見出し画像

戒厳令を前に取り残された在留邦人。迫る期限に切り出すべき選択は――『総理になった男』中山七里/第20回

「もしあなたが、突然総理になったら……」
 そんなシミュレーションをもとにわかりやすく、面白く、そして熱く政治を描いた中山七里さんの人気小説『総理にされた男』待望の続編!
 ある日、現職の総理大臣の替え玉にさせられた、政治に無頓着な売れない舞台役者・加納慎策は、政界の常識にとらわれず純粋な思いと言動で国内外の難局を切り抜けてきた。いよいよ中国が台湾への軍事行動に移ることが現実味を帯び、台湾は戒厳令を出すことに。各国が現地から自国民たちを避難させるなか、国外退避できない在留邦人の存在が明らかになり――
 *第1回から読む方はこちらです。


「救出できない者がいるとは、どういうことですか」
 慎策が問い質すと、野平外務大臣は額の汗を拭いながら答えた。
「今回の騒乱で重傷を負った者と以前から入院していた者、合わせて十二名です。台北駐日経済文化代表処から名簿とともに報告が上がりました」
 同席していた風間が腰を浮かせた。
「その名簿、今お持ちですか」
「これです」
 半ば奪うようにして名簿を受け取った風間は素早く一覧に目を走らせる。
「この名簿にある〈檜山慧〉という学生ですが、命に別条なかったはずじゃないんですか」
「留学生の檜山さんですね。ええ、確かに命に別条はないのですが、病院で治療を受けた時点で全治二週間の大怪我でした。担当医師からは、今動かす訳にはいかない、飛行機での輸送などもってのほかと警告されたそうです」
「そうですか」
 風間は唇を嚙む。風間の気持ちが少しは理解できる慎策は、更に気が重たくなる。
 檜山という学生も含め、現地にはまだ十二名の日本人が残されている。彼らの身の安全を保障できないのが悔やまれる。慎策は自らを慰める意味も含めて風間を励ます。
「大丈夫だ、風間。もし中国軍が台湾に侵攻したとしても、まさか医療機関を攻撃するような真似はしないだろう」
 風間の返事はにべもなかった。
「天安門事件以来、俺はあの国を信用していない」
 反論する余地はない。天安門事件に限らず、中国政府にはチベットや南モンゴル、ウイグルなどの少数民族を弾圧している前科がある。元より国際社会の倫理観を逸脱している政府に、弱者保護の精神を期待するのは間違っているかもしれない。慎策の横に座っていた大隈も、敢えて口を差し挟もうとはしなかった。
 大隈の根回しもあり、自衛隊機による在留邦人の輸送については事後承認というかたちで閣僚たちは納得してくれた。台湾では邦人の救出作業がひと通り済んだ直後に戒厳令が敷かれたので、結果的に慎策の独断は正しかったと称賛されたが、現地に残してきた十二名の不安を思うと手放しで喜べない。
 仮に在留邦人を全員救い出せたとしても、今後の展開を考えれば、やはり安心できない。中国軍が更に一歩踏み出せば、間違いなくアメリカ政府も動き出す。その時こそ日本政府は旗色を鮮明にしなければならない。
 慎策の懸念は、その日の午後に現実のものとなった。急遽、駐日アメリカ大使のラーマ氏が面会を求めてきたのだ。
「賢明な総理のことですから、今日のわたしの訪問の目的もご承知でしょう」
 物腰は柔らかだが、目つきには有無を言わせぬ威迫がある。このタイミングでの訪問なら目的は一つしかない。
「台湾有事が現実となった今、台湾関係法(一九七九年に制定された、台湾を防衛するための軍事行動という選択肢を合衆国大統領に認めるもの)によってアメリカは軍事力を行使せざるを得ない局面が予想されます」
 慎策も単刀直入は嫌いではないが、今回だけは遠慮したかった。
 風間にレクチャーしてもらった限りでは、元々アメリカは台湾海峡の一方的な現状変更を望まないという立場だった。平たく言えば台湾の独立自体にはさほどの熱意もなく、中国による台湾統一も台湾の独立も支持していなかった。だが米中の対立が際立つようになると、緩衝地帯としての台湾の存在価値を無視できなくなったという経緯がある。
「我が国の海軍はインド洋に展開させていた空母一個群を台湾海峡に向けさせました」
 アメリカ海軍の動きは既に本多から報告を受けていた。在日米軍司令官は統合幕僚長と会合し、人民解放軍が台湾に侵攻するシナリオを数パターン想定してみせたらしい。
