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誰のためのオリンピック・パラリンピックなのか――『総理になった男』中山七里/第13回

「もしあなたが、突然総理になったら……」
 そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
 ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。東京でのオリンピック・パラリンピック開催を控える日本。莫大な経済効果を考えれば是が非でも開催したいところに、未知のウイルスに重ねてさまざまな問題が日本に降りかかっている――
 *第1回から読む方はこちらです。


四 VSオリンピック    

「やらかしたぞ」
 風間が執務室に入ってきた時には、慎策も事の次第を知った直後だった。
「ああ、ついさっき俺も見た」
 慎策は自分のスマートフォンをぷらぷらと振ってみせる。表示されているのは報じられたばかりのネットニュースだった。
『【東京五輪・パラ】開会式担当の黄川田啓司きかわだけいじ氏、過去のイジメ事件再燃で辞任
 東京オリンピック・パラリンピックの開会式で楽曲の作曲及び演出を担当する予定だった演出家の黄川田啓司氏(52)が学校時代に級友をいじめていた事実が問題となり、九日に辞任した。過去に雑誌のインタビューに答えていたもので、黄川田氏はイジメをしたことを自慢げに語り、現在でも全く後悔していないと述べていた』
 添付された写真は、件の演出家が会場で精力的に指示を出している場面を切り取ったものだ。この時点では己の旧悪など取るに足らぬものと高を括っていたのだろう。
「『いにしえの罪は長い影を落とす』か」
「何かの格言か」
「イギリスのミステリー作家が作品の中で主人公に語らせた言葉だ。こういう事件が起こってみると、含蓄のある言葉だと認めざるを得ない」
「含蓄どころかアッパーカット並みの破壊力だ」
 閣僚たちには話せないが、風間の前では素直に真情を吐露できる。正直、慎策にとって東京オリンピックは頭の痛い問題でしかない。
 東京オリンピックの開催は八年前の招致決定の時から世界的なスケジュールの中に組み込まれていた。
 だがそのスケジュールは新型コロナウイルス感染症の蔓延によって大きく崩れた。本来であれば昨年の夏に開催する予定だったが、まるまる一年後に変更を余儀なくされたのだ。
「ずいぶん憂鬱そうな顔をしているな。東京オリンピックの開催が、そんなに重荷か」
「他人のやり残した宿題を無理やり押し付けられた気分だ」
「招致が決定したのは国民党が政権を奪還した直後だったからな。なるほど他人のやり残した宿題というのは間違っていない」
「その上、日が経つにつれてより難問になっていく」
 愚痴り始めたら夜通し話しても終わらない。東京オリンピックはまさしく呪われたオリンピックだった。
 事の起こりは新国立競技場の設計プランからだ。海外の有名建築家による設計の白紙撤回に続き、事前に発表されていた大会エンブレムには剽窃ひょうせつの疑惑がかけられ、こちらも撤回と再選考が決まった。
 予算についても大幅な変更が生じた。新型コロナウイルスが蔓延する中での開催であり、感染症対策として対策センターの設置や選手たちへの定期的検査の実施により、一昨年公表されていた予算は二千九百四十億円増の一兆六千四百四十億円に膨れ上がった。「コンパクトな大会」を標榜ひょうぼうしていたにも拘わらず、結果的にオリンピック史上最も経費のかかる大会になる見込みなのだから皮肉としか言いようがない。
 皮肉なことは重なるもので折角の自国開催だというのにほとんどの試合は無観客で行われる。日本国内は落ち着きを見せているものの、諸外国の多くは未だパンデミックが収束していないためだ。また大会期間には猛暑が予想され、出場選手たちの評判も決して良いものではない。
