犬はいつでも「わたしの犬」だった。――「マイナーノートで」#21〔犬派〕上野千鶴子
各方面で活躍する社会学者の上野千鶴子さんが、「考えたこと」だけでなく、「感じたこと」も綴る連載随筆。精緻な言葉選びと襞のある心象が織りなす文章は、あなたの内面を静かに波立たせます。
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犬派
犬派か猫派か、と言われたら犬派の方だ。
世に猫派は多く、猫グッズがあふれている。猫のイラストや猫グッズはかわいさの余りつい買ってしまうから、わが家には猫グッズがあちこちにあるが、ほんとうは猫より犬が好き。あのつぶらな瞳でひたむきに見あげられたらたまらない。
わが家の猫グッズには木彫りの実物大のペルシャ猫も、ジブリの黒猫のぬいぐるみも、猫柄のおつまみ皿も、果ては猫柄のコースターもある。訪れたひとが猫グッズのいろいろを見て、「猫がお好きなんですか?」と訊くたびに、「ええ、餌も食べず、うんこもおしっこもしない猫がね」と答える。ナマ猫は飼ったことがない。
犬派だと言ったら、田中美津さんに「やっぱり。どうりで男が好きなわけだ。尻尾振って寄ってくるもンね」と言われた。ちなみに田中さん自身は猫派だ。家で猫を飼っている。
老後になったら……大王松を植えた庭のある家で、犬を飼う暮らしをしたい。それが望みだった。そんなささやかな望みさえ、叶えられないままに来た。マンション暮らしでは猫を飼うのがせいぜい、事実、おひとりさまの友人たちには猫を飼うひとが多い。複数飼って、マンションの一室を猫部屋にしている女性もいる。現在暮らしているマンションはペット可だが、飼われている犬はどれも人工的な繁殖をくりかえして矮小化した座敷犬。ぬいぐるみの中に閉じこめられたような小さな命を見ているだけでつらいので、小型犬は飼いたくない。飼うなら凜々しく賢い柴犬のような中型犬か、気立てのよいラブラドール・リトリーバーのような大型犬がよい。が、そんな犬を飼う条件は、いまのわたしの暮らしにはまったくそろっていない。もしわたしが死んだら……老後は犬を飼いたいというささやかな望みさえ叶えられなかった、かわいそうな人生でござんしたよ、と同情してもらいたい、と思うくらいだ。
小さいときから家には犬がいた。というより、小さいわたしが犬がほしいとわがままを言って飼ってもらった。潔癖症で犬を触ったら必ず手を洗うようにと厳命した開業医の父が、よく犬を飼うことを許可してくれたものだと思う。娘に甘い父だった。飼うならおまえが世話をするんだよ、と言い聞かされていたのに、御多分に漏れず、犬の世話は母の役目になった。母は生きものが好きだった。家にはいつも犬と鳥がいた。十姉妹の小鳥たちは繁殖してどんどん増えていったし、カナリアはよい声で鳴いた。糞の始末や餌の交換はすべて母がやっていたのだろうか、わたしは手を出した記憶がない。
犬の散歩だけは、わたしの役目だった。兄も弟もいたのに、犬はいつでも「わたしの犬」だった。
本と犬だけがお友だちの孤独な少女時代……犬はどれほどの慰めだったことだろうか。小さい頃から本ばかり読んできたというひとに会うと、あなたも現実から逃げ出したいばかりに本に耽溺したのね、と言いたくなる。本はいつもここではないどこか、もうひとつの現実に連れ出してくれた。だが、犬はわたしを家の外に連れ出してくれた。犬を連れて、ずいぶん遠出をした。いや、犬がわたしを導いて遠出をさせてくれた。自宅からかなり離れたところや、藪の中、見知らぬたんぼ道も、犬と一緒ならなぜだか怖くなかった。知らない道にもずんずん入っていった。からだ中、ぺんぺん草やヤブコウジの実をいっぱいつけて、犬と一緒に家に帰った。
引きこもりや不登校の子どもに悩む親に会うと、犬を飼えば、とアドバイスすることがある。犬はコンパニオン・アニマルと呼ばれるほどの人間のお友だち。その上、猫と違って飼い主を否応なしに外へ連れ出してくれる。しかも犬の散歩は雨の日も雪の日も、365日、休みなしだ。
小学生のときから大学進学で家を出るまで、10年余りのあいだに、3頭の犬を飼った。代替わりごとに大きくなっていって、最後はイングリッシュ・セッターという大型の狩猟犬だった。のびあがってわたしの顔をペロペロ舐めはじめると前足が肩に届くほどの大型犬だった。今のわたしの年齢では、大型犬の体重を支える体力がないし、リードを引っ張られたらその強さで転倒しかねない。事実、犬の散歩中に転倒して肩の骨を脱臼した、なんていう友人もいる。
大型犬は気がやさしい。というより小心だ。散歩途中に他の犬に出会うと、神経質な小型犬がキャンキャン吠える前にすわりこんで、尻尾を振る。やんちゃで聞き分けがないのに、誰にでもひとなつっこくすり寄っていき、決して攻撃しない。
