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新しい言葉は新しい自分をつくる——#1 イーユン・リー『ガチョウの本 The Book of Goose』(1)

早稲田大学教授で翻訳家・アメリカ文学研究者の都甲幸治さんによる新連載をお届けします。英語で書かれた小説は膨大ですが、翻訳されるのはほんの一部。しかし、翻訳のない小説のなかにも、同時代を生きるわたしたちに訴えるものがあるはず。本連載では、都甲さんがまだ翻訳されていない小説を読み、その魅力について書いていきます。
第1回は中国系アメリカ人作家であるイーユン・リーの最新長篇、『ガチョウの本』(原題:The Book of Goose)を取り上げます。『千年の祈り』(新潮社)や『もう行かなくては』(河出書房新社)等、多数の作品が紹介されているリーですが、彼女の作品が日本の読者を惹きつけるのはなぜなのでしょうか? 本日より3日連続で更新します。

別の言葉、別の世界

 イーユン・リーの作品がたまらなく好きだ。彼女の作品に出てくる登場人物たちはみな、心のなかに深い闇を抱えている。そして、その闇を表に出すための言葉を持たなかったり、あるいは出しても、周囲の人たちにとりあってもらえなかったりする。だからこそ、本の世界に耽溺たんできして、別の時代の言葉を学ぶ。または別の国の言葉を学ぶ。

 そうやって、自分を理解してくれない周囲の世界と自分のあいだに壁を作り、自分の力でこしらえた小さな世界のなかで、心の奥底に潜む感情の種のようなものをじっくりと育てていく。誰にも理解してもらえなくてもいい。ただその小世界を振り返れば、なんとか今日一日は生きていられる。

 だがその世界は時に、周囲の無理解により押しつぶされそうになる。それでも主人公たちは力強く、そんな圧力を跳ね返す。もうこの場所で生きられない、となれば、別の場所や別の言語のなかに亡命してまで生き延びる。そうした主人公たちの、静かで強く深い生命力には、僕を強く揺さぶるものがある。

魂のための場所

 思えば僕も、他の言語のなかに亡命し、本の世界に浸ることで、なんとか生き延びてきた一人なのではないか。小学校低学年のころから、リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』やジュール・ヴェルヌの『海底二万マイル』など、欧米の児童文学を読みあさり、英語教材に登場するマザーグースの唄を原語で覚え、キリスト教の教会で外国人の先生に英語を習っていた。

 実際に通っていたのは東京都下の普通の公立小学校だったけど、自分の内側には、別の言語や、西洋文学によって知った別の世界が広がっていた。だからこそ、目の前の現実がすべてだと思わないで生きてこられたのだ。

 やがて中学、そして高校に入り、受験勉強があまりにつらすぎた時期でも、どんなに忙しかろうが、本を読むことはやめなかった。今思えばそれは、本の世界こそ、自分の魂を自由に羽ばたたかせることができる逃げ場だったからだと思う。僕にとって本の世界は、教養なんてものではまったくなかった。むしろ、目の前の現実を生き延びるために必要な、魂のためのもう一つの場所だったのだ。

日本の翻訳小説読者にイーユン・リーの名を知らしめた『千年の祈り』(左、新潮クレストブックス)、PEN/ジーン・スタイン賞受賞作・PEN/フォークナー賞最終候補作『理由のない場所』(右、河出書房新社)。いずれも篠森ゆりこ訳(撮影:都甲幸治)

新たな言語とむき出しの感情――「千年の祈り」

 イーユン・リーの作品に出てくる主人公もまた、生きることに困難を覚えている。だからこそたとえばアメリカに渡り、もう一つの言語である英語を獲得する。彼女のよく知られた短篇、「千年の祈り」もそうだ。

 主人公の女性は中国からアメリカに渡り、人生で初めて自由を実感する。なぜか。中国で中国語をしゃべっていては、自分自身の感情がきちんと表現できないからだ。中国文化圏において、若い女性はこうあるべき、という価値観が中国語にはしっかりとからみついている。自分の実感がどういったものであれ、そもそもそうしたものに即して語る言葉を、彼女は中国語では見出せない。だからこそ、英語を獲得することで、彼女は生まれて初めて、自分が思っていることや感じていることを表現できるようになる。

 だが、彼女を頼ってアメリカ合衆国にやってきた父親には、そのことが理解できない。電話で恋人と英語でしゃべっている娘の姿を見て、父親はたじろいでしまう。なぜなら、そんなふうな声を出し、そんなふうに感情表現をして、生々しく自分をむき出しにしている娘を、今まで父親は見たことがなかったからだ。「彼は偶然、彼女の裸を見たかのように感じた。完全な他人で、自分が知っている娘ではない」(拙訳)。

 そしてこのことについて娘と話し合っても、父親は娘の気持ちが最後まで理解できない。しかし実は、父親のほうも同じような問題を抱えていた。中国にいたころ、ロケット科学者として配属された職場で彼は、不倫をしているといううわさを立てられる。そしてそのまま彼は、その嫌疑を晴らせず事務員に降格されてしまう。

自分を複数化するものとしての外国語

 現実に彼が何をしているかを周囲は見てくれない。ただ疑いが存在するだけで、そのまま実際にそうした行為があったことになる。そしてそれをくつがえす手段を彼は持たない。

 彼は生涯、事務員になったことを家族に隠し続ける。なぜなら、彼の中国語にもまた、彼が生きる現実を語る力はなかったからだ。だが米国に渡った父親は、公園で偶然、出会った女性と不完全な英語で話し合うようになる。そして心の密かな繫がりを感じる。

 なぜ彼は、ネイティブである中国語では重要なことを語れなかったのに、極度に不完全な英語では人と心を触れ合わせることができたのか。娘が感じたように、父親もまた、英語の世界に移動することで、新たな自分に生まれ変わることができたからだ。だからこそ、中国語だけを使っていた時代とは違う自分を表に出せた。

 ここには、外国語の深い効用が現れている。ふつう我々は、自分自身をたった一人の人間だと考えている。しかしそれは違う。新たな言語を学ぶたびに、その言語で蓄積された経験は一つの塊となり、芽吹き、もう一つの人格にまで成長していく。

 そしてこうした現象は、外国語だけでなく、方言のあいだでも起こるのではないか。地元の方言を使って過ごした高校時代までと、東京に出てからの標準語による生活のあいだにギャップがある人は多いだろう。それは、方言のあいだを移動することで、自然に複数の人格を行き来しているからだ。アイデンティティという概念を採用すれば、自分は一人しか存在できない。けれども実際のところは、多言語を使うことで自分を複数化できる。そして、そのあいだを移動して自由を手に入れられる。2020年にイーユン・リーが刊行した最新長篇『ガチョウの本』もまた、「移動」の話である。

明日に続きます。お楽しみに!

題字・イラスト:佐藤ジュンコ

都甲幸治(とこう・こうじ)
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。

関連書籍

都甲幸治先生といっしょにアメリカ文学を読むオンライン講座が、NHK文化センターで開催されています。

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