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評伝 『ECDEAD あるラッパーの生と死』第2回「1999年のECD(その1)」 磯部 涼

2018年1月に57歳で他界したラッパー、ECD。私小説家でもあり社会運動家でもあった彼の生涯を、『ルポ 川崎』が注目を集めたライター・磯部涼が描く。2000年代初頭からECDと親交を深め、併走してきた著者にしか描けない画期的評伝! お待たせしました。連載を再開します。
今回から、1999年のあるインタヴュー記事をもとに、当時、ECDが日本のヒップホップ/ラップ・シーンに対してどのような思いを抱いていたのかを考察していきます。
第1回から読む方はこちらです。

顔を覆い隠したラッパー

 それは異様なポートレートだった。両目に眼帯、口にマスクをつけ、顔を覆い隠した男が、アディダスのジャージを着て腕を組み、ニューバランスのスニーカーを履いて仁王立ちしている。右目に"E"、左目に"C"、口に"D"の文字。そう、被写体は他でもないECD。しかしポーズの力強さに対して、名を記した顔はへのへのもへじのようで表情を読み取ることは出来ず、その姿はまるで幽霊にも見える。
 リアルを体現する者こそが本物のラッパーだと言われる。自分はポップ・スターのような虚構とは違う。そのようにアピールするため、作品のアートワークでも、インタヴュー記事でも、往々にして如何にも深刻気な表情のポートレートが使われる。一方でリスナーやライバルから、常にリリックが、行動が、実情と照らし合わされ、異なっている場合はフェイクと断定される。そういったプレッシャーの中で彼らは生きている。
 しかし、ラッパーが歌うのは単純なリアル、つまり、自身のことだけではないはずだ。例えばギャングスタ・ラップをUSのみならず世界中に知らしめたラップ・グループ=N.W.Aのメンバーであるアイス・キューブは、実際にはギャングに所属していなかったが、スクール・バスから目にしたストリートの現状をライムで表現することで、その後、35年以上、影響力を持ち続けるアートフォームを確立した。
 優れたラッパーほど当事者であると同時に観察者で、そして何よりも詩人で、個人よりも象徴として機能する。仮面劇には世界各地で古代から続く長い歴史があるが、ラップ・ミュージックをその現代版と見立てるなら、ラッパーが纏うキャラクターもまた一種の仮面だろう。実際、MFドゥームのように文字通りの仮面を被ったラッパーもいた。ではその時、ECDは何のために顔を覆い隠したのか。

99年、ECDはインタヴューで何を語ったか

 そのポートレートは雑誌『blast』99年3月号に掲載されている。ECDが同年1月に発表したアルバム『MELTING POT』についてのインタヴュー記事に添えられた写真で、文中、聞き手の萩谷雄一は「今回、かなり問題作ですね」と口火を切り、作者は「ブラストの読者とか、引くよね、きっと(笑)」と苦笑しながら応える。そして続ける。「実は自分でも凄い不安なんですよ。こんなモン作っちゃって、一体何処に売るんだ?っていう(笑)。でも意外に手ごたえはあって……」。
 記事の背景について説明すると、まず『blast』は、94年10月、「FOR HIP HOP/R & B FREAKS」と銘打ってロック雑誌『CROSSBEAT』の増刊号として創刊された『FRONT』が、99年1月号のタイミングで誌名を新たにしたものだ。『rockin'on』の後発/ライバル誌だった『CROSSBEAT』は、前者に比べ、90年代前半に勃興したテクノやヒップホップといったジャンルに関してプロパーのライターを起用していた点が特徴のひとつで、ラップ・グループ=RHYMESTERのメンバー、MC SHIRO(後の宇多丸)も、佐々木士郎という本名で同誌に寄稿していた。
 『FRONT』はそんな『CROSSBEAT』から派生した日本初のヒップホップ専門誌(と、同ジャンルよりも商業的に大きかったR&Bのそれを兼ねていたが、熱量は明らかに前者に寄っていた)。更に画期的だったのは、USの最新の動向を紹介しながら、日本のシーンについても外部からではなく、あくまでもその一員として記述していったことである。日本のヒップホップ・カルチャー/ラップ・ミュージックは80年代前半が胎動期だが、それから10年以上経っても同文化のプラットフォームとなるメディアは存在しなかったのだ。
 当時はいわゆるJ・ラップ・ブーム(93年11月発売、m.c. A・T「Bomb A Head!」のヒットに端を発するポップ・ラップの流行)と、それに対してカウンターの立場を取るハードコア・ラップ・ムーヴメントの只中にあり、後者の立場から歴史の編纂と思想の確立が求められていた。その受け皿となったのが『FRONT』であり、リーダーシップを執ったのが佐々木士郎だった。彼の連載「B-BOYイズム」は(後に始まる編集長と編集部員が交代で執筆していた巻頭言以上に)シーンを代表する言葉として読まれていたし、特に第6号(1996年1月刊行)の、その頃、まだ根強かった日本のヒップホップ/ラップは偽物であるという読者の意見に反論する形で書かれた、同文化のオーセンティシティを証明する回は、ステートメントとして重要だ。そしてそこに込められた哲学は、98年にはRHYMESTERの楽曲「B-BOYイズム」へと発展する。
 一方、ECDも総合音楽誌『ミュージック・マガジン』を中心にライターとしても活動。96年には同誌の増刊で、ヒップホップ/ラップの12インチ・レコードの歴史をまとめた画期的な書籍『ザ・パーフェクト・ビーツ』の監修を務める。また、95年の楽曲で、当時、勢いのあったラッパー2人=YOU THE ROCKとTWIGYを起用した「MASS 対 CORE」(アルバム『ホームシック』収録)はタイトルの通り、ハードコア・ラップ・ムーヴメントを象徴する楽曲となったし、翌年7月に日比谷野外大音楽堂で主催、映像作品化されたイベント「さんピンCAMP」はアンダーグラウンドで蓄積された日本のシーンの力強さをその外へと伝えた。つまり、佐々木士郎とECDは、90年代半ばの日本のヒップホップ/ラップ・シーンを批評的にも、音楽的にも先導したと言っていい。
 ところが、ECDは『blast』99年3月号の、冒頭で描写した異様なポートレートが掲載されたインタヴュー記事で、当時の日本のシーンにおけるアンセムだったRHYMESTER「B-BOYイズム」を、81年のノベルティ・ソングを引き合いに出しながらこう揶揄するのだ。

 例えば、ライムスターの“B-Boyイズム”って曲があるじゃないですか。あれで、「俺の名前はB・ボーイ」って聴くと、正直言って、僕はアラジンの“完全無欠のロックンローラー”を思い出しちゃうんですよ(笑)。悪いけど。つまり、良くも悪くも、ヒップホップはロックンロールみたいなモノになっちゃったんですよ。もともとそういう要素はあったと思うんですけど。

 果たして、そこにはどんな意図があったのだろう。

(つづく)

プロフィール
磯部涼(いそべ・りょう)
ライター。著作に『ルポ 川崎』(サイゾー)、『令和元年のテロリズム』(新潮社)、共著に大和田俊之、吉田雅史との『ラップは何を映しているのか――「日本語ラップ」から「トランプ後の世界」まで』(毎日新聞出版)、編書に『踊ってはいけない国、日本――風営法問題と過剰規制される社会』(河出書房新社)などがある。

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