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負の感情はこころを癒やす――「不安を味方にして生きる」清水研 #09 [喪失体験との向き合い方①]

不安、悲しみ、怒り、絶望……。人生にはさまざまな困難が降りかかります。がん患者専門の精神科医として4000人以上の患者や家族と対話してきた清水研さんが、こころに不安や困難を感じているあらゆる人に向けて、抱えている問題を乗り越え、豊かに生きるためのヒントをお伝えします。
第1回からお読みになる方はこちらです



#09 喪失体験との向き合い方①

 前回まで、不安との向き合い方について考えてきました。不安はこころに危険を伝えるアラームのような役割であり、「未来に起こる問題を回避する」ための感情です。不安と上手に向き合うと、これから起こりうることに対してきちんとした準備ができます。
 けれど、備えをしても、望ましくないことが起きてしまう場合もあるでしょう。そうなると、こころは〝がっかり〞し、喪失を体験します。

 たとえば仕事がうまくいかなかったとき、希望の学校に入学できないとき、想いを寄せる人に受け入れられないとき。人生をともにしてきたペットが亡くなったときや、大切な人との別れのときなど。病気という体験も、さまざまな喪失をもたらすと言われています。

 起きたときは、にわかに受け入れがたいと感じることもあるでしょう。このようなときに大切な役割を果たすのが、怒りや悲しみという感情なのです。
 ある患者さんの例をもとに、喪失との向き合い方について考えていきます。

未来が失われたとき

 腫瘍精神科である私の外来に主治医からの紹介で、室田隆さん(仮名・38歳男性)が受診されました。室田さんは進行したすい臓がんに罹患していることを1か月前に告げられ、精神的に大変混乱されていました。
 統計上でいうと、進行すい臓がんの5年生存率は数パーセント。がんであることを告げられるまでは、自分の人生は当たり前のように続いていくと思っていたでしょうから、突然の知らせに混乱しても無理はありません。
 実際、診察室に入ってきた室田さんは憔悴しきった様子でした。プレスのきいたスラックスと、きれいなボタンダウンのシャツから、本来はおしゃれで社交的な方だろうという印象を持ちましたが、表情は暗く、意気消沈していました。

 がんと告げられ、今どんなことで悩んでいるのかと尋ねると、室田さんは次のように心境を語られました。
 「がんがわかって、計画がすべて頓挫してしまったのです」
 室田さんによると、8年前に会社を立ち上げ、大変な思いをしたこともあったものの、やっと事業が軌道に乗ってきたとのこと。海外の大企業との共同プロジェクトも決まり、今までの努力が実を結ぶところまできた矢先のがんの告知。5年後には会社は大きく発展し、自分の夢がかなっているはずだった……という未来が打ち砕かれたのです。

 「私は突然すい臓がんと宣告されました。データを知るほどに絶望的な気持ちになります。5年生存率は数パーセント。1年は乗り越えられたとしても、2年は難しいと思っています。やっと蒔いた種が芽を出し、すくすくと育ってきたのに、収穫のときに私はいない。
 私は会社にすべてを捧げてきましたので、真面目に生きてきた自分がなぜ今すい臓がんにならなければいけないのか、とても腹立たしいです。
 とてつもない悲しみや虚しさもあります。自分の人生はなんだったのか。これからの時間をどのように生きていけばよいのかがわかりません」
 室田さんの事情を聞けば、その気持ちは私なりに理解できます。
「なるほど」とうなずく私に、室田さんは「私はこれからどうしたらよいのでしょうか?」と訴えます。

 心理学者のユングは、青年期から中年期への移行期を「人生の正午」と表現し、そこから危機の時期を迎えると述べています。一般的に、人は中年期を過ぎ、人生の後半に入ったときにはじめて、人間は衰えていくことを実感をもって悟るわけです。
 人生の前半である青年期は、身体的にも元気で、知識や経験がだんだん増えていくことで、自身の成長を実感できる時期でもあります。老病死という苦しみについて、いつか自分に起きるであろうことを頭では理解していても、実感は伴いません。

 まさに室田さんもそうでした。5年後、10年後のために今をがんばる。その前提には、自分は健康で安全な世界に住んでいて、明日も明後日も、1年後も10年後もやってくるという考えがありました。
 そんな室田さんは、がん罹患を経て、近い未来に自分の死がくることを強く意識しました。当たり前にやってくると思っていた将来を室田さんは失ったと感じたのです。

2つの課題に取り組む

 室田さんの「私はこれからどうしたらよいのでしょうか?」という言葉を受け、私は次のように語りました。
 「私は室田さんのように、今まで思い描いていた未来がやってこないと実感され、混乱されているたくさんの方とお会いしてきました。その経験をもとにこれから説明しますが、今の室田さんには届かないかもしれません。ただ、道のりをお示しするために、あえて伝えておきます」

