古代史ファン必読! 実力派作家・周防柳による新連載「小説で読み解く古代史」第1回
「邪馬台国はどこか?」に代表されるように、日本の古代史はいまだ解明されない謎ばかり。そのため、吉川英治や松本清張をはじめ、たくさんの作家がインスピレーションを掻き立てられては物語を書き、あるいは持論を展開してきた。本連載では、日本史を舞台にした作品を多く手掛ける著者が、明治・大正・昭和の文豪から平成・令和の小説家まで、彼らが描いた「歴史的なあの場面」に焦点をあて、諸説を紹介しながら、自身もその事件の背景や人物像を考察していく。作家ならではの洞察力と想像力を駆使して謎に挑むスリリングな古代史企画。
謎1 卑弥呼と邪馬台国 (その1)
はじめに
歴史とは、なかなか手強いものです。一般にはA説が優勢だが、じつはB説が正しいかもしれない。C説、D説の可能性もある。教科書にはかくかくしかじかと書いてあるけれど、誰もがほんとかなあと首をかしげている……。そんなことがあっちにもこっちにもあります。
古い時代ほど史料が乏しいので、そのぶん、迷うことも多くなります。物証がないなら仮説で補うしかありません。その仮説を極限までふくらませ、模糊たる靄の底に沈んでいる風景をリアルに現出させたもの――が、小説です。
この連載では、そんな小説というものを通して、謎だらけの古代史を眺めてみようと思います。時代としては、二~三世紀の邪馬台国のころから、八世紀の平城京のころまでを考えています。
なぜそんな試みを? と、いぶかる向きもあるかもしれません。小説なんてしょせん絵空事ではないか。空想妄想の産物ではないか、と。
しかし、あえて小説から眺めたいのだ、と言いましょう。空想妄想の中から浮かびあがってくる真実のようなものもあるはずだからです。
小説はフィクションではありますが、かっこうの思考実験の場であり、その仮説が生身の人間の人生としてありうるかどうかを試す、よきシミュレーション装置だと私は考えています。
これは意外に侮れぬ物差しでありまして、あまりにトンデモな仮説だと、そもそも小説を作れません。裏を返せば、その小説が曲がりなりにも作品として成功しているならば、そこに描かれている仮説には一定以上の力がある、と言ってよいように思います。
じっさい、すぐれた小説ほど血のにじむような考証がなされているものです。軽妙洒脱なエンターテインメントにみえるものでも、裏側には凄まじい理論武装が張りめぐらされていたりする。
よくできた小説を読むと、なるほどこれが真相かもしれないという気持ちにさせられます。あるいは、ほんとだとは思わなくとも、上手に騙してくれてありがとう! と言いたくなります。
ときおり「おもしろければいい」という言い方がなされることがあります。私もそのとおりだと思います。けれども、それは「なにを言ってもよい」という意味ではなく、「そのおもしろさにはわけがある」という意味に使いたいと思います。
さて、前置きはこのくらいにして、この連載で取りあげる作品について、じゃっかん決めごとをしておきます。
一口に古代史ものといっても、正統派の大河ドラマのようなものから、ファンタジー、ライトノベルまで裾野は膨大です。あまりに風呂敷を広げると収拾がつかなくなるおそれがあります。よって、このたびは歴史の問題を強く意識している、中編以上の作品に絞りたいと考えます。新旧やジャンルにはこだわりません。趣旨が明らかならミステリーもOK、小説的な読み味を持っているならば、漫画も含めます。
学術論文とは違う意外な目のつけ所を教えてくれるのが小説です。みなさん自身が仮説を立てたり、シミュレーションしてみたりする、よききっかけとなりますように。
『魏志倭人伝』と邪馬台国
初めのテーマは邪馬台国と、その女王卑弥呼です。
そもそもわれわれがこの日本の黎明期に邪馬台国というクニが存在していたことを知ったのは、中国の歴史書である『魏志倭人伝』によっています。
