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教養・ノンフィクション

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#インタビュー

"ミニマル炒飯"は「あわてないチャーハン」。脱マチズモで、作る人を選ばない(料理人・文筆家、稲田俊輔)【4/4話】

インド料理に限らず、和食、洋食、フレンチなど幅広いジャンルを手がける料理人の稲田俊輔さん。家庭には「ミニマル料理」を提案しています。では、「ミニマル炒飯はどんな料理?」と尋ねると「あわてないチャーハン」とのお答え。そこには合理性だけでなく、作り手とチャーハンへの深い思いがありました。稲田流レシピに独特な「重さ」を測りながら作る理由についても合わせて聞きました。 ■素材の味をストレートに生かす「シンプルな料理」──稲田さんは2023年に家庭料理向けのレシピ本『ミニマル料理』を

子どもの時の「シンプルチャーハン」が原点。日本の炒飯は「日式」? (料理人・文筆家、稲田俊輔)【3/4話】

食のエッセーやSNSでの問答が人気の南インド料理店「エリックサウス」総料理長の稲田俊輔さん。子どもの頃はどんなチャーハンを食べていたのでしょうか? また、私たちが食べているのは「日式チャーハン」なのか。ここ数年、人気の「町中華」の次代を受け継ぐのは? 稲田さんの「原点となるチャーハン」と、「町中華のチャーハン」について伺いました。 ■原点にあるのは、子どもの時食べた「シンプルチャーハン」 ──稲田さんを「稀代の食いしん坊」かつ「料理人」にならしめたのは、育った家庭環境の影響

ピラフはチャーハンか? 焼き飯、ビリヤニは? そして源流は?(料理人・文筆家、稲田俊輔)【2/4話】

第1話に続き、料理人・文筆家の稲田俊輔さんの「心に残るチャーハン」を伺います。もう一つは学生時代に京都で食べた「焼き飯」だとか。「焼き飯」と「チャーハン」は違う? 「ピラフ」は? 謎だらけの、その「源流」は? インド料理にとどまらず、博覧強記で知られる稲田さんと地球をぐるっと巡ります。 ■もう一つの「心に残るチャーハン」は、学生時代に京都で食べた「焼き飯」──稲田さんには「心に残るチャーハン」が二つあるというお話でした。第1話では台湾の「鹹蛋炒飯」について伺いました。二つ目

胃弱と文学とチャーハンと(英米文学者・阿部公彦) 【前編】

英米文学研究から文芸評論まで幅広く手がけ、「名作いじり」「事務」などユニークな視点の著書の多い、東京大学教授の阿部公彦さん(57)。「胃弱と文学」もテーマの一つで、「100分de名著」(NHK)では夏目漱石の作品を「胃弱」を通して読み解き異彩を放ちました。「胃弱の文学」とは? 胃弱と文学とチャーハンの関係は? ■「胃弱」をネタ化する漱石『吾輩』の猫──文学への「食」のアプローチでは、「美食」「料理」「空腹」などの視点からはありましたが、「胃弱」からの読み解きは珍しいのではな

町中華のチャーハンを胃弱的に食べる(英米文学者・阿部公彦) 【後編】

夏目漱石の「胃弱」から始まり、大江健三郎の「嘔吐」、そして若者言葉「キモい」まで。前編では「胃」的表現が表す時代の意識を伺いました。後編では、“やや胃弱”という英米文学者の阿部公彦さん(57)がどんなチャーハンを食べているのか。「ムカつき」と近代小説誕生の関係、事務処理化する社会と「胃弱」についても合わせて伺いました。 ■「一度きり」のチャーハン ──普段、チャーハンは食べますか。 子どもが小さい頃はよく作っていましたね。もう成人しましたが。 子どもって味付きご飯が好きじ

"心に残るチャーハン"は台湾の「シエンタン炒飯」。最適解でない味を求めて (料理人・文筆家、稲田俊輔) 【1/4話】

稀代の「食いしん坊」かつ「料理」「飲食店経営」のプロでもある稲田俊輔さん。エリックサウス総料理長として南インド料理ブームの火付け役となっただけでなく、その複眼から繰り出される「食エッセー」やSNSでの「問答」でも人気です。 4話にわたってお届けする稲田さんのインタビュー。第1話は、稲田さんの「心に残るチャーハン」、旅先で感動的な料理に出合うコツ、稲田さんが自称する「フードサイコパスとは何か」など伺います。 ■台湾の「鹹蛋炒飯」に感激。旅先で「感動的な料理」に出合うコツ──稲

食材の寿命のサイクルの中で生かし、生かされ、チャーハンを食う(フリーランサー・稲垣えみ子) 【後編】

冷蔵庫などの家電なし、ガス契約なしの「一汁一菜」生活を送る、元新聞記者の稲垣えみ子さん(59)。前編では「おいしい」をめぐる違和感について聞きました。後編では、「日々のチャーハン」と冷蔵庫のない生活で得た「人生観」について聞きます。 ■ 2日目のチャーハン──前編に続き、後編では具体的にチャーハンをどのように作っているのかを伺いたいと思います。調理器具は、カセットコンロが一つに小鍋とミニダッチオーブンだけというお話でした。どのように繰り回しているんですか? 私は玄米を食べ

