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【連載】南沢奈央「女優そっくり」第5回

芸能界随一の読書家・南沢奈央さんによる、「私小説風エッセイ」。かくも不思議な俳優業、どこまでが真実でどこからが虚構か。毎月1日更新予定。
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見返してやる。続けてやる

 「ターニングポイントになった仕事はなんですか?」
 取材でよく聞かれる質問なのだが、答えるのが難しい。振り返ってみれば、意識が変化したのはあの頃かもしれない、などと思いあたる仕事はあるが、デビューしてしばらくは振り返る余裕もなく、前だけを見て仕事をしていた。質問されて初めて振り返ることになるから、答えるのに時間がかかってしまう。しかも、「ありますか?」ではなく「なんですか?」という、ターニングポイントがあるという前提での質問だから、何かを探さなければと記憶を辿る。
 ちゃんと考えていくと、すべての仕事で何かしらの変化が起きているから、すべてがターニングポイントとも言える。だけどそのなかで言語化できるものは――と最初に思い至ったのは、映画『象の背中』だった。
 秋元康さんの小説を原作に、井坂聡監督、役所広司さんと、20年ぶりの映画出演だった今井美樹さん主演で作られた作品だ。2007年10月に公開された、私の初出演映画となる。
 これは、妻と2人の子供と幸せに暮らしていた48歳の主人公が、末期の肺がんで余命半年を宣告され、延命治療ではなく「死ぬまで生きる」ことを選択して、残された時間をどう過ごすか――という物語だ。自分の最期を悟ったとき、果たして自分だったらどのように過ごすのだろうかと、当時高校生ながらに考えさせられた。
 もう一つ考えさせられた……というよりも、人知れず思い悩んでしまったのが、自分の父親にも愛人がいるのではないだろうか、ということ。私の役どころは役所さん演じる主人公の娘だったのだが、映画のなかで、余命を宣告されたときに、妻や娘には伝えずに、愛人に会って話し、弱音を吐く場面があったのだ。
 娘という目線で見たときに、この台本は衝撃だった。父親に愛人がいる上に、入ったホスピスにまで愛人を呼び、そこで母が鉢合わせてしまう。しかも死んだら、愛人にも分骨してほしいと頼む。家族を大切にしてくれているとはいえ、死を目の前にしてもなお、愛人も大事にする父親の考えは理解しがたいものがあった。実際、賛否両論ある作品だったようだ。特に男性は共感する人も多かったという評判まで耳にして、自分の父親にも愛人がいたらどうしようと、すごく悩んでしまったのだった。
 このように実生活の方でも心揺さぶられた作品でもあり印象に残ってはいるのだが、これがどうしてターニングポイントとして浮かんだかというと、“役づくり”というものを初めてちゃんと目の当たりにしたからだと思う。
 役所広司さんは、順風満帆に人生を送っていた頃から、余命を宣告され死に至るまでを演じる。ほとんど、台本の流れに近いような順で撮影が進む「順撮り」だったので、現場でお会いするたびに役所さんの様子が明らかに変わっていき、凄まじかった。徐々に顔がやつれ、身体が細くなって、生気がなくなっていく。その変化を近くで見ていると、ほんとうに死が近づいているのだと実感せずにはいられないのだった。
 そのように共演者やスタッフさんに感じさせるほどのリアリティや気迫、凄みを、役づくりとして体現されていたのを、娘役という近い立場で見せてもらったことが、すごいインパクトだったのだ。いまだに“役づくり”をどのようにしていけばいいのかは、毎回悩むのだが、命を削って全身全霊で役に臨みたい、という根底にある思いはきっと、『象の背中』での役所さんの姿からきている。
 劇中で撮影した、役所さん、妻を演じた今井さん、長男役の塩谷瞬さんとの家族写真は、額縁に入れて今でも大切に保管してあり、見るたびに役者として背筋が伸びる。初めて出演した映画でこんな経験ができたのは幸せ者だ。
 ここまで『象の背中』を“初出演映画”として語ってきたが、実はこれが初めての映画の現場ではなかった。これより以前に撮影していた映画がある。それが2008年5月公開の『山桜』だ。
 『象の背中』の会見や取材で、「初めての映画ですね」とよくコメントを求められたが、その前に撮影していた『山桜』があったので、「いや……公開はこちらが先だけど、実際撮影自体はその前に他の映画があって……」と、もごもごとしてしまっていた。
 初めての映画の現場だった『山桜』は、藤沢周平の短編小説を原作とした時代劇だ。篠原哲雄監督のもと、田中麗奈さん、東山紀之さん主演で作られた。私にとっての初映画であり、初時代劇だ。
 この作品では、撮影に入る前に何度かスタジオを訪れた。テレビドラマで撮影前に行うものとしては、本読み、局によってはリハーサルくらいなので、映画の現場ではクランクインする前にカメラの前に立つこともあることを初めて知った。これを「カメラテスト」という。芝居のリハーサルではなく、単純にカメラ映りを確認するものだ。顔の色味や、さまざまな表情、角度を見て、実際の撮影でどのように画角に収めるかの参考にするのだ。カメラ前に立つこと自体、慣れていなかった私としては、監督やカメラマンと事前に顔を合わせ、予行演習のようなことをさせてもらえたのは有難かった。