『魏志倭人伝』とは、有名な『三国志』の一部で、正しくは、『三国志』のうちの「魏書」の「東夷伝」の「倭人」の条といいます。が、あまりにも長いので省略して『魏志倭人伝』と呼んでいるのです。
中国では王朝が交代すると、征服した王朝が前の王朝の事績をまとめるのがならわしですから、魏、呉、蜀の三国が滅んだあと、取って代わった西晋によって三世紀末ごろに編纂されました。撰者は文筆官僚の陳寿です。
卑弥呼が生きたのは二世紀後半から三世紀の前半にかけてで、『三国志』の時代とぴったり重なります。卑弥呼は三国のうち、洛陽に都を置く魏に朝貢の使者を送り、向こうからも答礼使がやってきて、海をまたいだ往来が数度にわたりました。このため、倭人(日本人)に関する情報があちらにかなり詳しく伝わったのです。
その『魏志倭人伝』に、邪馬台国はどのように記されているのでしょうか。これから紹介する小説すべてにかかわりますので、要約を先に記します。便宜的に、内容の順序は原典とは変えています。
・倭人は帯方郡(朝鮮半島の中西部に置かれた魏の直轄領)の東南の海の向こうに住んでいる。かつては百以上のクニがあり、漢(前王朝)に来朝する者もあった。
・卑弥呼の都のある邪馬台国(原典=邪馬壱[壹]国)までは、帯方郡から一万二千里余りである。
・卑弥呼は鬼道を巧みに扱い、人心収攬の術にたけている。かつては男の王が統治していたが、七、八十年ほども戦乱が続いた。そこで卑弥呼が女王として立つと平和が訪れた。目下は邪馬台国より北の三十ほどのクニがその傘下に集っている。
・卑弥呼は壮年にして夫がいない。弟がおり、卑弥呼の統治を手助けしている。卑弥呼の身のまわりには女ばかり千人も仕えていて、一人だけ居室に出入りできる男がいる。
・伊都国には対外交易のための施設(迎賓館のようなものか)が置かれている。その役人を一大率といい、強い権限を持っている。
・邪馬台国の南には狗奴国があり、卑弥呼と敵対関係にある。その王の名は卑弥弓呼(あるいは卑弥弓呼素)という。また、狗古智卑狗という名の部将がいる。
・景初二年(二三八年)、卑弥呼は難升米(もしくは、「なしめ」)、都市牛利らを使節として魏に派遣し、生口十人を捧げ、返礼として明帝から「親魏倭王」の金印、銅鏡百枚、錦、金、鉛丹などをもらった。正始四年(二四三)にも、卑弥呼は使者掖邪狗らを魏へ遣わした。
・正始八年(二四七)、不仲だった狗奴国との対立が激しくなったため、卑弥呼は帯方郡に窮状を訴えた。帯方郡からは張政らが詔書と黄幢(旗)をたずさえてやってきたが、その到着を待たず卑弥呼は死去した。
・卑弥呼の死後、径百余歩の大きな塚(墳墓)が作られ、百余人の奴婢が殉死した。その後、男王が位についたが、再び国が乱れたので、宗女である十三歳の台与(原典=壱[壹]与)が立つと収まった。
ざっと、以上のようなところです。
その他にも、衣食住の風俗や生活習慣などが微に入り細を穿って描かれています。
しかし、すべての記事が正しいわけではありません。むしろ、矛盾を含んだままいたずらに詳細に記されているため、われわれの悩みが増えているという恨みもあります。
その最たるものが邪馬台国の位置です。もっとも肝心のその点が判然としないため、いまに至るも解決のつかぬ論争となっているのです。
誤りは「方角」か、「距離」か
帯方郡から邪馬台国へのみちのりを、『魏志倭人伝』は次のように記しています。
帯方郡→(朝鮮半島の海岸沿いを水行し、韓土を南、あるいは東へ七千余里)→狗邪韓国→(海を千余里)→対馬国→(瀚海を南へ千余里)→一大国→(海を千余里)→末盧国→(東南へ陸行五百里)→伊都国→(東南へ百里)→奴国→(東へ百里)→不弥国→(南へ水行二十日)→投馬国→(南へ水行十日、陸行一月)→邪馬台国。
