カメラ付き携帯:「弱小連合」が成し遂げた、執念の逆転劇――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』(2)
情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。
弱小タッグが世界を変えた――カメラ付き携帯 反骨の逆転劇
1 崖っぷちの弱小連合
世界を一変させることになる製品
今からおよそ四半世紀前、2000(平成12)年の日本で生まれた一つの発明品が、世界中の風景を一変させた。背面にカメラを内蔵し、撮影した写真をメールで送ることができる携帯電話。世界初の製品だった。
ささやかな日常を携帯電話で撮影し、瞬時に誰かと共有する。人々はたちまち夢中になり、大ヒット製品となった。街中で自撮りをする若者、子どもが公園で遊ぶ姿を撮影する親たち、イルミネーションを撮影する人々――今や当たり前となった光景は、全てここから始まった。
開発したのは、「弱小連合」とも呼ばれた2つの企業だった。
「繫がらない電話会社」と揶揄されていたJ‐PHONE。先行するライバルに大きく後れを取り、打開策が求められていた。高い技術開発力を誇りながらも、携帯電話市場に出遅れていたシャープ。事業部そのものが存続の危機に立たされていた。
いずれの会社も、当時の携帯電話事業で辛酸を舐めるような思いをしていた。だが、開発に携わった社員たちは決して腐ることなく、自分を信じて、ただひたむきに仕事を続けていた。
カメラ付き携帯のアイデアを生んだ男は、退路を断って、敢然と開発にかけた。そのアイデアを形にした男には、苦節15年にも及ぶ、不屈の過去があった。
崖っぷちに追い込まれた者たちによる世紀の開発物語。これは、反骨のエンジニアたちが成し遂げた、執念の逆転劇である。
最後尾からのスタート
1970(昭和45)年に開催された大阪万博。日本電信電話公社(現・NTT)が運営する電気通信館に、多くの人が行列を作っていた。
お目当ては、ワイヤレステレホン。電話線のない、持ち運べる電話である。万博の展示室に訪れた人々は、未来の電話を自由に手に取り、全国どこへでも電話をかけることができた。いつどこにいても、遠く離れた誰かの声を聞くことができる。携帯電話は、まさに夢の技術だった。
その夢の技術は、20年も経たずに、人々の手が届くものとなる。
1980年代後半、日本は新たな通信の時代に突入した。1985(昭和60)年、通信の自由化により、電気通信事業への新規参入が可能になると、従来から携帯電話サービスを提供していたNTTを追って、1988(昭和63)年に日本移動通信(IDO)が、その翌年にはDDIセルラーグループが、それぞれ携帯電話サービスを開始する。端末は手のひらサイズに小型化され、利用料金も低廉化が進んでいた。誰もが電話を持ち運ぶことが当たり前の時代がすぐそこに迫っていた。
1991(平成3)年、とある携帯電話会社の設立が発表された。東京・市ヶ谷の雑居ビルで創業した東京デジタルホン、後のJ‐PHONEである。携帯電話事業の競争に出遅れ、最後尾からのスタートだった。
東京デジタルホンは、急成長する市場にあやかろうと、国鉄の鉄道通信インフラを引き継いだ日本テレコムを中心に、鉄鋼会社、自動車メーカーなどが出資して作られた。100人ほどの社員は、大半が出資元の企業からの出向者。内実は急場で作った「寄せ集めの会社」だった。
トラブル対応に追われる日々
新会社が携帯電話サービスを開始したのは、設立から3年後、1994(平成6)年4月1日のことである。
だが、その直後からトラブルが相次いだ。8月には、契約している約3万台の携帯電話すべてが、5時間にわたって受信できなくなるという大規模な通信障害を起こした。異常に気付いたユーザーから、クレームや問い合わせの電話が殺到し、社内総出でお詫びする騒ぎになった。
トラブルが起きるたびに矢面に立たされたのは、携帯電話の端末を調達してきた端末課の面々だった。
創業間もない通信事業者は、アンテナを設置する場所を一から確保し、基地局を1局1局、何十万と設置していかなければならない。資金や人材の多くは、そうしたネットワークづくりに割かれることになる。そのため、通信事業者の花形ポジションといえば、基地局や、基地同士を繫ぐ交換機を扱う部署であり、川下に当たる端末課は末席ともいえる部署だった。
