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「出来合いの物語に自分を寄せずに生きていく」――赤坂真理×小島慶子『愛と性と存在のはなし』刊行記念対談(後編)

 作家・赤坂真理さんの新刊『愛と性と存在のはなし』の刊行を記念して、2020年12月、ゲストにエッセイストの小島慶子さんを迎え、オンライン対談「性をめぐる生きづらさと希望」を開催しました。終了後、SNS上で多くの反響を呼んだ同イベントから、当記事ではその内容をダイジェストにしてお届けする後編です。 ※前編はこちらからお読みいただけます。

可視化されない男の生きづらさ

小島 最近は、さまざまなマイノリティの問題に、社会課題として光が当たることが多くなってきました。マイノリティの生きづらさや制度上の問題も議論される場が増えている。
 でも、マジョリティの側に生きづらさはないのか。それは決してマイノリティの生きづらさを矮小化し打ち消すためではなく、マジョリティ側の問題が見落とされていないか、というのが赤坂さんのご指摘です。ご本の中で書かれているように、マジョリティの中にも多様な違いがあるわけで、マジョリティとされている自分が周囲と大きくずれていると思っている人はたくさんいるはずです。
 赤坂さんのこのご本では男女の話も出てきますが、社会では一般的に男性が「マジョリティ」とされています。だから男性はとくに困っていることもないだろうし、別に生きづらいこともそんなにないだろうと。女性は人口の半分、男性と同じだけいるのに「マイノリティ」として生きてきて、女性の生きづらさは様々に語られてきました。一方で、男性はマジョリティとされているがゆえに自分自身を語る言葉も、探る言葉も持つことができず、誰からも語られず、眼差されることもなく、立ちすくんで困っている状態です。このことを赤坂さんは繰り返し指摘されていて、非常に今日らしい問題だなと思って拝読しました。

赤坂 数で言ったら男女同じなのに、男性がマジョリティという不思議な言われ方をするのは、「男性が今の社会の体制側」と捉えられているからでしょうね。労働市場に適した存在、とも言うことができる。
 そこで今思ったのですが、セクシュアリティやジェンダーの話をするとき、透明にされがちなのが「シスジェンダー(生まれた性に違和感がない)」の「ヘテロ(異性が好き)」と前編で言いましたが、それに加えて、「男性」、フェミニストの中には「シスヘテ男」を「体制」とほぼ同義に使ったり、ひいては「諸悪の根源」の意味にしている人までいます。それはある意味、男を人間扱いしていないということ。岩や壁みたいなものと思っている。邪魔だし、いくら叩いてもいいとも思っている。

 男性はマジョリティ中のマジョリティ、透明中の透明。それでは「生きづらさ」なんて訴えても聴いてもらえるわけがない。しかし、男性のこういう属性ならではの言葉になりにくさ、その陰にある生きづらさに注目する人は、増えてはいる。小島さんも「男性学」を提唱する田中俊之さんと対談されたり、男性の生きづらさに注目されていますよね。「話がない」ことにされる生きづらさは、それこそ話にしづらい。言語化が非常にむずかしい領域です。やっと言語化しても、「女はそんなの昔からよ」と言い返されたりして、沈黙する。それでよけいに「問題なし」ということになってゆく。

小島 社会の主流ではない人たちは周縁からその構造を見ているので、構造のど真ん中にいる人よりも構造が抱えている問題がよくわかるとされますよね。職場などは男性仕様で組み立てられているので、そこに参入した女性には構造の歪みが見えやすい。この社会で女であることがどれだけ生きづらいか、ということはずいぶん語られてきました。
 ではこの社会で男であることのしんどさについて生身の人に聞いてみようと思って、「どんなところが生きづらいか」を身近な男性たちに聴いたのですが、一様に固まって、急に言葉を失ってしまい、「考えたことがなかった」「こういうものだと思ってた」と言う人がすごく多いんですよ。

赤坂 ああ、無感覚?