「ついては在日米軍基地の使用を事前に許可してほしいのです」
 ラーマ大使を介してアメリカ大統領が要求してくるのは織り込み済みだった。だが、この場で応諾した瞬間から日本は対中国戦に名乗りを上げることになる。
 慎策は口から心臓が出るような緊張感と闘いながら慎重に言葉を選ぶ。
「台湾有事の危険性とアメリカの立場は理解しています。しかし我が国は台湾と友好関係を維持している一方で、中国との関係をこれ以上悪化させたくないのです」
「失礼ですが、真垣総理。大統領は日本の立場ではなく、方向性を知りたがっています。つまり『Show the flag』です」
 Show the flag(お前の旗を見せろ)。アメリカを襲った同時多発テロの直後に、アメリカ国務副長官が日本の駐米大使に放ったとされる言葉だ。
 アメリカ大統領が欲しているのは『星条旗』、つまり日本もアメリカの旗を掲げているという回答だろう。そう答えるのは簡単だ。実際、歴代の総理のほとんどは星条旗の方角に視線を向けていたらしい。日米安保を堅持したい国民党の党首なら当然だ。
 だが影武者である自分に柵はない。国民のため、国のためになるのなら良し、逆に障害となるものならいつでも手放すことができる。
「ラーマ大使。日本は自由社会の一員ではありますが、どこかの属国でもありません」
 努めて平静に話しているが、ラーマには喧嘩腰のように聞こえるかもしれない。だが、ここで引く訳にはいかない。
「わたしには自国民を戦禍に巻き込まない責任があります」
「国際社会に貢献し、紛争を収めるために尽力する責任もあるのではありませんか」
 婉曲えんきょく的だが、分かりやすい恫喝だ。ラーマはただ大統領の意向を代弁しているだけなのだろうが、この物言いはずいぶんと本人の印象を悪くしている。
「大使に言われるまでもありません。しかし米軍基地の使用については即答を控えさせてください」
「総理、あなたの判断の遅れは中国を利することになる。中国が利すれば、その分自由社会の民が被害を受ける結果になる」
「時期が到来すれば、すぐに回答します。それまでお待ちください」
「その刻は、もう目の前に迫っているのですがね」
 退席する前、ラーマは捨て台詞を忘れなかった。
 しばらくしてから風間に会談の内容を伝えると、彼はひどく慌てた様子だった。
「お前が大使に告げた言葉は、アメリカ大統領の耳に届く過程で罵倒に変化するかもしれんぞ」
「まさか。ラーマ大使にそんな悪意はないだろう」
「大使に悪意がなくても、現況でその発言は新安保法制を覆す意図と邪推されかねん」
「邪推されても構わない」
「何だって」
「大使と話していて実感した。アメリカは台湾の独立なんてどうでもいい。要は覇権争いで中国の出鼻をくじこうとしているだけだ」
「今更そんなことを」
「今だから、なんだ」
 思わず声が大きくなった。
「総理の代役を始めてから何度も思った。この国は終戦後もアメリカの植民地になっている。植民地が言い過ぎなら属国でもいい。絶えずアメリカの顔色を窺っている。そんな国が独立国と言えるのか。今回、台湾有事で思った。台湾の立場は日本と似ている。迫っているのが軍事力かそれ以外かの違いでしかない」
「プライドに目覚めでもしたか。で、思春期のガキみたいに反抗したくなったってか」
「違う。こんなことが起きなきゃ、枠組みを変えるチャンスなんて巡ってこないと思ったんだ」
「何か具体的なアイデアでもあると言うのか」
 途端に慎策は言葉に詰まる。
「ほら見ろ。感情と勢いだけで喋りやがって」
「感情で喋ったのは認める。しかし、いつかは誰かが表明しなきゃならないことだ」
「そのツケを誰が払うと思っている。お前じゃない。迷惑は国民全員にかかってくるんだぞ」
 今度は言い返すこともできない。
 やはり自分は軽率な人間だ。当たり前だが総理の器ではない。猛烈な自己嫌悪に陥りかけた時、阿部があまり嬉しくないタイミングで執務室に入ってきた。
「総理、大変です」
 人民解放軍の演習以上に大変なことがあるのか。
金門島きんもんとうで通信施設が爆破されました。台湾総統府と中国外交部は相手の仕業だと互いに非難し合っています」
 報告の内容は最悪だった。