携帯電話のトラブルは、端末とは関係がなく、ネットワークなどに原因がある場合も少なくない。しかし、一般ユーザーの目に見えるのは、電波やシステムではなく、自分の手元にある端末である。障害が発生した際に、端末にクレームが集中するのもやむないことだった。
「大事な時に電話が繫がらなくて損をした。どうしてくれるんだ!」
怒り心頭のユーザーが後を絶たなかった。端末課のメンバーは、菓子折持参で訪ね、話を聞き、頭を下げる日々を続けた。
素人集団の端末課3人組
この時、端末課に集まっていた3人は、通信とは畑違いの業界から来た、全くの素人集団だった。
太田洋は、大学の海洋資源学部を卒業後、工事現場の地盤調査、石油探査の技術開発職を経て、新日鐵でエンジニアとして働いていた。地盤調査をしていた時代は、ダイナマイトを背負って、年間300日近く現場から現場へと渡り歩いていたこともある。ガッツはあるが通信のことなど分かるはずもない。東京デジタルホンへの出向が決まった際も、そこで自分が何をするのか、知らされていなかった。
トヨタ自動車から来た北村敏和は、出向を命じられる少し前、入社以来携わっていたプロジェクトが解散となり、いわば社内失職の状態にあった。その矢先に舞い込んできたのが、出向の辞令だった。
「急に『東京デジタルホンという会社に出向してもらうことになったから』と言われて。何の会社なのか全く分かっていなかったんですけど、独身で身軽だったし、本当に軽いノリで『分かりました』と返事をしました」
一方、東京デジタルホンへの出向に密かな希望を抱いていた者もいた。自動車メーカーのマツダから来た高尾慶二である。高尾は地元の高専を卒業後、大学、大学院と電気工学を学び、マツダに入社した。機械系の技術者が大半を占める自動車メーカーでは少数派の電気系エンジニアとして、走行中の自動車の衛星通信技術に関する研究開発に没頭していた。
マツダは社員3万人を抱える大企業である。そこからたった100人の会社への出向を「左遷」と見る向きもあった。しかし、高尾の思いは違った。
「自分の中では左遷的な意味合いはなかった。携帯電話という道具をもらって、これがめちゃくちゃ面白かった」
大企業では歯車の一つに過ぎない自分も、出向先では誇れる仕事ができるかもしれない。そんな期待もあった。通信技術に大きな可能性を感じていた高尾にとって、携帯電話会社への出向は、自動車メーカーでは知り得ないノウハウを吸収する絶好のチャンスだった。
新参者に立ちはだかる壁
だが、現実は思いのほか厳しかった。
開業時、後発の東京デジタルホンに割り当てられた周波数帯は1.5GHz帯。先行する大手の800MHz帯に比べると、障害物に弱く、屋内やビルの陰では電波が届きにくい。その結果、「あそこの電話は切れる」「繫がりにくい」という、携帯電話会社としては致命的なレッテルが貼られてしまった。市場の8~9割は大手で占められ、新参の東京デジタルホンのシェアはわずか数%にすぎなかった。
端末を作るメーカーも、大手にがっちりと押さえられていた。当時、国内の携帯電話は、1980年代後半にNTTが開発したPDCという通信規格を使って作られていた。新しい機種を開発するには、PDCの標準書を理解し、それに則って進める必要がある。ところが、開発に必要な情報の全てが、標準書に網羅されているわけではなかった。
「標準書の情報は、実際に端末を開発するのに必要な情報の10分の1ぐらいじゃないか、ってよく冗談で言っていました。見えない部分の情報を得るのは苦労しましたね」
太田が語るように、実際の端末開発では、文字化されていない情報やノウハウが不可欠だった。それを持っているのは、NTTドコモの端末を作ってきたNEC、パナソニック、富士通などの大手メーカー。しかし、そうしたメーカーにとって、後発でシェア最下位だった東京デジタルホンの優先度は低く、共同開発を依頼しても応じてもらえない。新しい機種を開発するどころか、型落ちの機種を薦められることが多かった。
北村は、そんな状況が悔しくて仕方がなかった。
「まずドコモさんで売って、良かったものをデジタルホンさんにもお裾分けします。そんな感じでしたよ。二番煎じにしかならないのが本当にふがいないし、怒りのぶつけどころもなかった」
溜まったストレスを発散するため、端末課のメンバーは、深夜のゲームセンターに通い詰めるのが日課になった。仕事でくたくたになって、みんなでゲームセンターへ行き、当時流行していた格闘ゲームで憂さを晴らし、終電で帰る。そんな日々が続いた。