小島 そうですね。これはあまり健全じゃないなと思ったんです。対話にならないので、こっちが「ちょっと今のこの構造っておかしいと思わない?」といくら語っても、言いっぱなしで終わってしまう。なんでこの人たちはこんなに言葉がないのか、という疑問が原動力となって、男性学の田中先生と対談してみたり、夫についていろいろ考えたりしてきたんです。

赤坂 私は男性から「生きづらい」という言葉はそんなに聞かなかったんだけど、「罪悪感がある」と男性自身が言うことに、よく遭遇してきたんですよね。それは傍から見ると恵まれた男性、本当に社会のメインストリームにいるような、学歴があっていい会社に勤めている、一見問題なく見える男性なんだけど。ジェンダーというよりはたぶんセクシュアリティの面で、男性であることに罪悪感を抱く。「罪悪感」とまで言うのはかなりのことだなと思って、それがすごく気になったんです。男性の生きづらさや罪悪感が本当にあるとしたら、それってどういうものかをすごく知りたかった。

 それで聞いてみてわかってきたのは、ベタな日本史の話になってしまうんだけれども、戦争に負けて、その戦争が悪いことにされて、さらにそれは全部男の人がやったという語りになっていったことに淵源があるのではないかなと。それが事実であるかないかにかかわらず、なぜかそういう語りの形になっていって、それが非常に社会に浸透していて、事あるごとに男性はそれに遭遇してきたんだろうと思う。教育を通してとか。
 男性の生きづらさ、女性の生きづらさはいろんな社会の中にあると思うけれども、その日本型としては、男性の罪悪感はそうやって刷り込まれてきたのではと感じました。

 それで私は、本の中に書いたのですが、社会的には喝采が多かった、上野千鶴子さんの東大の入学式スピーチが、男性には残酷だと思いました。要約すると「みんな受験を乗り越えて入学してきて、男女平等だと思っているけど、選抜方式にはいろいろ不正があって、男性が有利に選抜されていたんですよ」という話を男性入学生として聞かされるのって、どういう感じなのかなと思って。それだけならともかく、知りもしない男の先輩が起こした集団レイプ事件のことまで語られて。
 そのとき大学院生を教えていたので、「男子はこれを聞いたらどう思いますか?」と言ったら、もう慣れてるって反応で、「まあしょうがないでしょう」というトーンなんですよね。唯一すごく怒ったのは台湾からの留学生の男子でした。わたしはもちろん女性の権利や尊厳は大事だとは思います。けれども、それを男性を非難するかたちで言う必要はないと思っています。それも、その当事者が不在のところで言うと、「男性はみな同罪」で、あなたたちも罪を背負いなさいという話になる。日本のフェミニズムの特殊性はそれだと思う。それは男性を敵とする学問のようだし、もっと言えば男性を絶滅させたいと思っている感じがします。

小島 もしかしたら東大に入ってくる時点で、エリート男子校育ちの学生さんも多いので、そういった同質性の高いコミュニティで男性が無自覚に身につけている視点や見えづらい社会の構造がある、ということを上野さんは言いたかったのかもしれませんが、それはご本人に聞いてみないとわからないところですね。
 罪悪感を抱く人というのは、おそらく感受性が高いというか、ジェンダー格差やジェンダーの刷り込みをちゃんと理解して、自らの性を「負えている」人だと思うんですよね。そして、それを負っていくと、自分が男であるということだけで何か原罪のようなものを背負っている気になってしまう。そういう人ってむしろ、赤坂さんも書かれていましたけれども、貴重な人材ですよね。中にはまったく罪悪感を抱くことなく、何が悪いんだ、うるさいことを言わずに黙ってろ、という人もいる。そういう人たちが社会の意思決定層に多くいると、男尊女卑が社会のデフォルトになってしまうので、改めて欲しいと言うのは当然です。
 罪悪感に関して、お話を伺っていて思い出したのが、ある30代の男性の言葉です。「好きな人に欲情した時点で自分の暴力性を感じてしまう」と。

赤坂 私もそういう話を聞いたことがあります。

小島 その人は、自分の罪悪感は女性のせいだとはまったく言っていないんですよ。ただ、いろいろ考えれば考えるほど、好きな女性に欲情している自分自身が暴力の塊に思えてしまうことがあって、どうしたものかと言っていましたね。その感覚は、相手の体に挿入する、いわば他者を侵襲する構造になっている性器を持っていない私には、正確にはわからないのかなとも思いました。異性の体は本当に想像することが難しい。もちろん男の人も女性のことが全然わからないと思うのですが。