 金門島は台湾海峡に浮かぶ台湾の実効支配下にある島だが、中国本土の目と鼻の先に位置しており福建ふっけん厦門シャメン(アモイ)とはフェリーで三十分の距離だ。
 現在では観光地化しているが、国共内戦時には大量の砲弾が雨嵐と降り注ぐ最前線だった。アメリカが介入したために中国共産党は武力による制圧を断念したものの、その二十一年後に米中の国交が正常化するまで形式的な砲撃が続けられたといういわくつきの島だ。
 その金門島が再び戦火に巻き込まれたのは歴史の皮肉としか言いようがない。爆破されたのは軍司令部に隣接した通信施設で、台湾本土との通信拠点でもある。台湾総統府は直ちに声明を発表した。
『かかる通信施設の爆破は台湾海峡付近の演習に続く、中国による侵攻作戦の第二段階である。現実に台湾領の施設を攻撃したことによって、事態は戦闘状態に達した。台湾総統府は第三国を通じて国連安保理の緊急会合を求める』
 無論、中国政府も黙ってはいない。
『金門島での爆破事件は分裂派による自作自演であり茶番である。中国政府はこのフェイクニュースを決して許さない。我々を愚弄した者は必ずその報いを受けるだろう』
 コメントは想定の範囲を超えないものだったが、次に中国政府が取った行動こそ予想外だった。何と中国に在住する台湾国籍の市民を片っ端から逮捕、身柄を拘留したのだ。容疑は全て「反スパイ法」で、旧法と比べてスパイ行為の定義が拡大されているため、現地の民間駐在員からは「政府批判の微博ウェイボーをチラ見しただけで逮捕される」と悪評たらたらの代物だった。
 無論、無辜むこの市民を何千人逮捕しようと治安に大きな変化があるはずもなく、全ては台湾に対する挑発行為でしかない。中国政府も第三国から挑発行為と見られるのを承知の上でやっている。
 この挑発行為に、台湾総統府はあくまで言論で応酬した。相手の挑発に乗って金門島の軍隊を動かしたが最後、勝算のない戦闘に吞み込まれるのが分かっているからだ。
 だが台湾総統府の粘りも空しく、遂にさいは投げられた。
十月三日午後九時七分、人民解放軍合成旅団が金門島に上陸したのだ。

