「NHK出版新書を探せ!」第19回 食べ物と他者はよく似ている――磯野真穂さん(医療人類学者)の場合【前編】
突然ですが、新書と言えばどのレーベルが真っ先に思い浮かびますか? 老舗の新書レーベルにはまだ敵わなくても、もっとうちの新書を知ってほしい! というわけで、この連載では今を時めく気鋭の研究者の研究室に伺って、その本棚にある(かもしれない)当社新書の感想とともに、先生たちの研究テーマや現在考えていることなどをじっくりと伺います。コーディネーターは当社新書『試験に出る哲学』の著者・斎藤哲也さんです。
※第1回から読む方はこちらです。
〈今回はこの人!〉
磯野真穂(いその・まほ)
独立人類学者。専門は文化人類学・医療人類学。博士(文学)。早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より独立。身体と社会のつながりを考えるメディア「からだのシューレ」にてワークショップ、読書会、新しい学びの可能性を探るメディア「FILTR」にて人類学のオンライン講座を開講。著書に『なぜふつうに食べられないのか――拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界――「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)、宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社)などがある。(オフィシャルサイト:www.mahoisono.com / Blog: http://blog.mahoisono.com)
人類学との出会い
――磯野さんのプロフィールを見ると、1995年に「早稲田大学 人間科学部 スポーツ科学科」に入り、卒業後、2000年から2003年までオレゴン州立大学に留学したときに、文化人類学と出会われたとあります。まず、早稲田のスポーツ科学科を志望したところからお聞きしたいんですが、高校時代に何かスポーツをやっていらしたんですか。
磯野 長野県の高校で空手をやっていました。たまたま私の部活にはインターハイで優勝できるレベルの選手がいたんですが、ケガのために大きな大会でパフォーマンスを十分に発揮できない状況を見て、歯がゆく感じていたんです。それでトレーナーになりたいと思い、早稲田のスポーツ科学科に入りました。
ところが入ってみると早稲田にはトレーナー養成のコースはないことがわかり、いきなり出鼻をくじかれました(笑)。結局、授業が面白かった先生が担当する運動生理学のゼミを取ったんですが、学部の4年間では不完全燃焼だったので、トレーナーのコースがあるアメリカの大学に留学しようと。
ただ、大学3年の後半ぐらいから、自然科学的なアプローチの限界はなんとなく感じていました。数値にもとづいて科学的にトレーニングをしても、スポーツの結果がそのとおりになるのかというと、意外とそうでもない。前日に彼女と別れたとか、「めざましテレビ」の占いの結果が影響してしまうこともある。数値というもので人間を測りとることの限界を感じていましたね。
――留学中にどのように人類学と出会ったんですか。
磯野 たまたま当時知り合った留学生の友達が人類学専攻で、真穂の関心は人類学っぽいと言われたんです。それで学部の人類学の講座に潜って、「これはすごいぞ」となりました。人類学って、自分が今まで学んできた自然科学のアプローチと完全に逆なんですよ。
運動生理学は基本的にサンプルとなる被験者が研究者の思うがままに動いてくれなきゃ困るんですけど、人類学は逆です。思うがままに動くのは研究対象の人たちで、人類学者はそれに合わせる。だから「サンプル」とか「被験者」という言い方はせずに、「インフォーマント」と言います。そういうアプローチがけっこう衝撃的で、先のことも考えずに専攻を変えました。1999年の9月に留学して、12月にはもう変えていましたね。
――そんなに簡単に専攻を変えることができるんですか。
磯野 日本では学部を変えるのってものすごくハードルが高いけれど、アメリカはうんと簡単なんですよ。紙一枚ですぐに変えられちゃうんです。だから、周りにも専攻を変えている人はいいっぱいいました。海洋生物学から文学に変えた人とか、5回も専攻を変えた人とか。
あわや帰国の危機
――研究のテーマやフィールドワークの場所はどうやって決めたんですか。
磯野 大学院に進むにあたり、どんな研究をしたいかエッセイを書くんですが、専攻を突然変えて間もない時期だったので、ほとんどノーアイデアでした。ただ、運動生理学ではアプローチできないような体の問題を研究したいと思っていて。ちょうどその当時、摂食障害の問題が日本で出始めていたし、自分もダイエットをして痩せたいと思った時期もあった。それで摂食障害は面白いかもしれないと決めた感じですね。
フィールドワークも大変でした。アジアで摂食障害のフィールドワークができそうな地域というと、香港とシンガポールぐらいです。どちらもツテなんてあるわけがありません。なんとかシンガポールのNGOにインターンとして受け入れてもらったものの、アメリカの大学の、何者だかよくわからない日本人留学生が、シンガポールの医者に突然メールを送って、「フィールドワークさせてください」と言ってもできるわけないじゃないですか。
案の定、メールをしても返信はないので、とにかくシンガポールに行ってNGOの人に相談したところ、電話帳を渡されて「これ使って学校とかにかけてみたら?」って(笑)。学校に電話したって、取り合ってくれるはずないですよね。仕方がないので、シンガポールの厚生労働省に行き、窓口で調査内容を話したんですが、怪しいと思われたのか警備員みたいな人に追い出される始末です。
――万事休すじゃないですか。
