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連載 ロジカルコミュニケーション入門――【第15回】なぜ帰納法に陥ってしまうのか?

●本連載では「ロジカルコミュニケーション」を推進する哲学者・高橋昌一郎が、まったくの初心者に論理的思考の基礎から応用まで、わかりやすく明快に解説します。
●「ロジカルコミュニケーション」は、論理的思考に基づくスムーズなコミュニケーションを意味します。固定観念や偏見に陥らず、多彩な論点を浮かび上がらせて、双方の価値観をクールに見極めるコミュニケーション・スタイルです。
●なぜかコミュニケーションが苦手、他者との距離の取り方が難しいなど、コミュニケーションに問題を抱えていたら、抜群の効果があります。「ロジカルコミュニケーション」で人生が劇的に好転します!
●本連載は情報文化研究所主催のオンライン講座「ロジカルコミュニケーション入門――はじめての論理的思考」と連動しています。どなたでも情報文化研究所に会員登録(一般会員・学生会員)すれば、毎月第2日曜日11時より開催中のライブ講座を受講できます。ぜひご参加ください!
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●本連載に関するご意見やご質問にはnote「動画【ロジ研#15】ロジカルコミュニケーション入門【第15回】」のページで高橋昌一郎および情報文化研究所研究員が直接お答えします。ぜひこちらもご活用ください!
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●論理的思考の意味

  本連載【第1回】「論理的思考で視野を広げよう!」では、「論理的思考」が「思考の筋道を整理して明らかにする」ことであると解説した。たとえば「男女の三角関係」のように複雑な問題であっても、思考の筋道を整理して明らかにしていく過程で、発想の幅が広がり、それまで気づかなかった新たな論点が見えてくる思考法である。

【第2回】「論理的思考で自分の価値観を見極めよう!」では、「ロジカルコミュニケーション」によって新たな論点を探し、反論にも公平に耳を傾け、最終的に自分がどの論点を重視しているのか、自分自身の価値観を見極めることの意義を説明した。

【第3回】「論点のすりかえは止めよう!」では、「ロジカルコミュニケーション」の大きな障害になる10の代表的な「論点のすりかえ」について具体的に紹介した。日常的にできる限り論点のすりかえを止めるだけでも、コミュニケーションはかなりスムーズで建設的になるはずである。

【第4回】「白黒論法に注意しよう!」では、とくに詐欺師がよく使う「白」か「黒」しか選択の余地がないと思わせる「白黒論法」を解説した。相手が「白黒論法」のような「二分法」を押し付けてきた場合、命題を整理すると実際の組み合わせは2通りではなく4通りであることが多いのに注意してほしい。

【第5回】「『かつ』と『または』の用法に注意しよう!」では、日常言語では曖昧になりがちな「~ではない(否定)」と「かつ(連言)」と「または(選言)」の組み合わせについて、「論理的結合子」を用いて記号で処理すると、論理的に厳密に表現できることを解説した。

【第6回】「『ならば』の用法に注意しよう!」では、日常言語では曖昧になりがちな「ならば(条件)」および「逆・裏・対偶」が、「論理的結合子」を用いて記号で処理すると、論理的に厳密に表現できることを解説した。

【第7回】「明確に『論証』してみよう!」では、日常言語では曖昧になりがちな「話の正しい筋道」が、アリストテレス以来の「論証」という概念で論理的に厳密に表現できることを解説した。論証には、モダス・ポネンスやモダス・トレンスのように「妥当」なものと、後件肯定虚偽や前件否定虚偽のように「妥当ではない」ものがある点に注意してほしい。

【第8回】「多種多彩な『論証』を使ってみよう!」では、8つの「妥当」な論証形式「MP、MT、HS、DS、Add、Simp、Conj、CD」を確認した。記号化されているため、最初は戸惑う読者もいるかもしれないが、これらを自在に使いこなせるようになれば、日常の議論にも大いに役立つので、ぜひ頭に叩き込んでほしい!

【第9回】「論理パズルを楽しもう!」では、多種多様な「論理パズル」を解きながら、これまで登場した概念を復習した。とくに、さまざまな論理結合子を用いて記号化すると、複雑に見えるパズルも機械的に解くことができることを明らかにした。この回の最後に出した課題は自力で解いて楽しんでほしい!

