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追悼、田中敦子さん――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。今年8月に逝去された、声優の田中敦子さんの思い出についてお届けします。
※当記事は連載の第42回です。最初から読む方はこちらです。

#42 本物のレディ

 この夏、声優の田中敦子さんが亡くなった。
 私は生前の敦子さんとお付き合いがあった。きっかけは十三年前に遡る。
 2011年3月11日、東日本大震災が起き、私は「女による女のためのR-18文学賞」出身の作家たちと電子書籍の収益を寄付するべく、チャリティ同人誌『文芸あねもね』を執筆した。R -18文学賞の選考委員でもあった山本文緒さんも参加してくれ、豪華な短編集となった。翌年、文庫化される。
 私がツイッター(現X)でせっせと宣伝していたある日、田中敦子さんがフォローしてくれていることに気づく。
 彼女の親友である井上喜久子さんが書店でこの本を手に取ってくれたことがきっかけで、二人で声優仲間に呼びかけ『文芸あねもね』をオーディオブック化し、その収益を寄付しようと思う、という計画を、敦子さんは確かDMで伝えてくれた。
 実際お会いしてみたら、声のイメージのままの方である。あの田中敦子が⁉ と、雷に打たれたような気持ちになった。
 と言うのも、話はさらに数年前に遡る。大学生の私は、始まったばかりのフジテレビの企画「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」に、田中敦子さん演じる海外ドラマ「フレンズ」の主要キャラクター、フィービーのモノマネで出場しようとしていた。確か、応募の段階で落ちた気がする。その後、友近やゆりやんレトリィバァが吹き替えモノマネをすごい完成度で演じるようになり、打ちのめされることになる。
 説明しておくと、フィービー役の俳優、リサ・クドローはハスキーボイスで、敦子さんの地声も低い。しかしながら、吹き替え版フィービーは甲高い明るい声の持ち主だ。ハイテンションで、人なつこく、全く湿度がない。それでいてふとした時に諦念のようなものが漂う。敦子さんの演技力が光るが、クールな大人の女性を演じることが多い彼女としては、異色とも言える役柄かもしれない。
 のちに敦子さんに教えてもらったのだが、シーズン1初回のフィービーのみ、声が低く落ち着いている。回を追うごとにどんどんはっちゃけた演技になっていく。と言うのも、モニカ役の深見梨加さんと似たトーンになることから、二人で相談して、差別化するために高い声に変えた、と教えてくれた。結構無理していたの、と楽しそうに語ってもいた。
 私は感受性が鋼なので、よく敦子さんの前で、フィービーの真似をやっていた。すると、とても似ている、と褒めてくれた。さらに、私にはもうフィービーの声は出せない、でも、フィービーの双子のアースラ(リサ・クドローが二役演じている。日本語吹き替えだとこちらはセクシーでハスキーだ)なら演じられるから、いつか共演しようね、とまで言ってくれた。
 ちなみに2021年、フレンズのメンバーが再集結した時はトークショー形式だったためか、日本語吹き替えがつかず、私はがっかりして、そんなこともいちいち敦子さんにメールしたりしていた。
 草薙少佐にジョディ・フォスターにニコール・キッドマン。敦子さんは敦子さんが演じてきたキャラクターそのものだった。あんなに有名な方なのに、まだ世の中でほとんど知られていない新人作家である私に、敬意をもって接してくれた。
 私は敦子さんが演じるハリウッド映画の知的な大人の女性がとりわけ好きだ。完璧なのに冷たい感じが全くしなくて、内面の充実が滲んでいる気がする。 
 さて、喜久子さんと敦子さんの人望と尽力のおかげで、『文芸あねもね』のオーディオブック計画はどんどん進行していった。収録やイベントを通じて、私と敦子さんの交流が深まる。いつ会っても、ゆずちゃん、ゆずちゃん、とあの心を直に撫でるような声で名前を呼んでくれた。新刊を読むと、感想を送ってくれた。偶然、ご家族と一緒にいるプライベートで遭遇し、照れくさそうな表情をしていたこともある。「フレンズ」のレゴが発売された時は、私より早く完成していた。