磯野 もう、日本に帰るしかないかと思いました。あわや帰国かというときに、シンガポールの駅のホームからダメ元で、摂食障害の治療をやっている有名なドクターに電話をしたら、なんとつながったんですよ。しかも「今から来たら?」って。もう奇跡ですよね。
さっそく翌日から診察に陪席させてくれて、そこからツテが広がり、メディアを調査させてもらったり、お母さんたちの話を聞かせてもらったりして、ようやく調査らしくなったんです。なんだか話せば話すほど、無計画人生が露わになっていきますが。
――最初のフィールドワークから体当たりだったんですね。
磯野 めちゃくちゃ体当たりでした(笑)。
――アメリカで修士号を取った後はどうしたんですか。
磯野 日本に戻ってきて、2年ほど派遣社員として働いたんです。大学院生って、周りの人に「社会を知らないヤツ」扱いされるんですよ。それなら一度、就職してみようと思って。働いてみて、いわゆる社会人と呼ばれる正社員の人も、私と同じひとりの人間で、それ以上でもそれ以下でもないとわかりました。それを確認して早稲田の大学院に戻った感じですね。
摂食障害の議論で見逃されていたもの
――早稲田の博士課程でも摂食障害の研究を続けたんですよね。
磯野 ただ、摂食障害の研究自体はすでに大量にあったので、どういう切り口でアプローチすればいいか悩みました。大きく変えたのは、インタビューのスタイルです。1回や2回のインタビューでは、その人のことはわからない。だから3年半とか4年とか、数を絞って同じ人に話を聞かせてもらうというスタイルを採りました。
――その成果である博士論文を元にして『なぜふつうに食べられないのか』(春秋社)が2015年に出版されました。読んでみて、過食の経験をチクセントミハイのフロー体験や祝祭と結びつけたくだりは目からウロコでした。
磯野 研究していく中で、摂食障害は食べることの問題なのに、原因を心や身体に還元してしまって、食べることに誰も注目していないことに気づいたんです。食の乱れは何か本質的な問題の影だから、影を見てもしようがないというロジックなんですね。
――本のなかで「還元主義」と呼んでいるアプローチですね。むしろ磯野さんは、食べることに注目した。
磯野 そうですね。インタビューで「おいしいとか思ったことない」と言われたのをきっかけに、そもそもこの人たちはどうやって食べているんだろうと思ったんです。過食状態というと、ぐっちゃぐちゃに食べているようなイメージを持たれやすいんですが、実は全然そんなことはなくて、彼女たちの食べ方はすごく構造化されているんです。
そのことに気づいて、今度は摂食のときにはどういう時間が流れているんだろうと、時間の問題を考える中で、チクセントミハイの「フロー」概念に出会ったんです。「祝祭」や「ハレ・ケ」「聖なる時間と俗なる時間」というのは人類学の王道な見方でもあるので、それを応用したわけです。あの部分は当事者の方にも「まさにそうなんです」と言ってもらえたところでした。医学的な還元主義では、心と身体に何らかの問題があるから過食が続くのだと考えますが、この本ではまったく違う理由があることを主張しています。それは、過食がフローを誘発する、つまり過食のなかに非日常的な楽しさがあるから、なかなか過食を手放せないんです。
――この本は摂食障害がテーマですが、同時に食の文化人類学でもある点がユニークですね。
磯野 違う文化の食習慣を調べるようなアプローチはいっぱいありますが、摂食障害から、人にとって食べるとはどういう営みなのかを考えたアプローチはあまりないと思います。
『ダイエット幻想』のうれしい誤算
――あとがきの「食べ物と他者はよく似ている。なぜならそれらはふたつとも、人間にとって怖いからである」という一節も印象的でした。
磯野 『なぜふつうに食べられないのか』では他者の問題にほとんど踏み込めなかったので、そこを掘り下げてみようと思って書いたのが『ダイエット幻想』(ちくまプリマー新書)です。ダイエットや体のことで悩んでいる若い人はいっぱいいるだろうから、そういう人たちに「やせたい」と思う気持ちって何なんだろうということをわかりやすく伝えたかったんです。
――ちくまプリマー新書は中高生を読者対象にしているレーベルですが、若い人に向けて書くのに苦労はありませんでしたか。
磯野 抽象的なことを、中高生がちょっと頑張れば読めるレベルで書くにはどうすればいいかと、けっこう考えました。それから、人類学をはじめとして人文系の学問って「こうしたらいい」という処方箋はあまり出しませんよね。でも、中高生向けの『ダイエット幻想』を分析や考察だけで止めるのはずるいかなと思ったので、「私はこう思います」というところまで書きました。
実は『ダイエット幻想』って、企画自体が1回ボツにされているんです。別の出版社の編集さんから、中高年の男性向けに『やせ地獄』というタイトルで書いてくれと言われて(笑)。それは無理なのでお断りして、ちくまプリマー新書で出したという経緯もあるので、年配の男性は読まないだろうと思っていたら、意外にも年配の男性の方にもけっこう読まれたようです。ご自身の人生に引きつけて読んでくださる方もいらっしゃって、これはうれしい誤算でした。
*取材・構成:斎藤哲也/2021年7月1日、代々木にて取材
プロフィール
斎藤 哲也(さいとう・てつや)
1971年生まれ。ライター・編集者。東京大学文学部哲学科卒業。ベストセラーとなった『哲学用語図鑑』など人文思想系から経済・ビジネスまで、幅広い分野の書籍の編集・構成を手がける。著書に『もっと試験に出る哲学――「入試問題」で東洋思想に入門する』『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』がある。TBSラジオ「文化系トークラジオLIFE」サブパーソナリティも務めている。
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