赤坂 人間の心の多くは神経インプットや内分泌系でできていますから、これだけ身体の仕組みや神経の感じ方がちがうと、知覚されている世界もまったくちがい、心がまるでちがうのではないかと思います。しかし、そこを開示しあおうという発想が、出てこないんですよね。プライドや恥ずかしさというよりは、まずは、あまりにちがうことに思い至れない。もうひとつには、こと性に関することを、人はなかなかオープンに話し合えない。それで相手のことは本当にわからない。普通の男女カップルと思っていても、本当は異星人よりも違うと思ったほうがいいんじゃないかと思います。
 野口晴哉という整体の草分け的な人がいて。その人の言葉に「女性と男性だったら、女性とメスのトラのほうがまだ似ている」というのがあります。

小島 体を触っていて思うわけですね、そういうふうに。男性の体と女性の体とまったく異質であると。

赤坂 メカニズム面というのもあると思う。人間の女にも虎のメスにも月経があるとか。女性もメスも、自然の強制的な介入を受ける度合いが高く、共通体験が多い。

出来合いの物語に身を寄せてしまう危うさ

小島 赤坂さんの今回のご本の中で、ある男性が「女の人がされるようにされたい」と告白する場面があります。その人がどれほどの勇気を持ってそれを言ったのかに、赤坂さんが思いを致すくだりがとてもいいなと思って読んだんですけど、あの一節を読みながら、セックスは一つになって、同じことにいそしんでいるように見えるけれど、全然ちがうんだなと改めて思いました。

赤坂 そうなんです。ああ、ひとつのセックスをして、全くちがう経験を生きていたんだって、すごくびっくりした。そのことがわかったのは、前編でお話ししたトランスジェンダーの友人Mとの対話の中でです。
 Mは元ヘテロ男の経験からこう言いました「すべての男は、集中力を持たないと勃起がもたないことを、どこかで恐れていると思う」と。わたしは、セックスに集中力だなんて、考えたこともなかった。男性って大変なセックスをしているんだなあと、男性に非常な慈しみを感じたのは、ここです。つきあった男たちの話を総合するとそういうことでした。けれど、みなそういう端的な言葉にはなっていなかったんです。Mにその端的な言葉が言えたのは、男という体験を、今は外から見ることができているからではないかと思います。

小島 身体には本来そうした語られざる繊細さがあって、でも一方で男女関係においては「男性はこうあるべき」(あるいは「女性はこうあるべき」)という不文律がある。それに縛られてしまうから、自分の体の声と「男らしさ」とのギャップに苦しむやり場のない感情の矛先が、つい女性に向かってしまう人もいるかもしれないなと。それはさっきの罪悪感の話もそうなんですよね。中には「俺にこんな罪悪感を抱かせる女が悪い」と思う人もいるかもしれない。

赤坂 それは両性が思うような気もします。女が男に「受け身の暴力(passive aggression)」を振るうパターンというのも、わりとよくあります。不機嫌な顔をする、何をしても喜ばない、など。それもDV的暴力として知られています。どちらも抑圧された怒りだけれど、表現のされ方がちがう。どちらにしても、それは不幸なことですよね。

小島 不幸なことだと思います。そうじゃなくて、あなたをそうさせている物語は何なのかに目を向けることが大事なのではないかなと。赤坂さんが前に書かれた『愛と暴力の戦後とその後』の中に出てくるくだりで、とても好きな一節があるんです。

 物語は、明確にマジョリティを作り出す。だからこそ、マイノリティをくっきりと区別する。
 その意味で物語は、暴力性を孕んでいる。
 ある物語が支配的になると、そこには誘導性も生じる。同時に、人もそこからはずれるのがこわくなり、己の心をそれに近づけ始める。物語のこういう側面に気がつかないのは非常に危ないのではないだろうか。
 しかし、私は思う。物語は弱者(マイノリティ)にこそ必要なものではないか。
 人間が生まれるとは自然な現象だが、人間は、自然なだけでは生きてはいけない。自然なだけでは生きられない。
 生きていくのが難しい弱者こそ、物語によって自らを支えられる必要があるのではないか。(赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』)

