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訃報から3年、医師・中村哲さんが遺した唯一の自伝『天、共に在り』より、用水路の全線開通の瞬間を記した「序章 アフガニスタン二〇〇九年」を追悼公開します。

本がひらく

 アフガニスタンに1600本もの井戸を掘り、25キロメートルにおよぶ用水路を拓いた日本人がいたことを知っていますか? パキスタンとアフガニスタンの国境地域で、医療支援と旱魃・飢餓問題に30年以上取り組み続けた医師の中村哲さん。2019年12月4日に現地で凶弾に倒れてから3年が過ぎようとしています。今回は、中村さんの功績をさらに多くの方に知っていただくため、唯一の自伝で10万部超のロングセラー『天、共に在り』より本文の一部を抜粋して掲載します。


序章
アフガニスタン二〇〇九年

天命とはいえ——

 熱砂のガンベリ沙漠は人を寄せ付けない。摂氏五三度、強烈な陽光と熱風がいかなる生命の営みをも封ずる。沙漠は美しい。一切の人為と修辞を退け、りんと立つひとつの啓示である。
 ——二〇〇九年八月三日、この無人の荒野で働く四〇〇名の作業員が、最後の力を振り絞って働いていた。二〇〇三年三月の着工から六年五ヶ月、マルワリード用水路は、全長約二四キロメートルを掘り進め、最終地点に達しようとしていた。広大な沙漠にポツンと固まる点のような人の群れに、容赦なく熱風と砂塵さじんが襲いかかる。これを恐れていたのだ。予定では酷暑の到来する四月前に終えることになっていたが、予期せぬ難工事で遅れに遅れていた。連日熱射病で倒れる者多数、それでも皆は作業の手を休めない。この状態で中断すれば、予定は確実に一年延期される。最終地点があと十数メートルに迫り、作業員の間に気迫がみなぎっていた。
 午前十一時五十分、最終地点の護岸造成を指揮していた古参職員が伝えてきた。
「間もなくです。数分でしょう。みな疲れていますが、午前中までは持ちこたえます」
「よし、水を流せ」
 開通が近いと見て、前夜のうちに最終点から五〇〇メートル手前まで満水にしておいたのだ。土嚢どのうを外すと、たちまち堰を切ったように水が溢れ出し、勢いよく終点へと向かった。流水は次第に速くなり、歩く速さでゆっくりと、しかし確実に水路底を湿らせながら進んでいった。
 水を先導するように幅六メートルの水路を歩いていくと、すでに施工を終えた作業員たち四〇〇名が両岸に並び、固唾かたずをのんで見守っている。沙漠横断水路二・八キロメートル、取水口から約二四キロメートルの地点に最後の水門があり、ここから自然洪水路に水が落とされる手筈てはずになっていた。かっきりと正午、水は水門を通過、予定地点へと勢いよく流れた。全線開通だ。
「神は偉大なり!」
 期せずして歓声と拍手が起こり、真っ黒に日焼けしたひげ面の男たちが満面に笑みを浮かべて立ちすくむ。現場は興奮の渦に投げ込まれた。足かけ七年にわたる汗の結晶だ。用水路が三〇〇〇ヘクタール(町歩)の農地を回復した上、広大なガンベリ沙漠の開拓を約束した瞬間であった。この沙漠は、幅四キロメートル、長さ二〇キロメートル、アフガン東部でナンガラハル州とラグマン州との境にある。多くの旅人を葬り、死の谷として昔から恐れられてきた。それが今、豊かな緑地に転じようとしていた。
 ——私も興奮する群集の一人であった。思えば、医師たる自分が、本業を放り投げて、この水路現場の総指揮をとっていることが不思議である。天命とはいえ、数奇な定めである。こんな世界の片隅で、全く畑違いの仕事に精を出しているのが突然おかしくなってきた。通水を確認した途端、緊張が緩んだのか、苦笑と喜びがこみ上げてきて、哄笑こうしょうを抑えることができなかった。一九八四年に医師として現地赴任してから二十五年、初めてヒンズークッシュ山脈を訪れてから三十一年、あの時こんな場面に居ようとは夢にも思わなかったからである。