 私たちが知り合った頃は、洋画は日本公開時になかなか予算がつかず、豪華な吹き替え陣をつけにくくなった時代だった。しかし、だんだんと配信サイトが人気になってくると、田中敦子さんの本領発揮とも言えるオファーが舞い込み、ご本人は嬉しそうだった。たとえばネットフリックスで配信された「ファニー・ガール」は言わずと知れた古典名作映画だが、敦子さんが新たにバーブラ・ストライサンドの声を担当し、フィービーに近い陽気な声に挑戦している。昔の映画だから、わざと古く聞こえるように独特の音声加工をしている、と敦子さんは裏話をしてくれた。
 田中敦子さんと行くハリウッド、というようなツアーの存在を知り、ただのいちファンとしてお金を払って参加したこともある。敦子さんとワーナー本社の本物のフレンズのセットで撮った写真は私の宝物だ。フレンズメンバーの溜まり場のカフェのソファに二人で並んで座った。フィービーは歌手でもあるのだが、敦子さんはカフェの中央にあったマイクスタンドを握り締め、フィービーの持ち歌「猫はクチャい」を歌ってくれた。長年の夢が叶った気がして胸が熱くなった。私はフィービーの真似でテレビに出たいと言うよりも、あの世界の一員になりたかったのだ。すなわち、変なやつがバカにされず、みんなと一緒にリラックスしてコーヒーを飲む世界観。敦子さんの隣にいると、それがいつも叶った。
 あれは確か、山本文緒さんの短編『子供おばさん』の収録時だったと思う。大塚明夫さんの朗読をガラス越しに見守っていた敦子さんは不意に顔を手で覆うと、サラサラの長い髪を揺らして立ち上がり、その場を走り去ってしまった。具合でも悪いのかな、と、しばらくしてから様子を見にいってみるとハンカチで目の周りを押さえながら、敦子さんが帰ってくるところだった。
「なんだかお話を聞いていたら、涙が出てきて」
 純粋な方なんだなあ、と思いつつ、私はちょっと意外な気がしたのである。と言うのも『子供おばさん』は日本文学史に残る大傑作なのだが(短編集『ばにらさま』にも収録されているのでそちらもぜひ)、タイトル通り、子どもみたいな感覚のまま中年になった女性の話である。しかも、物語の中で成長するのではなく、子どもである自分に腹を括り、死を見据えて、毎日を生きていくところで終わる。
 敦子さんには成熟した人間性を感じていたので、この物語が好きなのはわかるとしても、涙まで流すというのは不思議な気がした。『子供おばさん』の対極に位置する本物のレディ。それが私が一方的に敦子さんに抱いていたイメージである。
 敦子さんが亡くなってから、私は『文芸あねもね』を読み返してみた。文庫版あとがきは山本文緒さんが書かれている。チャリティ企画を成功させるために大騒ぎしていた私たちのことを、文緒さんがいつも温かく見守ってくれていたことを思い出した。
 こんな箇所がある。
――本書に収録されている作品群には共通したテーマがない、というふうに思っている節が彼女達にはあるようですが、私はそうは思いません。
 女性として生きてゆく上での、底なし沼のような苦悩と、ほんのぽっちりでも確かに輝く北極星のような希望、そういうものがどの作品にも描かれているのではないでしょうか――
 これを読んだ時、あのスタジオから走り去っていった敦子さんの姿が蘇った。
 順風満帆なキャリア。いつ会っても安定していて、こちらを気遣ってくれて、物語に携わる全員に敬意と愛を持っている人。そんな敦子さんだけど、私の知らないところで、「底なし沼のような苦悩と、ほんのぽっちりでも確かに輝く北極星のような希望」を私と同じように味わっていたのかもしれない。あのレディの優しさは、不器用な子どもの心を忘れていないからこそだ。フィービー役にいつも滲む不思議な悲しみを私は愛していた。敦子さんはどんな役にもいつも陰影を吹き込んでいた。
 そして三年前、この解説を書かれた山本文緒さんも他界された。
 田中敦子さん、ご冥福心よりお祈り申し上げます。

 

次回の更新予定は10月20日(日)です。

題字・イラスト:朝野ペコ

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プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)

ゆずき・あさこ 1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』『オール・ノット』、初の児童書『マリはすてきじゃない魔女』(エトセトラブックス)など著書多数。最新刊『あいにくあんたのためじゃない』(新潮社)が発売中。

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