【第10回】「論理パズルで不完全性定理をイメージしよう!」では、「いかなる有意味な体系も完全にシステム化できない」という驚異的な事実を示した不完全性定理について、論理パズルを活用してイメージ化した。

【第11回】「論理的思考で神学論争に挑戦しよう!」では、「神」の「宇宙論的証明」・「存在論的証明」・「目的論的証明」を論駁する方法を示した。いかに「論理的思考」が強力か、そのパワーを実感してほしい。

【第12回】「社会的ジレンマに挑戦しよう!」では、「論理的思考」を駆使しても、社会的ジレンマを克服することは非常に難解であることを示した。

【第13回】「自意識のパラドックスを考えてみよう!」では、自己言及・相互言及のパラドックスから、心の中の信念における「真」と「偽」に踏み込んで考えてみた。

【第14回】「知識人が非論理に陥る理由!」では、ノーベル賞を受賞するほどの一流の科学者でさえ非論理的な「過信」に陥る危険性を示した。これを回避するためには、①妄信しない、②疑う、③自分の頭で考える姿勢が必要である。

演繹法と帰納法

  そもそも人間の思考における「推論」の形式は、大きく2種類に分けられる。「普遍」的な前提から「個別」的な結論を導く推論方法を「演繹法」と呼び、その逆に、「個別」的な前提から「普遍」的な結論を導く推論方法を「帰納法」と呼ぶ。

 論理学や数学で用いられる公理系は、最初に「普遍」的に真と認められる公理を設定し、それらの公理に推論規則を適用して、新たに「個別」的な定理を導くように構成される。

 このような「演繹法」の特徴は、前提が真であれば結論も必然的に真であることで、古代ギリシャ時代のユークリッド幾何学に始まり、アリストテレスの論理学や中世のスコラ哲学において重視され、デカルトやスピノザに代表される「合理主義」に引き継がれた。彼らの哲学は、知識の根拠を「理性」に求める反面、形而上学的な思弁に終始する傾向が強かったとも言える。

 これに対して、とくにイギリスで発展したベーコンやホッブズに代表される「経験主義」は、知識の根拠を「経験」に求めることによって、外部世界を物理的に理解しようとする傾向にあった。近代科学の方法論を確立したベーコンは、何よりも多くの「個別」的事例を観察して、それらに共通する「普遍」的パターンを発見することによって、自然の一般法則を抽出すべきだと考えた。このような「帰納法」に対する暗黙の信頼が、現代科学の方法論にも引き継がれているわけである。

述語論理

  さて、本連載の前半で解説してきた「命題論理」では、「すべての花は赤い」のように数量化された文の真偽を決定できない。というのは、この命題の否定を考えると、「すべての花は赤くない」(全部否定)と「ある花は赤くない」(部分否定)のように、2つの意味が生じるからである。

 この問題を解決するためには、命題の主語と述語に相当する部分にも踏み込み、数量化された命題を扱えるようにしなければならない。それが「述語論理」である。

 述語論理の論証の一例を挙げよう。

  この推論形式(MP)は妥当だが、前提1が偽であることは明らかだろう。一般に、①推論形式が妥当であり、しかも②その推論のすべての前提が真であるとき、この推論を「健全」と呼ぶ。したがって、上記の推論は「妥当」だが「健全」ではない。

 次の推論は、推論形式(MP)が妥当であり、さらにすべての前提が真なので、健全である。

 演繹法では、もし推論形式が妥当であり、すべての前提が公理から導かれて真であることが保証されていれば、推論も健全になる。その意味で、論理学や数学の体系は健全だといえる。

 一方、帰納法では何が起こるのか。たとえば、キノコを考えてみよう。「エノキタケは食べられる」「シメジは食べられる」「シイタケは食べられる」という3つの前提から、「すべてのキノコは食べられる」を導くのが帰納法である。

 ここで、エノキタケ、シメジ、シイタケをそれぞれa、b、cと表す。さらに「〜は食べられる」をP(x)と表す。これらの記号を用いると、「エノキタケは食べられる」「シメジは食べられる」「シイタケは食べられる」は、それぞれP(a)、P(b)、P(c)と表現できる。