 このくだりが私はとても好きで、何度も読んでいるんですけれども。自分を苦しくさせている物語は何で、その物語は誰が何の目的で語り続けているのかに本当は目を向けなければならない。男性が「男であることがしんどい」と思った時に、つい目の前にいる女性に矛先を向けてしまう理由は、「男らしさ」とはちがう物語が欲しいのだけど、それを認めたら自分は弱者になってしまうという恐怖があるのかもという気がします。だからこそ「あなたを縛っている物語は誰が何のために語っているの?」と問うことは、愛や性を考える上でも大事な気がするんですよね。

赤坂 おお、そんなことを書いていたんですね! 今、以前出した本を読んでいただき、書いた自分自身が、すごく救われた気持ちです。それで言うと、今回の本ではその認識を少しアップデートできた気がしています。

 物語って一度型ができるとそこに誘導性が生じる、と書きました。で、誘導性が生じたときに、当事者もそれに合わせたくなるんですよ。実はマイノリティにもそれが起こる。前編でもそのことに触れましたね。何が起きるかと言うと、マイノリティなりにマジョリティになりたがる。それが悪いとは言えないんだけど、マイノリティの中で差別を始めたりすることがある。主流の物語に乗っている私、権威の裏付けのある物語に乗っている私、完全な私と不完全なあなた、といった形で。

 私は「物語」をカチッと「定義」みたいにしてしまうのは怖いことだと思います。性同一性障害の場合、医療用語としての定義がそのまま物語になった度合いが高い。「心の性と身体の性がちがうんです」というように。非常に明快なので流通しやすいですが、そんなに明快なことが人間にあるんでしょうか。非当事者にもわかりやすくて広まるけれど、明快すぎる話って危険なように思うんです。当事者はきっちり線引きをしすぎて分断をつくり、非当事者は自分には関係のない話と思ってしまう。  

 たとえばトランスジェンダーでも、「私は生まれつき性同一性障害だったけれど、あなたは違うのよね」という言い方があるというのは、数人から聞いたことがある。それで生まれつきのほうが正統である、と差別する当事者がいるという。でもそれは悲しいと思うんです。正統も異端もないし、強いも弱いもない。「その人」がいるだけ。
 そして一人ひとり、本当はどうなのか、欲望のひとつひとつ、願望のひとつひとつを出してみたら、みんなが一人のマイノリティですよ。マジョリティもマイノリティも存在しない。全ての生が一つ一つ、海岸線の一つ一つくらいに違うから。

 でも、私たちは主流の物語があると、つい寄せたくなってしまう。ヘテロ(異性愛者)の落とし穴もそこにあります。「マジョリティがいるのではない、マジョリティになりたい人がいるだけだ」とわたしは思います。それでシスヘテは自分には問題がないと思いたがる。それが自分の問題を見るのを阻害する。自分の「問題」じゃなくて「本当の望み」でもいい。人間は本当の望みがわからないのが苦しいが、自分の本当の望みをうすうす分かっていて、無視することも多い。それで主流の物語の流れに寄ろうとする。
でもそれは、自分で自分を縛っていると思います。自分で自分を縛っていることほど、誘導からさめにくいことはない。それをいちばんしたがるのが、シスジェンダーのヘテロで、自分で自分を縛ったからこそわかりにくい、ということをまずは書きたかったんです。

小島 社会を運営していくうえではおそらく、必ず何かしらの物語が必要ですよね。制度を作る上では。だから物語をゼロにはできないし、どの道、なにがしかの物語に巻き込まれて生きていく。でもその物語は自分の痛みや自分の存在そのものを100パーセント規定するものではない。
 社会には大きな物語が必要で、その文脈では自分は「マジョリティ」という器に入れられるのだけれども、その大きな物語は、自身の痛みや得体の知れなさを否定したり書き換えたりすることはできない。あなたは自分自身に「大きな物語に寄せて行かなくてもいいんだ」と言っていいんですよ、と書いてあったんですよ。今回の赤坂さんの本に。
 そういう励ましが各所に出てくるんです。読みながら何度も赦されたというか、そこにいていいと言われたというような感覚を得ることができました。