「総理、もう腹を決めるしかない」
 閣僚会議を前に集まった三人の中で、最初に口火を切ったのは風間だった。
「台湾が実効支配している島に中国の軍隊が侵攻した。金門島が戦火に焼かれるのは時間の問題だ。日本としては即刻、在日米軍基地の使用を許可せざるを得ない」
 慎策に告げた後、風間は大隈に視線を移す。
「官房長官も異存はありませんよね」
「異存はある」
 大隈は悩ましげにゆるゆると首を振る。
「この期に及んでもですか」
「国の命運を左右する刻だからこそ浅慮は禁物だと言うのだ。基地の使用を許可した時点で日本はアメリカとともに中国の敵国に認定される。基地の使用を許可しなければ新安保法制の枠組みは崩れ、日本は国難に遭ってもアメリカの支援を期待できなくなる。アメリカにつくか中国につくか、真垣内閣はかつてないほど重大な選択を迫られている。拙速は国を滅ぼしかねん」
「台湾にはまだ十二名の邦人が残されています。彼らの身の安全を考えるなら米軍による牽制が必要不可欠です」
「十二名か」
 さすがに大隈は言葉を濁したが言わんとすることは慎策にも分かる。日本の全国民と脱出し損ねた十二名を秤にかけろというのだ。
 風間は顔色を変えたが、数の論理は強大だ。十二名の人質のために全国民を危険に晒すのは、政治的に正しい選択ではない。
「ええ、たった十二名です。自由な国、進境著しい国と信じて台湾に渡った十二名です」
 そう告げるのがやっとの様子だった。
 今も尚、ベッドの上で軍靴の音に怯えている同胞たちがいる。彼らの身上を思うと、慎策は胸が張り裂けそうになる。天性の演技力と勢いだけで務めてきた影武者だが、長らく演じ続けているうちに宰相としての自覚が芽生えたらしい。
 売れない劇団俳優が国民の心配をするなど滑稽でしかない。
 だが、滑稽で何が悪い。
たとえ悪い冗談であろうが、自分は為政者の椅子に座り、国民を救う権利を手にしている。そうだ、権力とは人を救うために行使されるべきものなのだ。
その権力を自分は行使できないでいる。最高決定権を持つ男が、たった十二名の同胞も救えないでいる。そちらの方がよほど滑稽ではないか。
「大隈官房長官、それに風間参与」
 慎策は改まった口調で言う。
「少しの間、一人で考えたいのです。申し訳ありませんが閣議を一時間ほど遅らせてもらえませんか」
 大隈は風間と無言で視線を交わす。
「承知した。閣僚たちにはわしから伝えておく。出ようか、風間先生」
 二人が退出した後、慎策は椅子に深く身を沈めて黙考する。
 在日米軍基地の使用を許可すれば、間違いなく中国政府は日本を敵国に認定する。台湾有事がどのようなかたちで終息しようとも、次なる標的にされるのは必至だろう。しかし基地の使用を許可しなければ米軍は想定していたオペレーションが実行できず、十二名の在留邦人は命の危険に晒される。あまりに苛酷な二者択一だ。
 本当の真垣統一郎であれば迷うことなく選択できるのだろうが、悲しいかな慎策には踏ん切りがつかない。全国民も十二名の命も救いたいと欲張ってしまう。
 いや、違う。自分は責任の重さに怯えているだけの意気地なしに過ぎないのだ。
 自己嫌悪に押し潰されそうになった時、ポケットの中でスマートフォンが着信を告げた。
 珠緒からだった。
『元気だった?』
 久しぶりで聞く声に、張り詰めていた心がふっと弛緩する。
「相変わらずだよ。急にどうした」
『ちょっと心配になって。今、台湾が大変じゃない』
 ああ、大変だよ。お蔭で碌に飯も喉を通らない。
「心配要らない。海の向こうの話だから日本にはあまり影響がない」
『いくら海で隔てていても、すぐ近くなのよ。影響ないはずがないじゃない』
「同じ東アジアの国だから、全く影響がないと言えば噓になる」
『困ってるの』
「大物が相手だと気後れする。昔っからだ」
 束の間の沈黙があった。
『そういえばさ、慎ちゃん昔にも目上の人間相手に奮闘したことがあったよね。ほら、女優さんが劇団を抜けるとか抜けないとかで揉めたでしょ』
 唐突に言われて思い出す。所属していた劇団の看板女優がテレビ局のディレクターから声を掛けられてデビューしようという時、主宰が恐喝まがいの引き留め工作を図ったのだ。
 お前の力でテレビドラマの役が務まるはずがない。どうしても劇団を抜けると言うのなら、お前の怠惰でただれた私生活を全部ネットに上げてやる。
 この時、慎策は義憤に駆られて主宰に盾突いた。才能ある者がくだらない柵で束縛されるのが堪らなく嫌だったからだ。しかしさっぱり芽の出ない劇団員一人が気張ったところで何の力もない。
 そこで慎策は考えついた。
 そうだ、あの手があった。
「ありがとうな、珠緒」
『何が』
「一つだけ方法があった。やっぱりファースト・レディになってくれないか」
『山場を無事に乗り切ったら考えてみる』
 珠緒との会話を打ち切ると、慎策はすぐに野平外務大臣を呼んだ。現実主義の大隈に伝えれば怒られるどころか笑われそうな手段だが、今自分が実行できる方策はこれしかなかった。