 私は室田さんに次のことをお話ししました。
 これから室田さんのこころが取り組む必要がある課題は、いずれもけっして簡単なことではないかもしれませんが、2つあります。
 1つめは、想定していた将来がやってこないという喪失と向き合うことです。室田さんは、苦労を重ね、5年後には夢がかなっている、というところまできていました。しかしその夢は病気のためにかなわなくなってしまう。
 このような出来事に「起きてしまったことはしょうがない」と、きっぱりと気持ちを切り替えられる人もまれにいますが、多くの人はそう簡単に気持ちを切り替えられないのではないでしょうか。
 実際、室田さんも目の前の現実が受け入れがたく、苦しんでおられます。

 今までの努力を思うと、理不尽さに激しい怒りを感じるかもしれませんし、喪失の大きさに、とめどもなく悲しみがあふれるかもしれません。じつはこのような負の感情はこころの傷を癒やす役割を果たします。室田さんは今日もだいぶふさぎ込んで見えますが、これは耐えがたい喪失と室田さんが向き合っている証拠です。
 負の感情は苦しいものですが、こころがおもむくままに怒り、悲しむ必要があります。怒り、悲しみつくした果てに、やっと「くよくよしていてもしょうがない」という気持ちが芽生え、「これからの時間をどう生きるか?」ということを徐々に考えられるようになるからです。

 2つめの課題は、これからの生き方を考えることです。
 今は失ったものの大きさに圧倒されていますが、いずれ室田さんは「自分はすべてを失ったわけではない」と気づかれるのではないかと思います。未来のために今を投資する生き方をしてきたので最初はとまどうかもしれませんが、やがて「今を生きる」ことを考えるようになるでしょう。

 このように伝えると、室田さんは「理屈としては理解できても、今はまだそんなことは認めたくない」とのことでした。
 そこで私は、「室田さんのお気持ちは当然だと思います。よろしければ、室田さんのこれからの道のりを歩むお手伝いをさせてください」と伝え、室田さんはその後も定期的に私の外来に通われることになりました。

負の感情を受け入れる

 喪失体験と上手に向き合うためにはどうしたらよいか。そのカギは怒りや悲しみなどの感情を敵視しないことでしょう。怒りや悲しみにはそれぞれ大切な役割があり、その感情を十分に味わう必要があるのです。
 このことを知らない人は多くいます。私の外来に訪れる方はよく、「涙がとめどなく流れてしまい、だめですね」と、泣くことを悪いことだと考えています。私が「泣くことはよいことなのですよ」と伝えると、驚いた顔をされます。

 〝こころで泣いて顔は笑う〞など、泣くのは弱い人間がすることだと言われた時代がありました。「男は黙って〇〇ビール」というCMが流れていたのは私が生まれるまえですが、感情を出さずにぐっと耐え忍ぶことが美徳ととらえられている節がありました。そのように感情を押し殺すだけでは、時間がたってもこころの傷はなかなか癒えません。
 最近でも、プラス思考はよい、マイナス思考はあまりよくないという価値判断がされます。コップの水も「もう半分しかない」ではなくて、「まだ半分もある」ととらえたほうが幸せになる、という考え方です。
 頭でそう考えても、感情はなかなか言うことをききません。無理に前向きになるのではなく、「ああ、水が半分なくなってしまった」という負の感情を十分に味わうのです。そうすることで、「しょうがない。でもまだ半分は残っているのだから」と思えるのです。

 また、怒りっぽいことで、大人気ないとか、器が小さいと思われる節があります。なので、腹立たしいことがあっても、ぐっと呑み込んでしまうかもしれません。
 たしかに、怒りをあらわにすることには、いろいろな軋轢あつれきを生むリスクがあるかもしれません。けれど、腹立たしいことを際限なく吞み込みつづけたら、こころは破綻するでしょう。
 悲しくもないのに無理に泣く必要はないですし、腹立たしくないのに怒る必要はありませんが、泣きたいときには泣き、腹が立ったらその気持ちに向き合わないといけません。怒りや悲しみという負の感情が大切であることを、多くの人に認識していただければと思います。

 次回は、喪失を受け止めるために大切な感情のうち、まず怒りについて説明していきましょう。


第8回を読む 第10回に続く 

清水 研(しみず・けん)
精神科医。がん研究会有明病院 腫瘍精神科部長。2003年から一貫してがん医療に携わり、対話した患者・家族は4000人を超える。2020年より現職。著書に『もしも一年後、この世にいないとしたら。』(文響社)、『絶望をどう生きるか』(幻冬舎)など。

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