家庭のチャーハンは「ケ」の料理。小さな変化を楽しむ(フリーランサー・稲垣えみ子) 【前編】

家電なし、ガス契約なしで、一食200円の「一汁一菜」生活を送る、元新聞記者の稲垣えみ子さん(59)。3日に一度小鍋でご飯を炊き、2日目はチャーハンだとか。それならば、とインタビューを申し込んだところ一度断られてしまった。そこには、「おいしい」を取り巻く状況への違和感があった。 ■原発事故をきっかけに、ミニマルな「一汁一菜」生活へ──チャーハンのインタビューをお願いしたところ一度断られてしまいました(笑)。 これまでの記事を拝見したら、リードに「チャーハンのことになると、人

進化を求められない「一番いいポジション」にいるのがチャーハン(大衆食ライター・刈部山本) 【後編】

「おいしいチャーハンはしっとり」とTBS系「マツコの知らない世界」で、パラパラブームに一石を投じた大衆食ライターの刈部山本さん(48/ 前編)。チャーハン好きの一方、ラーメンの著書もあります。「ラーメンとチャーハンの違い」や「話題を呼んだミニコミ」について伺います。 ■ラーメン嫌いだった子ども時代  ──山本さんは、東京ラーメンの歴史をたどった『東京ラーメン系譜学』の本を出されています。ラーメンも好きなんですか? 子どもの頃はあまり好きでなくて、ラーメンに目覚めたのは大学

マツコの番組で伝えたかった、「しっとりチャーハン」の本当の意味(大衆食ライター・刈部山本) 【前編】

90年代、パラパラチャーハンが世を席巻し、「チャーハン=パラパラ」のイメージが固定化しました。これに対して異を唱えたのが、2015年、TBS系「マツコの知らない世界」に出演し「おいしいチャーハンはしっとり」と打ち出した、大衆食ライターの刈部山本さん(48)です。そのメッセージにこめた思いや、その後の反響、直面したジレンマについて伺いました。 ■「半ドンの昼ご飯」と「町中華の出前」がチャーハンの原体験──2015年放送のTBS系「マツコの知らない世界」で、山本さんは「おいしい

1億円ホスト時代、「チャーハンを食べて自分を取り戻していた」(タレント・城咲仁) 【後編】

町中華「丸鶴」の後継をめぐり18歳のとき父と対立し、26年を経て和解した城咲仁さん(46/前編)。後編では、「1億円ホスト」時代、どんなチャーハンを食べていたのか。3歳から包丁を握っていたという「料理家」としてのキャリア。そして父のもとで修行し、「父の味」を伝える冷凍チャーハンの商品化を進めるなか得た、新たな「思い」などを聞きました。 ■悔しいことがあると、親父のチャーハンかカツ丼を食べていた──実家の町中華「丸鶴」は「しっとりチャーハンの聖地」と呼ばれ、行列のできる人気店

チャーハンを通して26年ぶりに父と和解した(元カリスマホスト、タレント・城咲仁) 【前編】

「しっとりチャーハンの聖地」と呼ばれ、全国から客が行列する、東京・板橋区の町中華「丸鶴」。連載の6、7回で登場した、店主・岡山実さんのひとり息子は、元カリスマホストで、タレントの城咲仁さん(46)だ。店の後継をめぐって、長年わだかまりのあった親子が、チャーハンを通して和解のときを得たという。 ■18歳で「店は継げない」と家を飛び出した ──連載の6、7回で丸鶴の店主・岡山実さん(77)にお話を伺いました。多くの町中華同様、丸鶴も跡継ぎの問題を抱えていましたが、城咲さんは子ど

「チャーハンは魂の料理。愛情がなくなったらやめるとき」(「丸鶴」店主・岡山実) 【後編】

「しっとりチャーハンの聖地」と呼ばれ、全国から人が集まり行列する町中華「丸鶴」。前編では、10歳から中華の道に入った、店主・岡山実さん(76)の修業時代や創業時の話が語られました。後編では、人気チャーハンの開発秘話や後継者の問題、そして今後の夢について聞きます。 全国から客が来て行列に。最長で200人──チャーハンを求めて全国から人が来て、開店前から行列ができます。それは、いつ頃からですか? 行列自体は、昔から昼どきになるとできていました。うちのあたりは他に店がないから。

しっとりチャーハンの聖地「10歳から中華の道に」(「丸鶴」店主・岡山実)【前編】

チャーハンの枕詞になっている「パラパラ」。ところが、その逆をいく「しっとり」で、全国から人が集まり行列する町中華があります。創業57年の、東京・板橋区の「丸鶴」。10歳でこの道に入ったという、店主の岡山実さん(76)の歩みは戦後の町中華の歴史そのもの。時代とともにチャーハンはどのように変わってきたのか。なぜ全国から人が行列するのか、前後半の2回にわたってお届けします。 10歳で「中華の道」へ。15歳で店長に終戦の翌年、1946年に、ここ東京・板橋区の大山で生まれ育ちました。