 四日、午後三時。慎策は官邸の一階で鄧中国大使を迎えた。
「おはようございます、真垣総理。お招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ、急にお呼び立てして申し訳ありません」
「ご用向きは、きっと金門島関連なのでしょうね」
 ご丁寧に相手から探りを入れてくれたので手間が省ける。
「ええ。台北駐日経済文化代表処の黄代表もお呼びしています」
「ははあ、中台の仲介をされるおつもりですか。では前もって申し上げておきますが、この件に関して中国は一歩も譲る気はありません。台北騒乱を含め、全てのトラブルの原因は向こう側にあるのですから」
「それも含めての会合です」
 慎策は自ら鄧を四階の特別応接室に誘う。主に首脳会談を開くための場所であり、その奥には会議室がある。
「わたしと黄代表の交渉に、ずいぶんと大きそうな会議室を用意されたのですね」
 鄧は満更でもない様子で、いそいそと会議室に向かっていく。
 そして中に足を踏み入れた瞬間に顔色を一変させた。
 会議室の中央には直径二メートル半の円卓が鎮座しているが、その周囲に十人の男女が先着していたからだ。
 台湾からは黄代表、他にミャンマー、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイ、インドネシア、韓国、ネパール、インドの各国駐日大使がずらりと顔を揃えている。円卓から離れた場所では大隈と風間に加えて野平が横並びで座る。
 ようやく己が孤立無援の中に立たされたことを察したらしく、鄧はわなにかかった動物の目をしていた。
「真垣総理、どういうことですか。これはわたしと黄代表の交渉の場だったのではないですか」
「交渉の場であるのは確かですが、中台二国間に限定するとはひと言も言ってませんよ。ここにお招きしたのは中国の周辺にあり、今回の事変について大いなる危機感を抱いている国々の代表たちです」
 意図的に省略した説明だった。集められた代表たちの国は各々の事情で中国の侵攻に嫌悪感を隠さない国ばかりなのだ。
 フィリピンとマレーシアとブルネイは南シナ海の領有権を巡って中国と対立している。ミャンマーは中国が軍と武装勢力の仲介に入ったものの、自国の国益を優先させていることで不信感を抱いている。ベトナムは中越戦争以来、中国の拡張主義を警戒している。インドネシアは親中であるものの、中国の武力による威嚇や一方的な現状変更には難色を示している。韓国は「安米経中(安全保障はアメリカ、経済は中国に依存する)」を続けていたが、THAAD(高高度迎撃ミサイルシステム)配備をきっかけに中国との関係が悪化し、「経中」からの脱却を図っている。ネパールは中国への不信感から「一帯一路」方策が頓挫している。そしてインドは実効支配している北東部アルナチャルプラデシュ州を巡って中国と国境紛争の最中にある。
 意図的なことはもう一つある。タイやカンボジア、シンガポールといった中国と協調姿勢にある国の大使は呼んでいない。言ってみれば、ここに集った大使の国は中国包囲網を形成する国々と言える。
「まるで多勢に無勢ではありませんか、一国の大使に対し、これはいささか卑怯な振る舞いではありませんか」
 慎策を含めた十一人に囲まれて、鄧は警戒の色も露わに抗議する。
「あなたの国は軍事力は世界第三位、も経済力は世界第二位です。我々が束になっても対抗し得るかどうか」
「言い訳がましいですな」
「否定はしません。言い訳ついでに申し上げれば、あなたの国がこれほどまでに強圧的でなければ、この大使たちはわたしの呼びかけに応じなかったでしょう」
 何人かの大使が我が意を得たりとばかりに頷く。
