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“アメリカを代表するリベラル派女性最高裁判事”ルース・ベイダー・ギンズバーグ――連載「アメリカ、その心の生まれるところ~変革の言葉たち」新元良一

 自由・平等・フロンティアを旗印に、世界のリーダーとして君臨してきたアメリカ。様々な社会問題に揺れるこの国の根底には何があるのか? 建国から約230年。そこに培われた真のアメリカ精神を各分野の文化人の言葉の中に探ります。
 第3回は、アメリカ最高裁史上2人目の女性判事として27年間務め、現役のまま亡くなった弱者の強き擁護者、ルース・ベイダー・ギンズバーグ(1933-2020)です。
 ※第1回から読む方はこちらです。

第3回「大事なもののために闘えばいい。ただし、ほかの人の参加につながる方法で」ルース・ベイダー・ギンズバーグ

 もう30年以上も前になる。アイルランド系アメリカ人の友だちが結婚することになった。お相手であるイタリア系の男性と、カトリック系の教会で式を挙げるという。
 その前に結婚相手を紹介したいと、彼女は声をかけてきた。それからわれわれは、マンハッタンのダウンタウンにあるレストランで前祝いの食事をした。
 なんのいきさつで、その話題に至ったのかは思い出せない。そのあと、どんなやりとりに発展したのかも記憶にない。
 それは、会話と会話の谷間にできた溝のような些細な言葉だった。
「同じアジアでも、日本人はほかの国の人たちと違う。ぼくたちに近い気がするね」
 これほど長い年月が経過しても、いまだにその言葉を思うことがある。うまい魚料理を賞味したのはよかったが、のどの奥で時々ちくりと痛みを覚える、そんな異物の感覚が筆者のなかに残る。
 違和感をもたらした原因はもちろん、それからぼくの友人と結婚し、円満な家庭をもった彼にはない。おそらく向こうは、大昔に自分がそんな話をしたことすら覚えていないだろう。
 “異物”が生じた責任は、むしろ筆者の側にあった。
 自分たちに近い、と言われたときに内心喜んでいたのは、語る相手が白人だったからだ。アメリカ、それもこの国の白人たちのカルチャーにあこがれて海を渡り、住み着いて5年やそこらのころ、彼らに近いと言われて、なにか認知された気になった。
 だがいつからか、自分に対し納得できないものが生まれてきた。他者より優位に立つと言われ、その唯一の理由が国籍であることにわだかまりを感じ始めたのだ。
 日本人であることに誇りをもたないわけではない。むしろ海外、ことにニューヨークのような多様な社会で長く暮らすと、日本にいたとき以上に、祖国の存在を重く感じる。
 しかし、その誇りは筆者自身が培い、獲得したものではなかった。偶然にも日本で生まれ育ち、両親が日本人であったという事情にすぎない。
 社交辞令で日本人に親近感をもつと言われ、さも何かを成し遂げたかのように喜ぶのはお門違いも甚だしい。もし逆の立場、つまり“劣っている”と見なされる側の人間としてその場にいたら、どれほど苦々しい気分にさせられたか、そう想像するだけで、束の間であっても喜んだ自分自身を愚かに感じる。

