようになり、そうしたファンライドに参加し、ついにはレースを目指すようになるという、自分の体験をベースに書こうとしていました。
初心者が自転車の世界に入っていくときに経験すること、驚くこと、疾走感など、やってきたことを小説にすれば面白いものになるかと思っていました。
しかし、新型コロナウィルスのパンデミックが世界を覆ってしまったわけですね。
――2020年の夏から連載をスタートする予定にしていました。しかし、ちょうど春から欧州、アメリカ、そして日本でもコロナが猛威を振るうようになりました。こんな状況でのんきに自転車になんか乗っている小説を書いていいのかと、2か月くらい悩みました。おそらく世界のすべての作家たちも同じような悩みを持ったと思います。
しかし、ヨーロッパでは、むしろ自転車に乗ることを奨励しはじめたのです。一定の距離を置いてある程度のスピードで走るため、感染リスクが低く、健康にもよいとされたようです。パリやニューヨークでも自転車専用の走行レーンが拡張され、イタリアでは自転車の購入に対する補助金までつきました。そういう状況を見て、やはり自転車をテーマに書こうという決心がつき、スタートを切りました。とはいっても書いている最中は着地点がなかなか見えず、方向性もブレ気味でした。
今回、単行本化するにあたって、そのブレを修正しました。最後のレースシーン、主人公をレースへとけん引してゆく登場人物の場面をすべて削除。つまり主人公は自転車をはじめるようになり、次第にのめり込んでいくわけですが、本格的なレースまでは目指さず、趣味の延長として楽しむ形に。中高年になって自転車を始めた方の多くに共通するものになったかと思います。同時に主人公の会社での人間模様、コロナ下で変貌してゆく働き方、社会の中でさまざまに発生した分断を描くというテーマが浮き上がってきました。ヒロインの性格も少し変わってきたので名前も変更しました。
わたくしも熊谷先生の影響でロードバイクを始めました。いい趣味を教わったと思います。
――高齢社会になって定年後の第二の人生をどう生きるかが、大きな問題となっています。趣味もなく、会社人間としてだけの人生だと、さあ、いよいよ時間を自由に使える立場になってみても何もすることがない。だからぼくは早めに趣味を持つことが大切だと思うのです。趣味があることで仕事のプレッシャーがあってもはねのけられる。仕事関係だけでない仲間を持つことで自由な発想も得られ、互いに支え合うこともできるでしょう。そういう意味でも自転車はいい趣味になると思います。
また、この小説ではヒロインの唯が合同会社を設立して、残業はゼロ、企画書は一枚に、利益は等配分など、新しい働き方を提示します。65歳で定年になっても、まだまだ働ける方は多いと思います。経験を多く積んできた智慧も貴重です。ですから、このような自由な働き方で、1週間のうち、好きな日だけ仕事をする。仕事の優先度を第一にしない生き方もこれから増えていくと思います。
コロナ禍の社会変容は私たちの暮らし、働き方、意識に大きな変容をもたらしました。それに対応する企業や行政の変化はまだ中途段階です。唯のような自由な考え方、それをカバーする優一のような存在があってもいいと考えています。
このように小説を書く前に考えていたことと、単行本化では大きな変容がありました。テーマは変わりましたが、エンタメとして楽しめる内容であることにかわりはないと思いますので、読者のみなさんに楽しんでいただければうれしいです。
(了)
著者プロフィール
熊谷達也(くまがい・たつや)
作家。1958年、宮城県仙台市生まれ。東京電機大学理工学部数理学科卒。97年、『ウエンカムイの爪』で第十回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2000年、『漂泊の牙』で第十九回新田次郎文学賞、04年、『邂逅の森』で第十七回山本周五郎賞、第百三十一回直木賞のダブル受賞を果たす。近著に『潮の音、空の青、海の詩』(NHK出版)『エスケープトレイン』(光文社)『無刑人芦東山』(潮出版)ほか
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