「率直に申し上げましょう。金門島に展開している人民解放軍合成旅団を引き揚げさせてください」
 鄧の返事が一拍遅れる。
「一方的に過ぎますな。我が国と国家主席がそんな要求を吞むと思いますか」
「要求ではなく希望と捉えていただきたい。わたしたちは是が非でも台湾海峡での紛争を回避したい。そのためには数に頼りもするし、深謀遠慮もします」
「軍隊を引き揚げて我々にどんなメリットがありますか」
「交換条件として、ここに集った十一か国は中国に対して一切の経済制裁を行使しないことを約束します」
「我が国の統一推進方針とはまるで釣り合いません」
「では鄧大使。わたしたち十一か国は人民解放軍と軍事力をもって対峙せざるを得なくなる」
 鄧は表情を凝固させる。どうやら慎策の真意を汲み取ったらしい。
 アジア圏の十一か国が団結して人民解放軍と敵対した場合、親中派のタイやカンボジア、シンガポールが中国に追随することは容易に予想できる。だがアジア圏の安定と中国の覇権阻止を念頭に置くアメリカとオーストラリアが必ず参戦する。仇敵のロシアはウクライナとの交戦で疲弊しており、到底太平洋に出兵する余力はない。親中の北朝鮮も韓国と対峙することになり、おいそれと海に出られない。事実上、中国はアメリカとアジア圏の連合軍と対決することになる。アジア圏には軍事力第四位のインドと第八位の日本が含まれていることから、中国側は圧倒的に不利だ。
 数の論理は単純で明快だ。だからこそ鄧は顔色を失くしているのだ。十名の大使たちは射殺すような視線を浴びせて、鄧を威圧していた。
 かつて劇団の揉め事が起きた際、慎策は劇団員全員と共同戦線を張り、看板女優のデビュー認めなければ劇団を解散させると主宰に迫った。皆に追い詰められた主宰は承諾するより他なかったが、今回の中国包囲網はその応用だった。
 慎策はダメ押しの意図で鄧に畳み掛ける。
「鄧大使。確かに人民解放軍は強大な戦力です。しかし未だかつて実戦経験がない。いや、陸軍は中越戦争で実戦経験済みだがベトナム軍に対して撤退を余儀なくされている。素人考えですが、台湾海峡での戦闘は範囲が広大になるため、空軍と海軍が要になる。一度も他国と交戦していない空軍と海軍がです」
 いったん戦端が開きアメリカが参戦すれば、ともに実戦経験が豊富な空軍と海軍が人民解放軍を駆逐する。それに思い至らない鄧ではないはずだ。鄧は俯き加減になり、口を閉じてしまった。
 ここまで慎策は意図的にアメリカの名前を出していない。中国がアメリカと正面切って闘うのを回避したがっているのを明らかにしていない。中国はプライドを重んじる国柄だ。敢えて慎策がアメリカの参戦を口にしないのは、せめてもの配慮だった。アメリカ一国の脅威に怯えるよりは、数にあかせた連合軍に敗北したという体裁の方が外聞がいい。
 慎策がどうやって鄧を説得するかは、他の大使にも説明済みだ。当方の気遣いは鄧に届くのか否か。
 円卓を囲む大使たちが固唾を飲んで見守る中、ようやく鄧が顔を上げた。
「日本というのは、もっと礼節を知る国だと思っていました」
「ご期待に添えず残念です」
「この場で交わされた内容は一言一句、主席に伝えますから」
「そうしてください」
 強張った表情のまま鄧が退出すると、まずインド大使が席を立ち慎策に握手を求めてきた。
「ここ数年で、最も爽快な瞬間の一つでした」
 続いてインドネシア、次いでフィリピンと、残りの大使たちも手を差し出してくる。慎策は低頭と握手を繰り返して大忙しだった。
 やがて大使たち全員が野平の先導で会議室を出ていくと、大隈が歩み寄ってきた。
「なかなかだった」
 ぽんと慎策の肩を叩いて大隈も外に出ていった。その後ろ姿を見送る風間がぽつりと洩らした。
「何とか及第点だそうだ」

