フラガールと戦争――#8 ミルトン・ムラヤマ『俺が欲しいのは自分の体だけ』(1)
ハワイでは「すべて」が正解
もちろん僕もハワイが大好きだ。初めて行ったのは10年ほど前かな。以前、ロサンゼルスに留学していたから、同じアメリカだしカリフォルニアとそんなに違わないだろう、と思っていた。けれども、その考えは行ってみて完全に覆された。まず、なにより日本から近い。西海岸に行く半分ぐらいの時間で着いてしまう。この距離感がものすごく楽だ。そしてやたらと気候がいい。空は青いし、ざっと一雨でも降れば、毎日のように虹がかかる。
しかも食べ物の問題が全くない。コンビニに入れば、スパムおにぎりなど、日本の感覚でも全くツボを外していない食べ物が買える。うどんだってラーメンだって何でもある。しかも美味い。カリフォルニアだってそうでしょう、と思うかもしれないが、微妙に違うんだよね。ほぼラーメンなんだけど、何だかちょっとだけ違うものが出てきたりする。その微妙な差に、留学時代は心の落ち着かなさを感じていた。けれどもハワイでは、日本っぽいものはすべて正解である。
(でも、「すべて」がうまくいくわけではない)
ホノルルの空港に降り立ち、僕はサクッと車を借りてワイキキ・ビーチのホテルに向かった。それから東の方に走り、途中ショッピングセンターにあったシナボンでシナモンロールを食べたり、ちょっと山の方に向かってハワイ大学のキャンパスを見て回ったりして、まったくの観光気分を楽しんだ。というと、すべてがうまくいったようだが、そうではない。自分はアメリカに慣れているとばかり思い込んでいたが、結局、初めての場所でテンパってしまい、めちゃくちゃ失敗をした。
意気揚々と左折したら、その先の道が混んでいて、そのまま交差点を塞いでしまい、バスの運転手に凄まじくクラクションを鳴らされた。時差ボケでボーっとしていたせいか、ハワイ大学の駐車場で駐車料金を払うとき、機械にクレジットカードを差し込んだまま置いてきてしまった。空港で車を返す段になってようやく気づき、慌てていろんなところに電話をして、なんとか事なきを得たのだが。
そのときレンタカーの事務所に、ものすごく体が大きくて入れ墨が入った2人のお客がいた。どうやらネイティブ・ハワイアンの男性らしい。驚いたことに、2人は英語ではなくハワイ語で話していた。ハワイ語は今も普通に使われているのか。知らなかったな。このまま料金が払えず、ということはレンタカーの事務所から出られず、したがって日本にも帰れないかもしれない、という危機的な状況であるにもかかわらず、僕はそんな余計なことを考えていた。だからクレジットカードをなくしたりするんだけど。
常夏の楽園、その忘却された歴史
ほんの1週間ほどの旅でも、ハワイのさまざまな謎が見えてきた。どうしてアメリカ本土とはあまりにも様子が違うのか。とりわけ、なぜ日本の影響が色濃いのか。なぜ現在もハワイ語を話している人がいるのか。こうした謎すべてに答えてくれる本がある。矢口祐人が書いた、『ハワイの歴史と文化』(中公新書)だ。彼によれば、現代日本におけるハワイのイメージは、歴史の忘却の上に成り立っているという。確かに、1960年代に海外旅行が自由化されてから、ハワイは太平洋に浮かぶ常夏の楽園として、多くの日本人を引き付け続けてきた。
美しい自然とフラなどの伝統的なハワイ文化、そして整備されたリゾートホテルやビーチ。ハワイ全体が、まるでエキゾチックなテーマパークのようである。効率性が重視される日本とは正反対の、ゆったりとした時間が流れる夢の場所、というハワイ像が、観光業や映画、テレビなどのメディアを通じて、日本に深く定着していった。
けれども、ハワイは元々こんな場所だったわけではない。18世紀末にクック船長たちに「発見」されたあと、血なまぐさい戦争を経て、ようやく19世紀初頭にカメハメハ王がハワイを統一した。彼や後継者たちは国力を上げるべく努力したが、アメリカ人を主とする白人たちに、徐々に政治的・経済的な実権を奪われた。そして19世紀末に、白人たちがクーデターを起こしてハワイ王朝を倒した。さらに米西戦争をきっかけに、1898年、ハワイはアメリカに併合されてしまったのである。
伝統文化であるフラはただのダンスではなく、祈りの文句を身振りで表す儀式的なものだった。けれども観光化に伴い、次第にその形が変わっていった。また、ハワイ語は使用者がかなり減少してしまった時期もあった。しかし、そのあと意識的な復興運動が起こり、学校でも教えられるようになって、ようやく日常の話し言葉としての地位を回復しつつある。