父から学んだものづくりの精神
高尾は、このまま終わりたくなかった。
高尾という人物のベースには、ものづくりの精神があった。その原点は、故郷で過ごした家族との日々にある。
高尾が生まれたのは、長崎県大瀬戸町(現・西海市)。晴れた日には五島列島を望める、海沿いの自然豊かな環境で育った。決して裕福ではない暮らしの中で、鍛冶屋を営んでいた父・龍一は「物がないなら作ればいい」と、どんなものでも自分で作った。稲を田んぼから運ぶ機械も、縄を編む機械も、自ら設計して手作りした。そんな父の背中を見て、高尾は成長した。
中学生になったある日、高尾は、海に向かって空を飛ぶ夢を見た。「何か作って飛んでみたい」。そう思い立って、ハンググライダーを作りたいと父に相談した。
「材料は山に生えている竹を自分で切るなりして用意しなさい。縄は細い方がいいだろうから編んであげる。なたやのこぎりはここにあるものを使いなさい」
父はそう言って必要な情報を与え、息子がやりたいことを否定することなく、温かく見守ってくれた。
「おやじは、道具がなければ作ればいい、材料がなければ何かで代用すればいいと考える人でした。今振り返ると、ないから諦めるんじゃなくて、想像を膨らませることで実現できるんだ、ということを教えてくれていたんだと思います」
高尾少年は、完成したハンググライダーを自宅近くの斜面で試してみた。一瞬ふわっと浮いたように思えたが、空を飛ぶにはほど遠かった。だが、ハンググライダーを作っている間に味わった、新しいものを生みだす高揚感は高尾を魅了した。自分のアイデアが形になり、たとえ失敗しても結果から学んでステップアップしていくことの面白さは、高尾がその後歩むものづくりの道の原体験となった。
高尾だけでなく、端末課のメンバーには新しいことに挑戦したいという強い思いが共通していた。大手キャリアに追いつき、追い越したかった。勝てないから諦めようとは思わなかった。
そのころの自分たちを、端末課の面々は口をそろえて「動物園みたいだった」と笑う。トレンドに敏感で楽しいもの好きなリーダー格の太田。冗談が好きでみんなを笑わせていた北村。真面目で芯が強い高尾。それぞれ性格も発想も違えば、バックグラウンドも歩んできたキャリアも違う。ライオンもいれば、キリンもいれば、ゾウもいる。個性のかたまり同士が一つの檻に集まり、同じ方向を向いていた。
新しい端末作りへ
開業から数年が経っても、加入者は伸び悩み、東京デジタルホンの苦戦は続いていた。そんな中、社内で新たなサービスの準備が進んでいた。携帯電話で文字のメッセージをやり取りするサービスである。
1990年代半ば、若い世代のコミュニケーションツールの代表格といえば、ポケベルだった。ポケベルは、受信したメッセージを表示することはできるが、送信機能はない。そのため、街中の公衆電話には「ベル友」にメッセージを送ろうと、高校生が列を作っていた。
携帯電話から文字を送受信できるようになれば、その手間はなくなる。しかも、若者に文字通信の文化が根付いたことで、携帯端末を使ったメッセージの送受信には、将来的なニーズも期待できた。東京デジタルホンの狙いは明確だった。
1997(平成9)年、携帯電話単体でメールを送受信できる「スカイウォーカー」のサービスが始まり、目論見通り、若い世代を中心に人気を博した。この年から、デジタルホングループは「J‐PHONE」をブランド名として使い始め、スカイウォーカーが評判になったことで「メールのJ‐PHONE」と呼ばれるようになった。とはいえ、いまだシェアは10%にも届かず、先行する2社には遠く及ばない。
時を同じくして、新しい端末作りに苦しんでいた高尾の脳裏には、一つのアイデアが浮かんでいた。スカイウォーカーのような非音声系サービスをさらに充実させ、メールの利便性を高めるには、画面に表示できる文字数をもっと増やさなければならない。そのためには大きな液晶が必要になる。
ある日、ある端末メーカーの営業マンが、高尾の前で言葉をこぼした。
「高尾さん、このままだと、うちは携帯事業から撤退せざるを得ない状況なんです」
そのメーカーとは、当時J‐PHONEと付き合いのある端末メーカーの中で、最も売上高が低かったシャープである。
「ちょっと待って」