 帰納法は、このように個々のキノコを列挙して、それらが「食べられる」ことから「すべてのキノコは食べられる」∀x(P(x)) を導く論法である。

  さて、実はこの帰納法は、たった1つの「反例」によって論駁できる。「毒キノコ」をdと表す。「毒キノコは食べられない」から、¬P(d)が成立する。

 ここで導かれる結論「¬∀x(P(x))」は、「すべてのキノコを食べられるわけではない」という「部分否定」を表す。この命題は「あるキノコは食べられない」∃x¬(P(x))と同値である。

 一般に、「すべてのxに対してP(x)である」を「全称命題∀x(P(x))」、「あるxに対してP(x)である」を「存在命題∃x(P(x))」と呼ぶ。

 上記の例で示したように、全称命題の否定は「部分否定」となる。ここで「すべてのxに対してP(x)というわけではない」は、「あるxに対してP(x)ではない」と同値である。この関係を記号で表すと、次のようになる。

 一方、存在命題の否定は「全部否定」となる。ここで「P(x)であるようなxはない」は、「すべてのxに対してP(x)ではない」と同値である。この関係を記号で表すと、次のようになる。

 それでは、「演繹法」を考えてみよう。「〜はキノコである」をQ(x)、「〜は菌類である」をR(x)と表現すると、次のような推論が成立する。

 

 この推論を記号で表すと、次のようになる。

 

 この推論の証明過程では、「∀x(Q(x)→R(x))」が成立することから、「Q(a)→R(a)」を導く。つまり、「すべてのキノコは菌類である」ことから、とくにエノキタケについて「エノキタケがキノコならば、エノキタケは菌類である」を導く。そこから「R(a)」の「エノキタケは菌類である」を結論できるわけである。

一発帰納

  ミシガン大学大学院に留学していた頃、現代グラフ理論の創始者の1人として知られるフランク・ハラリー教授のセミナーに出席していた。先生は、ミシガン大学フットボール・チームの熱狂的なファンとしても知られる。

 さて、そのハラリー教授が65歳で退官される最後の秋学期、ミシガン大学フットボール・チームは、ビッグ・テン・カンファレンスを順調に勝ち進んでいた。ウィスコンシン大学に勝ち、ミシガン州立大学に勝ち、インディアナ大学に勝ち、ノースウエスタン大学に勝ちといった具合で、いつになったら負けるのか誰も見当が付かないほどだった。

 毎週の授業で、ハラリー教授は教壇の前に立つと、スクール・カラーでミシガンを応援するために“Go Blue !”と絶叫する。そしてクラス全体を睨むように見渡して、出席者全員が一緒に唱和するまで、この絶叫を繰り返して止めない。

 不謹慎ながら、高齢の痩身で、両手を挙げて飛び跳ねている姿を見て、もしかすると常軌を逸しているのではないかと思うことが何度もあったが、数学の授業を始めると突然表情が正常に戻るので、胸を撫で下ろした覚えがある。

 いずれにしても、先生の応援の甲斐があったのか、その年のミシガン大学はなんと一度も負けずに全勝してカンファレンスで優勝し、さらに正月恒例のローズボウルでも優勝して、全米トップの栄冠を手にしたのである!

 ここで「ミシガン大学が勝つ」をM(x)、対戦相手の大学をa、b、c ……と表すと、その年に限っては、次の帰納法が成立してしまったのである!

 おもしろいことに、ハラリー教授の口癖は「帰納法」とは正反対にそれを揶揄する「一発帰納(one-shot induction)」だった。

 電気回路や鉄道路線図のデータ構造を理論化する現代グラフ理論は、数学の中でもとくに応用範囲が広いことから、新たな「法則」を発見したという報告が後を絶たない。実際に、数えきれないほどの合致例が見つかり、他の法則との整合性も十分満たしているにもかかわらず、厳密に証明されていないような「法則」が多いのである。