日本との関係とサトウキビ栽培
さらに、日本との関係はどうか。すべてのきっかけはサトウキビの栽培にある。ニューギニア付近から太平洋全体に広がったサトウキビは、もともとネイティブ・ハワイアンの食糧だった。しかし、1861年にアメリカで南北戦争が始まると、それまでアメリカ南部で作られていたサトウキビの生産がハワイに移った。
必要となった大量の労働力をネイティブ・ハワイアンだけではまかなえない。最初に導入されたのは中国人労働者だった。しかし次第に中国人に対する反発が高まり、法的に中国人がアメリカに移住することが難しくなっていった。それに代わって日本人がやってきた。
19世紀末から20世紀前半にかけて、通算でなんと20万人以上がハワイに渡った、というから驚きである。彼らの多くは広島県、山口県などの中国地方や、熊本などの九州地方の出身者だった。彼らはサトウキビ労働者の約70%を占めるようになり、第二次世界大戦勃発時にはハワイの人口の4割を占めるまでになった。ここには「沖縄系」の人々も含まれる〔編集部注:沖縄は明治の琉球処分で日本領となり、1879年に沖縄県が設置された〕が、独自の団体を形成していたようである。
対立させられ、競わされる人々
もちろん、サトウキビ農場で働いていたのは日系人だけではない。朝鮮半島出身者、フィリピン人も多く働いており、現場監督はポルトガル人が務めていた。なぜさまざまな国の人々が集められたかといえば、農場側が彼らを互いに対立させ、競わせたかったからである。彼らは賃金にも差がつけられていて、いざストライキをしようにも、出身地を越えた団結は難しかった。こうして、低賃金で過酷な労働を強いられる状態が数十年も続いたのだ。
なるほど、確かに『ハワイの歴史と文化』で触れられていた加山雄三主演の映画『ハワイの若大将』(1963年)でも、青い海とビーチとフラガールといった、いわゆるハワイの典型的なイメージは描写されていたものの、日系人の苦難の歴史はまったくでてこなかった。唯一、左卜全が演じている古屋老人が明治生まれで、1920年代前半かそれより前にハワイに来て、苦労のあげく老舗の日本料理店を経営するようになった、というところだけが、60年代から見た過去のハワイを彷彿とさせるだけである。とは言え、古屋老人がめちゃくちゃ西日本の訛りがキツいというところは、けっこうきちんと日系人像を摑んでいるといえば言えなくもない。
さて、組織的に忘却された日系人の苦難の歴史を生々しく描いた小説がある。ミルトン・ムラヤマが1975年に出版した『俺が欲しいのは自分の体だけ』(All I asking for is My Body)だ。なぜ自分の体が欲しいのか。そもそも自分の体は自分のものではないか。そうではない。膨大な借金漬けになっていても、サトウキビ農場以外ではなかなか働けない戦前の日系人にとって、自分の体は自分のものではない。10年経っても20年経っても、借金を完済できるあてなどないからだ。本書は、そうした究極的な状況に置かれた日系二世の青年たちが、ボクシングや戦争を出口として、何とかこの地獄のような場所から抜け出そうと苦闘する話である。
明日に続きます。お楽しみに!
題字・イラスト:佐藤ジュンコ
都甲幸治(とこう・こうじ)
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』、『大人のための文学「再」入門』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、トニ・モリスン『暗闇に戯れて――白さと文学的想像力』(岩波書店)ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。
関連書籍
都甲幸治先生といっしょにアメリカ文学を読むオンライン講座が、NHK文化センターで開催されています。
NHK文化センター青山教室:1年で学ぶ教養 文庫で味わうアメリカ文学 | 好奇心の、その先へ NHKカルチャー (nhk-cul.co.jp)
NHK文化センター青山教室:1年で学ぶ教養 英語で読みたい!アメリカ文学 | 好奇心の、その先へ NHKカルチャー (nhk-cul.co.jp)
※「本がひらく」公式Twitterでは更新情報などを随時発信しています。ぜひこちらもチェックしてみてください!