高尾は驚いた。高尾は、高専時代にシャープの天理工場を見学した時のことを鮮明に覚えていた。当時すでにシャープは高い液晶技術を持ち、壁掛けテレビの研究開発が進められていた。液晶技術だけでなく、小型携帯情報端末・ザウルスを生み出した発想力やデジタル技術もある。これからのJ‐PHONEが求める技術を持っているメーカーは、ほかでもないシャープだと考えていた。
「J‐PHONEとシャープが手を組めば、もっと売れる端末ができる。事業撤退はもったいない」
そう直感した高尾は、シャープに端末の共同開発を持ちかけた。
弱小タッグ誕生
実際、当時シャープの携帯電話事業は存続の瀬戸際にあった。
シャープの携帯電話事業は、1993(平成5)年にパーソナル通信事業部を発足させたことに始まる。それまでPHSを軸に業績を伸ばしていたこともあり、携帯電話市場への参入が遅れ、大手メーカーでは最後尾からのスタートだった。しかも、家電ブランドであるシャープには、携帯電話開発の技術力やノウハウが足りず、代名詞でもある液晶技術も、携帯電話端末では生かし切れていなかった。畢竟、通信キャリアとの関係構築にも出遅れていた。
販売実績は伸び悩み、思うように利益が上がらない。新たな機種を開発する予算も捻出できない。ヒト・モノ・カネの全てが足りなかった。
事業部を率いる山下晃司と植松丈夫は、80人の部下を抱え、追い込まれていた。そんな折にJ‐PHONEから舞い込んできた端末共同開発の打診。渡りに船と飛びついてもおかしくない状況だったが、植松は冷静だった。
「すでに携帯電話では何度も苦汁をなめていました。だから、すぐにやろうということにはならなかった。まずは話を聞いてみよう、というニュートラルな気持ちでした」
植松は、事業部がある広島から東京のJ‐PHONEを訪ね、高尾たちの提案を聞くことにした。高尾の提案は非常に具体的で、リアリティがあるように思えた。だが、これまでシャープは、通信キャリアと端末を共同開発した経験はない。果たしてこの提案がうまくいくのかも分からない。それでも答えは一つだった。「やるしかない」。
「今まで何度トライしてもうまくいかなかった。でもこの共同開発がうまくいけば、携帯電話の世界で、ようやく我々もステイタスを確立できるんじゃないか。そう思いました」
八方塞がりだった事業部にとって、その決断はまさに「背水の陣だった」と山下は振り返る。新しい機種を2つも3つも開発するだけの予算もなければ、リソースもない。もし失敗したら、いよいよ事業部の存続が危うい。
ただ、最後発で最後尾のシャープには、失敗しても失うものがなかった。なにより山下は、J‐PHONEが、端末メーカーの中でも弱小のシャープを選んでくれたことがうれしかった。通常、端末開発の主導権は通信キャリアにあり、メーカーの立場は弱い。しかしJ‐PHONEの提案は「共同開発」だった。端末の仕様や戦略を一緒に考え、お互いが対等な立場で話し合うことができる。キャリアの指示通りにものをつくるより、面白いことができると思った。
業界最後発同士の共同開発は、失敗に終わる可能性も十分考えられた。しかしこの時、高尾にも植松にも、未来が「見えて」いた。
「普通なら、弱小と弱小が組んでも何も起こらないと考えるかもしれませんが、私には見える景色があった。だから組みたいと強く思いました」(高尾)
「お互い最後発ですが、それぞれ長所がある。J‐PHONEは型にはまらない斬新なサービスに積極的で勢いがありました。シャープは家電で培った技術やノウハウがあり、液晶やカメラの部品力に長けていた。その2社が融合することで、新しい世界が広がったんだと思います」(植松)
両社が目指したのは、液晶を前面に押し出し、ポケベルよりも長いメールを送ることができる携帯電話。このアイデアが、後にカメラ付き携帯電話に発展することになる。
伸び悩む電話会社と、端末メーカーの崖っぷち事業部。下剋上を狙う弱小連合は、こうして誕生した。
2 「撮って送れる」カメラ付き携帯電話
iモード革命の衝撃
1997(平成9)年、J‐PHONEとシャープによる携帯電話端末の共同開発が始まった。その翌年には、共同開発1号機となるJ‐SH01を発表。大きな液晶画面に、当時最多の48文字を表示できることが話題になり、シャープの端末としては初のヒットを記録した。
しかし、喜びもつかの間、端末の内部で基板から部品が剥がれ落ちる故障が相次ぎ、生産ラインを止める騒ぎが起こる。東京に出張中だった山下は、駅のホームで上司から電話を受け、トラブルを知った。