おだやかな物腰のなかに秘めた強い思い

 最高裁判事であったルース・ベイダー・ギンズバーグの功績を見るにつけ、このときの経験が思い出される。
 ギンズバーグ判事といえば、性差別の撤廃に向けて、87年の生涯の多くを捧げた人物として知られる。シャイで口数が少ないといわれた人だったが、彼女の言葉は多くの人たちを勇気づけ、“My Own Words” (未邦訳)という題名で本としてもまとめられている。
「大事なもののために闘えばいい。ただし、ほかの人の参加につながる方法で」これも、彼女の残した言葉のひとつである。
 ギンズバーグ判事が社会における女性の権利や待遇などの向上を目指していたのは、誰もが認めるところだろう。けれど、彼女がかかわった裁判に目をやると、社会に対しより包括的な姿勢があるのに気づく。
 判事以前のギンズバーグは訴訟代理人(litigator)として、自身が後年着任する最高裁へと出向き、重要な案件でたびたび勝訴をつかんだ。その実績は“革命的”という表現も使われるため、自説を曲げず、一切の妥協を許さない強気な人物のイメージが浮かぶ。
 しかし実際のギンズバーグは、裁判に勝つため、強引な手法を用いるやり手とは対極にいた。物腰おだやかで、異論を唱える相手にも耳を貸し、反対意見との調整を重んじることから、弱腰と見られることすらあった。
 1980年、当時の大統領である民主党のジミー・カーターの指名を受けた彼女は、首都ワシントンのコロンビア特別区巡回区連邦控訴裁判所判事に任命される。ニューヨーク・タイムズ紙によると、保守派の判事に同調する穏健的な意見を述べることもあったため、リベラル派から不満の声もあがったという。
 穏健的な面の一例として、1973年のロー対ウェイド事件(*)の判決に関するギンズバーグの対応がある。人工妊娠中絶は違憲だとする主張を無効とした最高裁の判決は、中絶の合法化という悲願を達成したリベラル派だけでなく、アメリカの法曹界にとっても歴史的な裁定として語られることが多い。
 1993年、ニューヨーク大学ロースクールの招聘により登壇したギンズバーグはこの判決に対し、「改革の方向へ進んでいた政治的な手順を停止させた結果、対立を深め、問題の確固たる着地を先延ばしにしてしまったのではないか」と言及した。
 フェミニズムの観点からすれば、事実上、人工妊娠中絶を合憲とした判決を称賛こそすれ、批判するなど言語道断だろう。それから数か月後、ギンズバーグは民主党のビル・クリントン大統領により最高裁判事に任命されるが、同党の大きな支持基盤のひとつであるリベラル派から、指名に強い不満が出たのはこのためだ。
 しかし、ニューヨーク大学でのギンズバーグの講演内容を読み解いていくと、不平等撤廃を社会に広く浸透させたいギンズバーグの周到な戦略が浮かび上がってくる。
 周知のとおり、アメリカは多様な社会である。人種、民族、宗教、イデオロギー、ジェンダーなど異なるアイデンティティをもつ人びとにより社会が形成されているだけでなく、市民一人ひとりが自分の意見をもつことが求められ、これを主張する権利が与えられている。
 ロー対ウェイド判決の場合、裁定は画期的であったが、これに反発する声も少なくなかった。信仰上、人工妊娠中絶を認めていないカトリック教徒はこの裁定によって、自分たちが拠りどころとする宗教が否定されたと受け止め、判決から40年以上が経過してもいまだ遺恨がある。
 カトリック教会からの反動の大きさは、司法における最高機関で一度は決定した事案であっても、いつかひっくり返されるかもしれない可能性を示唆した。多様な社会で新しい認識を推進させることへの道のりが長くなった、という当時のギンズバーグの危惧は、彼女の死後、その後継にトランプ前大統領により保守派の判事が任命、承認されたのもあって、長期的に見ると当を得た指摘だった。
 つまりアメリカという大国で、因習に一石を投じる考えを浸透させるには、周到な戦略と勇気ある行動が不可欠だと、ギンズバーグは提唱したのだ。

*妊娠中の未婚女性ロー〈仮名〉および中絶手術を施し逮捕された医師などが原告となり、母体保護のために必要な場合を除き妊娠中絶手術を禁止したテキサス州法が違憲であるとして、地方検事ヘンリー・ウェイドを相手取った訴訟。