狗邪韓国とは朝鮮半島南端の、現在の釜山あたりで、金官伽耶ともいいました。一大国は現在の壱岐、末盧国は佐賀県の松浦半島、伊都国は福岡県の糸島半島、奴国は福岡県の博多付近、不弥国は博多の東方の糟屋郡宇美町あたり――と、そのあたりまでは、まあまあ意見が一致しているのですが、そこから先があやふやです。不弥国から南へ、南へ、水行二十日だの陸行一月だのしていたら、はるか南洋の琉球あたりに突き抜けてしまいます。
『魏志倭人伝』が注目されはじめた当初は、当然ながら、邪馬台国は大和朝廷の前身と考えられました。たとえば江戸時代の新井白石は投馬国を鞆(岡山県)か須磨(兵庫県)とみなし、瀬戸内海を何十日かかけて航海したと推測しました。となると、不弥国から先は「南」ではなく「東」でなくてはならず、『魏志倭人伝』は方角を間違っていることになります。
その後、邪馬台国は大和ではなく九州だとする意見が登場しました。最初に唱えたのは本居宣長です。この場合は方向よりも距離が問題で、宣長は「陸行一月」は「一日」の誤りだろうと主張しました。宣長は投馬は日向(宮崎県)の都萬、すなわち西都原のあたりと推定しました。
論争は明治以降、京大(畿内派)、東大(九州派)に分かれて争われるようになるのですが、画期となったのは、東大教授の榎一雄氏の解釈でした。榎氏はそれまで全行程が連続的に読まれていたのを見直し、交易施設のある伊都国を一つの到着点とし、それ以降は伊都国からの分岐と考えたのです。「放射式」といわれる読み方です。
加えて、榎氏は「水行十日、陸行一月」という文章を、「水行ならば十日、陸行ならば一月」という意味に解しました。これにより、邪馬台国は原文を変更せずにようやく九州内に収まることになりました。
九州説の中でも候補地として最有力視されたのは筑後国山門郡、つまり有明海に注ぐ筑後川の流域です。なぜならこの一帯は九州でもっとも広大肥沃な筑紫平野で、北に同盟諸国があり、南に敵対している狗奴国(熊襲と考えられる)があると述べる『魏志倭人伝』の内容と一致するからです。流域には吉野ヶ里をはじめとする大きな遺跡もあります。
とはいえ、伊都国から水行十日、陸行一月という条件に合うかとなるとそうともいえず、やはり不自然さは残ります。
以上のようなことは、『魏志倭人伝』からいえることですが、考古学調査から判明した成果もいくつかあります。
まず、畿内派の強みはなんといっても最有力候補の纒向遺跡に卑弥呼の墓と目される箸墓古墳があることです。全長は約二百八十メートルで、後円部の大きさは『魏志』に書かれている径百余歩、すなわち約百五十メートルとぴったりです。築造年代もかつては四世紀とされていたのですが、近年は卑弥呼の没年(二四八年)に近い三世紀半ばごろともいわれはじめました。卑弥呼とかかわり深いとされる「三角縁神獣鏡」が畿内一帯から多く出土していることも、プラスの材料です。
一方の九州のほうは朝鮮半島に近いので、国際的な先進性はいうまでもなく、きらびやかな舶載品がざくざくと出ます。とくに、武器としても農耕具としても貴重だった鉄製品の出土は、畿内の比でなく豊富です。当時の倭国では鉄の原料が見つかっておらず、半島から盛んに輸入していたと『魏志倭人伝』にありますので、この点も有利です。
しかし、九州には肝心の卑弥呼の墓らしきものがありません。また、外来の要素を除くと、たとえば土器にしても、むしろ畿内のほうに文化的成熟が強く認められたりして、単純に優劣は判じられません。
最大の決め手となるだろうものは「親魏倭王」の金印ですが、それも見つかっておらず、結局、現在に至るも決定打はないのが実情です。
概略説明が長くなりました。では、邪馬台国を舞台とした小説たちを見ていきましょう。
周防柳(すおう・やなぎ)
1964年生まれ。作家。早稲田大学第一文学部卒業。編集者・ライターを経て、『八月の青い蝶』で第26回小説すばる新人賞、第5回広島本大賞を受賞。日本史を扱った小説に『高天原』『蘇我の娘の古事記』『逢坂の六人』『身もこがれつつ』がある。