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渡英を前に、ゼロ年代の名画を思い出す――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。イギリス渡航を前にして準備に忙しい中、2000年代を象徴する映画について、お送りします。
※当記事は連載の第43回です。最初から読む方はこちらです。

#43 ロスト・イン・トランスレーション

 仕事でのイギリス行きが間近に迫り、準備に余念がない。英会話教室の集中コースを消化しつつ、現地の講演会やサイン会を想定したスピーチには、「ブリティッシュ・ベイクオフ」(英BBCで人気の料理コンテスト番組)やカズオ・イシグロのネタを挟み、英会話の先生に見てもらって書き直しを重ねている。いろんな体調不良を想定し、漢方薬や解熱剤の調達に飛び回っている。毎日長距離の移動があるのでできるだけ小さくて軽いスーツケースを、いろんな職業の人の意見を取り入れて、ハンズで吟味して購入した。現地でお世話になる方たちと密に連絡を取り合ううち、向こうがかなり寒いらしいと知り、厳選した衣服を百均のトラベルパックにギリギリまで空気を抜いて詰め込んでいる。A子ちゃんおすすめのプロポリスキャンディとハッカスプレーも忘れない。
 友達も家族もついてこない、ツアーでもない、仕事の予定でぎっちりの長期旅行は人生初めてである。不安もあるが今、私はかつてないほどやる気に満ちている。これをきっかけに、自分の本がもっと売れたらいいなと思うし、読者さんとも交流したい。イギリスの書店や大学、出版社をこの目で見て、真似すべきところがあったら持ち帰りたい。そんなわけで毎晩力一杯パッキングをしているのだが、海外でのPRといえば、ふと胸をよぎる人物がいる。
 ケリー・ストロングである。
 ケリー・ストロングは、アンナ・ファリスがソフィア・コッポラ監督「ロスト・イン・トランスレーション」で演じた架空の映画スターだ。
 2004年に公開された「ロスト・イン・トランスレーション」はゼロ年代を象徴すると言っていい作品だ。おしゃれで空気感がふわふわゆらゆらしていて、余韻が豊かで切ない。有名カメラマンの夫の仕事に同行して、東京にやってきたシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)は、たまたま同じパークハイアットに宿泊中の、ベテラン俳優・ボブ(ビル・マーレー)と知り合う。二人は異文化の前に立ちすくみ、躊躇いながらも、まるでゼリーに閉じ込められたような東京の喧騒の中で、いっとき名前のつかない関係になり、またそれぞれの場所へ旅立っていく――。
 シャーロットの対極の存在として描かれるのが、ケリー・ストロングである。ケリーは主演したアクション映画「ミッドナイト・ベロシティー」のPRのために来日している。共演者はキアヌ・リーブスらしく、会見の規模からするに超大作だ。ケリーはヨガや空手が好きで、空手の掛け声で報道陣を笑わせる。いつも陽気で「ワキガ臭いでしょ」と自己申告し、ファッションはLAギャル風。誰にも聴いてもらえなくてもバーでカラオケを熱唱している。いろいろとウッカリ発言が多く、「イヴリン・ウォーという偽名で泊まっている」と言ったせいで、イヴリン・ウォーは男性作家だよねと、陰でシャーロットに指摘されてしまう。
 登場した瞬間からズッコケお笑い担当として描かれ、その扱いは、ボブがゲスト出演する日本のお笑い番組のMC・マシュー南(なんと演じる藤井隆としてではなく、マシュー南本人役として登場)とほぼ変わらない。演じるアンナ・ファリスがめちゃくちゃいい人そうなため、ちょっと気の毒に思える。ハイテンションな商業主義や「わかりやすさ」にノレないボブとシャーロットは、ケリーやマシューを前にすると、とても居心地悪そうで、うっすらとした冷たい笑みをいつも浮かべている。
 二十代の私はこの映画が好きだった。まだ何者でもない、不安と孤独の中にいるシャーロットに自分を重ねていた。シャーロットが自分より遥かに恵まれたアメリカ人のセレブであることは、どういうわけかあまり気にならず、世界観にのめり込んだ。A子ちゃんとパークハイアットに行って、宿泊はできないが、ロビーを聖地巡礼したりしていた。しかし、どうしても一点乗り切れないものを感じていた。それがあのケリー・ストロング(とマシュー南)の雑な扱いなのである。
 今回、思い出したので見直してみた。やっぱり随所に感じたアジア人蔑視っぽい感じは錯覚ではなかった。明らかにこの映画には日本への見下しがある。ちなみに昔は「そういうのもあるのかあ」と思っていた、ボブの悩みは、中年になった今は、お前、贅沢だな、という苛立ちでいっぱいである。ただ、やっぱり惹きつけられてしまうし、美しくて切ない、そして愛らしい映画ではある。
 しかしながら、やっぱりこの映画におけるケリー・ストロングの扱いは不当であると改めて思う。ケリーがあんたらになんか悪いことしたのかよ……!? 振り返ってみると、2000年代とはキッツイ時代だったんだなと思う。この映画に限らず、あらゆるフィクションに言えることだが、何者でもない女の子は優しく包み込むのに、すでに何者かになったシャカリキな女の子への視線がとてつもなく意地悪。こんな性格の私が、よくあの時代を耐え抜けたなーとも思う。
 ただ、嬉しいこともある。あの頃、意識していなかったけれど、今も昔も私の本質は、ケリー・ストロング側であるという真実である。それは同時に、マシュー南側の人間であるということだ。あくまでも自分が楽しめる範囲内でだが、私はいつもやるべきことには全力で取り組みたいし、人を見下したくないし、楽しませたいし、知らない文化があったら立ち尽くす前に飛び込みたい。
 やっぱり異文化を前にキョトンとしたり、やれやれ顔をするのはめちゃくちゃ嫌だ。戸惑う前になんでそういう習慣なのか、自分の言葉で聞いてみたい。せっかくの海外なのに、同じ国から来たそれも年上の成功者と目配せし合うのはもっともっと嫌だ。名前のつかない関係じゃなくて、友達100人つくりたい。冷笑されてもいいから、たった一人でホテルのバーで力一杯カラオケして、他人に莫迦にされるとしても、自分の仕事を全力PRしたい。
 そんなことを考えながら、シャーロットとケリー・ストロングが手を取り合うバージョンの私的「ロスト・イン・トランスレーション」を妄想しつつ、お土産の鳩居堂のポチ袋を、スーツケースの隙間という隙間に詰め込んでいる。

 次回の更新予定は11月20日(水)です。

題字・イラスト:朝野ペコ

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プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)

ゆずき・あさこ 1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』『オール・ノット』『マリはすてきじゃない魔女』『あいにくあんたのためじゃない』など著書多数。10月26日に雑誌でのドラマ批評連載をまとめた『柚木麻子のドラマななめ読み!』が発売予定。

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