常識や慣習に囚われない真の答えを求めて

 訴訟代理人時代のギンズバーグが成し遂げた功績のひとつ、1975年のワインバーガー対ワイゼンフェルド判決はそうした戦略的な考えが色濃く投影されている。
 原告人のスティーヴン・ワイゼンフェルドは、彼の妻ポーラをわが子の出産時に亡くした。シングル・ファーザーとして在宅での子育てを決めたスティーヴンだったが、社会保障制度からの援助を求めたところ、同制度では、妻という立場は家族の中での稼ぎ頭ではないため、妻を亡くしたことによる援助金の支給はなされないと裁定が下された。
 これを不服とした彼は訴訟を起こし、法廷で争われた結果、夫にも社会保障の援助を受け取る権利を勝ち取った。その原告団の訴訟に尽力したのが、当時コロンビア大学ロースクールの教授を務めていたギンズバーグであった。
 ニューヨーク・タイムズ紙によると1973年から1978年の間、最高裁において訴訟代理人としてギンズバーグがかかわり勝訴したのは6件中、実に5件にも及ぶ。そんななかでワインバーガー対ワイゼンフェルド判決(ワインバーガーは、最高裁へ上告した当時の保健教育福祉長官)は、原告が男性(夫)という点で注目に値し、性差別という枠組みにおいて、男性もまた不当な扱いを受けることを知らしめた。
「法の下での平等」を定めた合衆国憲法修正第14条を取り上げるまでもなく、米国民は基本的人権を保障される、一般的にはそう理解されている。ところが実情は、ジェンダーにかぎらず、人種や宗教などにおいて、差別は、アメリカで悲しい歴史として刻まれている。
 この現実が動かしがたいのは、社会構造の細かい部分にまで差別が根を下ろしているからだ。生来無条件で優遇される側の人間は、不平等に扱われている側の境遇を認識、理解できず、これが格差や分断をつくり、人種差別から暴力事件にまでエスカレートするなど、社会の根幹を揺るがす問題を起こしてきた。
 優遇されることに無自覚の人間に対し、冷遇されることへの意識の転換や、相手への思いやりを植えつけるのは、一朝一夕に成されるものではない。だが日常とは異なる状況で、身につまされる状況に直面すれば、優遇される側の意識に変化の芽も出てくる。ワインバーガー対ワイゼンフェルド事案での訴訟を担当するにあたり、ギンズバーグの脳裏にはそんな考えがよぎったのではなかったか。
 それは罪悪感を植えつけるというより、人びとの良心に訴える機会と捉えるべきだろう。
 差別してなにが悪いといった極端な考えの持ち主は別とし、大多数の人は、他者への敬意を欠き他者をぞんざいに扱う心の狭い者とは自身を認めたがらない。しかし社会構造の細かい部分にまで差別が根を下ろしているなかで、自分が差別から恩恵を受ける側の人間であると気づいたとき、その多くが釈然としないものを感じる。
 つまり白人の知人から自分たちに近いと感じる、と言われて有頂天になり、自分を省みた筆者のように、解消されない“異物”が心に残るのだ。自己否定とまではいわないにせよ、黙視すれば、正しくないことに加担してしまった思いがわき立ち、自責の念にかられる。
 ワインバーガー対ワイゼンフェルド問題が審議された1970年代半ばの最高裁は、女性判事不在の時代であった。画期的な判決に至った結果を踏まえると、訴訟代理人としてギンズバーグが法廷で陳述したとき、はたして9人の男性判事たちの胸にどんなものが去来していたのか、と想像したくなる。
 画期的な判決と前述したが、一般常識や慣習を一変させる点で、同判決は法律家としてのギンズバーグの経歴に記されると同時に、アメリカの特性をも示している。この社会が分け隔てなく市民の手によって形成されるべき、という国家の理想が浮かび上がってくるのだ。

社会の力は一般市民の手に

 そこで注目したいのが、先の「大事なもののために闘えばいい。ただし、ほかの人の参加につながる方法で」というギンズバーグの言葉である。性差別のない社会の実現に向け、判事として長年にわたり取り組んできた彼女だが、ではここで示される“ほかの人”とは誰のことだろう。
 真っ先にあがるのが、差別を受ける当の女性だ。彼女たちが立ち上がり、自ら声をあげなければ、社会の変革を始めるのはむずかしいが、それだけでは不十分、とギンズバーグなら考えていたのではなかったか。
 ワインバーガー対ワイゼンフェルド判決を例にあげると、性差別の当事者は女性ばかりではない。意識、無意識にかかわりなく、差別する側の男性の自覚がなければ、いくら女性たちが声高に変化を唱え、運動が盛り上がったところで、両者間の溝は埋まらず問題解決の道は閉ざされる。
 であるなら、「ほかの人の参加」とは、ジェンダーを問わず、「社会に属する人たち全員」をギンズバーグは示していた、そう考えるのが道理だろう。真に性差別をなくしたい思いがあるなら、真剣にその問題に取り組む熱意があるなら、いつかは、誰もが平等に扱われる社会がくると信じているなら、あらゆる人たちに声をかけ訴えていくべきだ――彼女はそうしたメッセージを残そうとしたと思わずにはいられない。
 社会とは、そこで暮らす人びとがいてこそ成立する。そして社会の変化もまた、政治や経済に影響力を及ぼす政治家や経営者たちでなく、一般市民に主導権がもたされるべき。ギンズバーグの言葉にはそんな強い志が託されている。

(了)

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プロフィール
新元良一(にいもとりょういち)

1959年神戸生まれ。作家。元京都造形芸術大学教授。1984年から22年間ニューヨークに在住した後、2006年京都へ移転。2014年、NHKラジオ「英語で読む村上春樹」の番組ホストを1年間担当。2016年に活動拠点を再びニューヨークへ移す。著作に『あの空を探して』(文藝春秋)、『One author, One book』(本の雑誌社)など。現在、「ワイアード日本版」「TOKION」にて連載コラムを執筆中。

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