 アフガニスタン復興は、今もいばらの道である。この国を根底から打ちのめしたのは、内戦や外国の干渉ばかりではない。最大の元凶は、二〇〇〇年夏以来顕在化した大旱魃である。この農業国は、往時は完全な食糧自給を果たし、豊かな農産物を輸出して富を得ていた。それが、急速に進行する農地の沙漠化で廃村が広がり、流民が急増、食糧自給率はわずか五年で半減した。旱魃はなおも進行中である。しかし、派手な戦争報道を他所よそに、このことはほとんど伝えられていない。これは重大な点なので、後で詳しく述べよう。
 私たちPMS(平和医療団・日本)はパキスタンの国境の町ペシャワールを拠点とし、一九九一年以来、アフガニスタン国内に三つの診療所を抱える医療団体であった。しかし、二〇〇〇年夏、その一つの「ダラエヌール診療所」周辺がはなはだしい旱魃被害に襲われ、一時は一木一草生えない沙漠に帰した。渓谷の住民たちは一斉に村を空けて退避、栄養失調と脱水で倒れる子供たちが急増し、赤痢せきりで死亡する者が後を絶たなかった。餓えや渇きを薬で治すことはできない。医療以前の問題である。そこで、アフガニスタン東部の中心地、ジャララバードに「水源対策事務所」を設け、医療事業と並行して、飲料水源の井戸を掘り、灌漑かんがい設備の充実を進めてきた。餓えは食糧でしか癒せない。そして、食糧生産は農業用水を必要とする。数千町歩を潤して緑を回復する「マルワリード用水路」は、その帰着点と呼ぶべきものだったのである。「百の診療所より一本の用水路」と唱え、この約七年間、現場に張りついて指揮を取ってきた私は、このために全てを犠牲にした。現地三十年に迫る経験、いや、物心ついてから得た全ての知識と経験を傾注したといっても、決して過言ではない。その結実を今目前にしようとしていたのである。

アフガニスタンとの縁

 私とアフガニスタンを結んだのは、昆虫と山である。今から三十五年前の一九七八年六月、福岡の山岳会「福岡登高会(故・池邊勝利会長)」のヒンズークッシュ遠征隊に参加したのがきっかけであった。ヒンズークッシュ山脈は、ヒマラヤ・カラコルム山脈に連続する大山塊で、最高峰がティリチミール(七七〇八メートル)、世界の屋根の西翼をなしている。アフガニスタンの大部分が、この大山脈にすっぽり包まれる。我々が作ったマルワリード用水路もまた、その支脈ケシュマンド山系南麓を廻る。
 このヒンズークッシュ山脈の北麓にパミール高原があり、モンシロチョウの原産地だといわれている。また高い山岳地帯は、氷河時代の遺物といわれる昆虫たち、特にアゲハチョウ科のパルナシウス(アポロチョウ)が生息することで有名である。私は十歳の頃、昆虫のとりこになって現在に至るが、ヒンズークッシュは一度訪れたい場所のひとつであった。何も初めから、「国際医療協力」などに興味があったわけではない。
 その後の数々の出会いの連続が、自分をこの山に呼び戻したと言ってもよい。それらの出会いについては後で述べよう。あれ以来自分は、相も変わらず、広大なヒンズークッシュの山裾やますそを巡っているようだ。だが、目に見えぬ不思議な縁は、もっと広大である。もし昆虫に興味がなければ「アフガニスタン」と無縁であったろう。私を連れて故郷の山々を巡った郵便局長さんと出会わなければ——、山岳会の人々と出会わなければ——、ハンセン病診療に情熱を燃やすドイツ人医師と出会わなければ——、三十年近く命運をともにしてきた事務局のメンバーを初め、多くの日本人ワーカーと出会わなければ——、難民キャンプの診療がなかったら——、家族が別の人間だったら——、連綿たる出会いと出来事は、ヒンズークッシュの無数の山襞やまひだのようだ。白雪を頂く山々を見ていると、三十数年の歳月が夢のようで、奇妙な感慨がこみ上げてくる。

アフガニスタン——人と自然

 さて、アフガニスタンは、このヒンズークッシュ山脈の大部分を擁する山の国である。面積は日本の一・七倍、緯度は北緯二九度から三八度、ほぼ西日本の位置に相当する。ユーラシア大陸の中央にあり、完全な内陸国である。北はトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンの旧ソ連邦、西はイラン、東部と南部はそれぞれパキスタンのカイバル・パクトゥンクヮ州(旧北西辺境州)、バルチスタン州に接し、スレイマン山脈、スピンガル山脈がある二六四〇キロメートルの長大な国境線で隔てられる。北東部はワハン回廊でわずかに中国と接している。
 気候は中央アジアの乾燥地帯の連続で、寒暖の差が激しい。インド洋からもたらされる冬のモンスーンによって雨季があり、降雪が高山に氷雪を供給する。しかし、東のヒマラヤ山脈と比べて、雨量は少なく、年間降雨量は日本の五〜十分の一だとされている。四季はあるが、標高によって気温が異なる。
 人口は二〇〇〇万人とも、二四〇〇万人ともいわれているが、正確な数字は不明である。このうち農民が八割以上、遊牧民が約一割、その他高山で林業を営むものが数パーセント、というのが一致した割合である。大都市の首都カブールは特殊な地域で、全体が農業国家だといえる。険しい山岳地帯は征服者を寄せつけず、人々は深い山懐で自給自足の生活を送っているのが普通である。