「どやされましたよ。大変なことになってる、どないなっとんや!って」
故障が起きた要因は、ユーザーが端末をどのように扱うかという理解が不足していたことにあった。例えば、ポケットに端末を入れたまま座る場合など、強い物理的ストレスに耐えうる設計や技術の蓄積がシャープにはなかった。新しい技術を盛り込みながら短期間で開発したひずみが、故障という形で現れてしまった。
さらに、1999(平成11)年1月、衝撃的なニュースが飛び込んできた。業界最大手のNTTドコモが、携帯電話だけでインターネットにアクセスできる世界初のサービス「iモード」を発表したのだ。
iモードの登場は、携帯電話に革命的な変化をもたらした。ニュース、天気予報、株価情報、モバイルバンキングなど、iモード向けのコンテンツが次々に登場し、ユーザーはいつどこにいても、携帯電話さえあればインターネット経由でさまざまなサービスが利用できるようになった。発表からわずか半年で、100万人のユーザーがNTTドコモに殺到した。J‐PHONEには解約の申し出が相次いだ。
「やられた」と太田は思った。実はJ‐PHONEも同じようなサービスを開始すべく準備を進めていたのだが、先を越された。それだけではない。すぐには真似できないと頭を抱えたのは、iモードでドコモが導入したパケット通信だった。
パケット通信とは、通信データを一定の長さのパケットに分割して送受信する通信方法をいう。通常、携帯電話のような無線通信にはノイズが入りやすいが、パケット通信はエラーが起きたパケットだけを再送できるので、効率的にデータ通信を行うことができる。
しかし、当時のJ‐PHONEには、パケット通信に投資する余裕はなかった。
NTTドコモの資本力、社会への影響力、加入者数を考えれば、iモードは脅威以外の何物でもなかった。
退路を断って新機種開発へ
悔しかったのは、端末開発の責任者になっていた高尾も同じだった。
一人のエンジニアとしては、iモードの技術に感服せざるをえない。しかし、非音声系サービスにJ‐PHONEの活路を見出していた身としては、ウェブサービスでiモードに先を越されたのは痛恨の極みだった。
ヒト・モノ・カネの全てを持つドコモと、ないないづくしのJ‐PHONE。同じ土俵で戦っても勝算は低い。iモードとは違う場所で戦わなければならない。何をすればいいのか――。高尾は悶々としていた。
解約率の上昇に焦ったJ‐PHONEの上層部は、悩みを深める高尾に対して、彼の考えとは真逆の指示を出した。「大手を真似た端末を開発してはどうか」というのだ。
「当時、ドコモとIDO・セルラーグループ(後のau)が、音楽プレーヤー機能付きの端末を出すという噂がありました。だから『お前も作れ』って言われたんですよ。でも、違う。何かが違う」
高尾は、自分たちの最大の強みは「メールのJ‐PHONE」であることだと踏んでいた。音楽プレーヤー付き端末は、その強みとまるで結びつかない。違う。端末課の同僚には真面目なサラリーマンタイプと評されていた高尾だが、「他社を真似ろ」という上からの指示は一切聞かず、馬耳東風と受け流した。
この時、高尾はすでに出向者の立場ではなくなっている。出向期間が終了した後はマツダに戻る予定だったが、そうはしなかったのだ。
携帯電話会社への出向が決まった時、高尾は通信の専門的な技術やノウハウを学び、マツダに持ち帰るつもりでいた。しかし、東京デジタルホンでの仕事は、高尾を想像以上にワクワクさせるものだった。マツダでは、製品のほんの一部分にしか関わることができないが、端末課ではユーザーに喜ばれる端末のスペックを考え、ものを作り、届けることができる。しかも、新車の開発スパンに比べると、携帯電話の開発スパンは1年と短い。
ユーザーにダイレクトに繫がるものを、次々と生み出せる携帯電話の仕事に、高尾はすっかり魅了されていた。
マツダに戻るか、J‐PHONEに残るか。同じ端末課の太田や北村に相談したことがあった。話を聞いていた太田は、こんな言葉を返してきた。
「高尾君さ、残る前提で話してるじゃん」
その言葉で自分の本意に気付いた高尾は、腹をくくった。安定した自動車メーカーを辞め、業界最下位で、いつ潰れるか分からない携帯電話会社で働く。1996(平成8)年春、高尾は退路を断って、新機種開発への思いを新たにしていた。