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評伝 『ECDEAD あるラッパーの生と死』第1回 「あるリスナーの回想(前書きにかえて)」 磯部 涼

2018年1月に57歳で他界したラッパー、ECD。私小説家でもあり社会運動家でもあった彼の生涯を、『ルポ 川崎』が注目を集めたライター・磯部涼が描く。2000年代初頭からECDと親交を深め、併走してきた著者にしか描けない画期的評伝!

その夜、ダンスフロアで

 ECDについて考えると思い出す光景がある。
 高速道路の高架に空を覆われた通りの、雑居ビルの地下にある小さなクラブ。薄暗い店内はふたつのスペースに仕切られていて、左半分がバー、右半分がダンスフロアになっている。平日の深夜。イベントはお世辞にも盛り上がっているとは言い難い。バーでは出番を終えたDJたちが談笑している。フロアにいるのは僕だけで、DJブースにはトリを務めるECDの顔がライトに照らされてぼうっと浮かび上がっている。耳をつんざくような音量でストゥージズの「アイ・ワナ・ビー・ユア・ドッグ」がかかる。明け方近くなっていい加減疲れていたが、話をする友人もいなければ酒を飲む金もなく、やけくそのように踊る。パーティの享楽とはかけ離れた、孤独な時間。そして不意に音が止まる。腕時計を見るともう5時だ。ECDはブースを出て、たったひとりの客の横を無言で通り過ぎる。僕もとぼとぼ出口に向かうと、やはりくたびれた表情の店員にフライヤーとプロモーション用のカセットテープを手渡された。アパートに帰るや否やそれを再生する。レコードと本で足の踏み場もない六畳一間に、威勢のいいビッグ・バンドのループとつんのめった打ち込みのドラムが響く。続いて武骨なECDのラップが聴こえてくる。

やりきれないことばっかりだから レコード、レコード、レコード、レコード、レコード、レコード、レコード、レコード、レコード、レコード、レコード、レコード、レコードを聴いている 今日も

 まるで自分のことを歌われたような気持ちになって、僕は灯りも点けず、煙草の臭いの染み付いた服のまま、カセットテープを繰り返し繰り返し再生した。
 1999年1月、件の曲、「DIRECT DRIVE」を収録したECDのアルバム『MELTING POT』(cutting edge / avex)が発売された。彼がプロデュースしたイベント<さんピンCAMP>もきっかけのひとつとなって日本のラップ・ミュージックの熱気が高まっていた時期だが、当の立役者はそれに苛立っているようだった。雑誌の連載やインタヴューでは他のラッパーに盛んに喧嘩を売っていた。今はもうなくなってしまった下北沢駅南口の水のない噴水の淵に座って缶チューハイを飲む姿をよく見かけたが、およそラッパーらしくない伸びきった髪で、どこか世捨て人の雰囲気があった。一方、新作はむしろこれこそが本当のヒップホップだとでも言うようなプリミティヴなサウンドで、僕は日本のラップ・ミュージックを熱心に追いながらも、それに唾を吐くECDにもどうしようもなく惹かれた。しかし『MELTING POT』は音楽メディアで黙殺されているように感じた。この素晴らしさを説明できるのは自分しかいないと思い込み、レヴューを書いて雑誌のライター募集のコーナーに送った。やがて編集部から仕事の依頼がきた。人生が動き出したような気がした。
 ECDに初めて話しかけたのは、『MELTING POT』が出た数ヶ月後のことだ。映画『荒野のダッチワイフ』のリヴァイヴァルを観に行った際、客席に彼の姿を見つけた。当時はCDウォークマンを使っていたこともあり、リュックサックにCDがケースのまま入っていたのでブックレットにサインをしてもらった。案外気さくで、真っ白のページを開くと「ここはサイン用なんだよね」と言って、「ECD 99 HAPPY」と書いてくれた。それからしばらくして、彼がアルコール依存症で精神科に入院したことを知った。