共生の知恵

 昔から「民族の十字路」と呼ばれてきたように、複雑な民族構成もアフガニスタンの特徴である。ヒンズークッシュの大山塊は無数の深い谷を作り、谷ごとに民族や部族が異なると言えるほどだ。最大の民族がパシュトゥン族で約八〇〇万人、次いでタジク族、ハザラ族、ウズベク族、トルコマン族などがこれに次ぐ。小さいものを併せると二〇以上の民族とそれぞれの言語が入り乱れるモザイク国家である。このような中で、人々は古来から異なった集団同士の共生の知恵を身につけている。それは、彼らを結びつけるイスラム教と並んで、幾千年もかけて身に染みついた伝統と呼べるものである。
 民族だけでなく、部族構成はさらに複雑である。アフガン社会、特に農村部では地縁と血縁のきずなが強い。そして、政治思想や経済動向ではなく、この絆がしばしば政治の動きを決定する。地理的条件に規定されて、各地域の自治・割拠性が著しく、中央との結びつきが薄い。村落共同体では、長老会(ジルガ=伝統的自治組織)を中心に自治が成り立っている。一般に兵農未分化の社会で、すべての農民男子は同時に村を守る兵員であることが多い。アフガン戦争(一九七九〜八九年)では、初期、ソ連=政府軍との戦闘の主力は、これら農民そのものであった。
 この点が外国人に分かりにくい点である。たとえば、外国軍が進駐すると、その協力者が必ず現れ、反対勢力の討伐で同じ戦列に立つ。しかし、しばらくすると外国軍の方が利用されていることが分かってくる。敵味方を超えて地縁・血縁の絆があり、時には互いに内通したり、いつの間にか側近が身内で固められたりで、身動きがつかなくなることが少なくない。
 私の知り合いで、外国軍の傭兵となった者が少なからずいた。だが、敵軍の中に身内が居ることを知り、わざと的を外して派手な「銃撃戦」を展開、雇主と従軍ジャーナリストを痛く喜ばせた。そして、ちゃっかり高給とライフルを受け取ると、帰り道に「味方」の外国兵を狙撃して家に戻り、身内の「敵兵」と仲良く団欒だんらんしながらその日の「戦果」を語り合った。——こんな話は珍しくない。外国軍は、誰が敵か味方か分からなくなり、疑心暗鬼に陥るのが普通である。最近では自分たちが育成したはずの国軍兵士から発砲される事件が急増している。
 これは軍隊に限らず、外国援助団体も悩まされるパターンである。偉大な八百長社会というべきで、地縁・血縁を何はさておき尊重し、ひしめく割拠対立の海の中を生き延びる術のひとつである。
 武装勢力の討伐に手をやいたある米軍指揮官が、「敵は普段は温和な農民の顔をしているが、機を見て凶暴な攻撃者となる」と述懐している。この観察は正しい。

