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まあ、好きということでいいんじゃないですかね……――「ことぱの観察 #08〔好きになる〕」向坂くじら

詩人として、国語専門塾の代表として、数々の活動で注目をあびる向坂くじらさん。この連載では、自身の考える言葉の定義を「ことぱ」と名付け、さまざまな「ことぱ」を観察していきます。


好きになる

 目を覚ましたら新しいプレイリストができていた。年末になると音楽のサブスクリプションサービスから通知が届いて、この一年どんな音楽を聴いてきたか教えてくれる。それが来たのだ。
 わくわくしながらリストをひらいて驚いた。今年のわたし、ぜんぜん音楽を聴いていないじゃないか。たしかに、秋のはじめにCaribouというカナダ出身のアーティストのアルバム『suddenly』にのめり込み、家ではそればかりリピートで流していた記憶はある。電子音のリズムにシンプルな歌詞が乗ったエレクトロニカで、くりかえし聴いているとうっとりなってくるのだ。今年になって書くことと読むことの比重がぐっと増えたし、音楽を聴くときくらいはこのくらいの意味の重さがちょうどいいわ、なんて思ってもいた。
 しかしだからと言って、ここまでその一枚しか聴いていなかったとは。自分の再生数ランキングを順に見ていくと、『suddenly』の曲が上位を占め、そのすぐ下にはもう、いつ聴いたかも覚えていないような、さして思い入れのない曲が並んでいる。具体的な数字は見えないがおそらく、全体の再生数が少ないために、数回聴いただけの曲までランクインしてしまっているらしい。
 これはショックだった。そこまで詳しいわけではないとはいえ、しかし自分は音楽が好きだと思ってきた。ときには一曲に心底から震え、ライブハウスに足を運び、人生の大事な局面にいくつかの音楽を置いてきた。というか、かれこれ十年ギターと組んで朗読のライブなんかもしているわけで、自分でも音楽活動をしてきたと言っていい。わたしは音楽と共に生活してきた、という、いちおうの自負があった。それが、たった一枚のアルバムで、一年を過ごしてしまったなんて。
 本に置き換えてみるとぞっとする。一年に一冊しか本を読まなかったとしたらそれはもうたいへんなことで、わたしがこのわたしであるというアイデンティティがなくなる気がする。しかし、音楽ならそれができてしまった。本ほどではないにしろ、やっぱり「このわたし」というものに、ちりっと傷がついた気がした。めそめそと思ったことには、こうだ。
 わたし、そこまで音楽が好きなわけではなかったのかもしれない。