すでに書かれた人生

 ラッパーの評伝はどのように書かれるべきだろうか。あるいは私小説家の、社会運動家のそれは。そもそも評伝とは何なのだろう。他人の人生を評し、まとめるなんてことが許されるのか。――そのような迷いがある。それでもこうして書き始めたのは、ECDの人生は彼個人の人生を越えて、時代や社会や文化を象徴してもいて、そのことを彼がいなくなったいま書かなくてはいけないと思うからだ。あるいは、僕もその時代や社会や文化の一部だとすれば、単なる他人事ではない。
 2020年1月24日は彼の三回忌にあたる。1960年3月29日、東京で生まれた石田義則(いしだ・よしのり)は、1987年に名字の響きにアルファベットをあてはめて“ECD”と名乗り、ラッパーとして活動を始めた。80年代後半から90年代後半にかけてコンテストやイベントを主催、日本のラップ・ミュージックの発展に大きく貢献するが、その後は商業的成功に背を向け、独自の道を進む。約30年間を通して、合計17作のスタジオアルバムを発表。2018年1月に亡くなった時点では、日本で継続的に活動してきたラッパーの最高齢だったと言っていい。
 音楽ジャーナリズムの定式に則ってECDのキャリアをまとめると、以上のようになる。しかしそのような客観的記述では零れ落ちてしまうものがある。例えば世間からすれば、それは「とあるマイナー・ミュージシャンの死」でしかなかったのかもしれない。いや、間違いではない。彼はむしろ自分がマイナーだということに強いこだわりを持っていた。だからこそECDの音楽は限られた人たちの心の奥深くに突き刺さり、その人たちの人生を変えた。そして日本のラップ・ミュージックのコミュニティとは別の、オルタナティヴな場をつくっていった。だとしたら、ECDの評伝がとあるリスナーの自伝として書き出されるというのもひとつの選択肢だろう。

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写真=植本一子

 そもそもECDの人生については既に多くの言葉が費やされている。他でもない、本人によって。まずラップ・ミュージックの歌詞には自己言及が多いが、彼も例外ではない。例えば、彼が最初に注目された「Hand Made」(「Pico Curie」収録、MAJOR FORCE / FILE RECORDS、1989年)という曲のフックも「ECDO IT」と自分の名前をもじったものだった。また最晩年の楽曲で、DJ Mitsu the Beatsとの共作にあたる「君といつまでも(together forever mix)」(WATANABE MUSIC PUBLISHING CO., LTD. 、2017年)の歌詞は、自分と音楽との関係を歌ったまるで走馬灯のような内容だ。引っ込み思案で周囲から大人しいねと言われていた石田少年は、しかし盆踊りのリズムに惹かれ、いつの間にか櫓(やぐら)に上がっていた。

音楽 自分変えた瞬間だ
そっから始まったありゃ何だったんだ
それからの人生まさにアップエンダウン
そして失ったものたちと引き換えにこいつがある 音楽 それだけでOK