パシュトゥヌワレイ

 私たちは「国」と言えば、中央政府があって、その行政機構が隅々にまで及び、定められた法律に従って人々が暮らしている状態を想像する。この意味では、アフガニスタンがいわゆる近代的な法治国家であるとは言い難い。しかし、これをもって「無政府状態の破綻はたん国家」と決めつけるのも早計である。地域の自治性がいかに強くても、部族、民族が入り乱れて争っていても、共通した不文律が「アフガニスタンという天下」にまとまりを与えている。現地で出身地を尋ねると、たいてい「アフガニスタンだ」と答える。「当たり前だ。アフガニスタンのどこの県か」という会話が、必ずといえるほど冒頭に来る。確かに、民族・部族間の対立や差別的な序列はあるが、旧ユーゴスラビアのように国家を分裂させる狂信的な民族主義は、育つ土壌が薄い。
 この不文律の有名なものが「パシュトゥヌワレイ(パシュトゥンの掟)」で、多少の地域や民族差はあるものの、アフガン農村社会を律する共通の掟だといえる。都市部の西欧化された階層で薄れつつあっても、大部分の東部農村では依然として健在である。
 代表的なものが、メルマスティア(客人歓待)とバダル(復讐法)である。これは、外国人の想像を超える強固な農村地帯の掟である。
 メルマスティアとは、よそ者でも友好的な「客人」と認めればもてなし、これに手を出さぬ習慣である。ある血族に敵がいて、代々の抗争があっても、その敵は「客人」を絶対に攻撃しない。国際的に流布している認識では、「タリバンがアルカイダと提携し、頭目のビンラーディンと同盟している」ということになっていたが、少なくともタリバン政権時代、「客人を理由なく売り渡さない」という彼ら自身の不文律が一般大衆に説得力を持っていた。奥地の作業場に出かけているとき、米軍の厳しい検問にしばしば遭遇した。外国兵が直接行うとき以外は、地元出身の運転手が通訳のアフガン兵に「外国人の客だから」と言えば、検問のジェスチャーだけして直ぐに通してくれる。運転手と兵士が同郷であれば、ジェスチャーさえしない。かつて私は、このお陰で、どんな辺鄙へんぴなところでも行くことができた。ただし、相手の文化や慣習を尊重しての話である。
 バダルとは、「目には目を、歯には歯を」で知られる報復である。危害を与える敵に対して、同様の報いを与えるもので、中世・近世日本の「仇討あだうち」に近い。「ドシュマーン(敵)」という言葉は、現地で独特のひびきがあって、これも外国人が理解しにくい慣習のひとつである。家族同士の代々の抗争のこともあれば、理不尽な仕打ちに対する正当な抵抗のこともある。わがPMSのアフガン人職員でも、「家の事情」で突然の休暇をとる場合、この「敵」の対処に絡むことが珍しくない。
 もっとも、これには抜け道がある。不毛な抗争で村全体が迷惑をこうむる場合、地域の長老を介して和解が強制されることがある。また、一方がカネや羊を敵に渡して和を乞えば、解消することもある。逆に、誰の目にも理不尽な仕打ちの場合、「仇討ち」を賞賛する。例えば、悪徳有力者が弱い者をあやめ、やられた側に成人男子がいない場合、母親がわが子を復讐要員として育てる。宴席に招いて毒殺という例もあった。数年後「めでたく」本懐を遂げると、人々は「あっぱれ」と賞賛する。現地の新聞は、「少年による殺人事件」という記事に事欠かない。
 ほとんどが「仇討ち」で、人々は美談として受け取る向きが多い。
 最近日本で見られるような「家族内殺人」とは異なる。ある現地ジャーナリストが日本に来て、「親殺し」や「児童虐待」のニュースを聞いて大いに驚き、「こんなひどい話は初めてだ。日本の治安は最悪」と述べたという話を聞いたが、同じ「殺人」であっても、アフガニスタンの方が納得できる気がする。日本でさえ「赤穂浪士」は美談であるから、まんざら理解できぬことではない。いわゆる家庭内暴力や自殺も、人権思想が浸透しているはずの先進国で圧倒的に多いのは皮肉である。健全な倫理感覚と権利意識とは、案外反比例するのかもしれない。
 現地の人々と長く付き合っていると、美点も欠点もコインの裏表のようなもので、気に入ったところだけを摘み上げて愛するというわけにはいかない。いや、美点・欠点を判断する「ものさし」そのものが、自分の都合や好みで彩られていることが多い。「共に生きる」とは美醜・善悪・好き嫌いの彼岸にある本源的な人との関係だと私は思っている。

写真:2016年、ガンベリ沙漠を背に、植樹した現地のメンバーたちと(PMS/ペシャワール会提供)

※ペシャワール会について
中村医師とPMS(平和医療団・日本)の現地活動を支援する目的で結成されたのがペシャワール会です。福岡市に事務局を置いて会報の発行など、広報・募金活動を行っています。お問い合わせは、下記の事務局宛にお願いします。年会費は、学生会員一口千円以上、一般会員一口三千円以上、維持会員一口一万円以上。
《事務局》
〒810-0003 福岡県福岡市中央区春吉1-16-8 ベガ天神南601号
電話:092-731-2372/FAX:092-731-2373
入会手続きは年会費を郵便振替でお送りください。
口座名義=ペシャワール会
郵便振替番号=01790-7-6559
ペシャワール会HPはこちら

プロフィール
中村 哲(なかむら・てつ)

医師・PMS(平和医療団・日本)総院長。1946年福岡県生まれ。九州大学医学部卒業。日本国内の診療所勤務を経て、84年にパキスタンのペシャワールに赴任。以来、ハンセン病を中心とした貧困層の診療に携わる。86年よりアフガニスタン難民のための医療チームを結成し、山岳無医地区での診療を開始。91年よりアフガニスタン東部山岳地帯に3つの診療所を開設し、98年には基地病院PMSを設立。2000年からは診療活動と同時に、大旱魃に見舞われたアフガニスタン国内の水源確保のために井戸掘削とカレーズ(地下水路)の復旧を行う。03年より09年にかけて全長25キロメートルに及ぶ灌漑用水路を建設。その後も砂嵐や洪水と闘いながら沙漠開拓を進めた。
マグサイサイ賞「平和と国際理解部門」、福岡アジア文化賞大賞など受賞多数。アフガニスタン政府から名誉市民権を授与。著書に『天、共に在り』『ペシャワールにて』『医者 井戸を掘る』『医者、用水路を拓く』『希望の一滴』など。2019年12月4日、アフガニスタンのジャララバードで凶弾に倒れる。享年73。

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