 当時は、「任意の地図を塗り分けるためには4色で必要十分である」という「四色問題」が、イリノイ大学チームの膨大なコンピュータ処理によって解決されたばかりだったが、これを数学的な「証明」とみなすか否かについても意見が分かれていた。

 もちろん、このように解決できる例は稀で、むしろ、それ以前の段階で反例が発見され、予想された「法則」そのものが成立しないことが明らかにされることも多い。するとハラリー教授は、「一発帰納。この予想もゴミ箱行きだ」と、実に嬉しそうに紹介するのである。

 「一発帰納」を記号化すると、次のようになる。

 これは数学に限った話ではなく、日常生活でも非常に多く見られる論理的な誤謬である。ここで「〜はバナナ・ダイエットをする」をP(x)、「~は痩せた」をQ(x)、「花子」をaと表すと、一発帰納の推論は次のようになる。

 要するに、たった1例の「個別」的な事例から「普遍」的な結論を導く推論形式が「一発帰納」である。

 仮に太郎がある勉強法を実践したところ成績が伸びたとすると、その1つの成功例だけを根拠に「この勉強法を実践すれば誰でも成績が伸びる」と主張するのが「一発帰納」である。ダイエットや勉強法のように、成功例を引き合いに出されると説得力があるように映るが、実際には花子や太郎に当てはまったことが他者の場合にも成立するとは限らない。

 美しいモデルが「私も使っています」と化粧品の宣伝をするのも、数十億円の預金通帳を見せながら「これで株に勝ちました」と投資方法を宣伝するのも、「一発帰納」である。これらの一例が万人に通用するわけでないのは、落ち着いて考えてみれば明らかだろう。

 ある国会議員が汚職で逮捕されたとして、そこから「国会議員は誰でも汚職まみれだ」と普遍化できない。とくに「男はみんな~」や「女は誰でも~」のように主語の範囲が広い普遍化は、すべて非論理的といえる。

 一般に「日本人は勤勉である」という命題は、述語論理では「すべての日本人は勤勉である」を意味する。したがって、たった1人でも「勤勉でない日本人」が存在すれば、この命題は偽になる。

 このように考えると、「日本人」や「アメリカ人」や「中国人」のように膨大な数の人々の集団全体を主語にする命題は、最初から論理的に成立しないことがわかるだろう。

科学と帰納法

  さて、ここまで帰納法は妥当でない推論であることを解説してきたが、実は人類の到達した「科学」の正当性を論理的に考えると、「帰納法の循環論法」に陥ってしまうことを紹介しよう。

 一般に「科学」とは、自然を観察して普遍的な自然法則を導き出す営みである。たとえば、「ペンを手から放せば地上に落下する」「バナナを手から放せば地上に落下する」……「リンゴを手から放せば地上に落下する」という数えきれない観察結果から、万有引力の法則が導き出された。

 ここで「なぜ万有引力の法則が成立するのか」と問えば、「なぜなら万有引力の法則はこれまで何度も観察によって確かめられてきており、矛盾した反例が得られていないから」である。つまり、これまでずっと成立してきたから、これからもずっと成立するだろうという「帰納法」に基づいて、さまざまな自然法則が導かれてきたわけである。

 それでは、帰納法は絶対に正しいといえるのだろうか? たとえば、昨日まで成立してきた自然法則が、今日になって突然成立しなくなる可能性はないのだろうか?

 この疑問に対する答えの一つが「自然は同じ状況では常に同じように振る舞う」という「自然の斉一性原理」である。この原理を仮定すると、昨日とまったく同じ条件で今日リンゴを落とせば、今日もまったく同じ動きをするはずである。

 地球は太陽の周囲を公転し、月は地球の周囲を公転する。これらの法則は10年後であろうと100年後であろうと同じように継続するとみなして軌道計算することによって、天文学者は何年後の何月何日何時何分に、地球上のどこで日食や月食を観測できるか予測する。つまり、天文学者の予測は「自然の斉一性原理」に基づいているわけである。

 それでは、なぜ「自然の斉一性原理」は今日も明日もその先も成立するといえるのだろうか? この疑問に対する答えの一つが「自然の斉一性原理は、これまでずっと成立してきたから」である。