 期待や情熱よりは不満と不安ばかりが積み重なり、NHKが実施した世論調査によれば国民の大半が大会開催に反対しており、更なる延期または中止を支持している。そうした声を押し切って開催を強行するのだから、運営する側のストレスも相当なものになる。政府内の責任者は競技大会担当大臣だが、任命した首相もその批判を免れない。
 そして開会式を二週間後に控えた今日になって、黄川田がやらかしてくれたという訳だ。どこまでも呪われたオリンピックに、慎策は頭を抱える。
「今から新しい演出家を決めなきゃいけない」
「そんなもの、頭を替えれば済むことだろう」
 政治経済には強くても芸事に疎い風間は恐ろしいことを気楽に口走る。いやしくも俳優だった慎策は舞台演出の大変さと奥深さを知っているので、新しく任命されるであろう演出担当者に同情を禁じ得ない。
「なあ、風間。訊いていいか」
「そのための参与だ」
「そもそも論になっちまうが、世界や国内がこんな状況なのに、どうして無理にでもオリンピックを開催しなきゃならんのだ」
 束の間、風間は口を半開きにし、あからさまに呆れてみせた。
「何だよ、その顔」
「あまりにもそもそも過ぎて開いた口が塞がらん。事務総長や競技大会担当大臣から大会の趣旨くらいは事前に聞いているかと思った」
「他人のやり残した宿題だったし、感染やら災害やらの対策が優先していた。仕方ないだろ」
「近代オリンピックの基礎を築いたのはクーベルタン男爵というオッサンだが、このオッサンが唱えたのが『スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍など様々な違いを乗り越え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって平和でよりよい世界の実現に貢献する』というオリンピック精神だ」
「大した精神だ」
「何でも原初に謳われる精神は純朴で希望に満ちている。だが歴史が重なり、権力や利権が絡むようになると崇高な理想も生臭くなっていく。今回の場合はスポーツ振興法の改正が絡んでいる」
「スポーツ振興法。名前は聞いたことがある」
「一九六四年東京オリンピックの開催前に制定された古い法律だ。半世紀も前の法律だから学校教育の体育がメインでプロスポーツについては一切語られていない。従って体育は文部科学省、プロスポーツは経済産業省、スポーツ施設の建設に関しては国土交通省に分かれて、一貫したスポーツ政策が望めないままだった。利権面も同じだ。スポーツイベントの売り上げは娯楽産業、会場での飲み食いは飲食業、スポーツウェアは繊維産業とバラバラだから統括・管理ができない」
 統括できなければ計画的に進めることができず、計画的に進められなければ最大の効果も期待できない。
「試算によれば日本のスポーツ産業は十五兆円もの規模が存在する可能性も指摘されていた。このままでは莫大ばくだいな経済資産が死蔵される。そこでスポーツ振興法を改正しようとするスポーツ議連が動き出したという訳だ」
 慎策の脳裏に何人かの議員の顔が浮かぶ。大学時分に体育系であった議員やアスリートや格闘家から鞍替くらがえをした議員たちだ。例外なく押し出しが強く、慎策の苦手なタイプだった。
「議連はスポーツ政策を統括・管理するにはスポーツ庁の創設が必要との結論に至った。だが行政改革が叫ばれる時代ではそれも叶わず、新しい省庁を設置するには困難を極める。しかし、だ。仮にオリンピックを招致できるとしたらどうなる。自国開催が実現するとなれば、国威発揚に乗じてスポーツ振興法の改正もスポーツ庁の新設も可能になる」
「国威発揚と言っても、国民の大半が大会開催に反対したら意味はない。結局は権力と利権目当てか」
「招致した以上は開催しなきゃならないっていう国際的な約束もある。国としてはそっちの方が重要だろうな」
「開催した場合のデメリットよりも中止した場合のメリットの方が大きいかもしれない」
 慎策が溜息交じりにこぼすと、風間は皮肉な笑みを浮かべた。
「国際的に快諾してくれる中止の仕方もあるにはある」
「何だ。教えろ」
「一九六四年以前にも東京オリンピックが開催される予定だったのを知っているか」