 何人かの音楽に詳しい友だちの顔が浮かぶ。なぜか詩に詳しい友だちよりたくさんいる。あーあ、彼らは今年も浴びるほど音楽を聴いて、ときに震え、生活を共にしたんだろうな。音楽が好きかと訊かれても、きっとわたしのようにうろたえず、自信を持って答えられる――そこまで考えて、ふと立ち止まった。
 音楽に詳しい知人の代表が、大学時代の悪い友だち、エスちゃんだ。わたしと同じくらいそそっかしくて、しかし同時に同じくらいこだわりが強く、同じくらいコミュニケーションが不自由で、なにより同じくらい性格の悪い、かわいい友だち。十年来の付きあいで、わたしの聴くアーティストの半分くらいはエスちゃんに教わった気がする。ちなみになにを隠そう、この連載の初回に登場した「語義」の友だちこそ、他でもないエスちゃんである(だからこうして「友だち」と書いている)。
 「エスちゃんは、さああ」
 ひとりで家にいるとき、わたしとエスちゃんとはときどき電話をする。お互いに家事や事務作業をしていて、ひどいときは片方が知らぬ間に眠っていたりして、押し黙っている時間も多い。そのときもしばらく沈黙が続いたあとだった。
 「なによ」
 「音楽のこと好き?」
 「えなに。誰やねん」
 「音楽のこと好きですか? って訊かれたら、なんて言うのよ」
 いきなり問いただされていぶかしみながらも、エスちゃんは一度うーんと深くうなって、「まあ、」と答えた。
 「まあ、好きということでいいんじゃないですかね……」
 思った通りの答えだった。
 「おっ。迂遠」と喜んでいると、すぐに「なんなん君は」と突っ込まれる。気持ちはわかる。しかしわたしはこの答えを聞きたかったのだ。わたしから見て、エスちゃんが音楽を好きでないはずがない。音楽と共に、というか、ほとんど音楽の中を生きているように見えるエスちゃんだ。しかし、いざ好きかどうか訊かれたら、すんなり答えるはずないと思っていた。わたしだってそうなのだ。詩が好きかと訊かれたら、否定こそしないものの、「まあ、そうですかね……」というようなことを答えるだろう。「まあ、はい、そうなりますかね……」。
 この歯切れの悪さはどこから来るのだろう。思い当たるとしたら、「詩が好きです」と言い切ってしまうことで、わたしのそのほかの行動にまで説明がすんだと思われるのがいやだ、ということだろうか。詩が好きであるとしても、だから詩を書きつづけているのかと訊かれたら、それだけではない気もする。だから詩人を名乗っているのか、となるとなおさらに違う。詩が好きだから、というだけではすまないことがたくさんあるのに、「好き」という言葉はあまりに根源的に聞こえて、ともするとそれ以上先がないように思われてしまう。
 それがわかっていて、わざと悪用することもある。
 「どうして結婚したんですか?」
 「夫のことが好きだからです」
 これである。本当はほかにもあれこれややこしく考えてはいるものの、だいたいの場合、相手はそこまで詳細に関心がないことも分かっている。そういうときにはこのひとことですませてしまう。これさえ言っておけばそれ以上追求されることはない。ひょっとすると意味の問題以上に、わたしに答える気がないと悟り、気を遣ってくれているだけかもしれないが。
 そう思えば、「好き」というのは底である。それ以上更問いをしても意味のない、説明不可能なこと。対象と出会ったきっかけぐらいはあるかもしれないけれど、好きになる理由そのものとは違う。あるものを好きになっても、よく似た別のものはどうも好きになれない、なんていうこともよくある。わたしたちはふだん、好きになることをあまり説明できない。だからあえて「好きだ」と表明することさえ身も蓋もない感じがして、わたしもエスちゃんも、つい口ごもりたくなるのかもしれない。だとしたら、わたしは音楽を好きなのかどうかと悩むことも、たいして意味のないことだろうか。

 それでもなんとなくさびしくなって、ずっと前から好きな音楽が聴きたくなった。日に日に寒さが増してもいる。それで、椎名林檎さんのファーストアルバム、『無罪モラトリアム』を聴きはじめた。冒頭「正しい街」のイントロ、歌詞より前にかすれたヴォーカルが流れてくると、上京を描く歌詞とは反対に、故郷に戻ってきたような気分になる。
 十代のころからいままで、ほかのどのアーティストより、彼女の歌声を聴きつづけてきた。ソロの曲も、バンド「東京事変」の曲も、擦り切れるほど聴きまくった。洒脱で挑発的な歌詞、ミュージックビデオの髪型や表情、太く突き刺さってくるような声。なにもかもにめろめろだった。養ってきてもらったと思うくらいだ。
 高校生のとき、生まれてはじめてライブにも行った。横浜アリーナに最初のひと声が響いた瞬間ほにゃほにゃと泣けてきて、遠く離れた客席にいるのに、ステージライトで目が灼けた気がした。照明がまぶしかったからではない。あこがれのあまり、その一瞬めまいのように、自分がステージに立っている錯覚をしたのだった。帰ってきたら熱まで出て、翌日は学校を休んだ。

昔 描いた夢で
私は別の人間で
ジャニス・イアンを自らと思い込んでいた

 というのは椎名林檎さんの「シドと白昼夢」の歌詞だが、十七歳のわたしにとって、彼女こそがまさにそういう存在だった。下校の時間はいつでもうんざりしていて、息切れしながら路線バスに乗り込み、すぐにイヤホンをつける。待ち望んだ声が「すべてを手に入れる瞬間をごらん!」と歌うと、それはわたしの声のように思えた。内向的なあまりほとんど閉じられていたわたしの喉が、そこではじめてかすかに震え、息をする。
 「シドと白昼夢」の歌詞はそのあと、