 各国大使の会合が終わって五時間後、人民解放軍合成旅団は金門島から撤退した。事前に外交部報道官からは『国民の安全が確認されたため、無益な戦闘を回避した』との声明がなされた。
 慎策は人民解放軍撤退の知らせを風間から聞かされた。夜の静けさが執務室にまで忍び寄る。だが、それは安堵による静けさだつた。
「一度しか言わんから、よく聞け、加納。鄧大使との交渉、見事だった。大隈官房長官は及第点という評価だったが、俺は『優』をくれてやる」
「俺なりに腹を括ったんだ。『優』くらいもらわなけりゃ死にたくなる」
「お前が腹を括ったのなら、俺もそうしないとな」
「どういう意味だ」
「お前は所詮、偽者だ。これまでは勢いとクソ度胸で乗り越えられてきたとしても、いつか馬脚を露すだろう。そうなる前にフェイドアウトさせようと画策していた。だが、それも今日までだ。ここからはお前が長期政権を担えるように知恵を絞る」
「手の平返しだな」
「そうさせたのはお前だ」
 風間は慎策の胸倉を軽く摑み上げた。
「当初は俺や樽見さんの助言で総理として振る舞っていた。しかし今日のお前は、自分の考えだけで台湾有事を見事に収めた。それは誇っていい」
 しかし、これですべてが解決したわkではない。最悪の事態が回避できただけで、中台の間に横たわる独立問題は未だ解決する気配がない。
「少し褒めすぎだ」
「加えてもう一つ。お前の考えでは即席だったかもしれないが、アジア諸国の団結で中国の覇権に対抗できたことには大きな意味がある。分かるか」
「さあ」
「米中対立とは別に、アジア圏の新しい枠組みができたという事実だ。大東亜共栄圏なんてカビの生えたような構想じゃない。一朝事あれば、アジアの国々が手を取り合って平和的に立ち向かうという新しい枠組みだ」
「それは少し盛り過ぎじゃないのか」
「成功体験は自信に直結する。会合に参加した国々は決して忘れないだろう」
 風間は慎策の胸倉を離すと、踵を返した。
「今日は疲れた。総理のお前はもっとだろう。ゆっくり休め」
 ゆっくりドアが閉まると、慎策は一人になった。
 風間から称えられたのは素直に喜べたが、これからも自分を支えてくれると言ってくれたことの方が数段嬉しかった。
 所詮、自分は真垣統一郎の偽者だ。それは間違いない。いつかは馬脚を露し、全国民から石を投げられ唾を吐かれて蔑まれるかもしれない。
 だが、それがどうした。
 元より他人から尊敬されようとは思わなかった。感謝されようとも思わなかった。自分の手で一人でも多くの国民が不安や不満から解放されれば、それだけで有意義ではないか。本物の国会議員でも、任期を終えて選挙に負ければ一般市民に戻っていく。それと一緒だ。
 権力には固執するまい。
 自分ならできるであろうことを愚直に進めていこう。それで政治生命を終えたとしても、国民のためにしたのなら本望だ。
 肩が軽くなったような気がした。慎策はスマートフォンを取り出して、珠緒の番号を呼び出す。
『慎ちゃん』
「取りあえず山場は乗り越えた」
『知ってる。さっきニュースで見た』
「プロポーズの答えが聞きたい」
 電話の向こう側で沈黙が流れる。
 やはり駄目かと諦めた時、彼女の声が返ってきた。
『よろしくね。総理』

第19回に戻る

「本がひらく」での同名連載を加筆・修正した、中山七里さん最新刊『彷徨う者たち』が好評発売中です。映画化された『護られなかった者たちへ」や、『境界線』に続く「宮城県警シリーズ」最新作にして三部作の完結編。シリーズ累計50万部突破の社会派ヒューマンミステリーの金字塔にして、著者渾身の最新作、どうぞ宜しくお願いいたします!

プロフィール
中山七里
(なかやま・しちり)
1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「子のミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』(以上、NHK出版)、『絡新婦の糸―警視庁サイバー犯罪対策課―』(新潮社)、『こちら空港警察』(KADOKAWA)、『いまこそガーシュイン』(宝島社)、『能面刑事の死闘』(光文社)、『殺戮の狂詩曲』(講談社)ほか多数。

関連書籍

※「本がひらく」公式Twitterでは更新情報などを随時発信しています。ぜひこちらもチェックしてみてください!

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!