「それは初耳だ」
「一九四〇年の開催が決定し準備も進んでいた。ところがその三年前の七月七日に盧溝橋事件が勃発したのさ。翌一九三八年には日中戦争が長期化する見込みが強まっていた。当然国外からは問題視され、日本がオリンピックの開催国として相応しくないと非難の声が上がった」
「平和の祭典を開催する国が戦争していたら、格好つかないからな」
「非難の声は当時のIOC会長のラトゥール伯爵にも集まり、伯爵は日本に大会開催の辞退を打診してきた。日本としても戦費が嵩む中、大会の費用を捻出するのは困難と予想していたから渡りに船。めでたく四〇年東京オリンピックは幻に終わった」
「おい、ちょっと待て。それじゃあ世界各国が認めるオリンピック辞退の方法というのはどこかと戦争をおっ始めることなのか」
「開催国でなくても当事国による侵攻を理由に参加をボイコットできる。戦争ってのは何かを中止するには持って来いの理由なんだ」
「洒落にならん」
「オリンピックはスポーツによる戦争という言葉もある。戦争を中止させるには他の戦争を理由にするのが、一番説得力がある。そう思わないか」
 いつにも増して風間の皮肉はキレがいい。おそらく風間自身がスポーツ全般に興味がないからだろう。
「そういえばお前、昔からオリンピック自体に興味薄かったものな。大学時分、日本がメダルを獲ろうが逃そうが、全然会話に加わろうとしなかった」
「興味ならある。オリンピックによる経済効果がどの規模でどこまでの範囲に及ぶのか。経済効果を最大に生かす国もあれば、そうでない国もある。大会の成功不成功は開催国の政治状況と密接に関係しているから、経済効果の面からその国の実状と将来を類推できる」
「日の丸を背負った選手が出てきたら応援したくなるだろ」
「ならない」
 風間は言下に答えた。
「何の義理があって応援しなきゃならないんだ」
「何の義理って、そりゃ同胞だからに決まってるだろ」
「選手が身内だとか知人だとかいう事情ならともかく、同じ国籍だから無条件に応援するなんて矮小なナショナリズムの発露でしかない。全くもってくだらん」
 返事を聞いてから、ああこいつはこういうヤツだったと思い出した。
「参与としての正直な意見を聞きたい。今回のオリンピックは開催した方がいいのか、それとも中止した方がいいのか」
「政治的には開催した方がいい。経済的な面でもやらないよりはやる方がいい」
「曖昧な言い方なんだな」
「経済効果に関しては試算しかできないが、コロナ禍による損失の要因が未知数だからだ。実際、著名な経済学者の多くが大会を開催した場合と中止した場合の損失額を試算している」
「人によって試算の結果がずいぶん違うのか」
「御用学者の場合は政治的な思惑もあるからな。だが、そうした思惑とは無関係な試算ももちろんある。事前に言っておくが、経済効果というのは直接的投資・消費の直接効果と、間接的投資・消費を指す一次波及効果と二次波及効果の合計のことだ。その試算では無観客で開催されたケースに失われる損失額は約二兆四千百三十三億円、中止したケースの損失額を約四兆五千百五十一億円と弾き出した」
 やらないよりはやる方がいいという根拠は二兆円以上に上る差額だったか。
「結論としては政治的にも経済的にもオリンピックは開催せざるを得ないんだな」
「ただし倫理的な問題は残る。いくら無観客であっても出場選手や関係者は一カ所に集まる。折角、今国内はある程度抑え込めているのに、一人でも感染者が出れば感染拡大が懸念される。選手たちの間でクラスターが発生すれば、大会を開催した政府に批判の矢が向けられることになる。万一、死者でも出た日には非難囂々ごうごうだろうな」
「そっちの方が重大じゃないか」
「感染拡大の可能性は俺の専門外だから、より不確実なことしか言えん。参与として責任の持てる発言じゃなくなる」
「だったら友人として助言してくれ」
 すると風間は皮肉な笑みをすっと引っ込めた。
「今すぐ中止しろ」
 口調も一変していた。