 しかし、この推論は、帰納法そのものである! つまり、自然法則の「帰納法」が成立するのは「自然の斉一性原理」が成立するからであり、「自然の斉一性原理」が成立するのは「帰納法」が成立するからでありと、理由付けが循環してしまっている。いわば「帰納法」を用いて「帰納法」を正当化しているわけで、この論法は論理的にはとても認められない。

 20世紀に飛躍的な進歩を遂げた科学は、自然現象を正確に予測し、社会的にも大きな成功を収めてきた。いくら論理的に循環論法が認められないとしても、科学技術の恩恵を日々受けていることに間違いはないだろう。

 一見すると当然のように映る「科学の正当性」をどのように正当化すればよいのか、という問題は、今も科学哲学の重要な未解決問題である。

 一方、そもそも人間はこの「不条理」な世界に「投げ出された」存在であり、「科学の正当性」のようなもの自体が一種の「幻想」にすぎないとみなす実存主義的な見解もある。この周辺の議論は非常に興味深いので、拙著『感性の限界』をご参照いただきたい。

「ロジカルコミュニケーション」と「発信」の重要性

 さて、本連載では15回にわたって「ロジカルコミュニケーション」について解説してきた。

 とくに警鐘を鳴らしてきたのは、現代の日本では、「ロジカルコミュニケーション」の対極に位置する「相手を黙らせるコミュニケーション」が主流になっている点に対してである。

 すでに述べたように、「相手を黙らせるコミュニケーション」とは、自己主張を大声で述べ、相手の発言を平気で遮り、自分の立場は絶対に譲らず、場合によっては相手を嘲笑したり罵倒したりして、相手が黙り込むと「はい、論破!」と勝ち誇るというタイプのコミュニケーションである。

 また、日本の国会の答弁を視聴してみると、意図的に論点をすりかえるという、他国の議会ではあまり類を見ない奇妙な風習が繰り返されている。とにかく時間稼ぎをすることが目的で、意味不明な弁解を続け、質問に正面から答えない。不祥事が起きても、誰も責任を取らず、謝りもしない。国会の質疑応答全体が、もはやコントのように映る。

 その背景にある要因の一つとして、ネットの発達がもたらした「情報過多」を挙げることができるだろう。流れてくる情報があまりに多いため、その場でうやむやにしておけば、次から次へと新たな出来事が生じて、国民は忘れてしまう。情報に流されて、自分の頭で考えなくなるわけである。これは、種々雑多な不祥事を洗い流してしまいたい為政者にとって、非常に都合のよい状況といえるだろう。

 それでは、どうすればよいのか。逆説的だが、ネットの発達は、誰でも何でも発信できるという利点をもたらしている。自分の周囲や世の中の何かが「非論理的」「不合理」「アンフェア」だと思ったら、ネットの記事にコメントするなり、自分でブログ記事を書くなり、短い文章でもポストするなり、とにかく発信すべきである。

 何かを責任持って発信しようとするときにこそ、人は自分の主張を熟考し、論理的になる。そこから一人一人の小さな声が大きな声に変わり、ロジカルコミュニケーションが始まるはずである。 

参考文献

高橋昌一郎(著)『感性の限界』講談社(講談社現代新書)、2012年
高橋昌一郎(著)『東大生の論理』筑摩書房(ちくま新書)、2010年
高橋昌一郎(著)『20世紀論争史』光文社(光文社新書)、2021年
高橋昌一郎(監修・著)/山﨑紗紀子(著)『楽しみながら身につく論理的思考』ニュートンプレス、2022年

イラスト・題字:平尾直子

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 高橋昌一郎(たかはし・しょういちろう)
國學院大學教授・情報文化研究所所長
専門は論理学・科学哲学。主要著書に『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』(以上、講談社現代新書)、『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『新書100冊』(以上、光文社新書)、『愛の論理学』(角川新書)、『東大生の論理』(ちくま新書)、『小林秀雄の哲学』(朝日新書)、『実践・哲学ディベート』(NHK出版新書)、『哲学ディベート』(NHKブックス)、『ノイマン・ゲーデル・チューリング』(筑摩選書)、『科学哲学のすすめ』(丸善)、『天才の光と影』(PHP研究所)など多数。

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