赤坂 うれしいです。涙出ちゃいました。

人生とは途中から入った映画館のようである

小島 そこで最初の質問に戻るんですが、赤坂さんはなぜこれを今書きたかったのかなと。やはりご自身が苦しかったということがベースにあったのでしょうか。後半には昨年亡くなったお母さまとの印象的なやり取りのくだりも出てきますが。愛と性と存在を考えるうえで、家族とのことは、やはり欠かせなかったんでしょうか。

赤坂 考えていると、どうしても家族のことになってくるんですよね。
 どうしてかな、と思ってたんだけど。
 一つには、恋愛するような対象には、親を投影するということ。もうひとつは、だいたいの悩みや苦しみは家族由来であること。家族が悪いとは言っていないけど、そこに生まれ落ちたということですね。本当のところを言うと、自分が性的な存在だと知らずにそこに生まれ落ち、性的な存在として扱われる、それは原初の痛みだろうと思います。ジェンダーの話とは別です。

 得体のしれない鬱やら苦しみやらが繰り返しくるので、セラピストのところに行っていたことがありました。そうして、よくなりつつも、何度も何度も、親のことがループで出てきちゃう。私は特に母親のことが出てきたんですけど、とうとう「この期に及んでママかよ!」って叫んでしまったことがあるんです。
 そうしたらそのセラピストは「どの子も、どの期に及んでもママなのよ」と言って。そのとき、すごくほっとしたような、赦されたような感じがしました。こう言った別のセラピストもいます。「『道に倒れて誰かの名を呼び続けたことがありますか』という歌があるけど、わたしは、あるよ。でもそれ、男じゃなくて、『ママ』だったね」と。その正直さには救われました。そうか、どの子にとっても、原初の存在であり、最後の存在なんだと、いつまでたってもママにとらわれる自分を他人に恥じなくなったし、ダメなんだと自己卑下もしなくなった。そこを隠さなくなっただけでも進歩かな。

 どうしても親との関係の投影が、だいたいの人間関係を作っている。それ、いい悪いではないです。全く無力なときからいた、親との関係が全てのベースになっている。認知も神経系も、そこでできる。
 そして、親は親で、多くは自分の問題でいっぱいいっぱいなわけです。責められることではないですが。自分の問題を抱え込みすぎて、子供を子供として扱えないときがある。そのときに子供は傷ついてしまったりする。子供は100パーセント子供だけど、親は、時にただの女だったり男だったり、妻だったり夫だったり、嫉妬したりパートナー間で愛情の問題があったり、そもそも自分が親やいろいろな人との間で傷ついたことが未消化だったりしている。親はそういう人として子供に接している、ということを子供の頃は私たちは知らない。虐待があった、ない、という話ではなくてです。
 親が悪いというのとは違う、でもその傷がどこから来たかは見ないと、対処法が的外れになる。そして、それを親に癒やしてもらうことはできなくて、あるときから自分で自分を癒さなければいけない。

小島 子供って、途中から映画館に入った人みたいだなと思うことがあります。上映中の映画館に途中から入ると、いきなり大画面にママやパパが映っているんです。だからママやパパの話なんだなあと思って見ていると、なんだか意味がわからなかったりするんですよね。それは当たり前で、それはママやパパになるシーンの前に、若者だったシーンや少女だったシーンがあったんですよね。その人はその物語を生きてるんだけど、途中から入ってきた子供には、「話の筋がよくわからないから説明してくれる?」ってことになってしまうというか。

赤坂 「いつ、僕の人生の話になるの?」みたいなね。

小島 そうそう。何か親子にはそういうすれ違いがあるよなって、自分が親になってしばらくして、ああ、なるほどと思ったんですけど(笑)。

赤坂 私、小島さんの書いたものがすごく好きだって思ったきっかけが、高橋源一郎さんの本の書評にあったこういう文章でした。「人生って、そこにいた人が消えたり、いなかった人が現れたりすることだ」。本当にそうだなあと思って。誰にとってもたぶん、人生って、途中から入った映画みたいな感じがすると思うんです。

小島 ありがとうございます。
 さて、色々お話をしてきましたが、ご本の中でぜひ読んでいただきたいのが、お母さまとのシーンです。赤坂さんが、お母さまとのことを縷々考えているうちに、あっと思うところがあるんですよね。お母さんと自分の関係を考えたときに、母の前で自分はどうありたかったか、母にこのように眼差されたかったんだということに気づくという、あのくだりもとても好きで。「あの人にこのように眼差されたかった」という自分を、内なる子供として抱え続けることってあると思います。