「信用は何ものにも代えがたい。今の国民党政権を支えているのは偏に真垣統一郎という個人に対する信頼と信用だ。お前が持ち前のクソ度胸と突破力で築き上げてきた信用も、失う時は一瞬だ。世界中で新型コロナウイルスが蔓延している今、その危険性は極めて高い」
「開催を中止した場合の損失額は約四兆五千百五十一億円。とんでもない金額だぞ」
「それでも真垣政権と日本が信用を失うことに比べれば大した金額じゃない。それに大会準備として行われた公共事業の経済効果は既に表れているし、大会のために開発された映像、通信、自動運転などのITS技術やロボット産業などの技術開発は続けられているから今後の社会、経済、医療、生活の発展に寄与していくのは間違いない。中止したとしても既に相応の利益は出ているんだ」
「開会式二週間前になって協議するような内容じゃないな」
「二週間前だから協議できる内容なんだ。まだ各国から選手団は到着していない。今なら新型コロナウイルス感染症の拡大を抑えていられる」
 慎策の頭の中では再び葛藤が渦を巻く。人命のはかなさ尊さは身に染みて知らされた。多くの選手と関係者を病魔の危険に晒すことと経済効果を秤にかけること自体が人命に対する冒瀆ぼうとくではないのか。
 だが、それはいち市民としての良心でしかない。国を統べ、国益を一番に考える者の理念と方針は別にあるように思えてならない。
 本物の真垣統一郎ならどうしただろうか。
 樽見が生きていれば、どんな助言をしてくれただろうか。
 思いは千々に乱れる。この期に及んでも尚、慎策は開催か中止かを決めかねていた。

 黄川田の辞任を受けてという訳ではなく、選手団との懇談は前々から予定されていた。だが、式典担当者辞任が発表された翌日ともなれば自ずと双方の心構えも違ってくる。
 選手団を先導してきたのは競技大会担当の迫本さこもと大臣だが、彼女も議員になる前は何度もオリンピックに出場したアスリートだった。従って大会開催に対する意気込みも選手たちへの思い入れも一入ひとしおだった。
「開会式が迫っているというのに不祥事続きで面目ありません」
 官邸二階小ホールに現れた迫本は、最初に深々と低頭した。
「迫本さんの責任ではないでしょう」
「ただでさえ大会中止の声があるのに、開催に対するイメージが更に悪化するのは避けられません。実際、与党内でも消極的な意見が少なくありません」
 おそらくは議員連盟にも抗議の声が届いているのだろう。迫本の表情は悲愴そのものだ。真剣な態度で赴かれたのなら、こちらもいい加減な気持ちで臨む訳にはいかない。
「アスリート出身の大臣でいらっしゃるので申し上げますが、正直わたしの考え云々よりも、各国選手を迎える国民の気持ちでしょう。折角来日してもらってもほとんどの試合は無観客。これで歓迎もされず抗議行動のみが目立ってしまっては各国選手に申し訳ないどころか、失礼にあたります」
 こちらの対応を予想していたのか、迫本の顔にはますます失望が広がる。
「わたしが現役のアスリートだった頃と今とでは選手を取り巻く環境がまるで違います。本日は、今を刻苦勉励している選手と懇親を深めていただきたくお時間を頂戴した次第です」
 現状、組織委員会は内外からの批判をね返せるような理屈を持ち合わせていない。理屈で説得できないなら陳情するしかない。迫本の低姿勢はそれが理由だった。
 陳情には慣れているが、ことオリンピック開催の是非を同列に扱うことはできない。己が迷っていることも手伝い、慎策は自ずと腰が引けていた。成り行き次第では、出場選手たちに非情な決定を告げる羽目にもなりかねない。だから足を運んでくれた選手団の顔もまともに見ていられなかった。同席している風間からも「お前は相手の目を見ると情に絆されるから注意しろ」と釘を刺されている。
「総理、はじめまして。陸上競技に出場する〇〇です」」
「柔道重量級の〇〇です」
「体操の〇〇です」
 何人ものアスリートと顔を合わせる。団長を含め多くは世界記録や日本記録の保持者で慎策も知っている顔が少なくない。慎策は申し訳なさで彼らをなかなか直視できない。
 だがそんな怯懦にくさびを打ち込むような声が上がった。