現実には本物が居ると理解っていた

 と続く。高校時代から十年以上が経ったいま、ひとりの部屋でその曲を聴いて、思う。わたしはどうだっただろう。「現実には本物が居る」ことを、きちんと「理解って」いただろうか。あのころのわたしにとって、椎名林檎さんを好きだと思う気持ちはすなわち、椎名林檎さんと自分とをまちがえることだったのだろうか。
 好きになることはアイデンティティの問題、つまり「このわたし」というものをどのようにとらえるか、という問題でもある。プロフィールに好きなものを並べて書くように、わたしがなにを好きか、もしくはなにを嫌いかという情報は、このわたしの一部分を成す。ある対象を好きになるとは、そのものを好きな自分をよしとすることでもある。だからこそ、音楽を聴かなかった自分が、すでに持っていた自分の像と食いちがって、少なからずショックを受けたのだ。
 そして、ひとつのものがあまりに大部分を占めたとき、うっかり自分と対象とがないまぜになってしまうのかもしれない。であるとしたら、わたしの誤認にも辻褄があう。思えばあこがれのアーティストだけでない、身の回りの対人関係でも、似たような失敗を数々してきた気がする。
 しかし果たして、それが好きになることの根幹と言えるだろうか。どうもそれだけでは足りない気がしてならない。
 横浜アリーナの帰り道を、今でもよく覚えている。会場を出た観客がいっせいに駅に向かい、列になってゆっくりと歩いた。入場のときは出ていた陽もすっかり落ちて、さっきまでの眩しさとは対照的に、夜の道は暗かった。余韻を押しとどめるようにイヤホンをつけ、ライブのセットリストを再現するプレイリストを編集しながら、わたしは思っていた。ああ、椎名林檎さんのことが、こんなにも好きだ。
 それは、ライブ中には頭に上らなかったことだった。二月の冷えた暗がりに立って、わたしはようやく誤認から離れ、自分自身に戻ったのだ。そこではじめて好きになる瞬間が訪れたように思う。ライトに目がくらんで、自分の存在を忘れ去っているときではなく。対象がなんであれ、好きになるためにはわたしという主体が必要である以上、当たりまえのことかもしれない。
 こう言うことはできないだろうか。対象と自分とを一体にし、自分というものを見失ってしまえば、なにかを好きになることはできない。好きなものそのものではない自分という位置に立ってはじめて、そのものを好きになれるのだ。自分自身でないものをしか食べることができないように、自分自身でないものをしか、わたしたちは好きになれない。このごろよく耳にする、「自分を好きになる」というときには、自分をも他者とみなしているにすぎない。

好きになる:
自分の一部にしたいと思ったものが、しかし自分ではないとわかること。それでいて、他者であるそのものを好きな自分、つまり対象そのものではありえない自分を、よしとできること。

 「詩は好きですか」と訊かれたら、やっぱり「まあ、はい、そうなりますかね……」と答えることだろう。説明しきれないことまで読み取られてしまうのをおそれるから、だけではない。詩はもはや自分の一部になってしまって、好きかどうかを自分自身で判断できないからだ。好きになるためには、まずほどほどであることが必要だ。対象に入りこみすぎず、あくまで自分の立つ場所から「好き」をはじめる。なにかを好きになることが自分を形づくるとしても、それは自分とそのものとの境目がなくなることを意味しない。わたしが椎名林檎さんではないように、そしてほかの好きな人のだれでもないように。
 ここからはへりくつである。エスちゃんはおそらくもう半分くらい音楽になってしまい、音楽のことが好きかどうかがはっきりわからなくなっているにちがいない。それはそれですてきだと思うけれど、しかしむしろ音楽と離れたところにいるわたしのほうが、音楽を好きだと言いやすい立場にいるのではないか。一年間にアルバム一枚を気に入ったくらいの、どうだろうかこの、音楽に対する冷静な立ち位置は。かえって堂々と、音楽が好きだと言い切ってみるのはどうか。まあ、それは若干無理があるにしても、少なくともささやかなアイデンティティの喪失で悩むことはないのではなかろうか。

 さて、好きになることにはほどほどであることが必要だと書いた。しかしときに、そのほどほどが、もどかしくなることがある。なにごとも適度がいいのはわかっていても、しかしなんでもかんでもそううまくいくもんか。相手と自分の境目なんてくそくらえ、冷静な自分なんてとっとと忘れてしまって、なにもかもごちゃ混ぜにしたい。自分が対象そのものになれないことが悲しい、悲しい、はやく一緒くたになりたい……そういう逸脱の衝動に駆られたとき、わたしたちは、「好き」に代わる言葉を引っぱりだしてこないといけなくなる。
 そこでやむなく、あの剣呑でよくわからない、「愛」なるものに行きあうのだ。


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プロフィール
向坂くじら(さきさか・くじら)

詩人、国語教室ことぱ舎代表。Gt.クマガイユウヤとのユニット「Anti-Trench」で朗読を担当。著書『夫婦間における愛の適温』(百万年書房)、詩集『とても小さな理解のための』(しろねこ社)。一九九四年生まれ、埼玉県在住。

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