赤坂 そのシーンを愛していただけてとてもうれしいです。自分自身、あっと驚くようなことでした。そう、タイトルに「愛と性」という言葉を用いたのは、別にセックスのことではなく、人間は生まれてから死ぬまで性的な存在だと思ったからなんです。たとえば母親が女で、私が女。そういうところからもう性的な存在であると。そこから影響を受け始めて、ずっと死ぬまで生きる。

 母が女で、娘が同じ女。その時点で母という女が、とても無自覚に娘に夢を投影し始めたり、逆に無自覚に嫉妬や対抗意識を持ったりする。父と息子もある。けれどなんと言っても、生物にとって影響が大きいのは母だと思う。これは、ジェンダーの話ではないです。もう少しむき出しに性的存在のこと。自動的に起こる、恋みたいな感じ、あるいは葛藤、対立。セックスなんかはまるで関係なく、たぶん性別で起こる原初の自動反応。そしてのちにその子のセクシュアリティにもセックスにも影響すること。そういうことが、言葉も意識の構造もできないうちに起きて決定的な影響を持つことってあるんだろうなあと。
 自分自身、呆然としながら、それを言ったし、書きました。

 言葉以前の記憶だから、意識化できない。そんなことが、きっとあったんだろうと思った。多くの人にあることだろうとも思った。それで、そのシーンを書きました。死にゆく母に告白するシーンです。どうしてそんな告白が湧いて出たのかわからないのですが、「わたしは息子としてあなたに愛されたかった」と。

 不思議なのは、そう言ってからの自分が、この上なく女だなあと思えたことです。自分の、見つけられなくなっていたかけらを取り戻せたからなのかもしれない。うまい説明はできない。ただ、意識の構造さえできあがっていない昔に感じて、自分でも取り出せなくなっていたことがあったんだろうなあと思いました。もう、けなげなくらい一生懸命やっていた自分がいるんです。よく「マザコン」って男の子に使うけど、女のマザコン、娘のマザコンというのももちろんあります。

小島 今回のご本を拝読して、自分が性的な存在として何者であるかを探す旅の始まりにそばにいた人って、やっぱり両親だなあと感じました。自分自身もまだその芽生えに気づいていないときに、両親と一緒にいることによって何かが照射されて、性的なものに気がついた瞬間って、私にもいくつか記憶があります。
 それはわりと嫌悪とか恐怖を伴うものだったりしたんですけれど、明らかに私の中にピカッと光ったものを最初に反射して、私の中に戻してくれた人は両親だったなあと、改めて思いました。性と愛の根源が親にあるというのは納得がいくなと。これからお読みになる方は、それを赤坂さんがどんな言葉で綴っているかというところ、そこもとても美しいところなので、注目していただきたいなと思います。

赤坂 そうですね。そこで、忘れていた父の愛を取り戻す、ということにもなったのは、全体としてとても美しい体験でした。それを体験していただけたのでしたら、こんなにうれしいことはありません。今日はありがとうございました。とても滋養になる対話でした。
 多くの人に届いたらと願っています。

(2020年12月2日、オンラインにて収録)

プロフィール
赤坂真理(あかさか・まり)

1964年東京生まれ。95年「起爆者」で小説家に。『ヴァイブレータ』は寺島しのぶ、大森南朋の主演で映画化された。2012年、アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通じて戦後を考えた『東京プリズン』が話題に。同作で毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞、紫式部文学賞を受賞。体感を駆使し、社会性と個人性が融合した独自の作風を持つ。『モテたい理由』、『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)など批評との中間的作品も多く手がける。

小島慶子(こじま・けいこ)
1972年オーストラリア生まれ。エッセイスト。東京大学大学院情報学環客員研究員。95年にTBSに入社。アナウンサーとしてテレビ、ラジオに出演。2010年に独立後は各メディア出演し、講演・執筆など幅広く活動。2014年からオーストラリア・パースに教育移住。自身は日本で働きながら、夫と息子たちが暮らす豪州と行き来する生活を送っている。著書に『解縛――母の苦しみ、女の痛み』、『わたしの神様』、『不自由な男たち』(田中俊之との共著)など多数。

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