「わたしの声、届いていますか。真垣総理」
 りんとした声に、はっとした。
 いつの間にか声の主は慎策の前に座っていた。
「はじめまして。パラ陸上競技に出場する市ノ瀬沙良いちのせさらと申します」
 失礼だと思ったが彼女の顔よりも先に、左足の方に視線がいった。
膝から下は義足だった。
そうだ。この場にはパラリンピックの選手も招いていたのだ。
「失礼をお許しください。先ほどから総理の目が泳いでいるように見えるのは、わたしの勘違いでしょうか」
 風間の忠告も忘れ、慎策は沙良の視線を正面から受け止める。日々、様々な人間と会っていれば、第一印象で逃げても構わない相手か対峙しなければならない相手かを判別できるようになる。沙良はまごう方なき後者だった。
「あなたの観察眼は間違っていません。正直、わたしは選手団の皆さんを前に腰が引けていました」
 途端に風間がこちらを睨んできたが仕方あるまい。対峙すると決めた以上、こちらも腹を割って話さなければならない。
「今更取り繕っても意味がない。コロナ禍の中で開催されるオリンピックには内外から懐疑の声も出ています。そうした空気が選手の皆さんのモチベーションに影響しているのではないかと心配しています」
「正直なお気持ちを言っていただいて、却って気が楽になりました。でも腰が引けているのはわたしたちも同じなんですよ。日頃は練習また練習で、こんな風に議員さんやましてや総理大臣に会う機会なんて滅多にないんですから」
 ふっと沙良の目が和らいだ。笑顔が似合う可愛らしい女性だと思った。
「案外、総理がとっつきやすい人なので安心しました。安心したついでに少しくつろいでもいいですか」
「どうぞ」
 彼女がどう寛ぐのか興味があった。
 ところが沙良は予想もしない行動に出た。持参していたカバンを開くと中から異様な物体を取り出した。一見、鋼鉄の刃のようだが、沙良は左の義足を外すと慣れた手つきでそれを脚の欠損部分に装着した。
「競技用の義足ですか」
「わたしの身体に合わせた専用のものです。わたしたちはブレードと呼んでいます」
 競技用の義足は何度かテレビで見たことはあるが、沙良のそれは凄みさえ帯びている。バネ足の部分は横から見るとSの字に湾曲し、足首に当たる部分がわずかにくびれている。全体が漆黒に光り、義足と言うよりは武具のような趣がある。なるほど確かにブレード(刃)と呼ばれても違和感がない。
「日常生活ではさっきの義足を嵌めているんですけど、こちらの競技用の方が落ち着くんです」
 ブレードを装着した沙良はそれまでの可愛らしい印象と打って変わり、まるで捕食動物を思わせる。
 そうだ。彼女はアスリートという名前の動物なのだ。
「このブレード、結構高価なんですよ」
「そうでしょうね。素人目にも、走るために特化された最新鋭の武器らしく見えます」
「普通に働いた給料じゃ、とてもこんなもの買えません。このブレードに限らず、出場選手の多くは自前の資金だけでは足りずスポンサー頼りです。スポンサーがついていなければ練習すら満足にできない競技種目があります」
 沙良の言葉に後方の選手たちが頷いてみせる。
「スポンサーがついてくれるのは、会場の観客やテレビ中継の観戦者たちが企業名やロゴの入ったユニフォームや道具を見てくれるからです。要するに広告宣伝ですよね。言い換えたら、わたしたちのパフォーマンスに広告宣伝の価値がないと判断されたら、遠征や用具の購入さえ困難になります。それが日本のスポーツ界の現状なんです」
 ここまで聞けば後の台詞も大方予想できる。やはり内容は陳情そのものだ。しかし今までのどの陳情よりも身体を張っている。その証拠に、慎策は沙良の迫力に圧されて身じろぎもできないでいる。
「新型コロナウイルスが蔓延している中、無観客試合は仕方がないかもしれません。でも中止にだけはしないでください」
「今仰ったスポンサードの問題ですね」
「それもあります。でも、もっと大きな理由があります。わたしたち選手の競技寿命はとても短いんです」
 アスリートがアスリートでいられる期間はひどく限られている。これは慎策も知っている事実だ。