当時はまだ犬にリードをつけて散歩することがマストではなかった。リードをはずすとわたしの前に後に、どこまでもついてくる。草むらを見つけると大喜びでジャンプして中に入る。犀川の河川敷に連れて行くと、鳥の死骸を咥えて戻ってくるのには閉口した。狩猟犬の本能が残っていたのだろうか。
名前はハニー。英語で恋人を呼ぶ愛称であることは知っていた。イトコの家で飼っている犬がダーリンだったので、似たような名前を探した。郊外の戸建てに住んでいたので、夕方リードから放してやると大喜びで外に走り出たが、犬を呼び戻すのに、「ハニー! ハニー!!」と呼ぶのがご近所に恥ずかしい、と母はこぼした。
学校へ行くときには、バス停までついてきた。バスが走り出すと、全速力でバスを追いかけてきた。そんなある日、ハニーが行方不明になった。バスを追いかけて戻れなくなったのだろうか。青ざめた。必死になって捜した。珍しい犬種の大型犬なので、見かけたひともいるだろうと広告も出したら犀川の対岸のお宅から、「犬を預かっています」と連絡がきた。そんなに遠くまでバスを追いかけていったのだ。とびあがって引き取りに行ったが、どんなにうれしかったことか。
そんなある日、散歩に連れ出した先で、刈り取った後の田んぼに撒いてあった害獣駆除の毒餌らしいものをハニーが食べた。わたしの目の前で、ぐるぐる廻りながら苦しみぬいて死んだ。ショックで呆然として、3日3晩泣き明かした。なぜペットロスには忌引きがないのだろうと思った。そんなとき、母は「あんたが殺した」と言った。
進学が決まっていた。家から離れる予定だった。ハニーはわたしがかれを置き去りにすることを知っていたのだろうか。それともわたしにこれ以上の負担をかけたくないと、時期を見て身を退いたのだろうか。
ペットロスほど哀しいことはない。親を亡くしたときより、哀しいくらいだ。誰よりも親しい友だちであり、折りに触れてぐちや歎きを聴いてくれた相手だからだ。何が哀しいと言って、亡くなった犬よりも、その犬を喪った自分が憐れなのだ。自己愛はここにきわまれり。
おひとりさまの友人や障害を持ったひとには、ペットを大事にしているひとが多い。多頭飼育をしているひともいる。犬のために一戸建ての借家を転々としているひともいる。ペットは人間を、美醜や障害の有無や社会的地位で差別しない。絶対の信頼を寄せてくる。ペットは家族以上のものだ。というより、家族というままならない者たちよりも、もっと自分によりそってくれる存在だ。
それをよく知っているから、犬を飼いたいと思う気持ちが湧くたびに、それを抑えてきた。もちろんそんな条件が、自分の暮らしのなかにないことも承知している。そのうちに犬を飼うには年齢が高くなりすぎたことに気がついた。犬の寿命は人間の寿命より短いとはいえ、死にめをみとってやる責任が果たせない年齢になったからだ。保護犬を斡旋してくれる団体でさえ、70歳を超えたら譲渡の対象にならないという。それなら期間限定で生後2か月から約10か月間だけ盲導犬候補を育てるボランティアのパピーウォーカーになろうか、とも思った。パピーウォーカーに求められるのは、犬をかわいがって人間に対する絶対の信頼を培うことだ。犬を愛して甘やかすことなら、自信がある。わたしの育てるパピーは、仕事のできる盲導犬にはならないかもしれない。訓練しても使いものにならない犬もいるんだそうだ。だが、経験者に聞くと、犬の訓練士にひきわたすときのつらさったらないんだという。それに成犬になるまでのあの活発に動きまわる子犬を育てる体力がもはやない。なら、盲導犬を隠退した老犬を引き取るのはどうだろう。最近では犬の介護も必要になってきて、犬用のおむつまである。それなら老人にふさわしい老々介護になるだろうか。それさえ心許なくなってきた。
犬を飼いたい……この誘惑は、実現しそうもない。
了
(タイトルビジュアル撮影・筆者)
プロフィール
上野千鶴子(うえの・ちづこ)
1948年、富山県生まれ。社会学者。認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長、東京大学名誉教授。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、現在は高齢者の介護とケアの問題についても研究している。主な著書に『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)、『スカートの下の劇場』(河出文庫)、『おひとりさまの老後』(文春文庫)、『ひとりの午後に』(NHK出版/文春文庫)、『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』(岩波ジュニア新書)、『在宅ひとり死のススメ』(文春新書)などがある。