 他には、所作稽古も行った。時代劇では大抵所作指導の方が入っていて、撮影中だけではなく、時代劇に慣れていない役者に対して事前に稽古をつけてくださる。それは撮影シーンに基づいたものというより、着物を着た状態での畳の歩き方や座り方、立ち上がり方、立ち方、さらには着物の捌き方など、美しく見える基礎を教えてもらうのだ。
 おそらく七五三以外で着物を着たことがなかった私は、終日着物を着て過ごすだけでもハードだった。帯できつく締められているためご飯も食べられず、帯の結びが潰れてしまわないように、背もたれによりかかることもできない。また時代劇のカツラはなかなかに重量があり、こちらも崩れないように気を遣い、首と肩がとにかく凝る。空き時間に横になることももちろんできない。
 こんな状態のなかでの初めての映画の現場で、緊張は何倍にもなり、とにかく芝居も硬かった。「力を抜いて」と監督に声をかけられるが、ちょっと緩めると所作が疎かになってしまうので、結局着物を着たロボットのようになってしまった。
 同じく初時代劇だったはずの田中麗奈さんだが、私は妹役として一緒にお芝居をして、あまりの自然な可憐さに見とれてしまった。山桜を活ける姿もとても美しく、印象に残っている。日本人としての心をもって、こんなふうに演じられるようになりたいと思ったのだった。
 このように、私にとっては初めての二本の映画はどちらもターニングポイントとなっている。だが、役者の先輩方の背中に憧れた二作品とはまた異なる角度で刺激になった映画がある。映画三作品目の大野伸介監督、遠藤雄弥さん主演『シャカリキ!』だ。
 こちらは『山桜』と同年9月に公開された。作品のテイストもこれまでのものとは打って変わって、瑞々しい青春もの。高校の自転車部がレースに挑む姿を描く。私の役は、青春の象徴、マネージャー・永田桜である。初めてのヒロインの役どころだ。男子部員たちを叱咤激励していく。
 支え、時に背中を押し、時に引っ張っていく。そんなエネルギーのある人物にならなければならないというのに、私は監督から何度も「声が小さい」と指摘された。
 大きな声が出ないことは、その頃のコンプレックスだった。恥ずかしさからなのか、自信のなさのせいか、とにかく殻を破ることができなかった。芝居もまだうまくないし、がむしゃらにやることだけが取り柄のはずなのに、声が出ない。わかっている、でも……。
 そんなふうに悩んでいようが撮影は進む。撮影も終盤、この映画の見どころになるようなシーンを迎えた。レースの佳境、苦しそうな主人公テルに向かって、見守る桜がさけぶ。
 「シャカリキにならんかーい!!!」
 応援し、テルを奮い立たせる。同時に、桜自身のテルを信じる気持ち、祈りに近い感情も乗せて。映画のタイトルにもなっている「シャカリキ」という言葉を使う、重要な台詞である。
 この一言だけで、何テイク重ねただろうか。
 そのときの全力を出していたつもりではあったが、監督からは「もっと、もっと」というリクエストが続いた。初めは、声量をもっとだった。これまでの撮影で何度も言われてきたことだ。ここでクリアしなくてはと、声を大きくすることだけに意識が囚われる。すると感情の方が疎かになり、気持ちをもっと大切にしてと言われ、初心に返る。そうなると、声が小さくなってしまい注意され、声を意識すると気持ちが疎かになり注意され……という繰り返し。
 そうなるともはや、どこを目指せばいいのか、正解はなんなのかがわからなくなってきて、軽いパニックになる。そんな状態では、やればやるほど良くない方向に陥っていく一方だった。監督から最終的にOKが出たときには、「最初のテイクを使う」と言われた。
 それでも監督が、クランクアップしたときに、「また一緒にやれるといいね」と声をかけてくれたのはとても有難かった。
 またどこかの現場でご一緒できるように頑張ります。監督はもちろんのこと、現場のスタッフさんに挨拶して回り、感謝を伝えた。頑張ってねとか、またどこかでとか、あたたかく返してくれるなかで、一人の助監督だけは違った。
 女優の仕事、本当にこれからも続けていくつもり?
 ――そんなはずはないよね、という色が含まれているように感じた。実力の無さ、可能性の薄さといった現実を突き付ける。ある意味での優しさだったのかもしれない。
 でも私はその真っすぐな言葉に動揺してしまい、すぐにトイレに駆け込み、泣いた。
 落ち込んで、悲しかったのか。いや、そうではない。とてもとても悔しかったのだ。
 勉強も運動もある程度できてきた私が初めて味わった感覚だったかもしれない。できないことが、こんなにも悔しいのかと痛いくらいに感じた。
そして思ったのだ。誰かのように、じゃなくて、もっとうまくなりたい。
 見返してやる。続けてやる。
 「これからの目標は?」と、これも取材でよく聞かれる質問の一つだが、今私はこう答えている。
 「長く、続けていくことです」
 自分でははっきりと気づいてはいなかったが、たしかにこのときに芽生えていたのだと思う。


プロフィール
南沢奈央

俳優。1990年埼玉県生まれ。立教大学現代心理学部映像身体学科卒。2006年、スカウトをきっかけに連続ドラマで主演デビュー。2008年、連続ドラマ/映画『赤い糸』で主演。以降、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』など、現在に至るまで多くのドラマ作品に出演し、映画、舞台、ラジオ、CMと幅広く活動している。著書に『今日も寄席に行きたくなって』(新潮社)のほか、数々の書評を手がける。

タイトルデザイン:尾崎行欧デザイン事務所

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