「運動神経や筋力にはそれぞれピーク年齢があります。多くは二十代前半にピークを迎えるので、オリンピックに出場するような選手でも引退年齢がとても早いです。男性で平均三十一・一歳、女性で二十六・九歳というデータがあります。オリンピックとパラリンピックは四年に一度です。だから今回の出場を逃せば、次の機会が望めない選手は決して少なくありません」
 慎策は改めて沙良を眺める。若々しい容貌で二十代前半に見えるが、それでも次の大会時には平均引退年齢に達しているだろう。
「わたしたちアスリートには時間がないんです」
 沙良の言葉は次第に熱を帯びていく。
「ただ一瞬のために四年間を費やしてきました。オリンピックとパラリンピックを中止するのは、わたしたちの汗と血の滲んだ四年間をドブに捨てるのと同じことです。お願いです、総理。どうか東京オリンピックとパラリンピックをこのまま開催してください」
 たった一瞬のための四年間。
 普通に聞けば何を大袈裟にと片づけてしまうのだろうが、沙良の口から発せられると納得せざるを得ない。ブレードを装着した沙良にはそう思わせるだけの説得力がある。
 すると、それまで事の成り行きを見守っていた風間が二人の間に入ってきた。
「参与の風間です。市ノ瀬さんにお訊きしたい。あなたは一瞬のために四年間を費やすと言われた。しかしわたしには途轍もなく非効率な時間の使い方のように聞こえます。もし貴重な四年間を費やしても自分の望む色のメダルを手に入れられなかったら、それも結果的にはドブに捨てたようなものではありませんか」
「走った上で諦めるのと、走らないままで諦めるのとでは雲泥の差があります」
「考え方によっては、早々に引退してセカンドキャリアを積んだ方がその後の人生にプラスにもなります」
「そんな風に考えるアスリートもいるかもしれません。いえ、ひょっとしたらそっちの方が賢い選択なのかもしれません」
「だったら」
「でも、オリンピックやパラリンピックに出場しようと心を決めた選手にそういう人はいないと思います」
 そう言うなり、沙良は椅子から立ち上がる。それを合図のようにして選手団全員が一斉に立ち上がった。
「セカンドキャリアも引退の引き伸ばしもどうだっていい。オリンピックとパラリンピックの舞台で走れたら。トップでゴールできたら、その場で死んでも構わない。少なくともわたしはそう思っています」
 選手たちのみならず迫本までが直立不動で慎策たちを睨み据える。
 風間は険しい顔をしたまま一歩も動かなかった。
 予定された面会の時間が過ぎると、迫本は選手団を引き連れて小ホールを出ていった。後には椅子に座る慎策、そして所在なく立ち尽くす風間が残された。
 ほうけたような沈黙の後、ようやく風間が口を開いた。
「決心がついたか」
「ああ、ついた。オリンピックとパラリンピックは予定通り開催する」
「そうか」
「友人としてのお前はまだ反対するか」
「宗旨替えした。俺も開催するに一票だ。あの選手団を応援する」
 あまりの手のひら返しに、慎策は振り返って言う。
「相手が身内や知人ならともかく、同じ国籍だから無条件に応援するなんて、矮小なナショナリズムの発露でしかないんじゃなかったのか」
「彼らとはもう知り合った。市ノ瀬沙良は総理と本音を言い合った。もう身内も同然だ」
豹変ひょうへんぶりに少し呆れた」
「『君子豹変す』という言葉を知らないのか」
「誉め言葉だったのか」
 ともあれ、これで方向は決まった。
 慎策たちの仕事は大会開催の障壁となるものを排除していくことだ。
 だが、そう決めた直後に特大級の障壁が慎策たちの前に立ち塞がった。

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プロフィール
中山七里
(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。

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