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正解は「縦になる」――料理と食を通して日常を考察するエッセイ「とりあえずお湯わかせ」柚木麻子

『ランチのアッコちゃん』『BUTTER』『マジカルグランマ』など、数々のヒット作でおなじみの小説家、柚木麻子さん。今月は、台風の到来に伴う体調不良への対応策について考えます。
※当記事は連載の第30回です。最初から読む方はこちらです。


#30 台風一過

 夜更けから雨が降り続け午前中は台風が吹き荒れ、今はもう通り過ぎたが、窓の外では、真っ黒なアスファルトをぱらぱらと小雨が叩いている。前日から、何か見えないものにのしかかられているくらい身体が重く、飛行機に乗っている時のように頭が鳴っている。そういえば、八月の終わりくらいからずっとだるい。手足の関節の奥の奥がむずがゆいような感覚が抜けない。座り仕事のせいもあるが、膝から下がむくみすぎて、足首が完全に消えている。着圧ソックスを履いてみても、ハルクが巨大化する時のように、肉が布を突き破ってしまいそう。最近、腰から下が自分の身体という感じがまったくしない。鉛の機械の上に上半身が載っているというか――。

 産後から不調が続き、窪美澄さんにすすめられた漢方薬を飲むようになって、かなり改善されたが、気圧変動となるともうお手上げだ。ずっと横になってスマホばかり眺めてしまう。時間を無駄にしているなあ、という焦りがつのり、かえって起き上がれなくなる。こういった症状に関しては、ネット上にもいろんな読み物があり、それなりに知識はあるのに、台風が来ると、雨風と一緒に吹っ飛んでしまう。どんなにミニマムな情報も、本当にむくんでいる時は、まったく思い出せない。よくパワフルだと言われるが、体質自体は昔から弱々しい方だと思う。ちょっとしたことですぐに疲れ、頭がそれに持って行かれてしまう。

 いろいろ試してはみたが、私にとって一番の解決策は、母のここ数年の口癖「とりあえず縦になること」である。

 年齢を重ねるうち、不眠がちな母の体質に近づいてきたせいで、結局、母の言うことが、一番自分に合っているような気がしている。最近はだるくてたまらなくなったら「縦になる」のを唯一の正解と決めている。逆に、縦になれば、何をやってもいい。そう、縦になっていれば最悪、仕事をしなくていい(なぜなら横になっている時、仕事ができているわけではないので)。母の声を脳内で再生しながら、とにかく床に足をぺたっとくっつけて、膝から下を恐る恐る布団から離し、ふらつく身体をなんとか自立させる。しばらくはただその場で突っ立っている。部屋の景色がぼんやり揺れているし、何かしようという気にはまったくならない。でも、横になっている時に比べて、腰から下に血が巡っているのがだんだんとわかり始める。もちろん、不調な時に無理して起き上がる必要はないのだが、私の場合は下半身の血流が滞っていることが原因なので、こうやって突っ立っている方が、確かに寝ているよりはずっとマシなのだ。ちなみに、とりあえず頑張って縦になった母は、えいやっと気合を入れて、ウォーキングしたり水泳に行ったりと、有意義に過ごしているようだが、私にはそこまではとても無理だ。

 しばらくの間、ただ縦になっていると、景色がはっきりしてきて、一歩くらいは歩けるような気がするし、床に落ちているおもちゃを拾い集めようかという気にもなる。ふと窓の外を見たら、雨が一時的にやんでいる。とりあえず、寝巻きに近い服のまま鍵とスマホだけつかんで、近所のスーパーでじゃがいもと玉ねぎとにんじんとカレールーを何も考えずに買った。帰宅と同時に背後でざっと雨が降った。勢いでカレーを作り、米をといで、パソコンを立ち上げた。冷蔵庫を漁って、生姜シロップと牛乳と、ひからびた琥珀糖をかき集め、紅茶のティーパックと一緒に煮詰めてチャイもどきを完成。飲みながら仕事のメールを四件返した。

 窓の外を見ると、辺りはもう水の底のようで、濡れた緑は濃く、美しいといえばそうなのだが、見ているだけで胸が苦しい。頭が痛くなってくる。この辺で横になってもいいくらい十分活動した。だけど、ここまでくると少しは仕事をしてみようかという気になってくるから、不思議だ。

 このエッセイのタイトル「とりあえずお湯わかせ」は母の口癖だが、もう「とりあえず縦になれ」でもいいような気がしてきている。とりあえず縦になってお湯わかせば、最強かもしれない。

次回の更新予定は10月20日(金)です。

題字・イラスト:朝野ペコ

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プロフィール
柚木麻子(ゆずき・あさこ)

1981年、東京都生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。 2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。『ランチのアッコちゃん』『伊藤くんA to E』『BUTTER』『らんたん』など著書多数。最新書き下ろし長編『オール・ノット』(講談社)が好評発売中。

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