 この幼少期の盆踊りのエピソードは自伝『いるべき場所』(メディア総合研究所、2007年)にも書かれている。前述したようにラッパーの歌詞に自己言及が多いのはECDに限ったことではないし、ラッパーほど自伝を出すことを好む職業もないが、ECDの場合は小説家としても自身の人生を題材にし続けた。アルコール依存症の顛末を題材とした『失点イン・ザ・パーク』(太田出版、2005年)から、家族を巡る物語と並行して癌との闘病を綴った『他人の始まり 因果の終わり』(河出書房新社、2017年)まで7冊の単著と2冊の共著を残しており、それらの多くは私小説と言っていい内容だ。
 ECDについて書いているのは本人だけではない。写真家で妻の植本一子(うえもと・いちこ)も2016年にそれまでの文章をまとめた『かなわない』(タバブックス)を刊行して以降、4冊の単著で自身の生活を私小説として綴っており、そこには夫も登場する。筆者もまたライターになるきっかけとなったレヴューをはじめとして、ECDについてそれなりに多くの文章を書いてきたが、生前最後の取材となったのが週刊誌の人物ルポルタージュのためのもので、2017年の春から夏にかけて闘病中の彼に何度か話を聞いた。ラッパーとして小説家として言葉を扱い、社会運動家として路上で声を上げたECDは、面と向かうと寡黙だ。ましてや当時、体調は芳しくなく、自室や病室で寝転がったままの彼に質問を投げかけるのは心苦しかった。さらに、人物ルポルタージュを書くと言っても彼は自身で人生について詳細に書き記している。だから取材はそれを読み込んで気になるエピソードのディテールを聞いていく作業になる。その中で「どうして、こんなに自分について歌ったり書いたりするのか」と根本的なことを尋ねると、「“ECD”という名前を考えた時に、自分と“石田義則”とが切り離されたのかもしれない」というような答えが返ってきた。彼にとって彼の人生は、レコードと同じように表現のための格好の素材だったのだ。そしていまこの文章を書きながら思うのは、恐らく彼はヒップホップ・カルチャーの本質に従って、他人がその素材を使うことも喜んだだろうということだ。残念ながら、もうそれを読んでもらうことはできないが。ECDは自分の人生を使って何を語ろうとしたのだろう。僕は彼の人生を使って何を語ろうとするのだろう。
 ECDの死後、僕が彼について書いた初めての文章は、2年前の通夜で読んだ弔辞だった。それは以下のようなものだ。

 石田さんに感じていたのは“孤独なひと”だということでした。もちろん、生涯たくさんの友人に囲まれていたわけですが、その中でもべたべたとした人間関係はつくらず、凛とした孤独を保ち続けていたというのが、僕が持っている印象です。
 昨年、石田さんの人物ルポルタージュの記事を書く機会がありまして、病床の石田さんにお話を伺ったのですが、その時におっしゃっていたことで印象的だったのが、「溜まり場が嫌い」だということでした。石田さんにとって大切な場所であった<ZOO><SLITZ>という下北沢のクラブも、<LESS THAN TV>というパンク・レーベルのイベントも、各々勝手に集まって、ひととき場を共にして、また各々勝手に去って行くから良いのだと。
 それは、石田さんがラップをする上で、社交よりもあくまでも良い曲をつくることによって、ベテランから若者まで様々なラッパーとの競い合いを楽しんでいたことと重なります。デモやカウンターといった社会運動に参加する際もあくまでも行動が目的であって、用事が終わったあとはさっと仕事や家庭へと帰っていったことが思い起こされます。その姿は、時にべたべたとした人間関係に囚われてしまう音楽文化、社会運動においてひときわ美しく見えました。
 石田さん、今日も石田さんという共通点がなかったら顔を合わせることはなかったかもしれない様々な人々が、各々勝手に集まっていますが、そこに石田さんがいないことが不思議な感じがします。ただ遅かれ早かれ、みなそちらへ行くと思います。またそちらで各々勝手に集まりましょう。

 この連載は手土産になるだろうか。書き進めていると、もう彼はいないのに、いつかのダンスフロアのように一対一で向き合っていると思えてくる。

(つづく)

プロフィール

磯部涼(いそべ・りょう)
ライター。主に日本のマイナー音楽、及びそれらと社会の関わりについてのテキストを執筆。単著に『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』(太田出版、2004年)、『音楽が終わって、人生が始まる』(アスペクト、2011年)、『ルポ 川崎』(サイゾー、2017年)がある。その他、共著に九龍ジョーとの『遊びつかれた朝に――10年代インディ・ミュージックをめぐる対話』(ele-king books/Pヴァイン、2014年)、大和田俊之、吉田雅史との『ラップは何を映しているのか――「日本語ラップ」から「トランプ後の世界」まで』(毎日新聞出版、2017年)、編書に『踊ってはいけない国、日本――風営法問題と過剰規制される社会』(河出書房新社、2012年)、『踊ってはいけない国で、踊り続けるために――風営法問題と社会の変え方』(河出書房新社、2013年)など。

※磯部涼 さんのTwitter(@isoberyo)はこちら